私の世界

bittergrass

私の世界

 私はそこにいた。どこか、真っ暗な所。ここはどこにあるのだろうか。私は今、立っているのか、歩いているのか。そもそも私は私なのだろうか。考えるほど迷いは増えていく。この世界で私は生きていくしかない。選択肢は私にはない。


 昨日、小説を読んだ。真っ暗な世界にたった一人取り残された少女の話。最後にはその世界から抜け出して、その世界にあったきれいなものを、繋げて名前にしていた。それは救われた話だったのだと思う。でも、一つだけ言いたい。きっと彼女は生涯、幸せではなかったのかもしれないと。闇黒の中であった人達には彼女はもう会えない。それは本当に幸せとは言えない気がするのだ。全員が幸せになる、これが本当のハッピーエンドになる。私はそう思う。


 その日は何も起きなかった。私にとって日常とは変化のないものだ。私の周りで起こることにほとんど変化がない事。それは小説を楽しむ上で一番大事なことだろう。毎日が忙しく、友達と、恋人と、理性をなくしたように遊んでいては全く物語を楽しむことなんてできないと思う。私はそれを知っている。そうは言っても友達がいないわけではない。大人しいけれど、どこか芯の通った友人。隣の彼女がそうだ。周りが五月蠅く、読書にいい場所を探していた。そのときにその静かな場所に彼女はいたのだ。それから、彼女とは交流をしている。彼女も読書家らしく、話の合う人だった。しかし、私たちはあまり言葉を交わさない。私たち二人にとって、読書は最大の楽しみなのだ。それを邪魔するのは何人たりとも許されない。だから、私たちはどちらかが読書をしているときには声をかけたりしない。


「帰ろうか」

 二人がほとんど同時に本を閉じた。そのタイミングで彼女が私にそう声をかけた。私はそれに頷いて返す。本を鞄にしまって、その静かな中庭から出た。中庭には誰もいない。この学校の中庭はどうも不便らしい。小説の中での中庭はカップルの集まる場所というイメージがあったが、この学校は違う。この場所はとにかく不便なのだ。カップルが集まるにはあまりに寂しい見た目、夏でも日影が多くて汗が冷えて寒くなるほどだ。それに校庭周辺の広場の方が見た目が華やかで、カップル向きなのだ。そんなことでこの場所はカップルどころかほとんど人の寄り付かない場所なのだ。それだけ静かな場所でもある。だから、ここで読書するのは必然だったと言えよう。


 二人、会話もなく帰路を行く。学校終わりの子供が、はしゃいでいる声が聞こえてきた。それに下品に笑う高校生の姿も見える。あれは同じ高校の人に違いない。私の通う高校は偏差値が高くない。というか、低い。私は家が近いという理由だけでこの学校に通っている。他の学校が近くになくて、近くならこの学校しかなかった。隣町まで行くのは面倒くさい。朝にバスに乗っての登校は避けたかった。人がたくさんいるという状況がそもそも嫌いだった。


 別れの挨拶をして、私は家に入る。彼女はこのままバスの乗って家に帰るのだ。彼女も人が嫌いだが、彼女を知る人がほとんどいない場所に来たかったらしい。私たちの通う高校は、どうやら、彼女のいた場所から来る人はほとんどいないらしい。彼女自身は人が多くても読書をしていれば気にならないと言っていた。バスの中で静かに本をめくっている彼女の姿は簡単に想像できる。

 家に中には誰もいなかった。両親は仕事が遅く、妹はまだ学校か。部活にでも出ているのだろう。私は制服から部屋着に着替えて、読書を開始した。


 自分の部屋のドアが開いたことで読書が中断された。扉の外には、妹がいた。

「ただいま、お姉ちゃん。ご飯はどうするの。お母さんまた仕事で遅いから」

 私はとりあえずおかえりとだけ言って、妹を連れて、リビングも奥のキッチンに入る。冷蔵庫を開けると、食べ物は入っていた。料理の知識はあるし、大体の料理はできる。妹が不安そうな顔をしていたので、私が作ると言って、学校指定のジャージを着替えさせに部屋に行かせた。どうやら、お腹も空いているようだし、早速作るとするか。


 料理を作っていると妹が服を変えて、リビングに入ってきた。すぐにご飯になるとわかったらしく、嬉しそうに卓についた。そこから少しだけ時間はかかったが、夕食は全て出来上がり、食べることになる。いただきますと挨拶をして、食べ始めた。自分で作った料理ほど美味しいかわからないものはない。自分好みの味でしかなく、それが相手にとっても美味しいと感じるかどうかはわからない。毎日作っているし、本を読むことでそこから料理の知識は得ている。料理のレパートリーは多いと思う。妹は文句も言わずに食べてくれている。

