押しボタン信号の恋

奏 舞音

僕は

 ――僕は彼女を見た瞬間、ああこの人だって思ったんだ。


 彼女は、今日は真新しい黒のスーツに身を包んで、長い黒髪をひとつにまとめている。見た目は完璧な就活生だ。アーモンド型の大きな目、桜貝のような唇、ほんのり桃色に色づいている頬を見て、僕は今日も彼女が世界一可愛いと思わずにはいられない。全体的に彼女はとても小さくて、僕が手を伸ばしたら簡単に腕の中に包み込めるだろう。

 そんな妄想をしながら、僕は今日も彼女を見つめる。

 時刻は八時。

 朝から面接があるのか、その表情は緊張している。

 普段は車の通りが少ない道路でも、やはり朝の通勤ラッシュというものは存在する。なかなか道路を渡れずに、彼女の表情は焦りに変わっていく。彼女を見ている僕の存在も目に入らないほど、顔を強張らせている。だから僕は、いけないと思いつつも、彼女のために車の流れを止めた。

 彼女の前にできた道。

 えっ と不思議そうな顔で彼女は僕を見た。見開かれた大きな瞳はくりっとしていて、本当に可愛らしい。僕は何も言わず、そっと彼女を見守っていた。

(がんばって)

 心の内で、彼女にエールを送りながら。

 彼女はしばらく呆然としていたが、はっと腕時計を確認して慌てて道路を走って渡る。そのまま、一度だけ僕のことを振り返り、履きなれないパンプスで早歩きで遠ざかって行った。

 きっと、不審に思われたに違いない。けれど、僕はそれでもよかった。

 彼女の驚いた顔を思い出し、くすりと笑う。

 帰りも彼女はここを通るだろうか。そんなことを思いながら、僕はいつものように車や人の流れを見つめていた。




 どうやら、面接はうまくいったらしい。

 彼女はあれから、毎日同じ時間にこの道を通るようになった。

 そして僕はというと、もう黒いスーツではない彼女のために、せっせと車を止める。彼女はその度に不思議そうな顔をして僕を見る。そんな顔も可愛くて、僕はその瞬間の彼女を忘れないよう心のアルバムに保存した。

 慌ただしい朝だ。彼女は僕のことを気にしながらも、足早に去って行く。今日の彼女は、春らしい薄い黄色のカーディガンに、白のパンツ姿。彼女にはふりふりの可愛らしいスカートがよく似合うだろうな、と僕はパンツ姿の彼女を見てしみじみ思う。だが、さすがに仕事場でそれはまずいな、と考え直す。それに、彼女はまだ新人だ。あまり可愛すぎる格好をしていては、女性の怖い先輩たちや下心を持った男に目をつけられるかもしれない。

(どんな仕事に就いたのかな)

 毎日、彼女を見送った後、僕は彼女について考える。化粧がいらないくらいに肌もきれいで、目も大きい彼女だが、いつもきれいに化粧をしている。職業は、化粧品関係だろうか。可愛らしい容姿で、お洒落さんだから、服飾関係の仕事も彼女は楽しめそうな気がする。どんな仕事でも、きっと彼女は一生懸命に働くのだろう。器用な方ではなさそうだから、失敗を繰り返しながらも、前向きに頑張っていくはずだ。


 でも、どうして僕はこんなにも彼女のことを知っている気がしているんだろう。

 彼女についてあれこれ考えていると、いつもあっという間に夕方になる。もうそろそろ彼女が帰ってくる時間だ。

 僕は、彼女が通るのを今か今かと待つ。

 五時半過ぎ。少し疲れた顔の彼女が朝とは逆方向からやってくる。

「はあ。またミスっちゃった……」

 彼女は肩を落として、溜息を吐いた。誰もいないと思っているからか、心の声が溢れている。

「ちゃんと確認したと思ってたのに……うぅ……っ!」

 仕事が完璧にできる女になりたい、という言葉を呟いて、彼女はいつの間にか自分が道路を渡っていることに気が付いた。

「あれ? 車、通ってなかったのかな」

 自分が渡った道路を振り返るも、車は普通に通っている。彼女がそのまま道路に突っ込んでいきそうだったので、慌てて僕が車を止めたのだ。

「……?」

 一人、首を傾げて遠ざかっていく彼女を見て、僕は満足して微笑んだ。


 毎日、彼女に会えるのが嬉しい。

 言葉を交わせなくても、僕のことに気付いていなくても、彼女のために僕は道をつくることができる。それが、とてつもなく嬉しい。

 だって、僕は自分が何者で、いつからここに在るのかを知らない。ただ、誰かを ずっと待っていた。

 それだけは、分かる。

 そして一年前、彼女に出会ったのだ。

 初めて彼女を見た時、その顔は絶望に沈んで、その身体は簡単に折れてしまいそうなほど細かった。どうして、彼女がそんな姿で僕の目の前に現れたのかは分からない。こんな姿の彼女に会いたいのではなかったのに、と初めて会うはずの彼女に対して僕の胸は押し潰されそうになった。

 それでも、僕がずっとこの場所で待っていたのは彼女だ。それはすぐに分かった。

 今まで虚ろだった心が、突然動き出したから。

 だから、僕は彼女に手を差し伸べたつもりだった。でも、僕の手は彼女には届かない。どうして。そう考えた時、自分の姿を思い出す。

 そうだ。僕は彼女に触れられない。


 僕にできることは、彼女のために道を開くことだけだ……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る