奈落の空
少年は多くの人に愛されて育った。
母、乳母、女房、兄、叔父、そして父。
父は至尊の位の人であり、母はその正后。
欠けるところのない身の上と、誰もが少年にかしずく。
愛されることは当然であり、大切にされることに疑問はなかった。
母は美しい人だった。
いや、全ての幼子にとってその母は、美しく慕わしいものだろう。しかし少年の母は誰もが認める抜きん出た美貌の人だった。
むしろ少年には不思議だった。
少年に仕える乳母や女房たちは、どうして美しくないのだろう。
老いた古参の女房など、母と同じ人間の女とも思えないぐらいだった。
いつの頃か少年は、母の目に淡い陰を見るようになった。少年はその陰から悲しみというものを覚えた。
少年にはわからなかった。母はなぜ悲しい目をして自分を慈しむのだろう。
やがて少年の周りに変化があった。
父は位を下り、年長の兄が代わりに位に上った。
少年は母のもとから離されて、別の宮を与えられた。
新しく至尊の位についた兄は、中々合うことはできないけれど、いつでも少年を気にかけて、好物などを沢山贈ってくれた。
それから、しげしげと少年のもとに現れる兄もいた。臣下と呼ばれる者たちと同じ格好をしていても、その人は兄なのだと教えられていた。
その兄の事は源氏と呼んだ。
帝になった兄が一番上の兄で、源氏はその次の兄だった。ほかにも兄や姉がいて、一番下が少年だった。
少年はその頃から東宮と呼ばれるようになった。
一番上の兄の次に、帝になるのが役目なのだという。
少年はとても幼かったので、「東宮の重い役目をつつがなく果たすために」源氏が助ける役割らしかった。
少年が東宮になる前から、兄たちは少年を可愛がっていた。それだけでなく源氏は少年の母にも親しく振る舞った。源氏が母上の事が好きなのだと少年は知っていた。
源氏の君は少年の母に劣らず美しく、しかも母の事が好きなのならば少年に源氏を嫌う理由はない。少年は源氏のことが好きだった。
やがて父が死んだ。
父の死はさらに大きな変化を少年にもたらした。
別に暮らすようになってから、毎日は会えなくなっていた母は、髪を短く断って、暗い着物を着るようになり、更に間遠にしか会えなくなった。
兄たちは変わらず気遣ってくれたけれど、ある時から源氏が現れなくなった。
源氏がなぜ現れないのか、だれもはっきりとした事を教えてはくれなかったけれど、やがて源氏が罪を犯して京を離れ、謹慎していると知った。
どんな罪を、悪いことを、源氏はしてしまったのだろう。
疑問に思い、周囲の大人を眺めているうちに、少年は母の様子に目を留めた。
母はたまに少年が訪れる時ですら、御仏に祈っているような事が多くなった。そして少年と向かい合った母の目には、あの悲しみの陰がいっそう色濃いのだった。
なぜ。
疑問を抱いたまま時は過ぎたが、ある時少年は源氏の罪が、誰か女人を好きになった事だったと知った。
源氏が好きな女人と言えば母の事だ。
母の事が源氏の罪であるのならば、母の振る舞いにも納得がいく。母は源氏のように親しげには振る舞わなくても、源氏の事が好きであるのはわかっていた。
もちろんそれは誤解だった。
源氏が京を落ちた直接の原因は、一番上の兄である帝の寵姫と通じた事だったのだから。
けれど、少年が間違っていたわけでもなかった。源氏と母の間には、他人には言えない秘密があった。
母の目に浮かぶ陰。
それはいつも少年に多くの事を教えた。
母の心にある秘密。
源氏の犯したという罪。
そして少年は気づいてしまう。
やがて京に戻った源氏が自分を見る目が、父親のものであることに。
まさか。
でも。
少年が父と呼んで育った人は、確かに年をとっていた。母と親子と言われても何の不思議もないほどに。
そして源氏と少年は、生き写しと言われるほどによく似ていた。
少年はもうそれほどに幼くはなく、母と源氏の秘密や罪を理解出来るようになっていた。
理解出来るようになって、ついに即位の時を迎えた。
少年は戸惑った。
自分は帝の子ではないかもしれない。
それでも即位しないわけにはいかない。
自分は確かに東宮なのだし、即位を拒むのは母の秘密を暴くことだ。
いっそ、雷にでも打たれたいと思う程だったが、少年はつつがなく帝位を踏んだ。
それどころか少年は帝器としてはとても優れているのだと言われた。はるか祖神から受け継ぐ「天孫の光」を少年は多く宿していた。
本当にいいのだろうか。
自分が帝位についていることは、ひどい間違いなのではないか。
でも間違いだったとしても、母の秘密を暴く他に正す術はない。
ならば、せめてこれ以上間違いを大きくしたくない。
少年はそう思った。
次の東宮は先に帝位についていた一番上の兄の息子だ。その正しい東宮に帝位を譲るその日まで、これ以上間違いを犯さぬように。
規範がほしいと少年は思った。
少年が間違うことのないように、見ていてくれる者が欲しかった。
母ではいけない。源氏でも。
どれだけ二人のことが好きでも、二人はまさに間違いを引き起こしてしまった者達だ。少年が正しさを測るのに、当てにすることは出来ない。
帝位についた少年のもとには、女御が入内してきた。
一人目は少年と同じ年頃の少女だった。
可愛くて、明るくて、快活で、彼女と一緒にいると少年は少し気持ちが明るくなった。
二人めは源氏が娘分として送りこんできた年上の人。
少し前まで伊勢の斎宮をつとめていたというその人は、小柄で、儚げで、そんな大役を担った人とも思えなかった。
「もっと、恐ろしい方かと思っていました。神に仕えた方だとお聞きしていたので。でもあなたは少しも恐ろしげではありませんね。」
実は少し拍子抜けしたのだ。少年はもっと厳めしい人を想像していた。
「あら、わかりませんわ。」
ふわりとその人は笑った。
「本当は恐ろしいのかも知れません。」
少年もつりこまれて笑った。その人の微笑みは暖かな木漏れ日を思わせた。
「ではあなたがお仕えになった神に代わって、私の事を見てください。そして私に道を外れた行いのある時は、私を諌め、叱ってください。」
その人の表情が引き締まり、しんと静まった気配に正される。
「必ず仰せの通りに致しましょう。」
それは少年を少しも侮らない、真摯な言葉だった。
やがて少年の疑惑は確証を得た。
少年はそれでも歯を食いしばって帝位にまつわる義務を、退位の時まで果たした。
少年が妻として愛したのは、最初に入内した少女だったが、中宮と定めたのは斎宮であった人だった。
実父源氏への心遣いが無かったとは言わない。実際、臣下に下った源氏を改めて皇族に戻し、太上天皇の尊位を贈ったのは、前例のない格別の扱いだった。
けれども立后に関しては、自分を見ていてくれる人には、できるだけ自分と同じ高さにいてほしいという思いの方が、ずっと強かった。
恋ではなかったかもしれない。
それでも譲位の後も、彼は中宮の意見を尊重し、生涯を添い遂げた。
中宮はその生涯に渡って彼の良き助言者であり、最初の誓いを守ったのだった。
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