彼女は


 ――初めて彼に会った時、ああこの人だって思ったの。


 高校の友達はみんな県外に行ってしまい、一人で臨む大学の入学式。

 張り切ってスーツを着てはみたものの、なんだか似合っていない。スーツに着られている、と言った方がいい。

 大学までは、実家から歩いて十五分くらい。私は緊張して唇を引き結んだまま、むすっとした表情で歩いていた。

 人口三千万の地方都市だから、道路が敷かれているだけの、交通量の少ない道が多くある。比較的車の通りが少ない道を選んでいたのだが、大学近くの通りに出て私は内心焦る。今日が入学式だからか、車がかなり通っていたのだ。

 どうしよう、そんなことを思っていた時だった。上から声が降って来たのは。

「ねぇ君、せっかくここに押しボタン信号があるのに使わないの?」

 くすり、と笑いながら声をかけてきたのは、同じくスーツ姿の青年だ。しかし、彼は私とは違ってスーツを着こなしていた。新入生ではなさそうだ。まじまじと彼を見ていると、爽やかな笑顔を返された。

「さ、入学式に遅刻しちゃうぞ」

 あまりに自然な仕草で手を取られ、私は数歩離れた位置にあった横断歩道を彼と渡る。

 私の手ってこんなにも小さかったっけ。彼の大きな手にすっぽり覆われている右手を見て、ふとそんなことを思う。

 あんなに流れの速かった車が、私と彼のために止まっている。それは当然だ。押しボタン信号を押したのだから。

 何故、この道路に押しボタン信号があることを忘れていたのだろう。私は恥ずかしくなりながら、自分の手を握る彼を見つめた。

 私と彼だけの道ができたみたいで、わくわくした。なんだか、世界まで違ってみえてきそうだ。そんな大げさなことを考えていると、彼が爽やかな笑顔を向けてきた。


「あ、そうだ。名前は?」

「……西園にしぞの陽菜ひな、です」

「陽菜ちゃんか。見た目だけじゃなくて、名前もかわいいんだね。僕は新藤しんどう智也ともや。よろしく」

 この人、絶対モテる人だ。私はそう直感した。異性にかわいい、と言われることなど滅多になかった私は、ただただ口をぱくぱくさせることしかできなかった。

 いつの間にか、彼に手を引かれるままに大学に着いていた。

「また会おうね、陽菜ちゃん」

 私を入学式の会場まで送って、彼はにっと笑って去って行った。

入学式後、彼は在学生代表として、新入生相手にいろいろと話をしてくれた。

 社会学部三年、新藤智也。

 彼のことを、私はすぐに脳内に刻み込んだ。


 それから、私は学内で彼を探すようになっていた。彼はいつも誰かに囲まれて、楽しそうだった。

 私も新しい友達ができて、授業も楽しくて、徐々に大学生活に慣れてきたが、いつも心には彼の笑顔が浮かんでいた。話しかけたくて見つめていても、実際に話しかける勇気はなくて、彼と目が合いそうになるといつも避けてしまっていた。

 だって、彼にとって私のことは大勢いるうちの一人だ。


 そんな悲観的なことを思っていたら、ある事件がおきた。

 十月の、大学祭。青春っぽい馬鹿なことをしたがる学祭実行委員会が考えた、公開告白企画。そんなもの、誰が参加するんだ、と思っていたら、学祭の掲示板で彼の名を見つけた。自分とは無関係なことのはずなのに、心臓がばくばくとうるさく喚いた。

 彼の好きな人は誰なのだろう。いつも、美人な先輩と一緒にいるから、その内の誰かだろうか。わめいていた心臓は、急速に縮こまり、苦しくなった。

 大学祭当日。

 私はひやかしに集まる大勢の学生に混じって、公開告白の会場に来ていた。どうでもいい暴露話から、愛の告白まで、公開告白企画はかなり盛り上がっていた。

 そして、最後のトリを飾るのが彼だった。

「実は、僕にはずっと気になっている女の子がいます!」

 彼がマイクを持って、大きな声で叫ぶ。私はその様子をステージから離れた後方で友達と見ていた。この後に続く彼の告白を聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちがせめぎ合う。みんなが楽しんでいるこの企画を、眉間にしわを寄せて今にも泣き出しそうな顔で見ているのは私くらいだろう。

「「だ~れ~?」」

 観客はおもしろがって声を上げる。私は、思わず耳を塞いで、この場から逃げ出したくなった。やっぱり、彼の好きな人なんて聞きたくない。彼が誰かとカップルになって、幸せそうにみんなから祝福される姿なんて見たくない。私が勢いよくステージに背を向けて、その場から離れようとした時、彼の言葉が聞こえてしまった。


