第8話 なつやすみ(その2)
その夢の中で、ぼくはだれかを助けたいと願っていた。そう願いながら、大きな泥の渦に呑み込まれていた。
それが夢なのかどうか、もう判断できなかった。
必死でもがきながら、ぼくは泥流の奥へと進んだ。
手を伸ばせば、届くはずなんだ。
――あっ、だめ! それはセルリアンだよ、逃げて!
気づくと目の前に、小さな青い生き物がいた。
丸っこい体に目玉がひとつ。
ぼくはサーバルちゃんの言葉を思い出して、あわてて岩場をぬって逃げ出した。
――セルリアンと会ったら、基本逃げるんですのよ。
背中から先生の言葉が聞こえた。
ぼくのうしろから追いかけてくる青い生き物は、いまやぼくより大きくなってるようだ。
必死に逃げるぼくを、触手のようなものがつかまえる。
……次の瞬間、ぼくは薄暗い部屋に立っていた。
――まっ、セルリアンに気をつけることだな。
部屋にいたツチノコさんが突き放すように言って、すたすた先を歩いていく。
ぼくはその後を追いかけて、暗い通路を走った。
ここは……そうだ、地下の研究所。
――ヒトの近くには、なぜか、セルリアンがよくいたそうです。
通路の先から声がする。会長だ。
先の開いたドアからまぶしい明かりがもれて、廊下を照らしている。
――見かけたら、さっさと逃げることです。
会長がだれかに話している。
ぼくはその開いたドアに向かって歩いていたけど、いつまでたってもそこまでたどり着けなかった。
夕暮れの少し涼しくなった風をほほに感じて、ぼくは目を開けた。
すぐそばで、薄いカーテンが揺れている。
体には白いシーツ。
ぼくはベッドに寝かされていた。
足の向こうを見ると、先生の使う机とイスがあって、そこが保健室だと分かった。
「……サーバルちゃん」
ぼくの寝ているベッドの端に両手を乗せて、サーバルちゃんが眠っていた。
廊下で気を失ったぼくを、ここまで連れてきてくれたんだろう。
ぴょこぴょこと、足音がした。
「ラッキーさん……」
夏休みを迎えた日。
だれもいない学校は廃墟のように静かだった。
ぼくは保健室のベッドから半身を起こして、ラッキーさんを見つめた。
「あの……セルリアンって……なんなんでしょうか?」
>>>7月23日(月)
「ライオン、いくぞっ!」
「来い、ヘラジカ!」
ふたりの吠え声があたりにとどろく。
空中のヘラジカさんが腕を降り下ろす動きがスローモーションのように見えた。
強烈なスパイク。
火花を散らせてボールが飛びかかる。
「だあっ!」
ライオンさんのレシーブで、ボールが真上に跳ね上がる。
あんまり激しい力のぶつかり合いで、真夏の青空からボールはなかなか落ちてこない。
「わあ、やっぱりあのふたりはすごいねっ!」
サーバルちゃんが、試合を観戦してるぼくのそばまで走ってきた。
やがて落ちてきたボールをアラビアオリックスさんがトスして、今度はライオンさんの攻撃。
湖岸のビーチバレー大会は、序盤で強力な2チームがぶつかり合ったせいで、すごい盛り上がりだった。
「やっぱり、この試合まで見てこうね」
ぼくはそう言いながら、持っていたタブレットを鞄にしまい込む。
サーバルちゃんを見ると、両手で赤いシロップのかかったかき氷を抱えている。
「えへへ、もらって来ちゃった。一緒に食べよ!」
ぼくたちは近くのベンチに腰掛けて、ビーチバレーの試合を遠目に眺めた。
お昼を少し過ぎた頃で日は高く、足元の影は濃かった。
「あとの取材はオオカミ先生に頼んできたよ」
口に入れたかき氷をしゃりしゃりいわせながら、サーバルちゃんが話す。
それなら安心だ。せっかく新聞部主催のイベントなんだから、自分たちで全部取材したかったけど……。
「それにしても、湖リゾートは大成功だね、かばんちゃん!」
「うん、そうだね。お店をやってくれる子がこんなにいてくれたおかげだよ」
「そうそう! あ、このあとアルパカの食堂にも寄ってこうよ。あたし、次はハンバーガーっての食べてみたい!」
「サ、サーバルちゃん、今日ずっと食べてるけど大丈夫?」
「へーきへーき! せっかくの夏休みだもん!」
ぼくがかき氷の器を返すと、サーバルちゃんは残った氷を一気に口に流し込んだ。
