spirit come home...
御手紙 葉
spirit come home...
僕は鞄を肩から提げたまま、全力で住宅街の狭い道を走っていた。左右に立ち並ぶ街灯がぼんやりとした明りをアスファストに放ち、宵闇の中でそこだけぽっかりと丸い円状の空間が広がっていた。
雨が激しく地面を打ち据え、そして僕の体を殴りつけるように大粒の雫を降らせて僕を今すぐにこの地面へと這い蹲らせようとしているかのようだった。
僕は既に全身がずぶ濡れになって、傘も持っておらず、肌は氷に押し当てられたかのように冷たかった。体が左右へと大きく揺れた。塾からの帰り道だったが、両親の迎えもなく、僕はこの土砂降りの中、ただひたすらに家へと目指して走っていた。
早く、家に帰って暖まりたいよ。
僕は心の中でそればかりを繰り返し、そしてさらに走るペースを上げた。そっと塀に沿って、曲がり角を横に折れたところで、ぱっと何か大きな光が僕の目の前で弾けたのだ。
その光は黄金に輝いていて、それは一気に膨れ上がり、その瞬間――。
僕は体がふわりと宙に浮き上がるのを感じた。光の先に見えたのは、大きな車体を突き出したワゴン車だった。ヘッドライトが獣の爛々と輝く瞳みたいに僕を宙で照らし出していた。
僕は痛みも哀しみも、驚愕する気持ちも抱くことなく、そのまま思考が途絶えるのを感じた。
僕の意識は真っ暗な水面の上に浮かんで、ぷかぷかと揺れていた。そうしてその夢も見ない、思考さえも無に溶けた恐ろしい状態が長く続いていき、やがて僕の心は水面からふわりと浮き上がり、光の方向へとゆっくりと上昇していった。
そうしてようやく覚醒していくと、そこで瞼の先に淡い光を感じた。僕は体がどこか固い地面の上に横たえられているのを理解した。
僕はそっと目を開く。すると、目の前にあったのは橙色の光を放つランプで、その取っ手を握っているのは小さな華奢な手だった。僕はそっとその手から腕、そして最後にその人物の顔へと視線を据えた。
その少女は黒いマントをすっぽりと被っており、そして僕へと屈みこんで顔をランプで照らし出していた。僕はその青い瞳を見返して、身を起こそうとした。
すると、彼女はそっと僕の背後へと手を回して、助け起こしてくれた。その手は柔らかく、やはり小さな温もりだけしかなかったが、僕の心をひどく安心させた。
僕は煉瓦敷きの地面の上に座り込んでしまったが、その道は曲がりくねって先まで続いており、周囲をたくさんの家によって取り囲まれていた。
屋根の色も様々で、木造の家もあれば、複雑な形をした石造の家もあった。空はすっぽりと闇が包み込んでおり、この家々の間に立つ街灯だけがぼんやりとした光を放っていた。
そうした黄金の光に溢れた空間を長い事見つめていると、そこで少女が顔を近づけてきて言った。
「こっちに来て」
そっと少女は僕の手を握って、立ち上がった。そして、すぐにゆっくりとした足取りで歩き出した。僕は不安になり、「ここはどこなの?」と聞いてみた。
「ここがどこであるかは私にはわからないの」
そう言って少女は振り向き、困ったように笑ってみせた。その目はラピスラズリのように透き通った青をしており、鼻や口は小さく、それがどこか愛らしかった。フードの隙間からちらちらと金色の髪がのぞき、彼女の肌はぞっとするほどに白かった。
「このたくさんの家は何? どうしてこんなに一杯あるの?」
すると少女はうなずき、青と黄色で壁を塗られた一つの家を指差して言った。
「あそこにある扉はね、色んな世界への入り口になってるのよ。扉を開けると、その人が望んだ通りの世界がその先に待っているの。ある人は草原を望んで、ある人はただの住みやすい家を望むの。すると、どの家の中にもその人の願望通りの部屋が出来上がるのよ」
僕は全く理解することはできず、彼女が歩き出すと、彼女の後に続いて家々の方向へと首を伸ばしていた。
するとそこで家の扉が開き、一人の男が出てきた。そうして僕は、その戸口の先に見えた景色を見て、声を失った。
