第5話 小雪と優人

 桃が出て行ったドアはいつまでたっても閉まらなかった。きっとまた桃が帰ってくると信じているかのように、バカみたいに口を開けて待っていた。

 美術室の外の廊下は世界が終わってしまった後のように冷え切って静まり返っていた。桃の足音が聞こえないかと私は耳を澄ませた。桃の姿が見えないかと私は目を凝らした。

 目の前が滲んでよく見えない。どうしたんだろう。

 ああ、そうか。眼鏡を落としてしまったんだった。私、いつの間にか、ずいぶん目が悪くなっていたんだなあ。


 ふと気づくと桜井君が私の目の前に立っていた。私とドアの間に立って、黙って私を見つめていた。どうしてそこに立つの? それじゃドアが見えない。どうして私を見つめているの?

 桜井君を見上げようと顔を上げると、頬に涙がぽろりとこぼれた。ああ、そうか。私泣いてたんだ。

 気づいてしまったらもう駄目だった。私の目から涙はどんどん溢れでて、あごに伝ってぼとぼとと落ちた。

 私の涙はどんどんどんどん胸にたまって、それが私を沈めてしまって窒息しそうだった。私は自分の涙におぼれそうだった。

 桃は行ってしまった。私を一人にして。いや、そうじゃない。本当は生まれた時から私は一人だったんだ。桃は私といつまでも一緒なのだと思っていたけれど、違う。そんなの私の妄想だった。桃はいつでも王者のように自由だった。

 私はずっと、一人きりだったんだ。


 涙はとどまることを知らないようだった。私の蛇口は壊れてしまって、きっともう一生止まることはないんだと思った。

 だけど涙は枯れるのだと、私は同時に思い知った。どれだけ悲しくても、どれだけ後悔しても、涙は止まってしまうのだ。心の中のダムが満水になってしまったら。

 あごがかゆいな、と思った。涙が私の肌をちくちく刺していた。手で涙をぬぐっていると桜井君が私の眼鏡を渡してくれた。眼鏡をかけると涙の蒸気で硝子が曇って世界が白くかすんだ。もうこのまま何も見えないままでいたら楽かもしれない。そう思ったのに、桜井君がポケットからハンカチを出して私の眼鏡をとって硝子の曇りを拭いさってしまった。

 もう一度渡された眼鏡をかけると世界はクリアになった。色がなくて寒々しくて痛いくらいに透明だった。

「須藤さん」

 桜井君は緊張した様子で私の肩をつかんだ。

「キス、させてくれないか」

「もう私、桃とキスしてないわ」

「須藤さんにキスしたいんだ」

 顔を上げると桜井君は何かを思いつめたような、それでいてどこかさっぱりしたような表情だった。

「相沢さんと一緒にいる時、ずっと須藤さんの視線を感じてた。俺が憎くてしかたないっていう視線だったよね」

 なんだ、お見通しだったのか。それならこそこそする必要なんかなかったな。私が自嘲の笑みを浮かべると、桜井君も困ったように笑った。

「その気持ちは俺にもよくわかったよ。俺はずっと同じ気持ちで須藤さんのことを見ていた。須藤さんになり代わりたくて仕方なかったんだ」

 そうだ。そして桜井君はその願いを叶えた。だから私は桜井君を見ていたのに。

「でも、俺は須藤さんにはなれなかった。須藤さんと同じ場所に立って初めて、俺は本当に欲しかったものが何かわかったんだ」

 桜井君が私を見つめる。なんでだろう、桜井君の目は泣いているように見える。

「俺は須藤さんみたいになりたかったんじゃない。須藤さんの、あの痛いくらい激しい感情が欲しいんだ。その思いを俺に向けて欲しいんだ」

 桜井君は何を言っているんだろう。そんなことあるはずもない、私が桃以外の誰かを想うなんて。


 私の目からまた涙がこぼれ落ちた。これ以上涙の雨が降ったらダムが決壊してしまうのに。何を、言っているんだろ。私なんかに、何を言っているんだろ。私には何もない。もうみんな空っぽで、あるのは満水のダムだけだと言うのに。

 桜井君は勘違いしてるんだ。私が誰にでもあの想いを抱くなんて、そんなことないのに。なのになんで私は泣いているの? なんで私の涙はあたたかいの? なんで?

 眼鏡がまた曇っていく。私の心を隠すみたいに。桜井君の顔が近づいてくる。ああ、桜井君って目がきれいなんだな。初めて気づいた。私、桜井君の何も見ていなかった。彼のことを何も知らない。

 コツン、と眼鏡が当たった。桜井君の澄んだ目が眼鏡越しに、すぐ近くから私を見つめている。私だけを見つめる、そんな瞳を私は今まで知らなかった。私は何も知らなかったんだ。

「もし私が」

 言葉が勝手に口から溢れでてきた。ダムが決壊して心の底にずっと溜まっていた泥のような情けない涙が言葉になって流れ出た。

「もし私がいつか眼鏡をはずせたら、桜井君も眼鏡をはずしてくれる? 硝子越しじゃない私を見てくれる?」

 そんな弱い言葉が私の中にあるなんて知らなかった。そんなことを口にするなんて信じられなかった。

「約束する。俺はずっと須藤さんを見てるよ。須藤さんが眼鏡をはずしてくれるのを待ってる。だから」

 桜井君は私の頬をそっとなでた。

「それまでそばにいさせてくれ」

 ああ、私、ずっとこんな風に誰かに話してしまいたかったんだ。誰かに頼りたかったんだ。

 うなずいた私の頬をまたひとすじ涙が伝ってこぼれた。 

 眼鏡がぶつかる距離、それが今の私と桜井君の距離。いつかこの距離がなくなった時、私はまた笑えるだろう。

 だけど今はまだこの硝子越しにしか私は桜井君を見ることができないから。まだ思いを全部断ち切ることができないから。でも。

 私の恋心は硝子のむこうで私を待っている。

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恋は硝子のむこう かめかめ @kamekame

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