きーんと頭にくる冷たさに顔をしかめるサーバルちゃん様子は、マンガやアニメで何度か見たとおりで、ああぼくたちはきっと、うまく夏休みをやれてるんじゃないかと思った。
「……あと、かばんちゃんが持ってきた遊び道具もね。こんなに楽しいものがあるなんてびっくりしたよ!」
「あれほとんどツチノコさんのコレクションなんだけど……でも貸してくれて良かったよね」
地下の研究所から遊覧船に乗せて、ぼくたちはたくさんの道具を運んできた。
そのひとつがビーチバレーの道具一式だったし、ほかにもいろんな道具がみんなを楽しませてくれている。
「あたしやっぱり、浮き輪と浮きボートはすごい発明だと思うんだ」
「あはは、みんな大好きだよね。あ、ほらあそこに先生が浮かんでるよ」
泳げないけど水遊びが好きなフレンズさんはたくさんいて、先生はそのひとりだ。サングラスをかけて、ぷかぷかと浅瀬に揺られている。
その向こうをすごい速さで進んでいくのは、アライさんが全力でオールを漕ぐ浮きボートだ。同乗者のフェネックさんは、その後ろでのんびり水筒の水を飲んでる。
「マッチポイント! ですぅ」
コートから声がして、観客の声がひときわ盛り上がった。
ライオンさんチームが次に点をとれば勝利が決まるようだ。
ヘラジカさんとシロサイさんのタッグが、ライオンさんのサーブを待ち構えている。
「――っ!」
ライオンさんの押し殺した気合の声と共に、強烈なサーブボールが相手コートへ襲いかかる。
それはほんの少しネットをかすったように見えた。
弾道がかすかに揺らぎ……ヘラジカさんの伸ばした手がぎりぎりで触れたものの、そのボールはコートのはるか後ろに飛んでいった。
「21-17! ライオンチームの勝利! ですぅ」
審判の宣言のあと、観客が一斉に歓声をあげる。
ぼくたちも立ち上がって、コート上の両チームに拍手した。
ライオンさんとヘラジカさんが、勝敗に関係なく嬉しそうなのはいつものとおりだ。
「わー、すごかったね!」
サーバルちゃんがそう言ったとき、湖の方から叫び声がした。
「ボートが……!」
砂浜のだれかが声をあげた。
見ると、さっきまでアライさんが漕いでいたボートが引っくり返っている。
「えええっ!?」
浅瀬かなにかにぶつかったか、漕ぐ勢いが強すぎたか……とにかく湖面にふたりの姿はない。
ぼくはきゅっとお腹が冷えるのを感じた。
あわてて、サーバルちゃんと一緒に走り出す……けど、水際でなすすべなく立ち止まる。
泳ぎに自信のある子は少ない。
「た、大変だよ」
「アライさーん!!」
ただごとでない空気に、試合を観てた子たちも集まってくる。
そのとき、近くでかすかな水しぶきの音がした。
「あっ、あれ!」
サーバルちゃんが指差す方向に、ぐんぐんボートの方へ泳いでいく影があった。
「ジャガーさん!?」
見てる間に裏返ったボートまで到達したのは、やっぱり水泳部部長のジャガーさんだ。そこでしばらくまわりを見てから、すっと湖に潜る。
「アライさん……フェネック……」
隣でサーバルちゃんの祈るような声が聞こえる。
集まってきた子たちも、同じ不安ともどかしさを抱えて砂浜に立ち尽くしていた。
「あっ! いた!」
だれかが声をあげる。
ジャガーさんが、フェネックさんを抱え上げて湖上に姿を見せていた。
そしてその隣には、アライさんの頭もみえる。
「あれっ、カワウソだよ」
いつの間に救出劇に加わっていたのか、カワウソさんがアライさんを抱えて岸へ泳いでいた。
みんなが一斉に息を吐き出す。
岸までくると、みんなでアライさん、フェネックさんを砂浜に引き上げた。
ふたりは意外と元気そうだった。
「ふにゃーっ、いまのはさすがのアライさんも、ちょっと危なかったかもなのだ……」
「ありがとねー、ジャガー、カワウソー。やっぱり見ててもらって正解だったよー」
周りからぱらぱらと笑い声があがる。
そしてライフセイバーとして活躍したふたりに拍手が送られた。
「まあまあ、無事で良かったよ。気をつけな」とジャガーさん。カワウソさんは「アライさんは軽かったから良かったねー」と笑っている。
