そして二人は

 僕は毎日、彼女のために信号を青に変えた。

 本当は、押しボタン信号である自分がそんなことをしてはいけない。信号に止まってくれる車の運転手も、不思議そうな顔をしている。

 それでも、そんなこと関係ない。彼女が遅刻しないように、ということもあるが、僕が彼女に唯一関われるのがこれだけなのだ。


 出勤前の彼女には、

(今日も一日頑張って)

 という応援とともに。

 そして、帰宅中の彼女には、

(今日も一日お疲れ様)

 と、ねぎらいを込めて。


 時々、僕に視線を向けて、彼女が微笑んでくれるように思えたのは、僕の願望が見せる幻覚だろうか。なんにせよ、僕は彼女の笑顔が見られるだけで幸せだった。 彼女と関われるだけで、僕は幸せで、満たされていた。


 そうした日々が続いていたある日。

 仕事が休みなのか、彼女はふわふわの清楚なシフォンスカートを着ていた。そしてその手には花束を持っている。

 不思議に思いながらも、僕はいつものように彼女のために信号を青に変えた。

 いつものように僕の横を通り過ぎるのかと思ったが、彼女は僕に近づいて来た。


「ともくん」


 鈴のようにかわいい声で、彼女に話しかけられた。

 その瞬間に、僕は自分が“ともくん”であることを思い出した。


 思わず気持ちが先走って、まだ指輪も用意していない段階で結婚しようと言ってしまった。だから、婚約指輪ができて、ちゃんとした場所でプロポーズをやり直したくて、“ともくん”だった自分は高級レストランを予約した。彼女の喜ぶ顔を想像して、一人でにやにやしながらこの場所で待っていた。初めて彼女に出会ったこの特別な場所で。

 しかし、人生何があるか分からない。

 いきなり猛スピードで車が突っ込んできたと思ったら、僕の意識はすぐに真っ暗になっていた。何もかも真っ黒になって、それでもただ強く彼女のことを想った。僕に会うためにこの場所に来ているだろう、彼女のことを。

 意識がぼんやりして、気が付いた時には自分は押しボタン信号だった。何故、自分が押しボタン信号になったのか、何のためにここに在るのか、まったく何も分からなくなっていた。

 そして当然、“ともくん”であることもきれいに消え去っていた。

 それでも、誰かを待っていたことだけは覚えていた。

 彼女にどうしようもなく惹かれたのも、どこかに“ともくん”の心が残っていたからだろう。


「もう、ともくんがいなくなって一年も経っちゃった……私ね、あの事故の後、何度も何度も死のうって考えた」

 彼女の独白を、僕は聞くことしかできない。

 泣きそうな彼女を抱きしめるための腕も、大丈夫だと安心させるキスをする唇も、僕にはもう何もない。

 もし今、僕が人として在ったなら、涙を流していただろう。

 彼女の苦しみや悲しみが、僕にはよく分かる。僕も、彼女を一人残して死にたくなかった。

 二人で幸せになりたかった。

「でもね、ともくんと同じ場所で死のうって思ってた私を、この押しボタン信号が助けてくれたの。きっと、ともくんなんだよね」

 彼女に初めて出会った時から、この道を通る時はいつも僕が押しボタンを押していた。

 そもそも、彼女は入学式の日、ここに押しボタン信号があることすら知らなかった。


「ともくんが押してくれたんだって思ったらもう、死ねなくなっちゃった。ともくんが、前に進めって背中を押してくれたような気がして……。私、ともくんに助けられてばっかりだね。でも、気付いたの。私が心配ばっかりかけてたら、ともくんが前に進めないって」

 そう言って、彼女は顔を上げた。目には涙が浮かんでいたが、その表情は柔らかく、落ち着いたものだった。

「だからね、もういいんだよ」

 にっこりと笑って、彼女が言った。

「もう、私のためにボタンを押さなくてもいい。私はともくんのおかげで前に進めたよ」

 ずっと、彼女のために押しボタンを押してきた。

 死んで、押しボタン信号になっても、彼女のために押し続けた。自分が何故彼女に惹かれていたのかも思い出せなかったのに、ただずっと彼女のことだけを想っていた。

 でももう、彼女は僕が押さなくても、一人でこの道を渡ることができる。この先の未来を、渡っていくことができる。

「私、ちゃんと頑張るから。ともくんも、私のことばかりじゃなくて、新しい未来をみて」

 ずっと、自分が彼女を心配しているのだと思っていた。しかし、心配されていたのは僕の方だった。死んでなお彼女を見守り続ける僕を、彼女は心配している。

 まさか、自分の婚約者が押しボタン信号になるなどとは思っていないだろうが、彼女は僕に気付いてくれた。

 僕がこんな姿になっても彼女を見つけられたように、彼女もまた僕を見つけてくれたのだ。


《陽菜、ありがとう》

 僕は、押しボタン信号として、初めて音声を出した。彼女の驚いた顔を見て、内心僕はくすりと笑う。彼女が強がっていることは丸わかりだった。それでも、僕がずっとここに居ては、彼女は僕のことを忘れられないだろう。もう死んだ男のことを、ずっと引きずらせる訳にはいかない。

 だから、僕は死の瞬間よりも苦しい気持ちで、別れの言葉を告げる。

「陽菜、さよなら……ずっと、大好きだよ。どうか幸せになって」

 彼女を幸せにするのは僕だと思っていた。僕だけが、彼女を幸せにできるのだと。それでも、もう僕には彼女の幸せを側で見守ることはできない。

 だから、ただただ願う。彼女がこれから先、幸せでありますように。笑っていますように。どうか、どうか……。

 いつもは出さない視覚障害者用のメロディを慣らし、僕は信号を青に変えた。

 この横断歩道を渡るのは、彼女ではない。

 押しボタン信号に同化してしまった僕――“ともくん”の魂だ。

「ともくん、さようなら」

 愛する彼女に見送られて、僕の意識は真っ白な空に吸い込まれていった。



 その日から、時々勝手に信号が青に変わる不思議な押しボタン信号は、普通の押しボタン信号に戻った。

 そのことを最も寂しがっているのは、その場所で愛する人を亡くした陽菜だ。

 しかし、もう彼に心配させないと決めた。

 今日も、陽菜は押しボタン信号を押す。

 愛する彼がどこかで笑っていることを願いながら……。




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押しボタン信号の恋 奏 舞音 @kanade_maine

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