「文学部一年の、陽菜ちゃんでーすっ!」


 え~、誰その子? と観客がざわつく。

 私はといえば、空耳ではないかとぼうっとしていた。あり得ない。彼の口から私の名が出てくるはずがない。だって、あれからまともに話をしていないのだ。たまに目が合って笑いかけられていると感じることはあったが、勘違いだろうと思って逃げていた。

「入学式の時から、一目惚れだったんだ。でも、近づこうとしても逃げちゃうし、いっそのこと先に気持ちを伝えちゃおうと思ってこの企画に参加しました!」

 彼の言葉に、私は完全に固まっていた。

 彼が、私に一目惚れ? 一目惚れをしたのは私の方だ。どういうことなのだろう。なんだか今起きていることが信じられなくて、私の頭はパニックに陥る。

「陽菜ちゃん! 僕と付き合ってください!」

 観客に向かって頭を下げた彼を見て、この場に陽菜がいることは皆に分かった。しかし、それが誰なのかは分からない。陽菜の友人以外は。

「ちょっと陽菜! いつの間に新藤先輩と……ってか、早く返事しなさいよ!」

 一緒に大学祭を回っていた友人が、逃げ出そうとステージに背を向けていた私の背中をにやにやしながら押してくる。そのせいで、私を知らなかった人たちまで、告白の相手が私であることが分かってしまった。

 そして、何故かぐいぐいと皆に背中をおされ、私はいつの間にか檀上に上がっていた。

「……えと、あの」

 大勢の人の前に出る機会など滅多にない。私は緊張してうまく話せず、舞台の床ばかり見つめていた。

「急にごめんね。びっくりしたよね」

 優しい声で、彼が私に謝った。しかし、その晴れやかな表情を見るに後悔はしていないらしい。

「ちゃんとお互いのことを知らないのに好きだなんて、おかしいって思われるかもしれないけど、陽菜ちゃんのことが忘れられなくて……」

 そこで言葉を区切って、彼はにっこりと笑った。初めて出会った時と同じ、爽やかな笑顔。

「陽菜ちゃん、よかったら僕と付き合ってほしい」

 彼の言葉に、私は反射的に頷いた。

 そして、その瞬間会場がわあっと湧いた。

 実はこの企画自体、告白するために彼が考えたものだということを、私は後から知ることになる。


 はじめは半信半疑だったが、彼はちゃんと私を好きだということが分かった。

 とにかく、私に甘い。優し過ぎて戸惑うくらいに。

 何をするにも私のことを優先して、にっこりと幸せだと笑うのだ。ショッピングに行った時なんかは、私が可愛いと言うものをすべて買おうとしていたので、止めるのが大変だった。誕生日にはサプライズでフレンチ料理店を予約して、ケーキやプレゼントを用意してくれた。私も彼のために色々と頑張ろうとしていたのだが、いつもサプライズはすぐいバレるし、手料理は失敗するしで、散々だった。それでも、彼はそんな抜けている私だから好きなんだよと抱きしめてくれる。


「ともくん、そんなに私を甘やかさないで」

「陽菜が可愛すぎるのが悪い」

「もう、どこのバカップルよ」

「ん~、ここにいる僕たち?」

 ふざけたように笑う彼を見て、私もふっと笑みを零す。

 彼と休みの度にいろんなところへ行った。どこに行っても、彼は本当に優しくて、頼もしかった。彼が怒ったところなど、私は見たこともない。私が彼にぷんぷんと文句を言うことは日常茶飯事だったが。

 二人で大学へ行くことも多かった。

 そして、二人が初めて出会った押しボタン信号の前で、あの時はどうだったこうだった、という話を何度もした。

 毎日が幸せで、とても楽しかった。

 彼が卒業してからも、それは変わらなかった。

 会える時間は減っても、彼はちゃんと私を気遣ってくれたし、愛されていると感じられたから。


「もうすぐ、陽菜も卒業か」

 しみじみと、彼が微笑む。

「陽菜が卒業して就職したら……」

 彼は少し間を置いて、真面目な顔をすると私にとって忘れられない言葉をくれた。

「僕と結婚してください」

 その言葉の意味を理解して、私の目からは涙が止まらなかった。幸せな毎日が、卒業後の未来にも見えた。

 早く卒業して、彼と結婚したい。私はおもいきり頷いて、彼に抱きついた。日常のように降り注ぐキスの雨も、いつもとは違うもっと特別なものに感じられた。

「ともくん、大好きっ!」

「きっと僕の方が陽菜を好きだよ」

「ううん、私の方が絶対ともくんのことが好きだもん!」

 正真正銘のバカップルは、そんな会話を笑顔で繰り返していた。

 彼の仕事終わりに、よかったらディナーでも食べにいかないかと電話があった。せっかく婚約したのだから、二人でお祝いしようというのだ。もちろん、私は二つ返事で頷いた。

 待ち合わせは、あの押しボタン信号で。

 冗談めいた口調でそう言った彼に、私はすぐ行くと微笑んだ。


 ピーポーピーポー……


 やけに、近くで救急車のサイレン音がする。パトカーも走っているようだ。それも、私が向かう先に。

 何かあったのだろうか。私は胸騒ぎがして、足早に彼の元へ向かった。

「ともくんっ‼」

 私の声は、悲鳴に近かった。押しボタン信号に、黒い車が突っ込んでいる。それだけならまだよかった。車と押しボタン信号の間に、人がいた。大好きな、大好きな彼が。サイレンの色と彼の血の色で、私の視界は赤く染まっていた。

