Long hair girls talk
アンが髪を長くした。
わたしは彼女の横顔を見ながら、
「恋をしてるの?」
と訊ねた。
思いがけず彼女は恥ずかしそうに俯いて、沈黙をもって逡巡したあとに、「うん」と肯いた。
冗談のつもりで聞いた、油断していたわたしの心が、ぎゅーっと締め付けられた。
山手線は、空いている。
平日の、真昼間。
ちょうど休みがとれたアンと、フリーターのわたしで、今日はデートの予定だ。ずっと公開を楽しみに待っていた映画を見に行く。近頃アンは忙しくて、こうして遊ぶのは何ヶ月ぶりだろう。久々に会ったアンは、以前よりも随分髪が伸びていた。黒くて、艶のある、しっとりと重たげに垂れた長い髪。
知らなかった。アンって髪が長いのも似合うんだ。いつもずっと短くしていたから、その印象が強くて、今日のアンはなんだか知らない女の子みたい。
アンの長い指が黒い髪をかきあげ、耳にかける。さっきよりずっと近くになったアンの横顔が、不思議な感情を表している。
「……恋をしてるの!?」
「だから、うん。って言ったじゃん」
「う、わー! なんで黙ってたのーっ」
「だって、ぜんぜん会えなかったから」
「電話してよー」
「そういう時間も、なかったし……」
「ねっ、その話、わたしが一番最初に聞いた? ねえ」
「あーもー、うるさいよ、電車だよ、静かにしてよ」
「ねえ、ねえ。わたしが一番?」
「そうだよ。サリーが一番。話すなら、サリーが最初って決めてた」
「やったー。よかった。ね、聞かせてね。あとでゆっくり、聞かせてね」
「はいはい……」
アンの頬が、ほんのり赤い。
唇が、もどかしそうに動いている。微笑みのような、恥じらいのような。
だからその顔を見て、ああほんとに恋をしているんだな、と思った。
わたしの胸がまた、ぎゅーって痛みを感じた。
この痛みには馴染みがある。
わたしは、アンが羨ましいのだと思う。なぜって、わたしは今フリーだし。恋人になりそうな関係の子も、いないことはないけれど、周りが見えなくなるほど好きってわけじゃないし。向こうがぐいぐい来るなら、受け入れてもいいかなーって、その程度だ。やっぱり、自分から好きになれる相手がほしい。だから今のわたしは、恋愛休憩中。
わたしは、いつも、アンが羨ましいと、ひどく嫉妬する。
アンが素敵な人と恋人になったときは、負けたくなくて、もっとすごい人を探した。有名人とか、お金持ちとか、すごくカッコイイとか、すごく優しいとか。そうして、アンに報告すると、目を丸くして「すごいねーっ」て言ってくれた。その瞬間、わたしは満足を味わうけれど、すぐに退屈に気づいてしまう。それで、せっかく頑張って捕まえた恋人に執着がなくなって、それどころか邪魔者のように思えてきて、だんだん遠ざけてしまうようになる。言い寄ってきたのは男のほうだけれど、別れを切り出すのもまた男のほう。いざそうなったとき、めちゃめちゃに傷つて、さんざん泣いて、スッキリしたらまた次へ。
あのとき、アンはすぐに恋人と別れてしまったんだっけ。
わたしは、いつだかの失恋のときに、髪を切った。
そのときに、「競争ね」と言ったのだ。
アンとわたしで、一緒に髪を伸ばしている。
わたしの髪に少し癖があるから、今並んで見ると、アンのほうが長いようだ。アイロンでがんばってまっすぐにしたら、わたしのほうが長いかもしれないけれど。
わたしはアンの髪に触れる。手ぐしで整えるように、髪をすく。
「やめれ」
アンが、少しだけ肩を遠ざけた。
「いいなあ、まっすぐで……アジアンビューティってかんじね」
「西洋人形みたいで、サリーのほうがいいけどな」
「でも、黒髪ロングって憧れじゃない、永遠の」
「そういうものかなあー」
