現代帽子論
奥森 蛍
第1話 現代帽子論
「今日も素敵なお召し物ですね」
梅沢夫人は玄関で膝を折り、にこやかに微笑みながら、40年連れ添った夫の被る『帽子』を褒めた。
「うむ、行ってくる」
梅沢茂夫は靴べらを使って革靴に踵をぐいっとねじ込むと、ドアノブをつかみ押し開ける。厳格に振る舞いながらも心の中は『帽子』を褒められたことで晴れやか、弾む語尾がそれを表していた。
「行ってらっしゃいませ」
心得た夫人は華やかな笑顔を浮かべ、両手を膝の上に重ねると軽やかに主人を見送る。
外には梅雨に濡れる紫陽花、初夏の出来事であった。
◇
西暦20XX年、日本国国会において
“国会内でかつらの着用を禁止する“
その法案が提出された背景には時の首相森村蓮太郎が議場にかつらをかぶって登壇したことがある。その日は自衛隊の海外派遣についての白熱した議論が交わされていた。議論は一進一退、与党と野党が譲らぬ攻防を繰り広げる中で一人の野党議員が飛ばしたヤジが問題となった。
「うるせえ、このかつら野郎!」
これに敏感に反論したのは首相の取り巻きの議員たちだった。
「かつら野郎とは何だ、かつら野郎とは! 謝れ」
「かつらだからかつらっつたんだよ」
自衛隊の議論はすでに忘却の彼方、議場はかつらの名誉でもめにもめ、与党議員が身を乗り出して野党側の席に詰め寄るまでに至った。
「えーっ、静粛に静粛に」
議長が水を打つように声を上げる。しかし、もはや動乱ともいえる怒りの気配は収まる様子を見せない。
「かつらの何が悪いってんだ、この野郎」
首相、御自らも身を乗り出し野党席に詰め寄ると自身の頭部への配慮を示しながら乱闘へと突入する。日本国の首相の品性をも問われる事態へと発展した。
そして、動乱の最中、議員一年目の野党新米議員立石新の発した言葉が物議をかもした。
「国会じゃ被り物禁止だってんだよ、この野郎」
衆議院規則第213条と参議院規則第209条に
“議場又は委員会議室に入る者は、
とある。
確かに国会では議員を始め政府参考人、証人、傍聴人、国会職員、記者等、皆
ここである一つの疑問が浮かぶ。
――それではかつらは
無理やりに騒ぎを収め、後日野党から嫌がらせまがいに提出された法案は
“国会内でのかつら着用を禁止する“
であった。この出来事は世間の注目を一身に集めた。
「かつらと帽子は違うと思います。もしかつらもダメってしたら禿げてる人はかわいそう過ぎると思います」と女子高生。
「いや、やっぱりかつらも被り物だからダメってことだと思います」と専門学校の男子生徒。
「僕なんかもね、かつらしてるけどそれをダメって言われるんじゃ困るよね」と五〇代のサラリーマン。
昼のワイドショーで掻き集められた世間の意見は様々であった。コメンテーターも首相擁護派と反対派に分かれて議論する。
「かつら位いいんじゃないかって気もしますけどね、木村さん」
ワイドショーの饒舌な司会者が小太りのコメンテーターの意見を促す。
「そうだよね、僕なんかもね、だんだん薄くなってきてるけど、もしかぶり出したら屋内では帽子と一緒だから脱ぎなさい何てされると困っちゃうよね」
「免許写真とかはどうなってるんでしょうね。笹川さん」
「免許写真は厳密にいうとかつらは禁止されています。しかし、実際は黙認する場合が多く更新時にかつらを取れと指摘される事も無ければそれを使って取った免許書が無効という事も有りません」
明晰に答えたのは法律の専門家だ。
「でも、かぶり物をしてるって時点で帽子と一緒なわけでしょう。帽子がダメならかつらもダメなんじゃないの?」
他人事とも思える女性タレントは世知辛い意見を述べる。
「さて、スタジオでは意見が分かれていますが国会はどうなっていますでしょうか? 国会前から中継がつながっています。竹澤さん」
「はい、こちら国会議事堂前です。国会では先程から与野党に分かれ激しく攻防が繰り広げられています。森村首相率いる与党は皆揃ってかつらを着用し野党の法案には断固反対との構えです。それに対し野党は普段かつらを着用している議員もかつらを脱ぎ捨て野党一丸となって法案を成立させる構えです」
映像は録画画面へと切り替わり、野党の急先鋒ともいえる女性議員が映し出される。
「えー、森村総理に質問です。かつらはいつ頃から着用されているのでしょうか?」
「森村内閣総理大臣」
議長が指名する。呼ばれた首相は席を立ち答弁席まで歩いて行く。
「十五年程前からです」
簡素に述べ席に着く。
「委員長!」
女性議員が高らかに手をあげる。
「木田君」
「では、総理にお聞きします。帽子が国会内で禁止されている事はご存じでしょうか?」
指名された森村総理が答弁席へと向かう。
「存じ上げております」
これまた簡素な答えだ。
「では、かつらは帽子に含まれるとの認識はおありでしょうか」
「そのような認識はありません」
