とうさんのあじ、おもいでのあじ
「いらっしゃい!」
おやじさんの声に出迎えられて俺と佳織と俺に憑りついた依子さんはうらめし屋に入った。
すっかり日が暮れて店の中は夕食をとっているサラリーマンや家族連れでにぎわっていた。
「依子さん、何にするの?」
佳織に聞かれても依子さんはなんとも答えない。俺の目を通しておやじさんを見つめている。きっと肉体を通して見る姿は、幽霊の目で見るのとは違っているのだろう。幽霊がなぜ人に憑りつくのかわかったような気がした。
『……みそ汁を』
依子さんの声を聞きつけたのか、おやじさんは無言でうなずいて一杯のみそ汁をカウンターに出した。この店で定食以外のものがカウンターに出たのは初めてかもしれない。でも黙ってそうしてくれるくらい、おやじさんは俺たちに何かただならぬものを感じ取ったのだろう。
俺は汁椀が置かれた席に座ると箸をとり、みそ汁をすすった。それはいつも通りに美味しかった。けれど俺にとってはいつもの定食屋のみそ汁でしかない。美味しいけれど俺には普通の、毎日のみそ汁だった。
「すみません、スプーンを貸してもらえますか」
佳織がおやじさんに呼び掛けた。おやじさんはすぐにスプーンを渡してくれた。佳織は俺の手から汁椀を受け取ると、スプーンですくって俺の口元に運んだ。
俺の口からほんの少し先、スプーンの先に佳織の指がある。白くて細くてやわらかな指が。
俺は今まで佳織の指は強くしなやかな空手をするためだけにあるようなものだと思っていた。けれど今日の佳織は、その指先で魔法のように繊細なお菓子を、滋養あふれる料理を依子さんのために、そして俺のために作ってくれた。
今、たった十五センチ先にその指は俺のために差し出されている。この指は俺のためだけのものだった。俺と佳織は世界にたった二人きりになったかのように、まわりの音も人の目も何も気にならなくなった。
そっとスプーンに口をつけてみそ汁を飲む。ゆっくりと喉をすべり落ちていくこの香りはよく知っているはずなのに、いつもと同じはずなのに、まったく違う味だった。懐かしい、懐かしい味だ。俺のことだけを思ってくれる愛情のこもった味だ。
スッと背中が軽くなった。
「依子さん?」
あたりを見回しても依子さんの姿はどこにもなかった。おやじさんを見てみると、何事もなかったかのようにキャベツをきざんでいる。
「みそ汁、今日はいい出来なんだ」
そう言ったおやじさんはなぜかいつもと違って少し寂しげだった。
依子さんがどうなったのか俺にはわからない。成仏したのか、まだこの店にいて、でも俺には見えなくなっただけなのか。
ただ、俺の中にはいつまでも消えない、深い満足感が残った。
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