有名

石川つぶ

有名

 深い森を引き裂くように流れる大きな河のほとりに、ムンネという女と、ンゴロという男が住んでいる村がありました。


 村といっても、家や畑があるわけではありません。

 森のけものから逃れるように木に登り、太い枝の間にねぐらを作って暮らしていた時代です。


 村には、五十人の男と七十人の女、そして三十人の子供たちがおりました。

 それぞれの家族は気に入った樹木の上で寝屋をつくり、雨露をしのいでいます。


 ムンネとンゴロは同い年で幼馴染みでした。背丈もずいぶん伸びた頃、いつしか二人だけで過ごす時間が多くなり、今では一緒に木の上で暮らしています。


 一番大柄のイゲラという男が村の王とされてきましたが、森のけものとの格闘で傷を負い、それ以来、木の上で寝ていることが多くなりました。


 「イゲラ、いなくなる」

 森の遠くを見つめながら、ンゴロが言いました。

 「言った」といっても、まだこの時代に言葉はありませんから、身体をゆすぶって吠えるだけです。


 でもムンネには、すっかりその意味がわかりました。

 言葉がなくても、一緒にいるだけで言いたいことがわかるのです。


 「イゲラはどこへいくの」

 ムンネは、こわごわとたずねました。

 「遠くて暗いところへ行く」

 と、ンゴロは森を見つめたまま言いました。

 「おれの父、母、兄が行ってしまったところへ、イゲラも行く」

 ンゴロは、低い声でつぶやきました。

 「わたしたちも行くの」

 「みんな行く」

 ンゴロは、森を見つめていた瞳をムンネのほうに、さっと向けました。

 強く射るような光を放つ黒い瞳の中に、思わずムンネは吸い込まれていきそうになりました。


 「こわい」

 ムンネは、ンゴロの太い腕に抱きつきました。

 ンゴロのもう片方の腕がムンネの背中をがっしりと抱き締め、身体全体がンゴロの中にしっかり包まれました。


 「おれは何もしないまま、そこに行きたくない」

 ンゴロは、指先でムンネの柔らかい頬を撫でながら、ゆっくりと言いました。

 「おれは強くなって、誰もが知る男になる」

 と言うと、ンゴロは立ち上がり、頭の上に生えていた大きな枝を両手でゆっさゆっさと激しくゆさぶりました。

 「河のまわりに住むすべての人間、そして森のけものまでもが皆、おれを知るようになる!」と叫びました。

 ンゴロの咆哮のこだまが森のあちこちにぶつかり、数羽の鳥が驚いたように飛び立ちました。


 ムンネにはンゴロのしたいことがよくわかりませんでした。

 「自分のことがみんなに知られるようになるのが、そんなにいいことなんだろうか?」

 ムンネはその理由を一生懸命考えてみましたが、いくら考えてもやっぱりよくわかりませんでした。

 しかし、ムンネはンゴロのことが大好きだったので、ンゴロがやりたいことをどうにか助けてあげたいと思いました。


 ある日の朝、ついにイゲラが動かなくなりました。

 村の男たちは、動かなくなったイゲラの身体をかついで、河のほとりへ行き、静かにイゲラを水の流れの中に送り出しました。

 イゲラの身体は激しい水しぶきを立てながら、たちまち見えなくなりました。

 イゲラは遠くへ行ってしまったのです。


 次の日から、ンゴロをはじめとした男たちの闘いが始まりました。

 王を決める闘いです。

 闘いといっても、殴り合いだけでは決着はつきません。

 皆が信じて付いていけるような頼もしさが必要なのです。


 男たちは森の中から木の実を両手いっぱい獲ってきて女たちに分け与えました。この時代の主食は木の実でしたので、たくさんの木の実を獲ってこられる男は、たいへん尊敬されるのです。


