谷には春も
「谷には春も。」
くだくだと、本当にくだくだと、院の嘆きはつづいている。だからつい、
あからさまに院がムッとするのがわかったが、璧子はぼんやりとしたいつもの表情で、おっとりと院の視線を受け流した。
ひかりなき谷には春もよそなれば
さきて とくちる ものおもいもなし
出家した身には愛執は縁なきもの。
まして俗世で夫であった人が、自分以外の
妻の死を身も世もないほどに嘆いているのを、璧子にどう思えというのだろう。
(もしも私があの方を哀れんで見せたなら、院はどうなさるかしら。)
璧子の産んだ子の父は、すでにこの世のものではない。彼のことを愛していたかと問われれば、璧子は戸惑わずにはいられないだろう。力づくで閨に踏み込まれる形で始まった関係は、璧子に苦しみしかもたらさなかった。
けれど、彼と院とを比べると、院に対するときの方が璧子の心が乾いている。
手段は強引で乱暴でも、彼は心底璧子を求めていた。璧子の心を得ようと必死になって足掻いていた。
それは決して美しくも、快くもない。
でも、美しく穏やかな院の方が、はるかに冷え冷えと冷たいのだ。いつでもはるか高みから、璧子のことを見下ろしている。彼が、
気づいて良かったのかどうかはわからない。気づかなければ壁子は生涯を穏やかに送ることができたのかもしれない。
それでも気づいてしまった以上、気づいてはいなかった昔に心を戻すわけにもいかない。
相手が清澄でも、院であっても、閨のことはもう地獄だった。
激しく求めかき口説く清澄の通う夜は何もかもが乱され、息をつことも出来ず。
冷たく義務的な院との同衾は、索漠として砂を噛むような息苦しさだった。
まして事が露見してからの辛さは言うまでもない。
おかしなことにそうなって、院は始めて璧子を見た。そして璧子に執着した。壁子はなじり苛む対象として、初めて院の目にとまった。
父院は璧子に「然るべき夫を持ち 、愛されるのが女の幸せ。」と教えたが、それは本当なのだろうかと璧子は思う。璧子が学んだ愛というものは、暖かくも優しくもない。
それは璧子を傷つけても、自分も刻み込もうとした清澄の執着であり、璧子を苛む院の口実だった。璧子にとっての愛は、壁子を傷つけようとする者が振りかざしてくるものなのだ。
もう沢山だった。
璧子をおびやかし傷つける愛なんていらない。
だから璧子は髪を下ろし、出家の道を選んだのだった。
女がいる。
美しい女だ。
女は猫を放す。
猫は御簾をくぐり簀子へと飛び出してゆく。
猫にくくられた紐は御簾をかき上げ、室内をあらわにする。
ああそうだ、あの日璧子はあそこに居た。
紅梅襲の袿に桜の細長を羽織って、花吹雪の庭で鞠の蹴られる面白さに、つい立ち上がって外を見ていた。若い女房の多い事もあって、見物に邪魔な几帳など何処かに押しやってしまっていたはずだ。
ポンポンと気持ちよく上がる鞠を見ているうちに、ふと猫の声を聞いた。
見ると紐につないだ猫が簀子に出てもがいている。外に走り出したはいいものの、紐に繋がれていたせいで身動きならなくなったらしい。
どうしよう。
璧子は慌てた。
猫はひどく苦しそうに見えるが、まさか自分で簀子に出て助けるわけにもいかない。
うろたえた璧子は猫の紐がかきあげた御簾の隙間から自分を隙見する目があることになど、まるで思い至らなかった。
あの猫は結局どうなったのだっけ。とても器量の良い、かわいい猫だったのだけど。
女房の小侍従がしつこく文を預かってくる公達が、どうやら自分を隙見したらしいと璧子が気づいたのはもう少し後になってからだ。はしたないことをしていた自覚はあったので、羞恥に顔を赤くせずにはいられなかった。
そうだ、あの猫は結局、今上へ差し上げたのだ。あの頃まだ東宮でいらした今上は、とても猫が好きでいらして、璧子手元に器量の良い唐猫がいることをどこからかお聞きつけになった。それで無心しておいでになったので、素直に献上したのだ。
その後、しばらくして璧子は激動に巻き込まれ、猫どころではなくなった。
春の御方の発病と、その療養のための移転。
人少なになった六条院に清澄が通って来るようになったこと。
璧子の懐妊。
清澄との関係の発覚。
出産。
そして出家。
今思えば悪い夢のようだとも思う。
璧子は春の御方が嫌いではなかった。
玲瓏として美しい樺桜のような人で、微笑むと辺りの空気が柔らかく、明るくなる。艷やかな絹を思わせる心地よい声は、いつまでも聞いていたい気持ちにさせられた。
考えてみると院よりも春の御方の方がよほど好感がもてる。子供っぽい璧子を侮るような事もなく、人形遊びの話にさえ気長に付き合ってくれた。折々に届く手紙の文字も美しく、咲き始めの花などが添えられているのも嬉しかった。
あの方が亡くなったことを悲しまないわけではない。けれどそれはあくまで璧子が春の御方へと向ける感情で、院と共感できるようなものではなかった。
出家して良かったと璧子は思う。
出家していれば誰のことも閨に入れる必要はない。誰も璧子に踏み込みも脅かしもしない。
父院と院の庇護をうけ、自身の御封にも余裕のある璧子は心細さとも無縁だ。元々、璧子はそんなに感情豊かな質ではない。おっとりとした顔立ちのせいで目立たないが、感情の起伏らしきものはいたって少なかった。
そうやって考えてみれば璧子はそもそも「光なき谷」の住人なのかもしれない。
春も夏も秋も冬も
璧子にはそもそもよそごとなのだろう。
飽き足りない、不満げな表情を浮かべたまま、院は帰っていった。
璧子は静かに座っている。
座っていることは苦にならない。
こうして璧子はこの先も過ごしてゆくのだ。
咲く花を、散る花を、ぼんやりとよそ目に見送りながら。
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