翔は少女を抱きかかえ、ベッドの下へ潜り込んだ。

 瞬間、耳を塞ぎたくなるほどの爆音が室内に反響した。ガラスが割れ、羽毛布団から大量の羽が舞い散り、室内灯の光を受けてきらめくガラス片と、ようようと空中を漂いながら落下する羽が実に幻想的であった。銃痕が亜麻色のカーペッドに刻まれるとそこが黒く変色するため、まるで無数の蟻の巣が続々と生まれてくるみたいではなはだ不気味である。


 翔が少女の身を守る一方、奎吾は弾丸の雨をやり過ごすべく、奥側のベッドの下に身を潜めていた。彼は雨間を待っていた。此度の山羊の数は先頃と比して、いや増しに数を増やしていた。十人......否、もっと多いだろう。この多勢に対して反撃に転ずるためには、圧搾の範囲を広くしなくてはならない。そうすると、おのずと体に重い負担を強いることになるのは必定。事によると、日がな一日床に臥し、眼底の永遠に続くのではないかとさえ思える鈍痛に呻吟する羽目になるだろう。しかし逡巡している暇はない。ゆえに彼らがリロードをするタイミングで飛び出し、刹那的に一網打尽にする他はない。


 翔と少女が潜んでいる方を見た。なんとか耐え凌いでいるみたいだ。と、翔がこちらに顔を向けた。何やら言いながら、カーペットを指差している......。

 そうか、そういうことか!


 彼の意図を理解した奎吾は、すぐに目の前のカーペットに穴を開けるため、圧搾をはじめた。

 人ひとりが通れるくらいの穴が空いた。幸いなことに、階下の宿泊客は留守だった。


 まずは翔、次いで少女、最後に奎吾が暗い穴に飛び込んだ。

「駐車場へ行くぞ」

 翔は言った。奎吾は首肯いた。


 部屋を抜けて廊下を行く。山羊たちはいない。閉まりかけたエレベーターに滑り込み、地下二階へ向かう。規則正しく居並ぶ車の一群れに黒のクラウンはあった。翔はキーを取り出し、ロックを解除した。

 そしてドアノブに手をかけた。


「そこまで」

 耳慣れぬ男声にふと動きを止めた。その方を見遣る。

 いつとはなく、雄山羊の被り物をした某がスーツを着て立っていた。禍々しく反り上がったビッグホーン。背丈は百八十を越えているだろうか。銃口を翔の眉間に定めている。

 助手席側のドア付近にいる奎吾はコンクリートの床に膝をつき、背後から何者かによって目隠しをされ、手錠も嵌められる。


「奎吾!」

「騒ぐな。両手を頭の後ろに組め」

 翔は雄山羊を睨んだ。雄山羊はもう一挺銃を取り出すと、それを奎吾へ向けて構えた。つまり、翔と奎吾のふたりを同時に狙いを澄ましている。


 山羊の群れが車の下から、車中から、駐車場の入り口からぞろぞろと湧き出てくるのが見えた。ゴキブリを彷彿とさせる俊敏な動きは、なんとも言えぬ不快感と絶望感を齎せた。

 ——あの子は、少女はどうした。

 無事だろうか。先ほどから悲鳴ひとつしないが。

 思いつつ、翔は頭の後ろに両手を回した。


「ずいぶんと大仰だな。あんたがこいつらの頭か」

 雄山羊はそれに答えなかった。

 ややあって、翔は銃口を覗き込むようにして言った。

「その銃、コルト・キングコブラだろ。どうやら好き好んで使っているみたいだが、なぜだ」


 ——なぜだ、答えろ。

 翔は瞳に怒気を滲ませて、贋物の矩形の黒い瞳を見据えた。

 そして彼の脳裡には、五年前の記憶がありありと映し出された。


 

 かつての静謐をすっかり喪失した惨憺たる部屋、作業着姿の男達が忙しく動き回っている。

 中央あたりに敷かれた青いビニールシートが、繭のようにこんもりと盛り上がっている。その前に腰を屈めるスーツの男が、肩越しにこちらを一瞥すると、大儀そうに立ち上がった。


「岬翔さん、ですね?」

 男は尋ねた。翔は応ずる。

 刑事である男は、本人であるかどうかの検分をしてほしいと言う。


 ビニールシートがめくられる。翔は腰をかがめて、繭の中をそっと覗き込んだ。

 息を飲んだ。咽喉から迫り上がってくるほどの心悸亢進が治らない。ゆっくりと、数回瞬きをした。


「間違い......ありません」

 ——妻と娘です。

 翔は絞り出した声で言った。絨毯に染み込んだ紅黒い丸に、美結の横顔が据えてあった。眠りにつく彼女の腹部に宇海がしがみついている。垂れ下がる髪で顔は見えなかったが、宇海であることに相違なかった。変色した白いワンピースは、彼女の誕生日に翔が贈った物だった。


 男は傍の刑事になにやら言うと、刑事は頷き去って行った。

 やがて繭の入り口が閉じられる。風圧で内側にこもった死臭が吹き出し、甘い体臭と体液の香りが綯い交ぜになった風にあおられた翔は、とっさに口元を掌で覆った。背後にいる刑事を押し退け、部屋を飛び出した。堰を切ったようにほとばしる大粒の涙と嗚咽は、胃液とともに便器の底に落ちた。


 獣のごとく咆哮を背中に聞きながら、刑事の男は深く息を吐いた。

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DIRTY・DOG 葦元狐雪 @ashimotokoyuki

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