 闘いの噂を聞きつけて、谷を越えた村からも見物人がやってきたりしました。

 そんな様子を見てムンネは、有名になるというのはこういうことかと思いました。

 しかし、そんな光景を見ても、やっぱりあまり羨ましくはありません。

 ムンネは、誰にも知られなくてもよいから、ンゴロとずっと楽しく暮らしていきたいだけなのでした。


 闘いは来る日も来る日も続けられました。なかなか決着がつきません。

 夕闇とともに、ンゴロが帰ってくる姿を見ると、ムンネは心底ほっとしました。今日もどうにかンゴロと一緒に寝られるのだと。


 ンゴロは闘いの中心にいました。大柄で腕力があるだけでなく、木の実を獲る術に長けていて、誰よりも多くの木の実を獲ってくるのでした。


 しかしライバルがいなかったわけではありません。

 ンゴロよりも若い男のグループの中に、ツェッコという者がおりました。

 ツェッコは身体こそそれほど大きくはありませんでしたが、体型がしなやかで、他の誰よりも足が長かったのです。


 ンゴロたちは走る時、ゴリラのように手を地面についてしまうこともしばしばでしたが、ツェッコは足だけで軽やかに走ることができました。

 地面に手をつかないので、その分、速く走ることができるのです。


 この時代、少しづつ気温が低下し、果てしなく大地を覆っていた森がだんだんと小さくなっていました。

 かつて森であった場所は、短い草が生えるだけの草原に変わっていったのです。

 

 草原では身を隠す場所がほとんどありません。獰猛なピューマなどに運悪く見つかったら、まず助からないでしょう。

 ですので、村の者たちは新しく出現した草原には近づかないようにしていましたが、ただひとり、脚力に自信のあるツェッコだけはしばしば草原に足を踏み入れていました。


 ある日のことです。

 草原から帰ってきたツェッコを見て、村の人々は皆驚きました。

 ツェッコは、巨大な黄緑色の紡錘形をした固まりを両手いっぱい抱えていたのです。

 

 「それはなんだ」と村人は口々に叫びました。

 「木の実だ!」

 と、ツェッコは、どさりと実を投げ出しながら言いました。

 「こんな木の実は見たことがないぞ、どこで見つけた?」

 村人が問うと、ツェッコは、草原の方向を指さして言いました。

 「草原に大きな木あった。その実だ」


 ツェッコが言うには、草原にはいつの間にか巨大な樹木が生えていたのだと。

 枝が幹の上部にしかなく、一瞬、根っこがさかさまに生えた木に見えました。

 その異様な姿を見て、ツェッコは思わず「バオ!」と驚きの叫びを上げました。叫びに特別な意味はありませんでしたが、不意に口から出たその言葉を、ツェッコはその木の名前としました。


 バオの幹は人間が二十人以上手をつないで輪になったくらい太いものでした。樹皮はつるつるしていて、たやすくは登れません。

 しかし、ツェッコは持ち前の敏捷さを生かして、木の上まで登っていきました。

 そこには根っこのかたちをした枝が生い繁り、枝からは巨大な実がいくつも垂れ下がっていたのです。


 バオの実の中身は白く、食べると甘酸っぱい味がしました。

 「なんてうまいんだ!」

 村人は初めて食べるその味に、口々に感嘆の叫びをあげました。

 ふだん食べているドングリの実にありがちな苦さや渋さは全くありません。

 食感も柔らかで、口の中でとろけていく感じがします。

 

 「なんだか力が湧いてくる気がするぞ!」

 病に伏せっていた者に食べさせると、みるみるうちに目に力が宿ってきました。

 身体を元気にしてくれる成分もあるようです。


 喜びに沸く村人たちを見て、ツェッコは満足そうでした。

 バオの実を獲ってこれるのは、草原を速く走れるツェッコだけです。

 村の王としてツェッコがふさわしいと言い出す者も現れました。

 バオの実を見つけたツェッコのことは、周囲の村にも伝わり、ツェッコは一躍有名人となったのです。


 その日以来、ンゴロは無口になりました。

 ムンネが気遣って話しかけても、どこか上の空です。

 ツェッコのことが気になって仕方ないのでしょう。

 ムンネに背を向け、黙って木の実を黒い石で割っているンゴロ。

 慰めるように、ムンネはその背中をもたれかかりました。

 