「お姉ちゃん、いつも美味しいご飯、作ってくれてありがとう」

 妹が突然、とても小さな声でそう言った。テレビでもついていれば気づかなかったかもしれないような、そんな小さな声。妹の顔は赤くなっていた。私は驚いて、声を出せなかった。それでも何か言わないとと思って、ありがとう、と返した。お礼にお礼で返してしまったが、私自身も驚いたが嬉しかったのだ。それにしても、突然お礼とはどうしたのだろうか。まさか何かあったのかもしれない。私はそれを訊いてみるも、妹はそんなんじゃないよと言っている。しかし、心配なものは心配である。きっかけもなく、そんなことを言うだろうか。やはり、心配だ。白状するまで聞いてみよう。


 聞いてみた結果、どうやら私が心配していたようなことではなく、ただ単に本に感化されただけだった。それならわかる。妹が読んだ本は私も読んだことがあるもので、その時の私も母にお礼を言って、心配されたことを思い出した。当時はそんなに気にすることもないと思っていたが、いざ、心配する側になると気になってしまうものらしい。全く同じ反応をしてしまったことが妙に笑えた。妹が心配そうに私をみていたので、私も同じことをしたと言うことを話した。


 夕食を食べ終えて、洗い物は妹に任せた。料理をしたら、洗い物は他の人。これは私が料理をし始めた時からある、我が家のルールだ。ちなみに、妹も料理はできるため、不公平にはならない。

 私は自分の部屋に戻って、読みかけの本を読み始めた。


 日差しが目にしみる。気づけば眠ってしまっていたらしい。しかし、本はしっかりと閉じてある。眠気の中でも、本はしっかりと閉じていたらしい。それはそうと、お風呂に入ろう。

 汗を流して、制服に着替えた。それから、朝の涼しい風を少しだけ家に中に入れた。眠気が飛ぶ。今日の朝の空は澄んでいて、素晴らしく青い。空が青くても、私の気分はあまり変わったりはしないが。

 さて、目も覚めたし、読書に戻ろうか。眠い中読んだところはほとんど覚えていなかった。では、覚えているところから読んでいこう。朝の空気が入るリビングで、私の今日朝一の読書の時間に入った。


 朝食は母が作ってくれた。やはり、母の料理はは自分で作るものよりも、美味しいと思う。それから、学校に行く支度をして遅刻ギリギリになる時間に家を出た。この時間に行くのは、うるさいところで本は読みたくないからだ。教室では男子も女子も、騒がしい。騒いでいないと生きていけないのだろうか。特に、男子の中では声の大きい人がいる。そんなに自分の話を聞いて欲しいのか。いや、大きのは声だけではないのだが。彼は態度、体も大きい。それなのにもかかわらず、心の器は小さいのだ。……よし、上手いこと言った。

 彼の話はどうでもいい。どうせ、交流なんてほとんどない。それよりも、気になることがあった。私が読書関係以外で気になることがあるのは珍しい。それは、私の隣の席は空席だったはずなのに、誰かがそこに座っていることだった。それだけなら気にしなかったと思う。しかし、その人は私の方を向いて、何がおかしいのかずっとニコニコとしているのである。それが作ったようではなく、本当に楽しそうなのだ。私はその人に異様さを感じていた。これその人が女子だったなら少しはわかったかもしれない。しかし、その人は、男である。西洋の王子様のような顔を押しているのである。ハーフかクウォーターか、そんなところなのか。それでも気にしていなければやがて、興味を失ってくれるはずだ。私はホームルームが始まるまで、気にしないようにして彼が紹介されるのを待っていた。


 やがて、ホームルームが終わった。彼の正体はわからないまま。不法侵入か。それとも何か紹介を忘れているだけ。しかし、今の担任はそんな抜けているような人ではない。それに、彼に対して他の人が何の反応もないというのがおかしい。彼ほどの美形が女子にちやほやされないのもおかしいし、騒ぎたい男子が彼に絡まないのも気になる。彼は誰なんだろうか。いやしかし、気にしてみわからなさそうなので、しばらくは放っておこうか。彼女にだけは話しておきたいと思う。


