あたらしい今日、あたらしい俺達

「裕司ー! いつまで寝てるの?」


 台所から佳織の声がする。みそ汁のいい香りもただよってくる。ベッドの上に起き上がると伸びをしてカーテンを開けた。

 窓の外には早春の冷たい風が吹いている。庭の梅の花は咲きそうになっているのに気温はまだまだ低い。自分の腕をさすりながら冷たい廊下を歩いて洗面所に向かう。

 通りがけに台所に顔を出した。


「おはよ」


「やっと起きた。おはよう。朝ごはん、もうできるわよ」


 食卓の上にはベーコンエッグとトースト、ジャム、トマトのサラダが並んでいる。今日は洋で攻めるらしい。それでもコンロの上には、みそ汁の鍋がかかっていた。


「いただきます」


「いただきます」


 二人差し向かいで朝食をとるようになったのは依子さんが消えてから一週間ほどたってからだった。

 うらめし屋が突然、店を閉めたのだ。あまりに急なことで近隣の誰もがどうして店をたたんだのか、おやじさんがどこへ行ったのか知らなかった。ただ俺はなんとなく、おやじさんは満足したんじゃないかとぼんやりと思った。

 何に満足したというのかはわからない。けれど確かにあの夜、おやじさんはみそ汁の湯気の中に何かを見つめていた。寂しそうだったけど、何か誇らしげでもあった。


「今日のみそ汁、美味しいな」


「とっておきのかつおぶしを使ったからね。お味噌も変えてみたんだ。どう? うらめし屋の味に近づいた?」


「そうだな、だいぶ。でも何もうらめし屋のみそ汁を目指さなくてもいいんじゃないか。今のままでも美味しいんだから」


 佳織は汁椀を見つめてぽつりとつぶやいた。


「依子さんがまた現れてもいいようにと思ってさ」


 その気持ちは俺にもわかった。俺達は依子さんがやってきてから変わった。それまでとその後で俺も佳織も、何もかも変わってしまった。

 俺達は大人になったんだと思う。愛情を受け取るだけの子どもから、愛情を与えることができる大人に。


「明日もみそ汁作るんだろ」


「うん」


「じゃあさ、毎朝、和食にすれば?」


「たまにはトーストも食べたいんだもん」


 和洋折衷の食卓は、言うほど嫌いではない。新しい俺達に似合いの食卓だと思う。


「あのね、今日はデザートがあるの」


 食後に紅茶を淹れながら佳織は言って、冷蔵庫からガラスの器を取り出した。


「なにこれ?」


「チョコレートムース。たぶん、うまくできたと思うんだけど」


「デザートがあるから今日は洋食だったんだ。でもなんで朝からデザート付きなの?」


 佳織は真っ赤になってうつむきながら、壁のカレンダーを指さした。カレンダーは今日が二月十四日だと俺に知らせ、チョコレートムースの意味を知った俺の顔も急激に赤くなった。


「……食べてみて」


 佳織が差し出したスプーンを受け取ってチョコレートムースを一口すくった。舌にのせるとしっかりとした苦めのチョコレートの味がして、それがスッと溶けて甘さを残して喉に流れていく。


「どう?」


 俺は黙ってうなずいて、スプーンですくったチョコレートムースを佳織の口元に運んだ。俺の指の十五センチ先に、佳織の唇がある。その唇が開いてスプーンをぱくりとくわえた。


「うん、上出来」


 そう言って微笑む佳織の口の横に少しだけ残ったチョコレートムースを、俺は指でぬぐい取って口に入れた。

 それはどこか甘さを増して、初めて味わうのに懐かしい、懐かしい味がした。

 きっとこれから何度も味わって、おもいでの味になるんだろう。俺達は今日も変わっていくのだから。


 真っ赤な顔の佳織は恥ずかしそうに笑っていた。俺は食卓に身を乗り出して佳織の唇にキスをした。


「ごちそうさま、美味しかったよ」


 明日もまた、あたたかい湯気の立つみそ汁を飲もう。俺達、二人で。

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うらめし食堂 かめかめ @kamekame

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