第4話 桃と小雪
「須藤さん」
久しぶりに桜井君に呼び止められた。今日は桃は風邪をひいて学校を休んでいたからか、桜井君は一人で途方に暮れているように見えた。
「お願いがあるんだ」
そう言って桜井君は私を美術室に連れて行った。
昼休みの美術室には誰もいない。普段は鍵がかけられているのだから当たり前だ。美術部員である特権で、私と桜井君は美術室で二人きり向かい合った。
「お願いって、何?」
桜井君は言葉を探しているのか眼鏡のフレームを指でなぞりながら私を見ずに口を開いたり閉じたりしている。私は黙って待った。桜井君が私から桃を決定的に奪い去るという予言を聞かされるのだろうと覚悟を決めて。
「俺、相沢さんと別れようと思う」
思いがけない言葉に驚いて私は目を見開いた。別れる? 桃と? 一度手に入れた桃を、彼はどうして手放すことができるというのか。
「辛いんだ、相沢さんのそばにいるのが」
それは桃がまだ私を待っているからだろうか。今でもまだ桃は私を待ってくれているのだろうか。
「相沢さんは俺のこと好きなわけじゃない。そんなことは最初からわかってる。俺は須藤さんの代わりでしかないんだ」
桜井君はそれを桃の間近で感じて、桃に恋する気持ちを手放したくなったのだろうか。私と同じように、届かない気持ちに絶望したのだろうか。
「須藤さんはずっと俺達を見てただろう。相沢さんももちろん気づいてた。待ってるんだよ、相沢さんは、須藤さんのこと……」
「桜井君は」
聞いているのがつらくて、私は桜井君の言葉をさえぎった。
「桜井君は、桃のことを相沢さんって呼ぶのね。桃は名前で呼んで欲しがるでしょ? あの子、誰にでも甘えたがるから」
桃は誰だっていいの、桜井君じゃなくても、甘えることができるなら誰だっていいのよ。もっと、もっと絶望させたくて私は追い打ちをかけるようにしゃべり続ける。
「どこへ出かけるにも白いリュックを背負っていくでしょう。あれは私がプレゼントしたの。もうそろそろ買い替えてもいいのに、もう何年も使い続けてるのよ。桜井君、新しいカバンをプレゼントしたらいいわ」
桜井君は憐れむような目で私を見ていた。桜井君は絶望なんか感じていなかった。当然だ。彼は桃に選ばれて、それなのに桃を手放そうとしているのだから。桃の呪縛に絡めとられなかった、幸運の王子様。桃に選ばれるのをただ待って、その日が来ないことを誰よりも知っている私とは大違いだ。
「須藤さん。忘れて欲しいんだ、相沢さんのこと」
ああ、やっぱり。やっぱり桃と別れたいなんて嘘なんだ。私が邪魔だから騙して私の本心を探ろうとしたんだ。これ以上、私から桃を奪わないで。心の中だけでも、桃のことを思っていさせて。
「相沢さんのことを忘れて、俺のことを好きになって欲しい」
「……え?」
何を言われたのかわからない。桜井君が喋ったのはどこか外国の言葉だっただろうか。私が今まで一度も聞いたことがない言葉だった。
「君のことが好きなんだ」
ああ、ほら。聞いたことあるわけがない、そんな言葉。だって私は今までずっとその言葉を叫び続けてきたけれど、誰も私にその言葉を贈ってはくれなかったのだから。私が一番欲しかった言葉を。
「好きだ」
突然、美術室のドアが大きな音をたてて開いた。
「優人君!」
顔を真っ赤にした桃がそこに立っていた。
「桃のこと好きだって言ったじゃない! 誰よりも好きだって言ったじゃない!」
美術室に沈黙が広がった。桃と桜井君と私。みんな何かを探り合うかのようにお互いの様子を観察している。私は桃だけを見つめていた。そこに立って私を見ていない、桜井君だけを睨みつけている桃だけを見ていた。
桃に見つめられている桜井君が桃に向かってはっきりと告げた。
「俺は確かに君のことを好きだと思っていた。誰よりも好きだと思っていた。だけど俺の想いなんかより須藤さんが君を想ってる気持ちがどれだけ深いか、やっとわかったんだ」
「そうよ、小雪は桃のことが世界で一番好きなの。だから告白なんかしてもムダよ。小雪は私のものなんだから」
桃はきつい目で桜井君を睨みつけた。その目に憎しみがはっきりと浮かんでいた。
「小雪、はっきり言ってやって! 優人君なんかちっとも好きじゃないって! 小雪は桃のことだけ好きなんだって!」
私は桃の激しさから目をそらせなかった。桃が私を欲している。私を誰よりも欲している。
桃の目に宿った憎悪は私に対する執着の強さそのものだ。桃は私を手放したりしない。ああ、私は一生、桃のものなのだ。喜びが胸の底から湧いてきて今にも涙がこぼれそうだった。けれど私は必死になってその喜びを押し殺した。
「小雪!」
桜井君を睨みつづける桃にそっと囁く。大好きな桃に嘘をつく。
「だめよ、桃。もう私に甘えないで」
「小雪? なに言ってるの?」
「私も桜井君のことが好きなの。いつも桃が妬ましかった。だからずっと二人から目が離せなかったの」
「嘘! そんなの嘘よ!」
「本当よ、桃。だから邪魔しないで。私にも自由をちょうだい」
桃の目に涙は浮かばなかった。私をなくした桃は悲しんだりはしなかった。ただ、自分の所有物から裏切られて怒りと屈辱を感じているだけだった。
桃はつかつかと私に歩み寄ると、思い切り私の頬を平手で打った。眼鏡がどこかに飛んで行った。私は硝子越しではない桃の顔に見惚れた。その傲慢な所有欲にすがりつきたかった。けれど今度こそ、桃は私を見限った。
私から目をそらしたその一瞬で、桃の世界から私が消えた。桃はもう私など見ていない。何事もなかったかのように美術室を出て行った。
桃は、私を置いて出て行った。
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