いつか王子様が
サリーがまた恋をして、また失恋をした。
金曜の夜、電話で呼び出された私は、帰宅経路を変更してサリーの家へ向かっている。
『駅についたら電話して。声が聞きたいよ。』
LINEで届いたメッセージを見て、私は「おいおい」と思った。私は彼氏か。お前は彼女か。
「もしもし、サリー。駅についたよ」
今朝から天気が怪しくて、とうとう小雨が降り始めた。持ってきた折り畳み傘を開いて駅を出る。通話をハンズフリーにして、イヤホンをぐっと耳に押し込んだ。
「これから行くけど、なにか欲しいものある?」
『あのね。アイス』
耳の中に響くサリーの声は、想像通りに湿っぽい。
「アイスね。わかった、他には?」
『いらない。はやく来て』
電話越しに、死んじゃいそうな声がして、胸がぎゅっと潰されそうに痛む。と同時に、毎度のことだから、白けて呆れる気持ちも抱いた。
そんなに傷つくくらいなら、恋をしなければいいのに。
言う前から、サリーの返事に想像がつく。
したくて恋するんじゃないもん。気づいたら落ちてるの、恋に。
――はいはい。
脳内のサリーと応答していると、電話の向こうから実物のサリーの声が聞こえた。鼻をすすって、こほんと咳をする。
駅のそばのセブンイレブンに入って、湿った折り畳み傘を畳む。
カゴを片手に冷凍庫に向かった。
「アイスは何がいいの。チョコ? だいふく?」
『なんか果物のやつ。シャーベット』
「わかった」
答えるサリーの鼻声が、やっぱり子供みたいに響く。
『あのね、アン。運命を信じる?』
「さあね。サリーは?」
『わたしはね、信じてたの。あのね、いつも、運命の人だって思うんだよ。でも結局こうなっちゃうの。ねえどうしてかな』
「聞くよ、話聞く。とりあえず買い物する」
「うん。待ってる」
ぐすんと鼻をすすって、サリーが黙り込んだ。
吐息の気配だけが耳の奥に響く。通話を切るのがさみしいらしい。
『あ。おでん。おでんも買って』
「えー? わかった」
『具は任せるから。でも大根は入れてね』
「了解」
選ぶのが面倒臭くて、大根を四つ買った。あと、餅きんちゃくも2個。仕事上がりで、晩御飯もまだで、私はお腹がすいているのだ。腹もちのいいものが食べたかった。もう夜の十時だけど。
コンビニを出て、傘を持つ手にアイスとお酒の入った袋を、もう片方の手におでんの袋をぶら下げる。通勤かばんはショルダーバッグ。荷物でいっぱいになった私はいまものすごく無防備だ。転んだら受け身も取れないだろう。
『アン。いまどこ?』
「今、川が見えた。橋を渡るよ」
『じゃあ、もうすぐね』
サリーの声に、少し元気が戻る。私なんかがこの子を励ますことができるなんて、なんだか不思議だ。でも、そのことに、私は誇らしさを抱いてしまう。
サリーのマンションが見えてきた。鍵を開けてもらうためにインターフォンを鳴らす。と、イヤホンの向こうからも同じ音が遅れて聞こえた。
『開けたよ、アン』
インターフォンと、イヤホンの両方からサリーの声がする。
自動ドアをくぐって2階へ。ここは私の住むアパートよりも何もかもが上等だ。オートロック、建物のつくり、部屋の広さ。サリーも職に就いているけれど、いまだに心配性の親から仕送りをもらっているらしい。それを足しにして、一人暮らしにして1LDK、風呂トイレ別(追い炊きつき)、独立洗面台とウォークインクローゼットと床暖房完備という物件に住んでいる。都内で、だ。ただし駅から徒歩15分。これは不動産側の概算で、私の体感では20分はかかったと思う。サリーはここからバスで通勤している。バス停までは徒歩三分でとっても便利。だから駅から来るやつの、つまり私の都合など知ったこっちゃないのだろう。
