四話

「よっ。九時きっかりに来たよ」

「きっかりって言ったって一秒二秒ずれて——うわ、本当にきっかりだ」

 片手を挙げて携帯電話を突きつけてくる瑠璃。まさしく寸分の狂いもなく九時きっかりに俺の家に来た瑠璃は、外行きの格好だった。

「そんなにお洒落しなくても良かったのに」

「初めてのデートだもん、お洒落ぐらいするよ」

 瑠璃は口に手を当てて、意地悪に微笑んだ。そんな彼女がいつもより魅力的に見えたのは、これからの天体観測への高揚感のせいか、彼女がいつもとは違う可愛らしい服を身にまとっているせいかはわからなかった。

「よし。それじゃあいくか。——いってきます」

 軽食を入れたビニール袋を手に、俺は家を出た。数秒遅れて、母の「いってらっしゃい」に送り出され、少しばかりの勇気をもらう。母には、「風香の命日だから思い出の場所で過ごしたい」と説明をしてきた。だからだろう。母の言葉に、少しだけ不安が垣間見えた。

 でも、不安なんてしなくてもいい。俺はただ、決着をつけてくるだけなのだから。

 それから一時間。浮ついた瑠璃と二人で星の話をしたり、学校の話をしながら盛り上がって——ついに、『秘密基地』に到着した。

 ただの原っぱ、ではない。秘密基地と呼んでいたのは、近くに小さな小屋があったからだ。家主なしの小屋を、俺と風香は物置小屋として使わせてもらっていた。だから、写真の裏に書いてあった手紙も、その小屋にあるはずなのだ。

「風香……」

 一心不乱に——それこそ瑠璃を忘れる勢いで俺は小屋に向かった。あの日から変わらない中身だ。家具なんて何もない、本当に雨風を凌ぐためだけの小屋だ。だからこそ、手紙はすぐに見つかった。小屋のど真ん中に手紙は置いてあった。

 あの日から一度も見つけられることなくここで佇んでいた手紙は、埃にまみれている。俺は逸る気持ちで手紙を拾い上げ、埃を払う。そして、封筒から中身を取り出して——

『私の愛する人紫苑へ

 どう? 元気にしてる? たぶん私がいなくて寂しいかもしれないね。もしかしたら、すぐ見つけてくれるかもしれないし、おじいちゃんになってからかもしれないけど……。あんな風に本の下に隠しちゃったらわからないよね。いや、でもこの手紙を読んでくれるってことは見つけたってことか。

 全然書くことがまとまらないから、少しだけ。

 実はね、もうすぐ引越しする予定だったんだ。それも今の街からすごい遠い場所。それに私のお母さんとお父さんは私に暴力を振るってたからさ。紫苑と一緒にいる時間だけが私の楽しみだったから、引っ越したら生きていけないと思ったんだ。私が弱いんだってことくらいわかってるけど、でも紫苑がそれくらい好きだから。

 私が紫苑にどれだけ捧げられるって聞いた時に、俺の全てだって言ってくれたよね。すごい嬉しかった。もう紫苑以外何もいらないって思った。たぶん、あの時のことは死んでも忘れないと思う。って、これは言い過ぎだったかもしれないね。

 結局長くなっちゃった。それで私が伝えたいのはさ。私のことは忘れて、とは言わないけど、他に好きな人を見つけて欲しいんだ。私の願いだけど、紫苑は私のことをまだ好きでいてくれてると思う。でもさ、私はもう十分幸せだったから、紫苑にも幸せになってもらいたい。私に捧げると言ってくれた紫苑の全てを、他の人に捧げて欲しい。

 これくらいかな。他にも書きたいことはたくさんあるけど、ちょっと長ったらしいからね。

 ありがとう。』

 そこで一枚目が終わり、封筒の中を覗いてみると、小さく折られた紙と、一枚の写真が入っていた。それを取り出して、写真と二枚目の手紙を読んで——、

「くそ……。そんなに想ってくれて、こんなことするんだったら、自殺なんてするんじゃねえよ……」

 心からの願いを吐き出す。でも、届けたい相手はもういなくて。涙の粒で濡れた手紙と写真をポケットに入れて、俺は膝から崩れ落ちた。

「紫苑? どうしたの?」

 遅れて小屋に入ってきた瑠璃が、泣きながら地面に膝をつく俺を見て、不安げに問う。

「……一年前にさ、夏に突然転校した子覚えてるか?」

 だが俺は瑠璃の質問に答えずに、しかし彼女はさもそれが当たり前であるかのように俺の質問に答える。

「私が入部するちょっと前だよね? たしか……菊池きくち風香さん、だっけ?」

「そうだ。その人——風香はさ、俺の彼女だったんだ。中学一年生の頃から付き合ってて。仲が良いって自負してた」

 自負していたのだ。実際そうだったと思う。それなのに、風香は俺に何も相談してくれなかった。虐待を受けているという雰囲気でさえ、悟らせてくれなかった。そして、我慢して、我慢し続けた風香の心の変化に気づけなかった。

「でも、俺のせいで、風香は自殺したんだ。あれは転校なんかじゃなかった。親に虐待されてて、俺が気づけなくて、風香はそれに耐えられなくなって……」

 話しながら、笑えるほどに涙が溢れ出る。これからあと一年間、一緒に部活をやっていく仲間の前で醜態を晒してしまう。

「うん。大丈夫、大丈夫だよ」

 瑠璃は俺と同じ高さまで腰を下ろして、泣き崩れる俺の肩を抱き、幾度も「大丈夫」と声をかけてくれる。その度に、凝り固まっていた心が優しくほぐされ、負の感情に隠れていた悲しみが飛び出してくる。