 昼休み、中庭。そこには彼女が座っていた。それから私に気づいたようでは、私の方に視線を向けると驚いたように口を開けていた。実際驚いていたのだろう。

「う、後ろの人は誰、なの」

 私にはそれに対する答えは持っていない。私自身も彼が誰なのかわからないのだ。何となく誰かいる気がしていたが、彼がいたのか。

「初めまして。私はミーミルです」

 ミーミル、何処かで聞いたような名前だ。少なくとも心当たりがあるということは、きっと本で読んだに違いない。

「ミーミル、か。確か北欧神話の巨人で、頭が良かったはず」

 彼女の言葉に彼は感心したように頷いていた。名前が同じなだけで、本当に神話に出てくる本物のその人な訳はない。私は特に彼に関心がなかったので、彼女の隣に腰掛けて、本を読み始めた。彼女もそれを合図にしたかのように、読書を開始した。彼は私の私の近くに立って、顎に手を当てながら何か考えているようだった。


 昼休みを終わりを知らせるチャイムがなった。隣に座っていた彼女は立ち上がって、私は戻るからと言った。私は後少しで読み終わるので彼女にそれを読書しながら伝えて、彼女は去って行った。彼は相変わらず私の近くに立って、考え事をしているようだった。


 本を読み終えたのは、授業が始まってから、二十分前後経った頃だった。最後の方の事件解決のトリックがわざわざ難解に書いてあって、読むのに時間がかかってしまった。本を閉じて、教室に戻ることにした。授業は出なくても、理解できるし、テストでも高い点数を取っている。悪いのはこういう読書で時間を守らないと言うところだけだ。中庭を出ようとすると、彼が私のすぐ後ろに立っていた。先ほどよりも近く、圧迫感や不快感がある。家族や友人、気の許せる人しか入って欲しくない距離。バスとか電車とかだと、この距離に簡単に人が入ってくる。だから、バスなどには乗らないのだ。それをバスにも載っていないのに、なぜ、入られなければいけないのだろうか。私は不快感を隠さずに、彼に文句を言った。彼は、私が離れたなら離れるのではないか、と言って来たので、私は早足で、彼から離れた。彼は一定の距離を保って、私について来ていた。その距離に不快感はなかった。


 それから、彼は学校では私について来た。相変わらず、彼に対する質問は一切ない。まるで、私と彼女しか見えていないかのようだ。しかし、ぶつかりそうになったら、相手も避けるような動作をするし、完全にいないと言うわけでもなさそうだ。それにある程度距離が開くと彼は私の不快感を感じる距離に入って来る。なんども文句を言ったが、彼に直す気はないのか、全く勘弁してほしい。


 昼休みが来る度に、中庭に行った。彼女は私より先にそこにいる。後ろに彼を連れて、行くと最初こそ気にしていたが、次第に慣れて今では一言挨拶をするだけで、読書をしていた。未だ、彼は本当の正体を言わない。何度か聞いて見たが、神話の巨人であると言うことしか教えてくれない。しかし、どう見ても巨人ではないし、神話から来たと言われてそうですかと信じるわけもない。彼は何者なのか、不明のままだ。


「君は本が好きなんだね」

 廊下を歩いている時、唐突に彼は聞いて来た。私は頷きだけで答えた。

「うん、本はいい。知識だけでなく面白いことが多く詰まっている」

 彼はコクコクと頷いている。頷くのをやめて、彼は特に何か言葉を発するでもなく、私の後ろを歩いていた。


 私は彼について、いや、彼の名前を検索してみた。家にあるパソコンで彼の名を打つ。ミーミル。検索結果が出て、その一番上のサイトを見ることにした。


 ミーミル。北欧神話に登場するオーディンの相談役となった賢者。オーディンの伯父にあたる巨人とされている。彼は人質としてヴァンヘイムに送られるが、期待した人物でなかったために首を落とされて送り返される。しかし、それを見つけたオーディンは彼の首が腐敗しないように薬草を使用して、その後に魔法で生き返らせて、彼はオーディンの相談役になった。

 他の話では、ミーミルの泉を守る彼はオーディンにオーディンの眼球を捧げることで、この泉の水を飲んでも良いとした。


 あまり情報はなかったが、その簡単にまとまっていると言うことで、わかりやすかった。まさか、ミーミルにはそんな話があったとは。しかし、まだ彼がこのミーミルと決まったわけではない。それに彼の首は落ちていない。きっと、彼は、ミーミルを模した誰かなのだ。


