雲隠

 ただの風邪だと周りも、実は本人も思い込んでいた病状は、夜半になって急に重くなった。

 熱は上がり、息もひどく苦しいが、山中の庵のことで光の他にはだれもいない。生活の世話に通って来ている夫婦者は、夕方いつものように帰してしまった。

 「最近めっきり風が涼しくなりましたし、お身体を冷したのでございましょう。粥に生姜を入れればお身体が暖まりますよ。」

 朝、熱っぽくて頭痛がすると訴えた光を、夫婦の妻の方は軽くいなした。自分でも風邪だろうとは思っていても、そんな風に軽くあしらわれる事に、光は慣れていなかった。光が少しでも不調を訴えれば大騒ぎになるのが、光にとっては当たり前のことだった。

 光はしまってある五色の糸を出すように命じた。

 臨終の折に持仏の指にかけ、すがるための糸だ。風邪ごときで出すのはいかにも大げさすぎる。それでも命じたのは光の意地だった。

 夫婦の妻はそれも淡々と出して、光の持仏である大日如来の指にかけ、反対側の端を美しく整えて長く垂らした。

 光の持仏は光と同じ背の丈がある。

 病床の光から見るとそれは随分と背高く、糸は五色の細い瀧のようだった。

 光に熱もあるので、一応庵に泊まり込もうとする夫婦を強いて帰らせたのも光だ。

 夫婦は水差しや予備の綿入れなどを手厚く用意して帰っていった。

 たいした事とも思わないのに泊まりこむ必要はないと、半ば拗ねたような意地が取らせた行動だったが、今になって全身が身の置きどころもなく痛み、息は苦しくなるばかりだ。

 自分は死ぬのだろうか。

 全身を嫌な汗が濡らし、その汗はいっそう身体を冷やす。悪寒はいまや背筋だけでなく、全身に取り付いている。

 自分は死ぬのかもしれない。

 出家した時からこの日の覚悟を決めたつもりだった。少女の頃から愛し育てた春の御方縁子を失い、数少ない子どもたちの行く末も見届けて、もう心残りはないと飾りを下ろした。

 嫡男である満が整えてくれた庵に不足はなく、生活に必要な種々のものは夏の御方が差し入れてくれる。

 光はただ読経し、亡き人々の回向と自身の後生だけを念じていればいい。

 それはとても静かな生活だった。

 ただ時に光の心に何かヒヤリとしたものが通り抜ける。

 それが淋しさであることを、光はわかっていなかった。

 幼い頃に母を失った光は、実はとても淋しさに弱かった。

 ただ、常に人に取り巻かれて生きていたのでそのことを自覚していなかった。

 光の「人恋しさ」がいつでも多くの女君を求めさせ、多くの悲しみをもたらしていても、光は自分の中にある「人恋しさ」を自覚できなかった。

 自覚しないままに今まできた。

 光にとっては求められ、応えてきた、それだけの人生だったのだ。

 身体に取り付く悪寒は、冷たい「人恋しさ」と一つになって光を絞め上げる。

 冷たさと痛みの為に、もう息を吸うこともできない。

 なにかを求めるように伸ばした光の手が、五色の糸を掴む。

 ふと、女が見えた。

 夫婦者の妻でもなく、母でも、縁子でもない。

 あれは…

 そこで光の思考は途切れた。


 大日如来の御手から伸びる五色の流れを、握りしめて僧が息絶えている。

 見鬼でない僧の魂魄は儚く、事切れると同時に天地へと散ってしまった。長年傍らに待ち構えていた女が、その手に掴む暇もなく。

 悲しげな女の陰が揺らめく。

 執着するものを失えば、女も消えるより他にない。

 揺らめくうちに女の陰は薄れて、消えた。

 後にはただ僧の亡骸と、きらきらしい威容の大日如来だけが残っていた。

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