301号室。角部屋だ。玄関のドアを引くと、鍵がかかっていなかった。
部屋は綺麗にしてあって、ちょっとした家具も気がきいたかんじでおしゃれだ。でもやっぱり広々としていて、天井も高いし、こんな部屋に住んでいたらそりゃあ寂しくもなるよな、と思う。
「お風呂沸いてるよ。入る? それとも、ごはん?」
私が勝手に上がってきたのを察して、サリーが現れた。新妻のようなことを口走る彼女の様子は一見すると平常運転だ。でも、目のまわりがほんのり赤く腫れている。
「お腹ぺこぺこ。まず食べよう」
サリーの家の大きなお風呂は魅力的だが、まずは空腹を満たすのが優先なのだ。
サリーは十八時に仕事を終えて帰宅して、すっかりお部屋でくつろぐ格好だ。見たところ、今回は髪の毛は無事だった。ひとまずは安堵を漏らす。
私はサリーに部屋着を借りて、人が住めそうな広さのクローゼットに脱いだスーツをかける。
居間にあるのは大きなソファとローテーブル。その正面には37型のテレビがひとつ。奥の壁にベッドが寄せてある。カーテンの色は淡いオレンジで、ベッドのカバーと同じ柄だ。
ソファでくつろぐサリーが、おでんの容器を覗き込む。そこに大根が四つ浮かんでいるのを見つけてくすくすと笑った。
「もう、なんで大根ばっかりなの~」
「でも、ほかのやつに興味なかったでしょ」
「そうだけどぉ」
ひとしきり、サリーが楽しそうに笑う。ツボに入ったようだ。
以前の失恋で切った彼女の髪は、今やっと毛先が肩につくくらいで、一緒に伸ばし始めた私の髪も同じくらいの長さになった。
笑うたびに彼女の頭が揺れると、その髪もふわふわと弾む。
「はあ。……」
笑い終わってふうと息を吐いたとたん、サリーの目からぽろっと涙がこぼれた。
「……どうしてかなぁ」
「何よ」
「運命の恋ってあるのかなあ」
「さあねぇ」
「あのね、わたし、お姫様になりたい」
「はあ?」
サリーは確かにちょっと箱入りのお嬢様なところがあるけれど、さすがにこんなにお花畑な脳みそをしていなかったはずだ。今度こそだめになったのか。泣きすぎて脳を溶かしてしまったのかもしれない。
不安になって、サリーの目の前に手をかざし、人差し指を立ててみた。
「よく見てサリー。これは?」
「手」
「手じゃねーよ。指の数は?」
「五本」
「そうだね。聞き方が悪かったね。もういいや。サリーはお姫様になれる。なれるよ。じゃ、この話はおしまいね」
「うそ。うそだからぁ。話を聞いてよぉ」
サリーが私にすがる。アドバンテージを握っているようで愉快だ。
「で?」
詳しく解説を求めると、すんと鼻をすすって、サリーが改めて口を開いた。
「わたしがなりたいのはね、呪われたお姫様なの」
「なんでまた、そんな不吉なお姫様がいいのよ」
思い浮かぶのは、魔女に妬まれた白雪姫や、両親のとばっちりを受けた眠り姫の物語。
「だってね、眠り姫も、白雪姫も、魔女に呪われて眠ってしまうでしょ。もしわたしが呪われたお姫様だったらね、物事がとてもシンプルになるのよ。例えばだけど、あなたとわたしがキスをして、わたしの呪いが解けたら、あなたがわたしの運命の人だって分かるわけ」
「私を例えに巻き込まないでよ」
「呪いが解けなかったら、やっぱりこの気持ちって勘違いとか気分のせいとか一過性のものだってわかって、すっきり気持ちを切り替えられたと思うの。『はいじゃあ次の方どーぞ』って。そうなったら良かったんだ……」
「好きでもない不特定多数相手とキスをするのは嫌だなあ」