 私はそれを考えないようにするために、読書を始めた。家にはまだ誰もいない。静かな環境は私の集中力を高めてくれる。話に入り込む。私は時間も忘れて読書を続けた。


 玄関の開く音が聞こえた。妹が帰って来たのかもしれない。読書を中断して、玄関の方に行った。案の定、妹が帰って来ていた。妹は私が出て来たのに気づいて、珍しいね、と笑った。そうかもしれない。私は読書をしていると、何が起きていても気づかないらしい。親しい人の声ぐらいはさすがに気づくが、家族はそれすらも怪しいと言っている。私は妹を連れて、リビングに入った。今日の夕食を作る当番は私。冷蔵庫の中身を見ると大したものは入っていない。これを組み合わせてる料理をするのは難しいだろう。買い物に行かなくてはいけない。妹にそのことを告げると、私も行くと行って、二人で買い物に行くことになった。


 近くに一軒だけあるスーパーに来た。ここら辺の人はほとんどここに買い物に来るので、空いていると言うわけではない。しかし、大して混んでいるようには見えないから不思議だ。夕食に使うぶんだけ買うことに決めて、店内を見て回った。魚に、肉類、野菜を見て回り、必要なものをカゴに入れていく。

「こんにちは。学校外で会うなんて珍しいよ」

 聞き覚えのある声、と言うか、私の耳に残っている男子の声なんて一人しかいない。私は彼の方に振り向き、会釈した。妹に彼と関わらせたくない。そんな心持ちで彼からは早く遠ざかりたかった。しかし、学校外で会ったのが嬉しいのか、なんなのか。彼は私に近づいてきた。いつもの圧迫感のある距離。そして、未だになれない、不快感を抱きながら、一歩だけ後ろに下がった。まだ近いが、本の縦一冊ぶんぐらいの空間ができた。彼から近づいて来たのにも関わらず、特に何も話さなかった。用がないなら、近づかないでほしい。それにそろそろ夕食の支度をしなくてはいけない。私は特に何も話さない彼を置いて、レジに向かった。ほしいものは全てカゴの中に入っている。私が動いても彼はついてこなかった。


「ねぇ、お姉ちゃん。さっきのスーパーで会った人、誰なの。王子様みたいだったけど」

 夕食時、やはり、妹は彼について聞いてきた。私はかなり渋ったものの、可愛い妹には負け、全て話してしまった。説明の途中でつい口走った神話についても聞かれて、それも話した。私の知っていることは全て話してしまった。全て私視点の話であるが。

 妹はにやにやしながら私の話を聞いていた。何か勘違いしているようだ。誤解を解こうとしてもできることではなさそうなので、特に反応は返さなかった。それを妹はつまらないと思ったのか、次の話題に移った。


 昼休み、学校の中庭。今日は読書ではない。食事だ。友人の彼女が朝に弁当作ってきたから、食べてほしいと知らせてくれた。今日は朝に時間がなくて、パンを持ってきたのだが、それを食べずに済みそうだ。パンがまずいわけではないのだが、パンはあまり好きではないのだ。

「お待たせ。これを弁当なんだ」

 二段の重箱を包みを開いて、その上に弁当を並べた。どれも美味しそうで、お腹が鳴りそうだ。しかし、一つ気にくわないことがある。それは、ミーミルが隣に座っていることだ。それよりも中庭にいると言うことだ。憩いの場所であったはずなのに、彼は私のすぐ近くにいて、私が落ち着かない。近すぎるのだ。それから私は少しずれた。彼は特にずれることなく、その場に座っている。なんなの?

 弁当を食べ始めた。やはり人が作る料理は自分で作ったものよりも美味しく、いくらでも食べられそうだ。遠慮なく食べている隣の彼も、美味しそうな笑顔で食べている。

「美味しいかな。うまくできているといいのだけど」

 私も彼も美味しいと何度も言った。彼女は安堵したようで笑みを浮かべながら、食事した。


 昼休みを終えて、教室に戻った。本を読んでいたわけではないので、授業の前には教室に着いた。相変わらず、彼について触れる人はいない。もしかして最初から彼はいて、私だけが気づいていなかったのかと思うほどだ。彼に聞いて見ることはできるだろうが、私から彼に何か聞くことが気にくわないのだ。それに話したかったら、彼から話すに決まっている。待っているわけでもないが、彼が話すと言うのなら、聞こうと思う。


「君はこの世界を幸福だと思うかい。生活は便利で、悩みだって科学をもってすれば、ほとんど解決する。お金を積めば、解決する。この世界は君にとって、どんな形に見えている?」