そのあとは、浮き輪に乗りながらようやく浜辺までやってきた先生のお説教が始まったりしたわけだけど、すぐに湖の雰囲気はもとどおりになった。少なくとも表面上は。
「かばんちゃん、じゃそろそろ行こっか」
サーバルちゃんの言葉でぼくも我に返った。
アライさんたちが無事なのは本当に良かった。
だけどあの瞬間、ぼくはまたなにかを思い出しそうな感覚を、そして奇妙な焦りをおぼえていた。
今思い返せばその感覚は、ぼくたちはいつまでもずっと“楽しい学園生活”を送っていられるわけじゃない――という直観だった。
―――――――――
四神は黒い石版で、その模様が赤く脈動している。
「ええっと……どこにつなげれば……」
「どうやらここに端子があるようです」
ぼくの見てる前で、会長がてきぱき装置をつなぐ。
設置塔の最上段は、360度が窓になっているので明るい。
湖の方を眺めると、遠くにビーチバレーをしてるみんなの様子も見えた。そろそろトーナメントも終盤戦のはずだ。
「かばんちゃん、こっちはOKだよ!」
下からサーバルちゃんの声が反響した。
最上段の足場は銀色の金属製で、ぼくが歩くとカンカンとかん高い音をたてた。
「分かった、今つなぐとこだからモニタしててね!」
ぼくは下の操作卓にいるサーバルちゃんと副会長に声をかけた。高さにちょっと目がくらむ。
「かばん、接続できたのです」
振り向くと四神の設置台に、研究所から持ってきた共振器がつながっていた。
会長の操作でそれが光り、作動し始めたのが分かる。
「四神が正常なら、これで機能してくれるはずなのです」
研究室から戻ったぼくたちは、生徒会室にも研究所のシステムと連動するコンピュータやいろんな装置があることを知った。
そして会長たちの計画の真意を。
ジャパリ学園の社会構造化指標について――。
「あっ、画面になにか出たよ!」
「これが……おそらく対セルリアンフィールドの活性化を示しているのです」
下からサーバルちゃんと副会長の声が聞こえる。
ぼくの目の前にある四神には大きな変化はないようだけど、赤い光がさっきより強くまたたいているように見えた。
大きな音や光は感じられないけど、ぼくたちは目に見えないフィールドに守られているはずだった。
「ラッキーさん、これでひとまず問題ないってことですよね」
ぼくたちは全員、下の操作卓の前に集まっていた。
みんなで、壁に埋め込まれた大きなモニタを眺めている。
そこには、なにかの波長を示すグラフが左から右へ流れている。
会長と副会長が興味津々に操作卓上のパネルやキーボードを眺める横で、ぼくとサーバルちゃんはラッキーさんを見つめていた。
「ソウダネ、正常ニ機能シテイルヨ。せるりあんヲ感知シタラ、四神ノふぃーるどガ活性化スルノデ、学園内ヘノ侵入ヲ防止デキルハズダヨ」
「そうですか、よかったです」
「なんだか難しいけど、セルリアンが出ても守ってくれるってことだよね!」
不安がぬぐわれたわけじゃないけど、ぼくはひとまず納得した。
「それじゃ、次は通話を試してみましょう」
ぼくが言うと、会長が手馴れた動きで操作卓に触れる。
みんなの見上げるモニタの表示が切り替わり、「回線を接続中」という文字が現れた。
「あっちでもうまく操作してくれてれば……」
しばらく待ってからぼくがそう言いかけると、モニタがぱっと明るくなった。
「わっ!」
サーバルちゃんが声をあげる。大きな鋭いふたつの目が、モニタからこっちを見ていた。
『あの……こちらハシビロコウです』
目だけがきょろきょろ動く映像の向こうから、戸惑ったような声がした。
「聞こえます、ハシビロコウさん! すみません、もうちょっと下がってもらえますか」
「びっくりしたよー」
「ご、ごめん。……これでいい?」
ハシビロコウさんがズームアウトし、そのうしろの生徒会室の様子が見て取れるようになった。
「ふむ、成功ですね会長」
「ええ、副会長。学校と設置塔との間で映像通話ができたのです。かばんのおかげで社会構造化指標が上昇しているので、かなりの機能を使えるようになっていますね」
会長たちが満足気にうなずき合う。