「彼も、長い髪が好きなんでしょう? そっか、だから伸ばしてたんだ」
「べつに、そういうわけじゃない」
珍しく、アンの口調にキレがない。
「会社のひと?」
「違う」
「じゃあ、どこで出会ったの?」
「どかだったかなあ。忘れちゃった」
「運命的な出会い方をしたのね……」
「まあ、そうかもね」
何を聞いても、はっきりしない。
一体どんな相手だろう。
「どこを好きになったの?」
「どこって、言えるかな」
「なんとなく好き、ってこと?」
「そうじゃなくてさ。好きな人の欠点をいくつ挙げても嫌いになれない。それと同じ。どこを好きって言ったとして、例えばそれが失われてしまっても、多分私は、その人のことを嫌いにならない。そういう感じ」
「……わかんない。例えば?」
「はー?」
「もっと、わかりやすく言って!」
「例えばさあ……あたしは、長い髪が似合うサリーが好き。だけど、サリーが髪を切ってしまっても、それで嫌いにはならないでしょ。ってこと」
「なるほど……?」
アンの横顔が、すこしだけ、こっちを向く。
なんだかアンは、鼻の先までほんのり赤い。
思い出しているのかしら、好きな相手のこと。
その人のことを考えながら、例え話をしたのかしら。
わたしは胸がちくちくして、落ち着かない気持ちだ。
なにか、アンにできる話はないかしら。アンに「すごいね」って言ってもらえる話。それを聞いてもらえたら、きっと胸の落ち着かない気持ちも消えてしまうはず。
「あ、恵比寿。降りるよ、サリー」
電車のドアが開いて、ビールのCMで聴くメロディが流れる。
ごはんを食べて、映画を見て、カフェでだらだら過ごす。それが今日の予定。
恵比寿の東口から、やけに長い<動く歩道>に乗っかって、目的地まで運ばれる。
「髪をこんなに伸ばしたのって、子供の頃以来かもしれない。中学も高校も、ずっとショートカットだったし」
「うん。わたしの思い出の中のアンは、ずーっとショートヘアだよ。子供の頃は、長かったの?」
「そう。お母さんが、まだ私に様々な期待を傾けていた頃の話だ……」
冗談めかして言って、アンが遠い目をする。
「あはは、なにそれ」
「ピアノを習っていたの。母の趣味。で、発表会でおめかしするために髪を伸ばしていたし、パーマをかけていて、くるくるのふわふわで」
「ぶはっ! 見たい!」
思わず、思いっきり噴出してしまった。アンが神妙な顔をするのもおかしくて、つい。
「ぜんぜん想像がつかないな、その頃のアンの姿」
「私はね、サリーの子供の頃、見てきたかのように目に浮かぶよ。今とほとんど変わらないんでしょうね」
「当たり。見る? スマホに入ってる。お母さんが、時々アルバム見返してるみたいで、抜群にかわいいやつを写メって送ってくるんだ」
スマホを取り出し、カメラロールを遡る。そこには、わたしがお遊戯会で不思議の国のアリスを演じた――勿論主演だ――輝かしい写真が保存されていた。アンは、わたしからスマホを奪うとたちまちメロメロになって、「かわい~っ」と呻いて口元に拳を当てた。日本人ばなれした顔立ちと、ふわふわ天然パーマのロングヘア。水色のエプロンドレスに白い靴下に黒いエナメルの靴。絵本の中から抜け出してきたような、完成度の高いアリスがそこにいる。われながら、幼少期の姿はまるで妖精だ。
「サリー、やっぱり、髪は長いほうがいいねぇ」
「そうだねー。短くしていた時も、結局全然落ち着かなかったし。やっと、前と同じになってきた」
アンがわたしの髪に触れる。わたしも、アンの髪を触った。
「ちっちゃい頃のアン、見てみたいなあ」
「いや、残念だよ。ウェーブが悲惨に拍車をかけていて。サリーの写真を今見て思い知らされたけどね、お母さんの理想はこっちだな。私なんか白いワンピースを着た小さなマーティ・フリードマンみたいになってたんだから。ピアノ弾くってのにさ」