 彼は唐突にそんなことを言った。私は理解するのに時間をかけて、理解してから、答えを考えて、しばらく時間を要した。彼はその間、私を見ていた。

 私にとっての世界は暗くて、黒い。自分のいる場所なんてわからないし、進んでいるのか、止まっているのか。私であることの証拠もない。他にも色々迷いに悩みがある。それでも迷うことができて悩むことができるこの世界のことは嫌いではない。証拠はなくても私は生きているし、ここにいる。それは証拠にはならないかも知れないけれど、私は生きていくしかない。他に選択肢はないのだ。

 確かこんなことを答えたと思う。心の何処かが熱くなって、心の何処かが怖がって、とにかくはっきりとは覚えていない。長々と話したと言うのと、彼の質問は私にとって、考えるべきものだと言うことだけが覚えていることだった。


 翌日、彼はまた私の隣の席に座っていた。にこにことしている。昨日の質問のことは気にしてないみたいだ。彼にとっては何気ない質問だったのかも知れない。彼が気にしていないと言うのなら、私も極力気にしないようにしようか。


 ある時、教師が言った。彼はここの学生なのか、と。私は驚いた。彼について何か質問をされるのは初めてだったのだ。しかし、よく話を聞けば彼は教師ではなかった。教育実習生という立場らしい。一年生をよく見回っているので、私たち三年生の教室には縁がない。しかし、今日はいつもの教師が休んでしまっていたため、臨時の教師についてきたそうだ。その臨時の教師は気づかなかったが、彼は気づいていた。彼に渡されていた名簿のクラス内の生徒の数と、実際にクラス内にいる人の数が合わないということに。その中で、違和感を放っているのは、彼しかいないということらしい。

 私は気づけば、そうだ、と言っていた。彼はここの学生であると言っていた。教育実習生は納得はしていないような顔で、去っていった。


 なぜ私は彼を庇ったんだろうか。近づいてくるのは厄介で、中庭では彼は邪魔だと思っているはずなのに。彼と近くにいる時間が長過ぎて、情が移ったとでもいうのか。確かに感情は動きやすいが、本の中の話だけだ。現実で私が何かに情を動かされることはないはずだ。それなのに彼を庇った。わからない。


 私の靴箱の前に彼がいた。ミーミルだ。

「私のことを聞かれたね。そして、君は庇ってくれた。私のことに気づける人間は、君と君の友人と学外の人間だけ。しかし、学外の人間はこの場所に来ないから気づくはずはない。そう思っていたが、教育実習生か。私の慢心が生んだ隙だ」

 彼は少しだけ間置いた。

「もし君が自分が守っているものを少しだけくれと言われたら、どうする。素直にあげるか、そもそもあげないのか。相手に犠牲を払わせるのか。私は頭がいいらしい。しかし、完全無欠の巨人ではない。善と悪の判断もきっと完璧ではなかった。私はあの人に犠牲を払わせた。それが正しいことなのかまだわからないのだ」

 私はその話を知っていた。簡単にでしかないが、それでも彼の人生を知っていた。彼は後悔しているのか、あの人に犠牲を払わせたことが負い目になっているのか。私では、よくわからない。あの人の犠牲がどれだけの価値があったのか。彼の大事なものは、その犠牲に見合うものだったのか。私はそんな決断したこともないし、する機会もなさそうだ。想像することすら難しい。神話の話は壮大さがあるからか、私が励ましたり、今ここで何か意見を言うには重すぎると思う。善悪の判断なんて人によって変わるだろうし、あの人のが満足していたのならそれはそれでいいと思う。しかし、それは私の意見でしかなくて、彼がそう思っているのかどうかはわからない。そして、あの人にそれを聞くことは怖いことだと思う。どんな返事が返ってくるのか、それを聞くのはあまりにも怖いと思う。やはり、私に何か助言するなんてことは無理だろう。

「すまない。こんな話してもしょうがない。わかってはいたが、あの人は何も言って来ない。ただただ、不安だったのだ。誰かに話して楽になる。そんな話を聞いて、話してみたくなった。それだけだ。すまなかったよ」

 彼は去っていった。巨人だという彼は、そんなに大きくは見えなかった。


 私は彼の言ったことについて考えていた。いくら考えても答えは出ない。

 もし情が移ったというのなら、お節介でもいいのではないか。私の助言など、彼にとっては気にも留めないようなことなのかも知れない。話を聞いて欲しかっただけだとは言っていたけれど、聞いた私は彼が何か言って欲しいようにも聞こえた。少しだけかも知れないが同じ時を過ごしてきたのだ。それなら、私は彼に何か言うべきだ。そうだ、そうに決まっている。相手は神話の人かも知れないかも知れないけれど、私は小さな気にも留めないような存在かも知れないけれど、私は彼に言ってやる。私の考えを押し付けてやる。