そこにはたくさんの木々が立ち、小鳥達のさえずりが響いていたのだ。森の中の景色がどこまでも続いており、そして男は扉を閉めると、門扉の側にあったポストから手紙を取り出し、再び家のドアを開いた。
すると、次に戸口から見えたのは、雲の上の景色だった。朝陽が雲の隙間から照り輝き、それを見て、男は歓声を上げながら中に入っていく。
少女は僕の手を引き、「こっちよ」と言った。すると、そこにははるか頭上まで螺旋状の階段が続いており、僕はそっと彼女に促されるままにその階段を上っていった。
彼女の黒いマントが風にそよぎ、僕の鼻先を擦った。僕はそうして何百段かわからないその階段を上っていき、やがて横へと振り向いた時、声を失った。
すると、そこにはたくさんの家が立ち並ぶ丘が見えた。辺りは暗闇に包まれているのに、その家々の周りだけオレンジ色の淡い光が溢れて、僕は思わず立ち尽くしてしまった。
少女はしばらく僕の横に立って、僕と一緒にその景色を見つめていたが、やがて僕の手を引いて、森へと向かって歩き始めた。
たくさんの背の高い木々が揺れ、ざわざわと葉擦れの音を響かせていた。僕はその暗闇へと入って、少女の手をぎゅっと握り、彼女へ身を寄せて進み続けた。
彼女はじっと前を見据えて何も喋らなかったが、しかし時折こちらに振り向いて、にっこりと笑いかけてきた。
僕は「ここは、どこなの?」とぽつりとつぶやいた。すると、少女は首を傾げ、そして言った。
「私にもわからないの。ただ、気付いた時にはこの世界にいたから」
「僕はどうしてこんなところに?」
「わからない。それしか言えないわ」
そう言って少女は目を伏せ、何かを言い出そうとした僕を見て、ただ何度も笑いかけてくるだけだった。
そうしてずっと歩き続けていると、そこで遠くから光が見えてきた。僕はそっと彼女へと振り向き、「何か見えるよ」と言った。
彼女はうなずき、そして僕の手を強く引いて、早足で歩き続けた。
「あそこにあるのはね、願いの街よ」
僕は最初、その広場を目にした時、何かのお祭りをしているのかと思った。中央に噴水があり、その周りにたくさんの石像が立っている。背中に羽の生えた犬の石像だったが、それがとても恐ろしい顔をしていても、楽しそうに踊っている人達はそんな珍獣の存在などすっかり忘れてしまっているようだった。
たくさんの人々が手を握り合って踊り、そしてアコーディオンや笛などが広場に心地良い音楽を響かせていた。とても明るい雰囲気に溢れていたのだ。
僕はしばらくその様子を見つめていたが、自分がどうなってしまったのかわからないその不安がどこか消え失せていった。そして、すぐにでもあの人達の仲間に加わって踊ってみたいと思えてくるのだった。
すると、少女がそっとフードを頭から下ろした。その瞬間現れたのは、とても長い美しい金髪をした少女の姿だった。彼女はにっこりと微笑み、僕の手を取ると、広場へと駆け入った。
少女はくるくると踊り出し、僕もそれに合わせて足を滑らせたが、彼女に何とかついていくことができた。少女はくすくすと笑いながら踊り、僕も徐々に笑顔を浮かべながらそれに続いた。
広場の楽しげな雰囲気に呑まれて、僕は長い事彼女と踊っていた。フルートの透き通るような音が宙を流れて、太鼓の軽快なリズムが僕の足元を跳ね回り、アコーディオンの暢気で心地良い音が僕の口元を緩ませた。
そうしてすっかり踊り疲れると、彼女はベンチへと僕を促し、そこに二人並んで座った。そうして彼女はそっと僕の額をマントの裾で拭ってくれ、僕は目の前の情景を見上げて、その不思議な広場の風景を眺めていた。
そこで、誰かが近づいてくる気配がしてそっと振り向くと、そこには一人の背の高い男が立っていた。着ている洋服はどれも煤だらけで、ところどころ破けており、そして見るからにどこか軽薄そうな雰囲気が彼の周囲には漂っていた。
そして、彼は僕らの前に立つと、少女へと振り向いて、「こいつが新しく入った奴か?」と言った。少女はうなずき、僕の頭を撫でながら言葉を返す。
「とても怖い思いをしてここに来たようなの。まだこの世界のことも理解していないし、とても混乱しているわ」
