終章
そして、彼らは
「…………やっと見つけた」
薄れていく世界の中で、優しい声が聞こえた気がした。
「…………セレネ…………?」
彼女はここには居ないはずだ。覚悟はできたつもりだが、セレネに反対されたら揺らいでしまう。だから、彼女に黙ってここに来た。
夢だと思った。彼の夢の中に出てくるセレネは、いつも苦しそうだった。
治してやらないといけないと思った。血塗れで、苦痛のあまり泣きじゃくる彼女の姿を、彼は何度も見ている。
「大丈夫、…………か? 痛くない…………? 苦しい、とかは…………」
間に合わなくても、助けられなくても、少しでも苦痛を軽くできれば良いと思っていた。セレネが少しでも安心できるように、傍に居ようと思っていた。
「大丈夫。元気ですよ」
「そっか…………良かった…………でも、なんで…………」
「どこまでもお供しますって言ったでしょう」
声は、確かに大丈夫そうだった。夢ではなくて、幻なのかも知れない。
それでも良い。セレネが痛くないのなら、苦しくないのなら、それで良い。
目を開けているはずなのに視界が暗かった。もう何も見えない。手を伸ばそうとしても身体が動かなかった。
優しい声は、まだ近くにいる。
「最後までお供しますよ。ずっと、いつまでも傍にいます」
幻でも、夢でも構わなかった。セレネが近くにいるのなら、大丈夫だ。
「セレネ…………」
「はい」
「俺…………俺さあ…………頑張ったよ」
「ええ。頑張りました。本当によく頑張りました」
ずっと欲しかった言葉を聞いて、頬が緩む。
そうだ。頑張った。十年間、ずっと頑張ってきた。
最後ぐらい誰かに認めて欲しかった。誰かに褒めて欲しかった。
最後の最後で、彼女から欲しかった言葉を貰えた。
それでもう充分だ。
目を開けると、雲一つない青空が広がっていた。
「………………え?」
間の抜けた声が口から転がり落ちる。
身体を起こす。草原の中で、彼は横になっていた。
立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。座り込んだまま、辺りを見渡す。
どこまでも続く緑の中に、ぽつりぽつりと色とりどりの小さな花が咲いている。遠くに踏み固められた土の道が見えた。旅人達が利用する街道だ。
水が流れる音が聞こえる。近くに川があるのかも知れない。白い鳥が頭上を通り過ぎ、街道をのんびりと行く旅人の背中を見送った。そよ風が頬を撫で、その冷たさで少しだけ頭がはっきりする。
「…………ここは」
風の後を追いかけるように己の顔に手を触れ、続けて手のひらを見つめた。
まだ、自分には体温があった。実体もある。
(生きて、るのか。それとも、ここは)
「ああ、やっとお目覚めですね」
背後からの声に、彼は弾かれたように振り向いた。
黒い革鎧に、赤みの強い紫色の髪と瞳。その腰には、柄にいくつもの宝石が埋め込まれた細身の剣が下げられている。
「…………セレネ? セレネ、だよな?」
「ええ、私ですよ」
「あれから、俺、どうして、ていうか、なんでセレネがここにっ」
「あの時に漏れ出した魔王の力は、例の水晶に封印されました。諦めの悪い英雄殿が頑張って蘇生してくれたおかげで、あなたも一命を取り留めた。魔王の力を全て水晶に封印出来たのか、それともまだあなたの中に残っているのか、何とも言えない状況のようです」
「…………そうか」
成功したのかどうか、わからない。
セレネの言葉に、彼は拳を握りしめた。自分で終わらせるつもりだったのに、終わらせるためにここまで来たのに、まだ続くのか。
セレネが穏やかに続ける。
「水晶は神聖教会が封印。そして、まだ魔王の力があるかも知れない坊やも一緒に封印しようって話もありましたが…………流石に黙って見ているわけにはいかないので、隙をついてあなたをさらって逃げました」
「え」
「私だけの独断じゃありません。レオンハルトも共犯です」
「な」
「もっと言うと、白の君とやらも」
「白の君って、そんな、嘘だろう!?」
たたみ掛けるような調子で言ったセレネは、それはそれは綺麗ににっこりと笑って見せた。
「で、私がなんでここに居るかって言うとですね。あなたの指示に従って文字通り死ぬほど頑張ったってのにリベイラに置き去りにされて、どうやらあなたとレオンハルトがアスタロスタに向かったらしいって噂を聞いて大慌てで追いかけたからなんですよねえ」
あっはっはっとわざとらしく笑い声を上げているが、彼女の目は全く笑っていなかった。怒っている。物凄く怒っている。
「あ、あのセレネ────」