「たとえ話よ。たとえ話……」
そう言いながら、サリーは濡れた瞳に割と本気な羨望を宿らせている。
「だって、いつも、この人って思うのに。結婚するならこの人。幸せになるならこの人。でも結局そうならないの。それなら、最初からわかってればいいのに。そしたら、むだに傷つくことなんかないでしょ」
「まあ、確かにね」
想像してみる。
サリーはお姫様だ。袖のふくらんだドレスを着て、エリザベスカラーを肩に乗せている。頭の上には宝石を散りばめた銀の冠。うん、想像がつく。当たり前のような顔で、立派な玉座に腰掛けている。赤い絨毯が、果てまで続いていて、その上に国中の人が行列をつくって彼女に会えるのを待っている。
これは検査だ。ここはお姫様の運命の相手を調べるための検査場だ。
一人一回、サリーとちゅっとキスをして、ハイ次の人。次の人どうぞー。お疲れ様です、はい次の人。
やがて、サリーは運命のキスを経験する。ちゅっと重なった唇から、体中に電流が走るような。雷に打たれたような衝撃。二度と忘れられない激烈な高揚感。自分を戒めていた呪いが解けて、体が軽くなっていく。
そのキスの相手が、運命の人だ。
姫は立ち上がり、運命の人の腕をとって、宣言する。
この人です。
『この人が、わたしの運命のひと!』
――なんという雑な世界だろう。
「……でもさ、白雪姫やオーロラ姫だって、なんか恩を感じて仕方なくみたいに王子と結婚したかもしれないじゃん? 命の恩人だしな~、って具合に。案外、キスする相手は誰でもよかったのかも。気に入る相手が来るまで寝たふりしたりして。相手は王子だし、お金持ちだし、これだ!と思って目を覚ましたのかもね」
「アン。あのね……」
サリーは何かを言おうとして、途中であきらめたようだった。大根にかぶりついて言葉を濁す。ロマンがない私に呆れているのだろう。知ったこっちゃない。
「……それとも、わたしが王子様だったらよかったのかな。あの人たちの呪いを解いてあげられたらよかったのかな」
サリーは過去に付き合った男性を振り返って溜め息をついた。歯科医師とか、9歳年下の学生とか、大学院生とか、見習いパティシエとか、塾講師とか。
みんな、当たり前だけど、なにか抱えた人たちだった。私やサリーと同じように、あるいはコンビニの店員や、駅員や、ディズニーランドのキャストたちとも同じように。
つまりは、ふつうの人だった。ふつうに悩んで、ふつうに苦しんで、ふつうに鬱屈した、ふつうの人。
「あのね。彼は煙草をやめたんだって。わたしと付き合ってるときは、禁煙したくても全然やめられなかったのに。彼には今付き合ってる人がいるのね。その人のおかげでやめられたんだと思うの」
サリーが言っているのは、サリーを振ったやつの話だろう。
そいつは過去にサリーと付き合っていて、でも別れて、最近になって再会した。
またいい感じになって、付き合うのかなと期待を募らせたサリーを振ったのだ。
『今、付き合ってる人がいる』と言って。
そこまでは、昨日のうちにLINEで聞いた。
「……そういうのが、呪いを解くってこと。運命の相手だったの。いい方向へ行かなくちゃ。一緒にいることで、幸せになれる相手が、運命の人ってこと。わたし、わたしはね……だめみたい。どうしてかなぁ」
サリーの声が震えて、水っぽく湿っていく。床暖房のフローリングに、ぽつぽつと雨が降る。
ああ、もう。困った子だ。
私はあなたを励ますことができる。そのことで、私はとても誇らしくなる。だから、私は幸せを感じる。
サリーはどう思う?
一緒にいて、幸せになれたら、運命の人だって言うなら、どう思うの?