 ンゴロはムンネのぬくもりを感じると、木の実を割るのをやめ、黒い石を見せながらこう言いました。

 「これはおれの爺さんからもらった黒石だ。固い木の実をうまく割ることができる。手になじんで割りやすい。爺さんからは割り方のコツも教わった。爺さんはなんでも教えてくれた」

 ムンネはンゴロの背中をやさしくさすりながら、黙って聞いていました。

 ンゴロは振り返って、ムンネの指先を握って言いました。

 「爺さんは、ある不思議な赤い木の実があることも教えてくれたんだ」

 「不思議な赤い木の実?」

 「ああ。その赤い実を食べると、その後に食べたものがなんでも甘くなるって言うんだ」

 「なんでも甘くなる?」

 「苦い実も草もなんでも甘くなる」

 この時代、甘い食べ物はほとんどありませんでした。苦くて固い実が全部甘く感じられたら、どんなにすばらしいことでしょう。


 「不思議の実を見つければ、ツェッコより有名になれるんだがな」

 と、ンゴロはさびしそうにつぶやきました。

 そんな実はきっと見つからない、と決めてかかっているようでした。


 次の日、ムンネは朝早く起き出し、貯めておいた少しばかりの木の実をけものの皮で包んで身につけると、ひとりで森に向かって歩き出しました。

 ひとりで森を歩くのは危険です。森には獰猛なゴリラや狼たちがひそんでいます。

 しかし夕べ、ンゴロから聞いた不思議の木の実のことが頭から離れません。

 なんとかその実のありかを見つけてきて、ンゴロに教えたい。

 ンゴロの喜ぶ顔が、ムンネの一番のごちそうなのでした。


 森の奥の遙か先には大きな山がそびえ、てっぺんからは時折噴煙が上がっていました。この山が怒ると、赤い火の川が流れ出し、森も村もすべてを焼き尽くすのだと、ムンネは父親から聞いたことがあります。

 そんな恐ろしい山なので、村の者は誰も近づいたりしないのです。

 しかしムンネは、意を決して、山の近くまで行くことに決めました。

 誰も行ったことがない場所にこそ、不思議の木の実があるはずだと。


 気がつくと、森はすっかり暗くなっていました。

 ムンネは大きな木の上にするすると登り、枝の間で身体を横たえました。

 ンゴロがきっと心配しているだろう、とムンネは思いました。

 でもこのまま帰るわけにはいきません。

 なんとしても不思議の木の実を見つけて、ンゴロに喜んでもらわなければ。


 あくる日もあくる日もムンネは森の中をさまよいました。

 煙を噴く山肌もだんだん近くに見えてきました。

 どこかで狼の遠吠えも聞こえます。狼に見つかると厄介です。

 ムンネは、かすかに川のせせらぎの音を聞きつけました。

 近くに川が流れているようです。

 川べりのほうが、狼から逃げるのに好都合です。

 いざとなれば、川にざぶんと飛び込んで、流れに乗って逃げることができます。

 

 川は山の噴火によって流れがつくられたのでしょうか。

 柔らかい泥のような土が川原に広がっていて、歩きにくそうです。

 森の中から川べを窺っていたムンネの目に、突然ある色が飛び込んできました。

 川にせり出している木々のうちのひとつに赤いものを付けた枝があったのです。

 「赤い木の実!」

 ムンネの直感がざわつきました。

 急いでムンネは、その木に走り寄りました。背丈は高いですが、幹は細く、注意深く登らないと危険です。


 意を決して、ムンネは木に登りはじめました。赤い木の実を付けた枝は、川の流れの上まで長く突き出しています。そうっとそうっとゆっくりとムンネは枝を進み、慎重に赤い木の実に近づきました。