状況を理解した彼が謝罪の言葉を口にするより早く、ごん、と拳が頭に降ってきた。目の前が一瞬暗くなり、白い星が弾ける。
「状況説明は終わったから、お説教の時間としようか。なーんでまた私を置いてったりしたのかなあ?」
叩かれただけでは終わらず、そのままぐりぐりと彼の身体を地面に埋めようかという勢いで拳を脳天に押し付けられる。
「わ、わわわわ、ごめん悪かった申し訳ない申し訳ないです!」
「聞こえないなあ」
「ちょ、セレネ、めりこむめりこむ、めりこんでるから!」
「私を置き去りにした理由はー?」
「あでででで、セ、セレネに反対されたら、無理だって思ったから!」
悲鳴を上げても地面を叩いても許してくれる様子はなく、結局手紙に書いたことと同じことを白状する羽目になった。口で言うのが難しいから手紙にしたのにと頭を抱える。
ふと、脳天を押さえつけていた拳が離れた。
「坊や、私はね────あなたが幸せなら、世界なんて滅んでも構わないと思ってる」
声に先程までの怒気はない。まるで歌うような調子で、彼の黒騎士は続けた。
「あなたがいない世界など、私には何の価値もない。けれど、他ならぬあなたがこの世界を守りたいと言うのなら、私もそれに従いましょう」
流れるような動作で、彼女は腰の剣を抜いた。そのまま彼の喉元に、その切っ先を突きつける。
「もしも、まだあなたの中に魔王の力があり、またどうしても同じことをしなければならない時は────私が、あなたを殺します」
「…………」
「次の魔王になるのは私です。あなたと同じように、私も私の代で終わらせるように努力します」
「…………セレネ」
「あなたの魂を抱いたまま私も永久の眠りにつく。これ以上幸せなことはありません」
喉元に突きつけられていた切っ先が離れた。抜いた時と同じく流れるような優美な動きで、セレネは英雄の剣を鞘に納めていた。
「だから」
祈るように、彼女は続けた。
「どうかその時まで、私を傍に置いてください」
風が吹き抜ける。座り込んだまま、彼はぼんやりとセレネを見上げていた。
彼女の口元には淡い笑みが浮かんでいる。それなのに、何故か今にも泣きそうになっているようにも見えた。
「…………城が」
「はい?」
「城が、欲しい、な」
不意に視界がぼやけた。瞬きを繰り返して誤魔化す。今にも泣きそうだったのは、セレネではなく彼の方だった。
「覚えてますよ。紫色の稲光に浮かび上がる黒々とした城は男の浪漫なんでしたっけ」
「確かに浪漫ではあるんだが、そういうのじゃなくて」
「ではどんな城をご希望ですか」
「その…………なんていうか、人里から離れてる場所で、俺でも安心できる場所、みたいな」
最後の方まで言いきれず、後半は消え入りそうなほど小さな声になってしまった。
「良いですね、それ。一緒に探しに行きましょう」
からかわれるのを覚悟していたのに、返って来たのは優しい肯定だった。
幼い子供に戻ったように、彼はこくりと小さく頷く。
ふと、セレネの背中越しに、こちらに向かって大きく手を振る人影が見えた気がした。
身を乗り出して様子を伺うと、人影は雷にでも打たれたかのように一度硬直し、今度は両手を振り回しながら転がるように駆け出した。
「あいつもいるのか」
「ついて行くって言って譲らないんですよねえ。僕は友達だからって言い張って」
「…………友達」
幼い英雄は何やら叫びながら走っている。距離があるためほとんど聞き取れないが、ライアンライアンと彼の名前を連呼しているらしいことはわかった。
「よくよく考えてみれば、あいつ俺より大分年下だよな。なのに呼び捨てとは」
「おや、坊ちゃんがそれ言います?」
「うぐっ…………すみませんでした、セレネさん」
「…………。自分で振っておいて何ですけど、鳥肌が立ちました。やっぱり今まで通りでお願いします。あと、それから」
「ん?」
「私もライアンと呼んでも良いですか?」
再び彼女を見上げる。ずっと傍にいてくれた黒騎士は、いつもと変わらない穏やかな表情を浮かべていた。
「ああ、勿論。友達だからな」
先の魔王が現れてから、十年後。
神聖教会は、魔王を水晶の中に封じることに成功したと発表した。
正義の神アスタの神託に従い、その水晶は北にある『最果ての地』に厳重に封印されることとなる。
その後、魔王が現れることはなくなったが───最後の魔王と彼に従った黒騎士、そして幼い英雄がどうなったのかは、誰も知らない。
「願わくは、どうか、どうか幸せに───」
終わらせるための物語 三谷一葉 @iciyo
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