「へえ、わかったよ。こんなおチビちゃんが新入りとは……まあ、とりあえずゆっくりしていれば慣れてくるだろうよ。俺はあの居酒屋で待ってるから、後で来いよ」
「ミリル」
少女が呼び止めると、そのミリルと呼ばれた男はこちらに振り向いて、なんだ? と言った。
「この子と一緒に、少し色んなところを回ってみるから。少し遅くなるかもしれない。気長に待ってて」
すると、ミリルは「はっ!」と笑い、片手をひらひらさせながら歩いていった。僕は身を縮めてその変な男の背中を見つめながら、少女へと振り向き、言った。
「あの人は?」
「ミリルよ。私がこの世界にやってきた時からの友人で……長い付き合いになるわ」
そこまで語ると、少女はそっとこちらに体を向けて僕の顔をじっと見つめながら言った。
「この世界はね、どんな願いも叶えてくれる楽園なのよ」
「楽園?」
僕がそう震えながら返すと、少女はうなずいて遠くを見つめながら言った。
「その人が何かを願ったら、世界が全てを叶えてくれるの。ここで叶わない夢なんて何もないのよ」
僕は彼女の言葉が何を指し、どんな重要性を持っているのか、全くわからなかったが、ただそれだけをつぶやいた。
「本当に何でも叶うの?」
「ええ、何でも叶うわ。あなたが求めているものは何?」
彼女がそう首を傾げて聞くと、僕はしばらく地面へと視線を向けて考えた。やがて僕はそっと顔を上げて、彼女の手を握って言った。
「僕は本を読みたいんだ」
「本?」
僕はうなずき、ページを捲る真似をして言った。
「僕が今まで読んだことがなかったような、本当に感動できる傑作を読んでみたい。僕はそれだけをただ望むから」
彼女は僕の手を擦り、そして叩いて「もうその願いは叶ったわ」と言った。
「叶った、ってどういうこと?」
「もうその場所がこの世界に現れたの。願うだけで、この世界の中でそれは実現するのよ」
そう言って彼女は立ち上がり、ランプを手に取りながら、僕へと振り向いて言った。
「行きましょう。私がそこまで案内するわ」
僕は広場がある街の中をずっと少女について歩いていき、そして人通りがなくなると、裏通りへと辿り着いた。少女はやがてどこか黒ずんだ石畳の道の上で立ち止まった。
そして、じっと目の前の建物を見つめた。そこはかなり年季がかった建物だったが、看板には何か文字が書かれていたようだけれど、もう跡形もなく消えていた。そして、白い壁面にはひびが目立ち、入り口のドアは開け放たれていた。
どうやらそこは古本屋らしかった。少女はそっと僕の手を引いて中に入り、隅にあった机の側の椅子に座った。僕を手招きして、辺りを見回しながら言った。
「ここにある本を好きなだけ読んでいいのよ」
僕は店の中央で立ち尽くし、周りを取り囲んでいるたくさんの本棚を見つめ、呆然とするしかなかった。木の棚にぎっしりと本が詰め込まれており、色取り取りの表紙が並んでいた。
僕は少女へと再び視線を向け、読んでいいのか、と確認した。少女はにっこりと微笑み、金髪を揺らせながらうなずいてみせた。
僕は叫び声を上げながら本棚へと駆け寄り、そして一冊を抜き出してじっと見つめた。そこには題名も著者名も何も書かれていなかったが、本を開くと確かにそこには文字が綴られていた。
僕はしばらく読み続けたが、その瞬間周囲の景色が消え、物語の世界が目の前に浮かんで、それに身を浸すことができた。ただただその素晴らしい作品を前にして涙が溢れ続けた。
本のページを捲り、ずっとずっと僕は本にかじりついて読み続けていた。やがて最後の一ページを読み終えると、僕はその本を胸に抱き、座り込んでしまった。
涙が溢れてそれは頬を伝い、本の表紙を濡らした。そこで少女が椅子から立ち上がり、こちらへと近づいてきた。そして、僕の肩に手を置いて言った。
「この古書店にはね、世界を訪れたたくさんの人々の想いが詰まっているの。名前もわからない人々がその物語を世界に残したいと思っただけで、本が現れるの」
僕は少女の笑顔を見上げ、本をぎゅっと握り締めながら嗚咽し続けた。
「僕はこんな作品、今まで読んだことなかったよ。これは誰にでも書ける訳じゃない。この本は、間違いなく傑作だよ」