「いや、いや。嘘だよ! 嘘だ!」

 野次馬に集まった人たちの間を抜けて、私は警官に恋人であることを告げ、事故現場に近づいた。

「これ以上近づかないでください」

 救急隊員が近づく私を引き止めた。あと少し、15センチの距離で、私の手は彼に届かない。救急隊員によって、私はどんどん彼から離れていく。

「だったら、早くともくんをあそこから助けてよ! なんで、なんであのままにしてるの!」

 車は、押しボタン信号におもいきりめり込んでいた。彼の身体とともに。身体は真っ赤で、顔も真っ赤。痛々しくて、見ていられない。

 でも、私は目を逸らせなかった。だって、彼は私を待っていたのだ。いつもの優しい笑顔を浮かべて、私のためにあそこで待っていたのだ。

「ともくんを助けてよ!」

「大変残念ですが、彼はもう……」

 救急隊員に喚き散らし、私はへたりと地面に座り込んだ。

 車の運転手は飲酒運転をしていたらしい。運転手もまた、即死だった。死ぬなら、彼を巻き込まずに一人で死んでほしかった。

 私はどろりと沈む心の内でそう思った。


 彼が死んで、私は何もできなくなった。彼に出会って増えていった、キラキラの思い出。彼に出会ってから知った、人を愛するという気持ち。心の宝石箱に大切に保管していたそれらはすべて砕け散って、いびつな破片が私の心に突き刺さる。

 ずっと、ずっと変わらないと信じていた幸せな日々……。

 幸せって、どんなものだったっけ。

 彼を失った時に、私の中の感情もすべて失われてしまったみたいだ。絶望は、私に悲しむための涙さえ流させてはくれなかった。

 家族も友人も心配して、毎日様子を見に来てくれた。

 それでも、私の心は動かない。いつの間にか、母が大学に休学届を出してくれていた。

 どうして退学ではなく休学なのだろう。

 卒業しても、結婚する相手はもういないのに。

 あぁそうだ。だったら、彼のいるところに行けばいいんだ。

 そう思い至ったのは、引きこもり生活をはじめてどれぐらい経った時だろうか。

 私は彼と初めて出会い、彼を失った場所へ向かった。

 もう、押しボタン信号は新しいものに変わっていた。

 彼が死んだ時の衝撃を、もうあの押しボタン信号は覚えていないのだ。彼の命は新しいものに変えられないのに、押しボタン信号も、道路も、何事もなかったかのようにそこに在る。


「ともくん、今私も逝くよ」


 彼と同じように車に轢かれたら、きっと彼にまた会える。そう思って、私はボタンを押さずに横断歩道に足を踏み出す。

 車は普通に通っていた。急に飛び出した私に気付いてハンドルをきっても、回避はできないだろうと思っていた。

 それなのに、私は道路の真ん中に立っていても車にぶつかることはなかった。何故だろう。

 そう思って、目の前の信号を見上げた。

「なん、で……?」

 歩行者用の信号は、青になっていた。押しボタン信号は、押さなければ変わらないはずなのに。

 青く光る信号を見て、私は何故か優しく微笑む彼の姿を思い出した。

『がんばって』

 もうどこにもいないはずの彼の言葉が聞こえたような気がした。

 もう枯れ果てたと思っていた涙がまた溢れてくる。ここで、彼に出会った。彼は、私に笑っていて欲しいと願っていた。

 もし今、彼が私の姿を見ていたらどうだろう。大学も行かず、部屋に引きこもってみんなに心配をかけて。

「ともくんに、怒られちゃうかな……」

 いつも穏やかに、優しく自分を包み込んでくれた彼の気配を感じた気がして、私は覚悟を決めて立ち上がった。

 前に、進んでみよう。

 彼は、きっと見守っていてくれるから。

 私は、大学を卒業して就職した。

 いつも可愛いね、と微笑んでくれた彼のために興味を持った、化粧品会社に。

 そして毎日、私はあの道を通る。

 何故か勝手に青に変わる信号は、朝は『いってらっしゃい』、帰りは『お疲れ様』と言ってくれているような気がした。

 彼に背中を押してもらっているような、不思議な感覚。

 だから私は今日も、彼に会いに行く。

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