 深い赤に染まった木の実は少し細長く、ドングリくらいの大きさです。

 下を見ると、川がごうごうと音をたてて流れています。

 枝が折れないように、静かに腕を伸ばして、赤い実のひとつを摘み取りました。

 恐る恐るその一粒を口に含んでみました。

 果皮は柔らかでしたが、特に味はしません。この実自体が甘いわけではないようです。

 ムンネは腰につけたけものの皮の中から木の実を取り出し、食べてみました。

 「!」

 なんということでしょう。ムンネは一瞬、口の中の舌が溶けたのではないかと錯覚しました。苦いはずの木の実が、とろけるような甘さを舌の上で爆発させています。

 ムンネは気が遠くなるような眩暈を感じました。

 「こんな甘さ、はじめて」

 ムンネは次から次へ、持ってきた木の実を口にほおばり、官能的な甘さに酔いしれました。

 これこそ、ンゴロが言っていた「不思議の赤い木の実」に間違いありません。

 これを持って帰れば、ンゴロは喜んでくれる。

 

 その時、突然低い地鳴りが聞こえたかと思うと、山がうなり、激しい地響きが巻き起こりました。

 とっさのことで、ムンネは枝にしがみつくことが出来ず、そのまま地面に落下しました。落ちたところは川べりの泥の中です。なんとか身体を起こそうとしますが、地響きとともに泥がうねり、身体を動かすことができません。

 「ンゴロ、助けて」

 顔のあたりまで泥に沈みながら、ムンネは叫びました。

 しかし、上流から大量の土砂が迫ってくるのが見えました。

 それを見ると、ムンネは少し静かな気持ちになりました。

 「ンゴロと出会えて、いろいろ楽しかったな」

 「もっと一緒にいたかったな」

 ンゴロの太くて暖かい腕の重み、やさしい黒い顔、大きくて広い背中など、ンゴロのいろいろな部分を思い出しながら、ムンネは目を閉じました。

 「さよなら、ンゴロ。あなたの言っていた不思議の木の実は本当にあったよ。とても口の中が甘いよ。これをどうにか見つけて有名になってね。あたしは有名にはならなかったけど、ンゴロと一緒にいられて幸せだったよ。またいつか会えるといいね」

 ムンネの身体はやがて泥の中に沈み、見えなくなりました。




「はい、みなさん、こちらがおよそ318万年前にアフリカで暮らしていた猿人アウストラロピテクス、私たちの祖先の化石人骨です。名前はルーシーと言います。女性です。全体の40%もの骨が見つかったというのは奇跡としか言いようがありません。火山灰の柔らかい泥の中に埋もれていたため残ったのだと考えられています。見つかった一帯は今では世界遺産に登録され、地元ではアイドルのように愛され、切手にもなりました。まさに世界で最も有名な猿人の女性ですね。そしてこちらがルーシーの復元模型です。小柄でかわいい顔をしていますね」


 博物館のガイドの説明に耳を傾けていた小さな女の子が思わず叫んだ。

「ルーシーはどうして、驚いたような顔をしてこちらを指さしているの?」

 ガイドは答えた。

「ああ、これはきっと、いきなり現代に来てしまってとても驚いている。こんなはずじゃなかったのに、と言っているのでしょうね」


 女の子は、頭にケーキのかたちをした髪飾りを付けていた。

「ルーシー、私のケーキの髪飾りを指さしてるみたい。これがほしいの?」

 ガイドは笑って、こう答えた。

「ルーシーも女の子だから、きっと甘いものが好きだったのかもしれないわね」


 女の子は手を繋いでくれている母親を見て、言った。

「ママ、私、甘いものが食べたくなっちゃった!なにか食べに行こう」

 ガイドと母親が思わず笑いあった。

 女の子は、ルーシーもなんだか笑い出しそうな気がして、ずっとルーシーの顔を見つめていた。

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有名 石川つぶ @tontofu

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