僕が本を見つめて熱に浮かされたような声でつぶやくと、少女はそっと僕の背中に顔を擦り寄せて、言った。
「この世界には何でも欲しい物が揃っているのよ。この世界にいれば、いつまでも満ち足りた気分で毎日を過ごすことができるの。あなたもこれから、この世界で、私と一緒に自分の夢を実現できるわ」
「本当に何でも叶うの?」
そうよ、と少女はうなずき、僕を立ち上がらせて涙を拭ってくれる。僕の手から本を受け取り、棚へと仕舞って手を引き、言った。
「そろそろミリルが待っている頃だから酒場に行きましょう。この世界は、本当に楽しいことで溢れているから、彼がそれを教えてくれるわ」
僕は彼女の後に続いて歩き始めるが、「うん」とつぶやくその声は、どこか弱弱しかった。僕は少女の言葉に、何かが胸にしこりとなって残ったのを感じた。
その違和感が頭にこびり付いて、僕の胸を少しずつ圧迫してくる。少女はスキップするように古書店を出て、石畳に沿って歩き続けた。
僕はただその後ろ姿を見つめて、顔を伏せてしまうのだった。
古書店を出て、石畳の道をずっと歩いていき、やがてあの森に辿り着き、真っ暗な闇の中を少女はランプで照らし出した。そっと僕を案内していく。漆黒の闇が道の先に揺れており、僕は自然と少女の腕をぎゅっと握った。だが、彼女の存在がそこにあるだけで不思議と心は安心していられるのだった。
少女は僕の手を励ますように何度も叩き、そして森の中を右へ進んでいくと、やがて傾斜した地面が現れて、その中央に木の杭でできた階段があった。
僕はその階段を一歩一歩慎重に降りていき、やがてどこからか賑やかな話し声が聞こえてきた。少女は僕の手を強く引いて早足で歩き出し、こっちよ、と促してきた。
道の先にぽっかりと暖かな光が溢れており、そこにコテージのような木造の建物が見えてきた。そこのテラスで何人もの男達が肩を組み合って酒を煽っていた。
少女はその雰囲気に身を浸して興奮するように、急いでコテージの扉を開いた。その瞬間、眩しい光が僕の体を覆い、明るい照明の下でたくさんの男女が酒を飲みながら談笑しているのが見えた。
カウンターの席に並んでいる男女が、その奥で働くマスターと笑いながら言葉を交わす。六つのテーブルにそれぞれ先客がいて、話に没頭しているようだった。
その中に見知った姿があることに気付いて、僕はあっと言葉を漏らした。すると、少女はその背の高い男性へと近づいていき、「待たせたわね」と笑った。
彼はあの軽薄そうな雰囲気を纏ったまま、手をひらひらと振り、「こっちにこいよ」と八重歯を見せて笑った。茶色に染められた頭は寝癖だらけだったが、本人は酔ってしまえば、身なりなどどうでも良くなってしまっているらしかった。
「……ミリル。あなた飲みすぎよ」
彼はキツネのような細い目をさらに糸のようにさせて、机に足を乗せて言った。
「大丈夫だよ。この世界じゃ、酔っ払ったって何にも害はないからな。それよりお前らも飲めよ。おい、マスター、二つジョッキ追加で!」
マスターの威勢の良い声が返ってきて、僕はどこか緊張しながら少女と一緒に丸椅子に座った。すると、ミリルは身を乗り出してじっと僕の顔を見つめてきて、首を傾げてみせる。
「まだこの世界に慣れていないって感じだな。何がそんなに引っかかっているんだ?」
ミリルはそう言って僕の頭に手を乗せ、くしゃくしゃと撫でた。僕は俯き、唇を引き結びながらされるがままになっていたが、なかなか口を開くことができなかった。
すると少女は僕の肩に手を置いて、ただ笑いかけてきた。そうしてつぶやく。
「彼はまだこの世界のシステムに慣れていないだけなのよ。ここには無限の可能性が秘められているから。どんな願望だって叶えることができるし、私達の宝物が詰まった場所なのよ」
僕は少女へとちらりと視線を向け、俯きながら言った。
「でも、僕はここに来る前、すごく怖い想いをしたんだ。本当なら、もう死んでいるはずなのに、ここでまだ生きているんだよ」
少女は僕の耳にかかった髪を掬って撫で付けながら、どこか優しげな瞳をして言った。