「すみませんハシビロコウさん、学校に残ってもらって」
「うん、今日は用事があったから大丈夫。それに、これから湖まで飛んでいけるから」
「待ってるよー、ハシビロコウ。あのね、焼きそばもかき氷もとっても美味しいよ!」
サーバルちゃんがモニタに向かって楽しそうに声をかける。
機械を使って遠くと会話ができるという奇妙な現実が、ゆっくりぼくの頭に染みとおっていく。
これはヒトにとって、自然なことだったに違いない。
「会長」
ぼくは操作卓のイスに座った会長に向きなおる。
「セルリアンが本当に現れるかどうか分かりませんが、もしそうなったときは……」
「ええ、かばん。この四神の塔は大事な役割を担うことになるですね」
会長はいつもより力強くうなずいたように見えた。
―――――――――
ログハウスの扉を開けると木の香りがあふれた。
「わあ、すっごーい!」
明かりもつけずに、サーバルちゃんが中へ飛び込んでいく。
「かばん、すいっちハソコダヨ」
ラッキーさんに教えてもらって、ぼくはすぐ明かりをつけた。
夏の陽もようやく沈んだところで、外はみるみる暗くなっていた。
「設置塔から電源を引けてよかったですね」
ぼくとラッキーさんがリビングをゆっくり眺めてるあいだ、サーバルちゃんはログハウスじゅうの電気をつけまわっていた。
ビーバーさんとプレーリーさんの手腕を絶賛する声がやまない。それはぼくも同じ気持ちだ。
「はー、お腹いっぱい。みんなでつくったカレーライス、美味しかったね!」
ひとしきりログハウスの探索を終えたサーバルちゃんが、リビングのソファに体を投げ出した。
「そうだね。ご飯はちょっと焦げちゃったけど」
ぼくも隣に腰掛ける。
さっきまで、湖リゾートの泊まり組のみんなで、一緒に晩ご飯をつくって食べていた。
ログハウスは3棟しかなかったし、ほとんどの子は夕方の遊覧船で学校に戻ったので、湖一帯は急に静かになっていた。
「今日はほんっと、面白かったね!」
サーバルちゃんの顔はいつも以上にキラキラして見えた。
「かばんちゃんはなにが良かった?」
「えー、いろいろあったけど……ビーチバレーの決勝戦が見れたのは良かったよね」
「そうだね! 間に合ってよかったよ」
ぼくたちが塔から浜辺へ戻ったとき、ビーチバレーはちょうど決勝戦の始まるところだった。観客をおおいに沸かせた最後の勝負を制したのは、優勝候補のライオンさんチーム……ではなく、それを破ったヒグマさん・キンシコウさんのタッグだった。
このふたりの動きは、練習を積み重ねたような洗練さがあって、ぼくはライオンさんやヘラジカさんに匹敵する運動能力をもった子がまだ学校にいるってことに驚いた。
「サーバルちゃんは?」
「えーっとね……かき氷と焼きそばと、ハンバーガーにカレーライスに……あとクロヒョウのたこ焼きも美味しかったよね」
「ぜんぶ食べ物なんだね」
実際、湖リゾートではみんなが本当にいろんな食べ物をつくって食べた。食事のほとんどがジャパリまんなぼくたちにとって、それはとても新鮮な体験だった。
「次の新聞は、書くことがいっぱいだね」「うん、オオカミ先生にも手伝ってもらわなきゃ」そうぼくたちが話してると、ラッキーさんが頭にお盆とグラスを載せてキッチンから歩いてきた。
「あっボス、ありがとう!」
カレーライスでいっぱいのお腹を、冷たいオレンジジュースが冷ましてくれる。
そうしてくつろいでるあいだに、外はすっかり真っ暗になっていた。
そうなると、昼間の賑やかさがずっと昔のことのようだった。
「……かばんちゃんはさ」
サーバルちゃんが、氷だけになったグラスをテーブルに置きながら言う。
「……ヒトのフレンズなんだね」
「うん」
開けた窓から涼しい風がリビングに届く。
テーブルの上のグラスの氷が溶けて、小さな音をたてた。
「あたし、ボスの話聞いててね、ヒトって、すごい生き物だなあって思ってたよ」
サーバルちゃんはソファに腰掛けながら、ここ最近のぼくたちの活動を思い出すように話す。
ラッキーさんがそばで、その様子を見上げている。