「なにそれ、誰ぇ」
アンはスマホで画像検索をして、話題の人物の写真を見せてくれた。もじゃもじゃロングヘアのギタリストだった。なんとなくアンの幼少期の姿に想像がついて、お腹が痛くなるほど笑う。
そうするうちに、わたしたちは目的地に到着した。妙に人工的に作りこまれた商業施設。レンガ造りの建物のなかに、様々なショップのテナントが並んでいる。
ごはんを食べるために、おしゃれな内装のハンバーガーショップに入った。いつもよりハイカロリーなランチを、他愛ない会話の合間にもりもり食べる。アンにたくさん質問をしたけれど、はっきりしたことは何一つ教えてくれない。彼女の片想いの相手について。
出会いのきっかけも、仕事も、共通の趣味も、二人の話題も、何も。その人物を想像する手がかりが一つもない。さすがに秘密主義が徹底している。わたしに知られたくないような相手なのかしら。
「……その相手は、実在の人物?」
「なに、その質問」
「このあいだ、友達の恋話を聞かされたんだけどね、なんか妙だなって思ったら、漫画の中の登場人物だったの。相手は高校生だとか言うから、面白いな、その高校の文化祭行きたいな、って思ったのにさ」
「なにそれ。バイト先の子?」
「そう。一生懸命聞いて、時間無駄にしちゃったー」
「ふーん。仲良いの、その子と」
「べつにー? お昼休みに喋るくらい」
「そうなんだ」
「で、わたしのことはいいの。アンの話をしてよ。ねえ、ヒントは? ヒント!」
「何のヒントだよ……」
「アンの好きな人のこと。知りたいじゃない。ねえ? 久しぶりだもん、アンのそういう話」
「興味ある? 私のそんな話」
「あるよーっ! 面白いもん。ねえねえ、どんな人か教えてよー」
「うーん」
アンはカリカリに揚がったポテトをつまんで弄んでいた。おしゃれなお店は、ポテトまで妙におしゃれだ。マクドナルドのポテトより細身だし、凝った香辛料が掛かっている。アンはポテトをつまんだまま、考え込む。
「その人はね、無邪気な人。子供みたいに。それで時々、私のことを傷つける。っていうか、私が勝手に傷つく。でも、許しちゃうんだな、私は。惚れた弱味っていうの、これ?」
アンが、ポテトにかじりつく。もうしばらくお喋りはしない、というサインだ。
「それは、アン、すっかり……惚れちゃってるのね」
アンは黙ったまま小さく肯いた。
時間がきて、映画館に入る。
赤い客席に並んで座る。食べ物も飲み物も持ち込まない。ただ、手元にハンカチだけ用意した。前評判を見た限り、きっと泣いてしまうだろうと思ったから。
予告編は手短に終わり、本編が始まる。
何ヶ月も前から楽しみにしていた映画だった。日本で上映されるかどうかも分からなくて、だけど小劇場を中心に配給が決まって、絶対に劇場で観たいと思った。おしゃれでキュートでアーティスティックで、せつなくてあたたかくてやさしいお話。ずっと楽しみにしていたはずなのに、わたしはアンのことばかり考えてしまった。
想い人のことを考えるアンの顔ばかり、浮かんでしまった。
それでずっと、胸の中がもやもやしていた。
どうしてだろう、って考えた。
アン。
わたしの一番の友達。
いつもあなたになんでも話す。
でも、あなたのなんでも話す相手は、わたしじゃないのかしら……。
ずきずき、胸が痛む。
この痛みには覚えがある、と思っていたはずなのだけど。
わたしも早く彼氏がほしい。そうしたら、アンを妬まずにすむ。アンに先を越されるのがきらいなのだ。わたしは、いつでもアンにすごいって思われていたいの。
でもどうして?
どうしてわたしは、そんなにアンを気にするの?
