横顔
あの家を思うとき、まず浮かぶのは真木柱。
そしてその傍らにゆらりと立ちのぼる影。
ひやりとした水を思わせる静けさに、じわりとにじむ諦めと悲しみ。
それは他の、例えばお母様にささやき狂乱に誘うような影たちとはあまりに違う、ただそこにあるだけの影だ。
影は私を見ない。
私だけではなく、誰の事も見ようとしない。人を脅かすことも、そそのかすことも、狂乱に誘うこともない。ただ、静かにそこにある。あの真木柱の傍らに。
その静かさを、悲しみを、諦めを、私は好もしく思う。ずっと好もしく思っていた。
影はそこにあった。
私はずっと影を見ていた。
今も、影はあの場所にあるのだろうか。
「きっと、あの子の仕業でしょう。あの子が何か手をまわしたに決まっています。どこまで我が家に仇なすのかしら。本当に忌々しい。」
祖母が眉間にきつくしわを寄せて、吐き捨てるように言い捨てるのに、秋姫は袖の蔭でため息をついた。祖母がこんなふうに吐き捨てるように「あの子」というのは一人しかいない。
秋姫にとっては母の異母妹にあたる源氏大臣の権の北の方、世間では六条の春の御方と呼ばれる方の事を、祖母はひどく嫌っていた。
祖母にとって春の御方は夫が他の女性との間に成した子だ。そう思えば嫌っていてもなんの不思議もないようだけど、祖父が外に作った子供は春の御方だけではないし、子を産ませたのが春の御方の母君だけというわけでもない。秋姫が見る限りでは、祖母が春の御方を嫌うのあまりに度が過ぎていた。
何年か前に源氏大臣が失脚した折には、晴れ晴れとした顔で「あの子には不運がついているのですよ。関わらないのにこしたことはありません。」などと言っていたのを、秋姫もよく覚えている。それが源氏大臣が復位し権勢を握ったころから、恨みがましく愚痴るようになった。
祖母は源氏大臣が春の御方の父である祖父を蔑ろにすると言うけれど、大臣の失脚の折にあざ笑い、娘である春の御方を見捨てるように祖父に仕向けたのは祖母なのだ。
世間では春の御方は、並ぶものなき六条院の女主人、源氏大臣の最愛の人と尊ばれている。その愛妻を見捨てるような真似をした舅に大臣が隔意を抱くのは、無理のない話ではないだろうか。
祖母の産んだ女御にも大臣は冷たい。ただ冷たいだけでなく、自身の養女を入内させついに立后させてしまった。その時も祖母は盛大に愚痴っていたけれど、今回はその時とは違うのではないかと秋姫は思う。
母が、父に見捨てられ、源氏大臣の養女が北の方として、父の家に入ったのだ。
いや、正確には父が母を見捨てたわけではないのだと思う。
源氏大臣の養女に通うようになっても、父は母の事を本邸から追い出そうなどとしてはいなかった。むしろ事の顛末に怒った祖母が、強引に母を実家に戻したのだ。空き家になった本邸に、源氏大臣の養女という人が入っただけで、誰も母を追い出したりなどしていない。
しかも父は母を何度も迎えにもきていた。その父を侮辱し追い返したのも、結局は祖母なのだ。
源氏大臣は養女を尚侍として出仕させる予定であったとか言うし、実際に一度は出仕もしたらしい。だから秋姫は、源氏大臣は父を養女の婿に迎える気などなかったのではないかと思っている。父を通わせる事になったのは、もしかしたら事故のようなものなのではないか。
ましてその源氏大臣の権の北の方が、母や祖母への嫌がらせに、養女を使って父を奪いとったなどということは、ありえることと思えない。
(きっと、あちらはそこまでお祖父様やお祖母様の事を気にしてなどおられないわ。)
だけど秋姫はそんな言葉をうっかり口に出したりはしない。せいぜいしおらしげに、顔を袖で隠しながらやり過ごすだけだ。そして同じように祖母の愚痴を聞かされる晃子の母は、虚ろな無表情なのだった。