「それでね、かばんちゃんのこととか、そもそもフレンズって動物がヒト化したものなんだよーって会長に教えてもらったりとかして……そっか、そのヒトってあたしたちなんだって思ったんだ」
「え、みんなが……?」
「そ、あたしたちみんなヒトなんだよね! だからこうして、夏休みに湖で遊んだり、美味しいものをたっくさんつくったり、ログハウスに泊まったりできるんだなーって思うの」
サーバルちゃんはすっとソファから立ち上がり、両腕を上げて笑った。
はじめてジャパリ学園の姿を見せてくれたときのように、この世界をぼくに紹介するかのように。
ぼくはソファからその笑顔を見上げていた。
「うん……そうなんだね」
ぼくは軽くうなづいて、立ち上がった。
「じゃあ湖リゾートの初日成功、おめでとう!」
サーバルちゃんが、上げた両手の平をこっちに向ける。
「おめでとうー!!」
ぼくもその両手にハイタッチする。
そのあとラッキーさんをなでながら、ぼくたちは笑い合った。
そのときぼくはようやく、サーバルちゃんがぼくの世界をつくってたんだって気がついた。
ログハウスの中にだけ、まだリゾートの賑わいが残っているようだった。
―――――――――
「わあ、湖のそばだと星がよく見えるね」
夜の湖岸に立って、ぼくは思わず声に出していた。
昼間の熱気を残した草いきれや虫たちの鳴き声は、寮の周りとそう変わらなかったけど、目の前に広がる真っ黒な湖面や、なによりはじめて学校の外に泊まるってことが、ぼくをどきどきさせていた。
「あっ、だれかいるよ」
一緒に歩いてたサーバルちゃんが、浜辺の先を指差す。
あたりに明かりはなく、月もかなり欠けていたので、それがだれだか近くに行くまで分からなかった。
「やーやー、サーバル、かばんさん。星の綺麗な夜だねー」
聞き覚えのある、飄々とした声。
「フェネックだ! なにしてるの?」
「星を見てるのさー。ほら、かばんさんの道具のなかにこれがあったんだよー」
フェネックさんの前に、三脚で固定された大きな筒があった。それはたしかに星を見る道具だ。
「わ――っ、星がいっぱい光ってるよ!」
フェネックさんに教えられて、さっそくサーバルちゃんが筒についたレンズをのぞき込む。
「……なにかすっごく明るい星が見える」
そう言うサーバルちゃんに続いて、ぼくものぞかせてもらう。レンズの向こうに無数の星がまたたく中で、確かにひときわ青白く輝く星があった。
「それがこと座のベガだねー。織姫のことだよー」
フェネックさんが微笑みながら説明してくれる。
「へーっ、すごいですねフェネックさん!」
「アライさんがいつも突っ走るからさー。星や太陽の位置をおぼえるのが基本になっちゃってねー」
「あれ、そのアライさんはどうしたの?」
「いやー、今日はずっと浮きボートを漕ぐ練習してたからねー。疲れて先に寝ちゃったんだー」
アライさんとフェネックさんは、この夏に学校の周囲をぐるっと冒険する計画らしく、浮きボートはそこで重要な移動手段になるはずだった。
あははと笑いながら、ぼくたちは夜の湖岸で星を眺めていた。
「ねえねえ、フェネックはさ」
サーバルちゃんがふと思いついたように言った。
「アライさんに恋してるの?」
フェネックさんはちょっと頭をかしげて視線をさまよわせる。
「……恋かー。うーん……自分でもわからないなー」
サーバルちゃんは、夏は恋の季節だっていう、あの図書館での話をしてるんだろう。
「アライさんを見てると、ほっとけないなーって思うんだよねー。それが恋なら、そうなのかも知れないね……。まあ、アライさんは見てるだけでも面白いんだけどねー」
「へー、そっかー……」
サーバルちゃんも考え込むように首をひねる。
「まー、わたしにとってはアライさんと一緒にいるのが自然なことだって思えるのさー。アライさんはどう思ってるのか知らないけどねー」
遠くの虫の音だけが静かに聞こえていた。
「……そういやさー、ちょっとあれ見てよー」
フェネックさんが星空の一画を指す。
なんのことかと、ぼくたちの目は無数の光の中をさまよった。
「あれっ!?」
そこに動く星を見つけて、ぼくはどきっとした。
「動いてる……?」
「えー、どこどこー? ……あっあれ!」