 翌日、教室には着くと彼はいた。その顔にいつもの笑みはなかった。何か考えているようで、難しい顔をしていた。彼は私に気づいて、顔を上げた。私を認めると、笑みを浮かべた。それは昨日行ったことに何も言わなくてもいい、責任は君にはない、そう言っているようだ。上から目線みたいなその視線が気に食わなかった。私は彼の腕を取って、教室から出た。私が誰かと話す場所、私が落ち着く場所。それは一つしかない。

 朝の中庭は昼よりもさらに寒かった。しかし、そんなこと気にせず、中庭に出る。彼をベンチに座らせて、私は今まで圧迫感を与えられていた距離まで近づいて、顔まで彼の前まで持っていって、逃げられないように彼の肩を掴んだ。


「私は彼が満足しているのならいいと思う。満足していないのだとしても、彼に取ってはその犠牲はその大切なものを得るには相応しいものだったんだと思う。私にはあなたが見てきたこととかやってきたこと、詳しくはわからない。一緒にいる時間も長くはないし、お互いのことを知る時間はほとんどなかった。でも、きっともう私とあなたは友達になってしまったから。私はおこがましくも、あなたに私の考えを押し付けた。私はあなたが何か言って欲しいと言っている気がしたから」


 言いたいことはまだあるのかも知れない。でも、全てをまとめることができなかったし、息も続かなかった。普段どれだけ話さないでいるのか、すでに喉が痛い。彼は何も言わず私の瞳を見つめていた。やはり何も言わなかった方が良かったのかもしれないな、そう思った時、彼の口が開いた。

「私は君のことを、冷たい人だと思っていたよ。まさかそんなことを言われるとは思わなかった。やはり、人は面白いなぁ」

 彼はそう言うと笑った。それから、未だ彼の近くにあった私の顔を見つめて、一瞬だけ顔を伏せたかと思うと、私の頬にキスをした。油断していたところで、されたせいで、私は瞬時に後ろに飛んだ。彼は私が後ろに倒れないように支えると、耳元でお礼だよと囁いて、去っていった。私は恥ずかしさも感じずに、ただ頬を押さえて、立ち尽くしていた。

 その一日、私は彼を見ることができなかった。


 それから彼との距離は縮まったかもしれない。相変わらず、圧迫感のある距離は不快だ。それでも私にとって彼はただのクラスメイトではなくなっていた。友人も彼に慣れて、よく話すようになっているらしい。

 そんな日の中で彼は忽然と消えた。


 それ以来、彼は一度も姿を見せていない。友人は神話の中に帰ったのかもと言っていたが、それは間違っていないような気がした。この世界に来た目的が達成されたのかもしれない。神話の登場人物はいつも自分勝手だ。少しだけ寂しさを感じながら、私の生活は彼が来る前に戻っっていった。読書が一番の生活。友人と二人で黙って読書する。そんな生活。

 しかしながら、考え方が変わった部分もある。彼に色々言ってしまったのだ、その責任がある。いや、そんなこと考えてもいないか。本当は、彼と過ごした時間の中で考えたことが今も私の中で価値観の一部になっていると言うだけの話だ。

「珍しい。本に集中してないね」

 気づけば、友人の顔が目の前にあった。本のページは昼休みの初めから一ページも進んでいなかった。

 ほんと、珍しい。


 改めてミーミルについて調べたくなって、 とりあえず前にみたサイトを開いた。記事の更新がある。追加された項目を読んで見た。


 ミーミルはオーディンに対して、引け目を感じていたようだが、それをオーディンに話すと、彼はお礼を述べたと言う。それ以来、オーディンの一番の相談役はミーミルとなった。


 初めからそう言う話だったのか。このミーミルは私の知るミーミルなのか。もし私と過ごした時間が、彼の中にも残っていて、私の言ったことを少しでも考えてくれたのなら、嬉しいと思う。神話の中なんて行くことはできないし、確かめようもない。まぁ、思うことがないわけではない。

 あなたも冷たい人ではなく、結構熱い人だったんだね、ミーミル。


 私はそれを見て、満足し、パソコンを閉じた。それから、机の上に置いてあった本を手に取り、読書を始めた。

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