父から引き離された衝撃ゆえというわけではない。物の怪に憑かれやすい母は、そもそも普段はこんなふうなのだ。母の抜け殻めいた様子を見ていると、母の人生とは何なのだろうと秋姫は思う。
物の怪に惑わされ、憑かれ、狂乱する事に全ての感情を使い果たし、それ以外の時間を虚ろに過ごしている母に、母自身の感情や人生というものがあるのだろうか。
「そもそも婿殿も婿殿です。見鬼でないのを承知で見鬼の享子を許したのに、このように後足で砂をかけるような真似をして。」
祖母の愚痴は際限なく続く。
春の御方、源氏大臣、そして父。
秋姫も祖母も母も見鬼だ。
そして秋姫以外の兄弟は見鬼ではない。三人の子の内二人までも見鬼でないのは見鬼でない父のせいだと、祖母が父を見下す口実になっていた。弟達が父のもとへ戻されても、秋姫が母の元に留めおかれているのは、女の子であるという以上に見鬼であるからだ。
見鬼であるという事は、それほどに素晴らしい事だろうか。それが秋姫にはわからない。少なくとも秋姫の父にとって、見鬼の母は決して良い妻ではなかっただろうと思う。秋姫自身は母のように取り憑かれ狂乱する事はないけれど、母の有様を見ていればあやかしを疎ましく思う気持ちが強くなる事はどうしようもない。あやかしは母の人生だけでなく、そこに関わる父や秋姫兄弟の人生も明らかに歪めている。あやかしにかかわらずに済んだなら、秋姫達家族はどれほど平穏に暮らせたろう。
そんな秋姫にとって唯一好ましいあやかしが、父の邸の真木柱のそばに佇む影だった。
影はよく見ると女であることがわかる。
美しい女だ。
女は一心に庭にある何かを見つめている。それが何なのかはわからない。
本当に庭にある何かなのか。
かつてあった何かなのか。
全く別の何かなのか。
母の狂乱に、祖母の暴言に、種々の事に疲れて物思うとき、秋姫は真木柱の傍らに座しあやかしに寄り添うようにして庭を見た。
あやかしに心を添わせようとしても、あやかしはそれを拒む。
いや、別に秋姫を拒んでいるのではないのだろう。ただ、あやかしの内に秋姫はわずかも入り込めないというだけで。
冬の水のようにひやりと冷たい気配に諦めや悲しみを滲ませて、影はいつもそこにある。
種々の事が降り積もり、吐き出す事もできないままに心中に膿んだような熱を感じると、秋姫はその冷たさに寄り添った。そうするとその冷たさが諦めが、秋姫に仄かにうつるように、心中の熱のなだめられるのを感じるのだった。
真木柱の傍らにあのあやかしは今もいるのだろうか。
秋姫は度々そんな事を思う。
今やなだめてくれる冷たさもあきらめもない秋姫に、祖母は愚痴や暴言の雨を降らせ、時に母は狂乱する。
降り積もる種々の事は秋姫の内で膿み、じわりと嫌な熱を吐く。
あの冷たさを、あきらめを、美しい横顔を、秋姫は慕わしく思う。
あのあやかしは今もあの場所にいるのだろう。父の家のあの真木柱の傍らに。
秋姫を見なかったように、寄せ付けなかったように、きっと誰にも関わろうとする事なく。
できれば、父の新しい北の方という人が、見鬼でなければいいと思う。
父も弟達もあやかしを見ないのだから、新しい北の方が見なければ、だれもあやかしには気づくまい。そうしたら誰にも知られる事なく、あやかしはいつまでも真木柱の傍らに佇んでいるだろう。そしてあの横顔を思うのは、秋姫だけであるはずだ。
祖母の愚痴は続く。
母は静かに虚脱している。
秋姫は袖の影で、恋しいあやかしをただ静かに思っている。
源氏物語サイドストーリースピンオフ 真夜中 緒 @mayonaka-hajime
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