青の呪い
三月
青の呪い
広い応接間にはひんやりとした空気が満ちていた。
白いレースのカーテンがひかれた窓からは、灰色の雲がのぞいている。あいにくの雨模様である。もうとっくに春だというのに、花のにおいどころか、陽の光のにおいさえもしないのはそのせいだ。
ぬるくなってしまった紅茶の香りもいつの間にか部屋の空気に溶けてしまっていた。
冷たい灰色の気配ばかりが立ち込める部屋で、エイリーンは少年と向かい合って座っている。屋敷の主人が来るまで待っていろと言われて、もうすでに一時間は経っていた。
「あなた、とても珍しい瞳を持っているのね」
ぬるい紅茶を飲んだ後、冷たさに覆われた沈黙を破ったのはエイリーンの方だった。エイリーンはとても退屈していたのだ。誰でも良いから話をしてみたかった。
目の前で行儀悪く肘をついている少年は、仏頂面のまま目線だけを動かした。左右で濃度の違う二つの青色がエイリーンを挑戦的に見上げる。
彼の前にある紅茶はとっくに冷えきっている。エイリーンよりも二つか三つ年下だろうか、まだ幼い丸みのある容貌はとびきり可愛らしい少女のようにも見えた。
「だから何?」
少年特有の甘い声音には、うんざりだと言わんばかりの響きがあった。そうして不機嫌をあらわにしていてさえ、彼はとてもきれいだった。
もぎたての桃のような唇、白い肌は滑らかで、そばかす一つない。さらさらと流れる樫の木色の髪、そしてなにより、冬の凍った湖のような左目と晴れた朝の空に似た右目は、つい見入ってしまうほど美しい。
エイリーンはにこりと笑った。年下のこのきれいな少年がこわがらないように優しく。
「とっても素敵。まるで秘密を隠しているみたい」
「秘密じゃない。これは呪いだ」
「青の呪いね。わたしたちの新しいおとうさまになる人は、最初に青の呪いをかけた魔女の末裔を探しているのですって。魔女の末裔って素敵よね。やっぱりあなたみたいに美しい青色を持っているのかしら」
青の呪い──そう呼ばれている魔女の呪いが、この国に蔓延してもう百二十年経つ。
その魔力を怖れられ、王都から追放された青い瞳の美しい魔女は、王と民を憎み、国に自分の魔力を植えつけるための呪いをかけた。人々が怖れた魔力が何百年も国に根付くことだけを願って。
魔女の呪いはみごとに成就した。魔法がほとんど栄えていなかったはずのこの国で、青い瞳を持って生まれた子どもは、大なり小なり魔法が使えるようになったのだ。
この屋敷の主人──彼とエイリーンの養父となる大富豪だ──は、王家の血筋を引く由緒正しい後継者で、本物の魔女の末裔を探すために、青い瞳を持つ子どもたちを国中から探し出しては自分の元に引き取っているらしい。
本物の魔女の末裔は、この国に再び青の呪いをかけると言われているが、だいたいの子どもは、大人になる前に魔力と青色を失ってしまうので、本当に魔女の末裔いるのかどうかは誰も知らない。
エイリーンはわくわくして返事を待っていたのに、少年は会話に飽きてしまったらしく、窓の方へ顔を向けて瞼を閉じてしまった。もうエイリーンが話しかけても答えてはくれなさそうだ。
その横顔に見惚れながら、エイリーンは小さく指を鳴らしてみせる。
途端、エイリーンのまわりで雨が降り出す寸前の青色の球体がいくつも現れた。エイリーンの瞳と同じ灰が混じった暗い青は、出現すると同時に派手な破裂音をまき散らす。少年がおもわずといった様子で目を見開いたので、エイリーンは嬉しくなった。
ティーカップの横に置かれていた角砂糖の器を騒がしい青色が取り囲み数秒。たくさんの角砂糖は削り合わせられ、一輪の白い薔薇になった。
「わたしの魔法よ。あなたはどんな魔法が使えるの?」
エイリーンは故郷の町で一番の魔法使いだった。ある時は街路樹を引っこ抜いてまわり、ある時は天気をひっかきまわした。隣の家を氷漬けにしたこともある。町中の大人たちを嘆かせ、子どもたちからの羨望を欲しいままにしていた。
少年はしばらく無言で砂糖の薔薇を見ていたが、やがて悪戯心に満ちた笑みをエイリーンに向けた。
「いいよ。俺の魔法を見せてあげる」
笑顔に気を取られているすきに、手を握られた。驚くほど冷たくて、華奢な手だった。
「名前は?」
「……エイリーン」
「エイリーン、こんなにせものの薔薇じゃなくて、ほんもののきれいな花をあげる」
そして、少年はその色違いの瞳をきらめかせた。
ふわりと目の前に青色の球体が浮かぶ。光の加減によって幾重にも色を変える七色の青だ。朝も夜も海も森もすべてを内包する青色が踊るように形を変えていく。
先ほどのエイリーンの魔法なんて比べ物にならない。誰もが彼が特別だと分かる、そういう魔法だった。
──この青が欲しい。それは渇望にも似た欲求だった。
欲しい、とても欲しい。自分のものにしたい。エイリーンの奥底でなにかが暴れている。胸がとても苦しくて、泣いてしまいそうだった。
「はい、どうぞ」
エイリーンの胸中など知らずに、彼は魔法で作り出した青い花を差し出す。小さな花びらが集まって、青い星のように見える花だ。とてもきれいだった。
祈るように花を受け取り、甘い香りを吸い込むとようやく落ち着くことが出来た。
「ありがとう。ねぇ、あなたの名前は?」
「ルキ」
短い音の連なりをエイリーンは何度も頭の中に描いた。二度と手放さないように。
「この薔薇、すごく甘いんだろうね」
ルキは自分の作り出した花にまったく頓着せずに、砂糖で作られた薔薇を熱心に眺めている。エイリーンはなぜか悔しくなって、花をぎゅっと抱きしめた。
「でも、こっちの方が甘い香りがするわ」
一瞬、ぽかんと口を開けてから、ルキはおかしそうに声をあげて笑った。あんまり楽しそうに笑うものだから、つられてエイリーンも笑いだす。屋敷の主人が扉をノックするまで、二人はずっと笑いあっていた。
*
『
エイリーン
──おとうさまが死んだ。俺が呪いをかけたから、病気が悪くなったんだ。
たくさん悪い咳をして、苦しそうに血を吐いて、死んでしまった。
エイリーン、君は、俺を許してくれる?