聞けるわけがないから、私は知らんぷりをする。
「アイス食べようか」
そう提案するとサリーは賛成してくれた。アイスを取りにいって、どっちがいいかを選ばせる。ゆずのシャーベットと、フランボワーズのジェラートだ。サリーはリクエストの通り、ゆずのシャーベットを選んだ。
ぼーっとテレビを眺める。騒がしいタレントの笑い声やBGMの合間に、しゃくしゃくとアイスをつつく音がする。時折、「はあ」と大きなため息も。
テレビは、チャンネルを変えても変えても恋の話題でいっぱいだった。
なぜなら時は西暦2016年。日付は2月12日。
ああそうか、サリーは日曜日に彼をデートに誘おうとして、決定的に振られてしまったのだなあ。それまで曖昧にしていた男も、憎たらしいけれど……。でも、ほんの一粒ほどの誠実さが、あるいは臆病さが、それとも罪悪感が、彼を正直者にしたのだ。全くもって自分本位な正直者だ。
CMが流れて、幸せそうなカップルと、ディズニーランドの夜にはじける花火が映る。浮かれた耳のカチューシャをつけて寄り添う二人のシルエット。最先端の技術でお城に映し出される、名作アニメ映画のワンシーン。王子様とお姫様のリトマス試験紙みたいなキス。末長く幸せに暮らしました、めでたしめでたし。
「ねえサリー。キスしようか。試しに。運命感じたりして」
ソファに隣り合って座る彼女の顔は、今私の肩に乗っかっている。吐息がかかるすぐそばに。サリーは木のスプーンをくわえたまま、「ん?」という顔をして私を見上げた。泣き疲れて腫れぼったい目。アルコールで酔っている上に、泣きすぎて発熱しているんじゃないか。そう疑うほどサリーの頬がピンクに染まっている。
もちろん断られるつもりで何気なく言ったくせに、遅れて胸がドキドキしてきた。体中の毛穴が開いて、熱風が噴き出ている気がする。
サリーは口から木べらを引き抜いて、ぺろっと唇をなめた。
「いいよ、キスしよ」
けだるげに、なげやりに、自棄っぱちに、サリーが言った。その意味を理解する前に、サリーの腕が私の頭を捕まえて、私の唇に唇を重ねる。女の子の唇は、想像以上にやわらかい。マシュマロよりも儚い感触。ほのかにゆずの香りがする。
これは雷に打たれたような衝撃だろうか。二度と忘れられない激烈な高揚感だろうか。自分を戒めていた呪いが解けて、体が軽くなっていく実感はあるだろうか。分からない。ないと思う。でも、アイスで冷えた唇が、あっという間に温かくなって、自分の体をぐるぐると血流がめぐっていくのが分かる。つまり、心臓がものすごく早鐘を打っていて、貧血になりそうだ。
「アンの唇、冷たいね。木苺の味する」
食べかけのアイスに差した木べらを再び咥えて、サリーは何ともない様子で感想を述べる。その態度からは、とても運命を感じたようには窺えなかった。当然と言えば、当然だけれど。
「サリーはゆずの味だったよ」
「あはは。おいしいよ、ほら、アーン」
木べらですくったアイスを口に放り込んでもらうと、熱を帯びた身体に心地よかった。口の中でアイスを溶かしていると、ゆずの香りが広がって、さっきの衝撃がよみがえってしまう。
「もう一口いる?」
「いらない。ゆずとは分かりあえない」
「意味わかんない。ゆず嫌いだったっけ」
「ううん。でも、しばらくは距離を置いて関係を見つめなおしたい」
「なにそれ。へんなのー」
サリーは、今さっき友達とキスしたことなんかなかったみたいにふるまっている。
ああ、なるほど。今になってやっと、私もサリーの気持ちがわかった。
このキスがリトマス試験紙で、目に見える結果になって、運命を教えてくれたらいいのに。<あなたは運命の人じゃありませんよ。だから、早く諦めて次へ行きましょうね。>はっきりそう分かるなら、私だって気が楽だ。
「確かに、お姫様は羨ましいかも」
「でしょ!」
私の意図も知らずに、勢いこんでサリーが答えた。それからふと、トーンダウンして、ぽつりと呟く。
「明後日、ディズニーランドに行こうか」
「絶対やだよ。絶対混んでるじゃん」
「花火だけ見て帰ってこようよ」
「女二人で? みじめなバレンタインデイだなー」
「それから、何かおいしいもの食べて帰ろう」
「――いいよ。わかった付き合う。サリーを励ます会だね」
サリーが笑う。その笑顔が嬉しいから、わたしは自分に呆れてしまう。
きっと、その日、サリーを振った男は恋人と一緒にどこかでデートしているのだろう。
サリーだって、その日そんなことを考えられないくらいに楽しく過ごせばいいのだ。
そのために、私は貴重な日曜日を捧げるくらい構わないよ。
「好きよ、サリー」
つとめて何の気持ちもこめず、言葉だけを伝える。
「うん。わたしも、アン大好き」
予想した通りの、意図の異なる好意を返してくれるサリーが、愛しくも憎たらしい。
寄り添う二人の腕の先で、指と指が重なる。
ぽかぽかと温まった指先で、お互いの指を撫であった。
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