第6話

 「名前は、井口優香。お前の言う通り長い黒髪の、誰にでも優しく勉強もそこそこできる優等生だった。クラスで特別目立つ存在じゃなかったが周りからの信頼も厚かった。だけどそんな人間を何故だか気に食わないやつもいた。井口はいじめを受けていたんだ、クラスの一部の女子からな。最初は上履きを隠されたり教科書をゴミ箱に捨てられたりしていたらしい。けれど井口はそれを誰にも話さず我慢しながらも登校し続けた。そうするといじめもヒートアップして、今度はトイレに連れ込まれて直接暴力を振るわれるようになった。それでも井口が誰かに相談することはなかった。俺にも、友人にも、家族にも。井口は休み時間は専ら図書室にいることが多くなった。きっと心が唯一安らぐ場所だったんだろう。しかし井口に対する暴力はさらに酷くなって、一度授業中に痛みで気を失うことがあったくらいだ。それでも井口は学校に来た。俺もさすがに休むよう言ったが、何故だか意志は固かった。それをいじめる側は挑発だと受け取ったんだろう……最悪は起こった。これまで以上の暴力を受けて意識も朦朧とする中、井口は図書室に向かったんだ。途中の廊下に吐血の跡があったくらい、体はボロボロだったらしい。そして誰もいない図書室で、井口は息絶えた。見つけたのは次の日、朝一で勉強のために図書室に来た同学年の生徒だったらしい」

先生は話し終わると、頭を垂れてまた一つ大きくため息を吐いた。あまりに辛すぎる話だった。あんなに楽しそうに笑顔を見せていた彼女は、笑顔を忘れるほどの経験をして、寂しく死んでいったというのか。気が付くとボクは泣いていた。拭っても拭っても涙は止まらず、先生の貸してくれたハンカチをぐしょぐしょに濡らしてしまった。

「なんでお前が井口を知っているのかは、聞かない。ただこの話を聞いてお前はきっと井口にとって救われる存在になる……そんな気がした」

「それってどういう……」

「俺にもわからん。これは自分勝手な罪滅ぼしなのかもしれん。あれだけ傷ついた井口を見ておきながら、結局は俺も多くは追及しなかった。俺もあいつを殺した一人なんだ」

「そんなこと……」

否定しようとしたが、できなかった。ボクは先生に対して少なからず怒りを覚えていた。もしかしたら彼女を救えていたかもしれない、そんな思いが話を聞いていて沸き起こったからだ。ぐっと唇を嚙み、言葉に出さないようにする。ボクは立ち上がると、先生にぺこりと頭を下げ、職員室を後にした。



 走って向かったのは図書室だった。夕日も沈みゆく時間、図書室に向かう廊下は薄暗かった。息を切らしながらたどり着いた図書室も電気はついておらず、慌ててドアを開くとどうやら司書さんが出ていったようだった。誰もいないのなら好都合だ。ボクは二、三歩図書室の中へ進むと思いきり息を吸って、それを声に変えて吐き出した。

「井口優香さん!!!!!!!! 」

初めて彼女の名を呼んだ。きっとまだこの図書室にいる、そう信じていた。ボクの声は静まり返った図書室に響き渡り、それからボクの荒い呼吸だけが耳に入る。彼女の姿はない。もう手遅れだったのか。諦めかけたその時だった。

 ——ドサッ。

本棚の奥で本の落ちる音がした。ボクはハッとして、急いで本棚まで駆ける。そこに、長い黒髪の女の子が口を押え、涙をはらはらと流して立っていた。

「……優香さん」

彼女が、井口優香さんがいた。

「ど、どうして私の名前……」

「ごめんなさい、あの後色んな人に聞いてあなたのこと知りました。ボクは……何も知らなかった。あなたのことをずっと傷つけてしまっていた」

彼女は嗚咽を漏らしながら首を振る。涙を拭うことも無く、ただ目だけは真っすぐこちらを見つめ叫んだ。

「そんなことっ……ない! 私は楽しかった、あの時間が本当に大切だった! でも知られるのが怖かった。きっと気味悪がられる、もう会ってくれなくなる。だから、だから……あなたが……」

「市川翔太です」

ボクはそう名乗り、彼女に歩み寄る。体を震わせる彼女を、触れられないその小さな体を優しく抱きかかえた。感触もなにもない。けれどボクの胸で彼女は確かに泣いていた。

「ようやく、名前聞けました」

「わ、私も……」

彼女はゆっくりとボクから離れ、今一度見つめ合う。二人に会話はなかった。けれど、目を見ればすぐに伝わる。気持ちが流れ込むように分かった。ボクはまた一歩彼女に歩み寄る。彼女もこちらに小さく足を進める。もうそこには15センチもの距離は存在しなかった。互いの顔を近づけ、彼女は目を閉じて、二人の唇が重なった。感触はない。実感もない。けれど心は感じたことのない温かさに包まれ、不思議と頬を涙が伝う。ボクと彼女はキスをした。触れ合うことは出来なかったけれど、それ以上にお互いがお互いを感じた。

 顔を離すと彼女も温かな涙を流していた。けれどそこに悲しみは無かった。

「キス、しちゃったね」

無邪気に笑う彼女が愛おしかった。ボクも照れくさそうにこくりと頷いた。しかし、余韻に浸る間もなく彼女を突然眩い光の粒が包みだした。

「な、なにこれ」

「……きっと、ようやく未練がなくなったのかも」

「え……」

彼女は笑顔を崩さず、けれど寂しげな声色で言った。

「私ずっと憧れていたの、あんな風に誰かと楽しく話すだけの時間に。そして、誰かに恋することに。まさか一気にどっちも叶っちゃうなんて思ってなかったけどね」

光は徐々に大きくなる。それにつれて彼女の輪郭も薄くなり、消えていく。両手首と足首から下は既に視認できないほどだった。

「ほんとうにありがとう。私を知ってくれて、私と話してくれて、私と一緒にいてくれて、私を笑顔にしてくれて……私を好きになってくれて、ありがとう」

もう完全に消えるまで十秒もないだろうところまで、彼女はその姿を光の粒となって散らしていく。両目にたまった涙をぐっと堪える。最後くらい、笑顔で別れたいじゃないか。彼女はずっと、笑顔を守ってきたんだから。

「大好きだよ、翔太くん」

「……ボクも大好きだ、優香さん」

きっと、へなちょこな笑顔だったろう。声だって上ずっていたかもしれない。でも今、ボクは優香さんに見せた中で一番いい顔をしているだろう。

 仄かに明るかった図書室が再び薄暗くなる。優香さんの温もりの残った自分の唇にそっと触れてみる。途端、今まで堪えていた涙がボロボロと零れだした。図書室に、ボク一人の嗚咽が響いた。



 あれからボクは優香さんの命日に彼女の実家を訪ねた。最初は不振がっていた彼女の両親も、なぜだかボクの経験した彼女との時間の話をすると怒ることも無く、ただ涙を流してボクにお礼を言った。お墓参りもして、ボクは報告した。

「友達ができました。あれから人と関わることから逃げるのをやめたんです。もうあの図書室に逃げなくてもいいように……だって、あそこはボクと優香さんの大切な場所だから」

 今でも図書室行く習慣はある。それが友達と一緒に勉強しに行ったり、ふと放課後本を借りてみたくなったり、理由は様々だ。だけどボクが座るのは必ずあの席で、その度に思い出す。あの15分間、確かにボクのキミはここにいたんだって。今でもあの笑顔が、あの声が、そこには温かく残っている。

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今日もまた、図書室で。 ミコトバ @haruka_kanata

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