「一度死んだ人間がここに来てね、もう一度人生をやり直すことができるの」
そこでミリルがうなずき、先ほどの軽薄そうな顔を真剣なものへと変えて言った。
「ある魔術師が言っていたよ。この世界は、外から見るとただ丸い形をしているんだってよ。それで、死んで現世から離れた魂が球の中に迷い込み、そこから出ずに留まるようになっているんだ」
少女は僕の手をそっと握り、安心させるように胸に抱いてこう繰り返した。
「私達は皆死んでいるの。でも、この世界にいる限り、安心して生きていけるのよ。だから、ずっと一緒にいましょう。私があなたの側についていてあげるから」
そうしてミリルもうなずき、二人が慈しみの篭もった視線でこちらを見つめてきた。だが、僕はただ視線を膝元に落としたまま言った。
「僕らには、還るべき場所がある」
僕のその言葉が酒場に響いた途端、二人は肩を震わせて目を見開き、恐ろしいものを見るような目つきで僕を見た。
「僕にはちゃんと還るべき場所があるんだよ。そこに行かずに、ずっと留まっているのはおかしいよ」
僕がそう言って二人へと顔を向けると、その瞬間、ミリルの視線が獣のように鋭くなって、彼は丸椅子を蹴って立ち上がった。
「てめえッ、何を言いだすのかと思えば!」
「僕は本当の願いっていうものは、今この世界にあるものとは違うと思う」
ミリルの腕が僕の胸倉へと伸びてくるが、少女はそれを手で遮った。そして、少女は僕へと顔を向け、「本当にあなたはそう思うの?」と言った。
「……よく聞け、小僧」
そこでミリルが唸るように言葉を吐き出し、僕の顔へと指先を突きつけてきた。
「聞いて驚け、ここにいるこいつはな、生きている間に、一体どれだけの時間を生きていられたと思う? なんと、たったの三秒だ。こいつはな、この世界にやってきて、初めて『生きる』ということを知ったんだよ。それを、お前の願いで粉々に打ち砕かれてたまるか!」
少女はパン、とテーブルに手を叩きつけて、そして立ち上がった。ミリルが言葉を切り、そして動揺した顔で少女を見た。
「いいのよ、ミリル。これが彼の願いなの」
「でも……お前は」
少女は僕へと屈み込み、視線を合わせながら優しく諭すように言った。
「私達には、還るべき場所がちゃんと存在している。そこに行くのが道理だと、あなたはそう言いたいのよね?」
ミリルが口を開こうとするのを少女は手を出して押し留め、そして僕の頭を再び撫でて言った。
「本当にこの世界ではとても楽しいことばかりが起こるわ。でも、私達のこの世界を考え直さないといけないのかもしれない。私は彼の答えを大切にしたいと思っているわ。今はただ乾杯しましょう」
ミリルは歯を噛み締めて俯いたが、やがて舌打ちをついて、ジョッキを手にして持ち上げた。
「いいだろう、乾杯だ。この小さな抵抗者に」
「……私達はいつだって笑って踊り、楽しく生きていいくのよ」
少女もジョッキを上げた。僕はずっと俯いて涙を堪えていたが、「だって、僕……どうしてもそう思うんだよ」と零す。すると、少女が背中を叩いて促してきて、そっとジョッキを手に取った。
「絶対に信じたい想いがあるから、それでも、僕は……」
「大丈夫よ、私達はずっと一緒だから。さあ、乾杯しましょう」
僕はうなずき、頭上へ掲げられた二つのジョッキに自分のジョッキを打ちつけた。そして、同時に僕たちはつぶやいた。
「乾杯」
そうして僕の願いが叶えられ、この世界は終わりとなった。
*
光の玉が無数に溢れ出し、一斉に舞い上がっていく。その魂はようやく檻から解放されたことを喜ぶように、激しく上下しながら群れとなって、空へと舞い上がっていく。
その無限の光が列を成して宵闇へと消えていくと、黄金の天の川となって空を流れていった。僕もその中に入り込み、傍らで揺れ動くその光に寄り添いながら立ち昇っていく。
一斉にすべての魂が、還るべき場所へと還っていくのだ。
spirit come home... 御手紙 葉 @otegamiyo
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