ルキ』
王都への道から少しはずれた西に続く坂道を上って見えてきた屋敷は、二年前となんら変わらない姿でエイリーンを迎えた。
白を基調とした冷たい気配に覆われた大きな屋敷は、あいかわらずの静けさに満ちている。今日が曇り空でさえなければ、白く輝く屋敷はとても美しく見えたことだろう。
エイリーンは風に乱された褪せた金髪をととのえて、高い鉄の門を潜り、正面玄関の前に広がる庭を横切った。緑も花もない、枯れた木々ばかりの殺風景な庭に眉をひそめる。いくら冬の終わりとは言っても、手入れを怠っているのは一目瞭然だ。
ここの屋敷の主人が生きていれば、おおいに嘆いたことだろう。彼は車いすでこの庭に出ては、色とりどりの花や緑を愛でていた。そんな記憶の名残さえ、今の庭からは消し去られている。
「エイリーン?」
懐かしく響いた声に導かれて、庭を見据えていたエイリーンは振り返る。
庭の先にいたのは、同じ日に屋敷に引き取られ、二年前にエイリーンがこの屋敷を出るまでずっと一緒にいた少年──ルキだった。
記憶の中と同じ、まったく変わらない少年の姿に、エイリーンは目を細めた。たしか今年で十八になるはずだが、せいぜい背丈が伸びたくらいである。まるで一人だけあの日から時を止めてしまっているかのようだった。
「ルキ」
名前を呼ぶと、ルキはにこりと笑った。エイリーンにだけ見せる、甘えるような笑顔だ。そんなところもなにひとつ変わっていなかった。
「おかえり。そんなに急いでどうしたの?」
二年も会っていなかったのに、そんなことは少しも感じさせない口調だった。
エイリーンは荷物を詰め込んだ旅行鞄から手紙を取り出した。何度も読み返したせいで、ところどころに皺が寄っている手紙は、半月前にエイリーンの元に届けられた。そこからすぐに荷物を詰めてここまでやって来たのだ。
「こんな手紙が届いたら、誰だって慌てて来るわ」
「ああ、おとうさまが死んだっていう手紙ね。おかげでこっちは大変だよ。屋敷の引き継ぎって、色々手続きが面倒くさいんだ。幸い、もうここに子どもはいないから「養父」まで引き継がなくて済んだのはいいけど」
エイリーンは首を振った。彼は分かっていてはぐらかしているのだ。エイリーンが取る物も取らずに馬車にとび乗った原因は養父の死ではない。
「そうじゃなくて」
どう切り出そうか言いよどんでいると、意外にも彼の方からあっさり口を開いた。
「うん、手紙に書いたとおりだよ。俺がおとうさまを呪ったんだ。だからおとうさまは死んだ」
まるで今日の天気について話すような口調で、ルキは言った。彼の表情には見たことのない影が色濃くにじんでいる。呪いのせいなのかもしれなかった。
呪いは魔法の中でも特異なものだ。人の運命を変える永劫に続く魔法。己の善良を犠牲にして初めて成り立つもので、もし呪いが成就すれば自分自身も傷つく。
「……ルキは大丈夫なの? どこか痛むとか」
「なにもないよ。平気。なんなら魔法で治せばいいから」
伸ばそうとしていた手が止まった。エイリーンは信じられない思いで八年一緒にいた少年を見つめる。ルキは魔法をとても嫌っていて、自分からは決して使わなかった。例外だったのは、エイリーンと初めて会った日だけだ。ルキを自分の跡継ぎとして特別に可愛がっていた養父ですら彼の魔法を見たのは数える程度だろう。
立ち尽くすエイリーンに向かって、ルキは無邪気とも呼べる仕草で首を傾げ、なにも知らない無垢な子どもの振りをする。
「どうしたの? エイリーン」
エイリーンは足元に視線を逃がした。手紙がくしゃりと手のひらの中でゆがむ。きちんと彼と対峙しなければいけないのに、その勇気が持てない。
「どうして、おとうさまを呪ったの?」
エイリーンは、結局違うことをたずねた。二年離れていたのだ。その間で変わったのは、ルキだけじゃない。
「当然の報いだよ。おとうさまはエイリーンを追い出したんだ」
「おとうさまは正しいわ。わたしはもうここにいるべきじゃなかった」