ぼくとサーバルちゃんは、ゆっくりと直線的に移動するひとつの星をぽかんと見つめていた。
「星図にない星なんだけどさー、調べたらあれ……人工衛星っていうらしいんだよねー」
一緒に空を見上げたままフェネックさんが話す。
「……ヒトが打ち上げた星なんだってさー」
一定の速度で夜空を横切っていくその星は、感情のない目のようだった。
「わたしはさー、だれかがあそこから見てるような気がするんだよねー」
「ええーっ?」
「あの星の中に、だれかがいるってことですか?」
「うーん……そもそも学校の暮らしがね、だれかに見られてるんじゃないかって時々思うのさー。わたしとアライさんも、サーバルとかばんちゃんも、ほかのみんなもねー。あの人工衛星とか、この前見せてもらった地下の研究所とか、ああいうの見ると、特にそういう気がするんだよー」
フェネックさんの言葉は、ひんやりした夜風に乗って湖岸を漂っていった。
ぼくがふと足元に目をやると、ラッキーさんがいつものように静かにこっちを見つめていた。
>>>8月18日(土)
たくさんの赤い光が、校庭のみんなを優しく照らしている。
校舎のスピーカーから音楽が流れる。
立ち並ぶ屋台から美味しそうなにおいがする。
このごろ日暮れはどんどん早くなっていて、夕暮れの風がけだるげに吹いた。
『……ガガ…………えーっとではでは! そろそろ盆踊りですよ~。みなさん、やぐらの周りに集まってくださいね~』
スピーカーから会場案内の声が響く。
2年生のペンギンのフレンズさんたちが進行役だった。この声はたぶん、ロイヤルペンギンさんだ。
校庭じゅうのフレンズさんが少しずつ集まり始める。
会場の真ん中に建てられたやぐらには赤白の提灯がびっしり付いて、幻想的な姿を浮かばせている。
『やぐらのステージで踊りたい奴も大募集中だっ! 遠慮はいらねえ、一緒に踊ろうぜ!』
校舎へ向かうぼくは、やぐらの方へ向かうみんなとすれ違っていく。
その子たちの手には、綿菓子、うちわ、リンゴ飴。
提灯の明かりのもとで、みんないつもより元気にはしゃいで見えた。
『みんな、水分補給もしっかりね。疲れちゃったなーって子がいたら、本部テントでも休めますよー!』
校舎に入るとお祭りの音が遠くなり、妙に寂しそうに聞こえる。
ぼくは2階にあがり、いつものクラスの教室へ入った。
だれもいない教室。
夕陽はほとんど沈みかけていて、教室の半分が影に包まれている。
『食べ物補給もしたいよね。あたしさっきのフランクフルトもう1本食べたいなぁ』
『……じゃなくてフルル、ほら、落とし物の案内でしょ』
窓を開けると、またお祭りの音が大きくなる。
思ったとおりこの位置なら、やぐらの様子がうまく撮れそうだ。
「あれっ、かばんちゃん!」
後ろから声をかけられてびっくりした。
サーバルちゃんが教室に入ってくる。
「あっ写真だね」
「うん、お祭りの全景も撮っときたいから。サーバルちゃんはどうしたの?」
「えへへ、このあと寸劇やることになってるじゃない? 台本忘れちゃって」
サーバルちゃんは自分の机から出した台本を持って、窓際までやってくる。
「サーバルちゃんのアイデアが形になったね。学校で夏祭り、すごいよ」
「えへっ、マンガで読んだだけなんだけどね。夏祭りで告白ってのをするらしいから」
ぼくたちが窓から見下ろすうち、みんながやぐらの周りでぐるっと輪になった。
どん、どん、どん。
やぐらの前に置かれた太鼓が叩かれる。
盆踊りが始まろうとしていた。
「……8話のPPPライブを思い出すね」
ぼくがつぶやく。
「そうだね! こっちでも結成すればいいのにね」
「マーゲイさんはやりたがってるみたいだよ」
太鼓に合わせて、やぐらの周りをみんながゆっくり回り始める。
両手をひらひらと舞わせる、盆踊り。
みんな練習の成果はばっちりのようだ。
「……かばんちゃん、12話はやっぱり?」
触れにくいものに手を伸ばすように、サーバルちゃんがぼくの隣でささやく。
「うん、見つからないんだ。やっぱりいろんなデータが壊れたり無くなったりしてるみたい」
「そっか……。あそこで終わっちゃうなんてね」