なぜって。
たぶん。
――あれ。
わたし、もしかしてずっと、ひょっとすると、この気持ちを誤解していたのかしら。
アンにすごいって思ってほしいのは、わたしのことを、素敵な人だと思ってほしいから。わたしは、アンの前で、自分を良く見せたくてたまらない。だって、アンに嫌われたくないから。だって、わたしは。
わたしはアンを好きだから。
あっ、と思った時には、目じりからぽろっと、涙がこぼれた。
――ずっとそうだった。
わたしはアンが好きだった。
アンにすごいって思われることが、わたしの何よりの誇りだ。
あの子に尊敬してもらえる。あの子に好きでいてもらえる。
そのために、わたしはなんでもできたのだ。
ずっとそうだった。
わたしはアンに恋してた。
思い返せば、まだ二人で同じ制服を着て、同じ教室で過ごしていた、あの頃から。
思い切り良く髪の短い、あのうなじを覚えている。
わたしの初恋はずっと続いていた。
そして今日、人生ではじめての失恋をした。
わたしが嗚咽をこらえて震えながら身も世もなく泣いていることに気づくと、アンは隣からそっと手を握ってくれる。泣いている理由を、アンは知る由もない。物語に胸を打たれたせいだと誤解しているだろう。それでいい。その温かさに打ちのめされて、胸が詰まって、涙はとめどなくこぼれていく。
アン。
わたし、あなたが好き。
わたしの初恋は、あなただったのよ。
どうして気づいたのが今日だったのかしら。
あなたはもう、好きな人がいるのにね。
映画が終わってカフェに入った。暗くなったテラス席で、わたしはハンカチに顔を押し付けたまま、アンに頭を撫でられている。
「ねえ。そんなに泣かなくていいじゃん。ほら、人が見てるよ。そんなにツボだった? 確かにいい映画だったけどさ」
正直なところ、映画の内容は途中から全然入ってこなかった。
わたしは自分が気づかないまま終わらせてしまった恋のせいで傷ついていた。
いまさらどうして言えるだろうか。
好き。アンが好き。わたし、アンが好き。
でももう、だめだ。あなたが恋している相手は、わたしなわけないもんね。
好きだよアン。どうして、気づかなかったんだろう。
わたしが感じたこの痛みは、傷ついていたからだ。アンがわたしじゃない人を見ている。それがすごく、いやだったからだ……。
「なんか失恋を慰めてたときを思い出すね。これ」
「……いつの話?」
答える声が、無様そのものの鼻声だった。アンが小さく笑う。
「いつだったっけ、あれって。冬だっけ。おでんを買った気がするし」
「……わたしまた失恋しようかしら。アンに慰めてもらうの、好きなの」
「そのために男に言い寄るの、さすがに相手がかわいそうでしょ。っていうか、そういう相手いるの?」
「そういう相手?」
いい加減鼻を噛み、拭いすぎて痛くなってしまった目元にもう一度ハンカチを当てる。
「サリーも、今、好きな人がいるのかなって」
わたしはアンを見上げた。アンは興味なさそうに、どこか別の場所を見ている。だからわたしは、アンをまっすぐ見つめたまま、肯いた。
「いるわ。好きな人。すごく好きなの……」
「ああ、そう。じゃ、うまくいくといいね、失恋するなんて言わないでさ」
「ううん。する。失恋、する。ぜったいよ」
「なにそれ。相手、既婚者か何か?」
「独り身よ。でも、相手にも好きな人がいるの……」
「なんだ。じゃあ、大丈夫だよ。ぜったいサリーのほうが魅力的だもん、心変わりするって」
「……わかんない。どーしてアンって、わたしのことになると自信満々に言うの」
「そりゃ、サリーのこと好きだからね」
アンはまだ、わたしのほうを見てくれない。
アンに好きって言ってもらえて、誇らしさが胸を癒す。でも、同じだけの冷たさが、胸の奥に染みる。わたしの求めるスキと、あなたがくれるスキが違う。だから、せっかくひきしめた涙腺がまた緩んで、ぽろっ、ぽろっ、と涙が溢れた。
慰めてくれるアンの手は優しさがいっぱいで、やっぱりわたしは、アンのことが好きだと思った。
気づかなかった初恋と、始まってしまった失恋を思って、わたしはしばらく、アンに甘えて泣いていた。
サリーとアンの物語 詠野万知子 @liculuco
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