エイリーンの瞳は子どもの頃とは違い、くすんだ灰茶色に変わっている。青色を失った子どもはもう魔法を使えず、この屋敷の約束事では、魔法を使えなくなった子どもは屋敷を出て自立することになっていた。
養父は出ていく子どもにも最後まで優しかった。屋敷を出てもきちんと生活出来るように、仕事を紹介してくれて、たくさんの贈り物を持たせてくれた。
屋敷を出る夜には、エイリーンを抱きしめて「幸せになりなさい」と言ってくれた。だからエイリーンは笑顔で「幸せになるわ」と答えたのだ。
「目の色が変わっただけなのに?」
「そういう約束だもの。最初に聞かされたでしょう?」
ルキは残酷だ。いまだに色あせない青の瞳を持つ彼には、エイリーンや自立していった子どもたちの気持ちは分からないだろう。ルキは魔女の末裔ではない。だからこそこの大きな屋敷を引き継ぐことが出来たのだ。
「俺はいやだった」
「だからおとうさまを呪ったの?」
「そう言ったよ」
エイリーンは俯いたまま、唇を噛む。何を言ったらいいか分からなかった。
ルキの魔法はささやかで、いつもきれいだった。誰もが見惚れて憧れて、愛さずにはいられない、幸福に満ち足りた青の魔法。呪いなんてものとは、あきらかに対極にあるものだ。だというのに、ルキはエイリーンと離れていた二年の間に孤独と寄り添い、呪いを手にしてしまったのだ。
「それでもエイリーンは、俺を許してくれるんでしょう」
声が今までより近くなった。汚れた革靴が視界に入り、エイリーンは顔をあげる。気づけば、お互いの影は触れ合えるほど近い。いつの間にか距離をつめられていた。
ようやく視線をあわせたエイリーンを見つめて、ルキの瞳がゆっくりと細められる。凍えた湖の青と晴れた空の青。あまりに美しくて目が逸らせない──この瞳だけは、呪いにさえ傷つけられない。
ルキがさらに距離を詰める。エイリーンは逃げなかった。こんな美しい人を、拒むなんて出来なかった。
二人を取り囲むように、七色の青が現れる。懐かしい彼だけの青色は、あの日と同じようにエイリーンの心をかき乱した。
最初から、忘れられるはずがなかったのだ。エイリーンはずっとこの青色に捕らわれていたのだから。
「……こわい?」
「こわくないわ」
溺れそうな青に屈して、エイリーンは瞼を閉じた。ゆっくりと重ねられた唇はひやりと冷たく、それでいてとろけるように優しかった。
「ずっと一緒にいてよ」
呪いというにはあまりにかほそい、孤独を怖れる少年の声が吐息と共に肌を撫ぜる。
「……ずっと?」
「そう。ずっとずっと、俺と一緒にいて欲しいんだ」
エイリーンは微笑んだ。ここにやって来てから、初めて笑みがこぼれた。
そうだ。この言葉を待ち望んでいた。そのためにエイリーンは戻ってきたのだ。
彼の頬に自分の頬をすり寄せる。ルキからは冷たい灰色のにおいがする。この十年で、屋敷の冷たい気配がしみついてしまったのだ。
「うん。ずっと一緒よ」
一瞬、伏せたまつ毛の奥でエイリーンの瞳が青くきらめいた。
──これは呪い。わたしは、あなただけの魔女。
おとうさまは正しかった。ルキを守るために、おとうさまは
そして、もう魔女を阻む者はいなくなった。
「好きだよ、エイリーン」
エイリーンの肩に頭をうずめ、乞うようにルキは言った。吐息が肌をいたずらに撫ぜていくくすぐったさにエイリーンは身をよじる。
「わたしも好きよ」
とても好きだと思った。初めて出会った時から、美しくて、残酷なこの少年にエイリーンは恋をしていた。
ルキの白い耳をはむように、甘い言葉をささやくと、彼はエイリーンをよりいっそう強く抱き寄せた。
冷たくて華奢だったはずの手のひらは、思ったより大きくてたしかな熱を持っていた。触れられた部分が溶けてしまうのではないかと思った。
ふいに、どこからか懐かしい甘い花の香りがした。そうだ、もうすぐ冬が終わる。あたたかい春が来るのだ。
エイリーンはとても幸せだった。
青の呪い 三月 @hanauta908
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