夏休みの始まったあの日。ラッキーさんが廊下で見せてくれた記録映像は、物語として、お話として編集されていた。
この夏休み、ぼくとサーバルちゃんはそれを1話ずつ見せてもらった。
それはぼくたちの、ぼくとサーバルちゃんのお話だった。
草原を走り、川を目指してジャングルを抜け、山や湖を眺めながら旅をするお話。
「サーバルちゃん。あれを見てから、ぼくはジャパリ学園がどうしてつくられたのか分かった気がするんだ」
やぐらの上のステージに、トキさんが立つのが見えた。
左手でマイクを持ち、右手を感情豊かに前へ伸ばしている。
「たぶんだれかが、あの話の続きを見たかったんじゃないかな」
「だれか……って?」
「うーん、それは分かんないんだけど……」
「あ、それもしかして、フェネックが教えてくれたあの動く星とか?」
ぼくたちは思わず、ちらほら星の輝き出した夜空を見上げた。
太鼓のリズムに乗って、校庭からトキさんの歌声が届く。
「そうかも知れない……。それとも……」
そう言いながら隣を見ると、窓に手をおいて夜空に目を凝らすサーバルちゃんの顔がすぐそばにあったので、ぼくはなんとなく言葉をなくした。
人工衛星を探してるのか、サーバルちゃんは真剣そうに空を見上げている。
お祭りの明かりがその顔の半分を赤く照らしていた。
「……サーバルちゃん」
ぼくの口から自然に言葉がこぼれて、サーバルちゃんはこっちを振り向いた。
こんなに顔と顔を近づけたのは、最初に出会ったあのとき以来だ。あれからもう10年経った気がする。
「なに? かばんちゃん」
提灯に暖かく照らされて、サーバルちゃんがいつものように笑っていた。
夏の夜の熱気が、ぼくの胸を熱くしていた。
それとも、お祭りの雰囲気に高揚してたのかも知れない。
「ん」
ほんの一瞬だけ。
ぼくにはプレーリーさんみたいにはできないから。
「……あはっ」
そのあとどのくらい間があったのか分からない。
お互いの顔を離してから、サーバルちゃんはごまかすように視線を落として笑っていた。
「あっそうだ! 会長が今度、また特製ジャパリまんをくれるって!」
サーバルちゃんはそう言いながら、すっかり暗くなった教室を横切って扉へ向かう。
「あはは、よかったねサーバルちゃん!」
「えへへ、湖リゾートも盛り上がったし、夏祭りもできたもんね! ミッション達成だよ。たくさんもらえるといいなっ」
それに、夏の恋もかな……とぼくは思う。
ぼくは盆踊りの写真もそこそこに、サーバルちゃんに続いて教室を出た。
お祭りはこのあともイベントが一杯だ。見てるだけじゃなく、ぼく自身も楽しもう、と思った。
ぼくも、この学校のフレンズのひとりなんだから。
サーバルちゃんといると、ぼくはそう信じられた。
―――――――――
……こうしてジャパリ学園の記録をつけてるのは、なんのためだったかな。
ぼくは今、このテキストを書きながらそのことを考えてる。
あの子たちの、あまりにも優しい世界――。
それを書き記しておきたかった。
みんなが互いに傷つけ合う、もうひとつの世界に向き合うために。
そうじゃない世界があり得ることを、ぼくは証明したかった。
だけど、そこに住みながら、そこが優しい世界だなんて思うことはできない。
だからぼくはやっぱり、外からやってきた転校生だった。
そのことを、このテキストを書きながらぼくは強く感じている。
そしてあの子たちの世界から、こうして都合よく、優しさを抽出できた気になってる。
栄養サプリメントのように消費する物語。
ジャパリ学園をつくった存在の、そこまでしなくちゃいけなかった苦しみを、ぼくは悼む。
そして今、同じように物語を求めてテキストを連ねるぼく自身に、独りよがりな寂しさを感じる。
出発までにやっておくべきことは多いから、ぼくはひとまずここでテキストを締めくくる。
準備がもう少し整ってから、続きを書こうと思う。
ジャパリ学園の終わりについて。
[けものフレンズ学園編] さよなら、ジャパリ学園 灰都とおり @promenade
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