「帽子っていったい何なんでしょう。どういった物が帽子かご説明いただけますでしょうか」
助長とも言える質問と回答を繰り返しながらも、森村総理はただ冷静に自身の見解を述べる。
「一般的に頭にかぶる何らかの物と認識しております」
「それでは、かつらも帽子に含まれるという事になりませんか」
「えー、帽子は帽子、かつらはかつら。全く別のものとして認識しております」
女性議員は資料をめくり、質問事項の確認する。
「では、ここでね。一般的に帽子がどういったものであるか、私調べてきました。総理にも参考に御覧頂きたいです」
用意していたフリップを出した。
議論にくぎ付けの視聴者の中にはムダ金を使ったと思った人々も少なくはないだろう。
「えー、帽子とは防暑、防寒、防御、装飾を主な目的として頭にかぶる衣類の一種とあります。装飾を目的とする。つまりはこれに禿げ隠しを目的とした物も含まれるという事ですね。それを踏まえた上で総理にお伺いします。今ご自身の付けている物は帽子ですか違いますか。お答えください」
「えー、帽子では
当たり前とも思える意見に即座に反論の声が上がる。
「帽子だろうが!」
どこか遠くの席から飛んできたヤジ、ふと静かに笑い声が漏れた。
「帽子とはあくまで容易に着脱できるファッション性の高い物と認識していますので私の付けているのはかつら。かつらは無くてはならない物、皮膚の一部と認識していますのでしたがって帽子ではありません」
一気に議場が騒然とする。
「総理、総理」
「静粛に。木田君」
「皮膚とご認識とのお話でしたがその容易に着脱できる点において皮膚とは明らかに違います。かつらはあくまでかつら、かぶるという時点において帽子に他なりません」
「黙らんか、君」
遠くの議員席から与党の大御所議員が地響きのような怒鳴り声を上げる。その大御所議員は勿論かつらだ。
「総理、もうそう言った言い逃れは止めましょうよ。それは帽子です」
「木田君。発言は手を挙げてからするように」
「木田議員のご指摘の通り被るという時点では帽子に他なりません。しかしですね。かつらを帽子として国会で禁止すると様々な弊害が出てくるわけですよ。日本のかつら人口ご存知ですか。百万人ですよ。百万人。百万人の人がかつらをかつらとして装着しています。これをもし帽子として国会の中で被る事を規制するとですね、世間にも屋内ではかつらを取るという風習が生まれかねません。非常にまずいわけですね。この議場にいらっしゃる方の中にもいらっしゃいませんか。かつらが帽子として認知されるとまずい人が」
これには与党席から拍手喝采が上がった。そして一部の野党席からも小さな拍手がちらほらと。
「帽子は帽子。かつらはかつら。それでいいじゃありませんか」
「そうだ! そうだ!」
「総理、総理」
「木田君」
議長が再び指名する。
「かつらによってね、人相を変えるなんてことも出来るわけですよ。国会中継に映る国会議員がね、大げさな例えですけど日によって金色だったり緑だったりのかつらをつけてると困るわけですよ」
「そんなやつ居ねえよ!」
即座にまたヤジが飛ぶ。
「いや、だから物の例えであって」
「もう止めないかこんな議論!」
次第に議論そのものを投げ捨てようとする者たちが溢れる。
「総理、かつらは帽子でいいじゃありませんか。国会に臨む時は全てを脱ぎ捨ててまっさらな気持ちで臨む。もちろんかつらは取って望む。要らないファッション、アクセサリーは余分です。私達は一国会議員です。正々堂々真っ向から勝負する」
これには、野党席のかつらを置き去りにしてきたツルピカの連中から拍手喝采が上がった。
「よっ、名演説!」
議長はため息を吐き言葉を発した。
「えー、それでは採決を取ります。“国会内ではかつらを禁止とする“この法案に賛成の方はご起立を願います」
議長の採択を促す声に応じて、一部のかつらを取って参上した気合の入った野党議員が起立をした。しかし、ふたを開けてみるや一転、与党はおろか野党の大多数も起立をしなかった。考えてみれば当然の事、自身の支持基盤の有権者や後援会の禿げ層を意識しての事だった。百万の禿げを無視して政治を前に進めることなど出来ようか。
こうして、国会におけるかつら帽子討論は幕を閉じた。
◇
「あなた良かったですわね」
テレビで先程“かつら禁止法“不成立の速報が流れた。それを梅沢茂夫と夫人は居間のテレビで見た。
「うむ」
梅沢茂夫は扇風機にあたりながら、そのツルピカに光る自慢の頭を手ぬぐいで拭い静かに頷いた。憮然としながらも心は上機嫌、少なくとも自身の沽券は守られた。
座卓の上に置いたかつらが扇風機に吹かれそよそよと揺れていた。
(了)
現代帽子論 奥森 蛍 @whiterabbits
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