「それから一年間、ずっと、ずっと考えてたんだ。何かできたんじゃないかって。あの時、風香の手を握れたら、今もまだ生きてたんじゃないかって」

「うん」

「そしたら瑠璃もいて、三人で——いや、もっと大人数で楽しめたんじゃないかって。俺があの時、ちゃんと風香の手を掴んでたら……!」

「うん」

 自分を責める言葉が次から次へと湧いて出てくる。

「その前も! 風香が長袖しか着ないことはわかってた。それなのに、俺は日焼けが嫌なんだとか、そんな風にしか思ってなかった!」

「————」

「もっと昔から、ちゃんと悩みを聞いてあげればよかったのに! それをしなかったから、風香は自殺するまで俺に話してくれなくて! それが、悔しい……! 話を聞くことさえできない自分が、憎い……!」

 あの日から続いた後悔を、怒りを、憎悪を吐露する。思いのままに、ひた隠しにしてきた思いを。

 それからどれくらいの間、泣き喚いただろうか。三十分——いや、もっと長かったかもしれない。やがて、喋る気力もなくなり嗚咽だけを漏らして瑠璃の肩に頭を預けて、瑠璃はゆっくりと、俺の反応を確かめるように口を開いた。

「紫苑はさ」

 そうやって前置きをして、瑠璃は俺の頭に手を置いて言葉を続ける。

「自分のせいだって言うけど、私はそうじゃないと思う。風香さんとは話したこともないし、紫苑とどれだけ仲が良かったのかも知らない。知らないから、知ったような口しかきけないけど——」

 一瞬、時が止まって——止まるような感覚を得て、

「紫苑は悪くないよ。風香さんが亡くなったのは、全部風香さんの両親のせい。だから、上を向こうよ。下を向くなとまでは言わないから。時々思い出して、悲しくなってもいいと思う。それでも、上を向いていこうって、そういう気持ちは大切にしてほしい」

 いつもの瑠璃からは想像できないような言葉たちが、彼女の口から飛び出した。他の人から今の言葉を語られていたなら、「お前に何がわかる」と怒鳴っていたかもしれない。でも、相手が他の誰でもない瑠璃で、俺の話を全て聞いてくれたから、心に染み渡る。全身を駆け巡る。

「俺は、俺を許してもいいのか……?」

「当たり前でしょ。もし紫苑が許せないなら、私が許すよ。もし紫苑だけじゃ耐えられないなら、私も一緒になって耐えるよ。だから、前を向こう」

 瑠璃は俺の頭を撫でた。優しく慈しむように、しかし強い意志が込められた瑠璃の手つきに、俺が苦しめられてきた後悔という鎖から外してくれる。怒りと憎悪という重荷を下ろしてくれる。

「ありがとう……ありがとう……!」

「いいえ。私の方こそありがとうね。風香さんのこと、話したくなかったのに話してくれて」

 お互いに感謝しあって、少しふらつく足取りで小屋を出た。

「あっ」

 二人の声が重なる。

 夜空に浮かぶ星たちを遮るものが何もない山。少しの光も、背の高い木も。ただ星を見るためだけに存在しているかのようで——ただその星空に思いを馳せるためだけに存在しているそこで、俺と瑠璃は煌めく流星群を見た。

 輝きは止まっている星たちと変わらない。それなのに、流れ星はどこか輝いているように見えた。

「綺麗だね……流れ星」

「あぁ……本当に綺麗だ……」

 もう、この場所で誰かと一緒に星を見ることなんてないと思っていた。でも今、瑠璃と一緒に星を見て思う。また来年も見に来るのだろう。今度は誰となのかはわからない。ただ、それが願わくば瑠璃であってほしいと思えて。

 手紙に書かれていたことを思い出す。他に好きな人を見つけてほしい、そんなのありえないと思った。それに今でも思っている。だけど、もし好きになるとしたら瑠璃なのだろうと、そう確信できる。少なくとも、彼女が俺の心を救ってくれたことは確かだから。

「瑠璃」

「なに?」

 お互いに見つめ合い、数秒だけ沈黙が流れる。その気恥ずかしい時間は永遠のように感じた。

「……ありがとう。突然なのについてきてくれたことも。俺の心を救ってくれたことも感謝してもしきれない」

「いえいえ。私がそうしたくてやっただけだから。——で、どう? 私のこと好きになった?」

 いつもと同じ質問で、いつものふざけた感じとは違った。この場の雰囲気を和ませようとした瑠璃の言葉は、一歩間違えれば場違いで。だけれど、その言葉が彼女の優しさからくるものだとわかっているから——。

「今は好きじゃないよ。でも」

 ——瑠璃になら、俺の全てを捧げてもいいかもしれない。

 いつもと同じ質問に、いつもと違う返事をする。そうしてポケットから小さな手紙と手のの大きさと同じ写真を取り出す。

『私も私の全てを紫苑に捧げたいけど、それはもうできないから、思い出。二人で過ごしてたっていう思い出を紫苑にあげる』そんな言葉が書かれた手紙と、あの日二人で撮った写真。今はもう、風香と過ごした思い出が——風香自身がすぐそばにいるから。

「いや、なんでもない」

「えっ? なんて言ったの? もう一回、もう一回だけ!」

 でも、の後はまだ言わない。言えない。たぶん、その時が来たら言うことになるだろうから。今はまだ、瑠璃に捧げられるのはこの小さな手のひらだけだ。手を繋ぐために、彼女の頭を撫でるために。だから、いつか全てを捧げられると思うその日が来るまで、彼女には我慢してもらおう。

 そんな俺の心の内を知らずに、どこか嬉しそうにはしゃぐ瑠璃を適当に流しながら、俺は流星群に少し遅れて空を横切った流れ星を見た。それは他と比べて緩慢と動いていて——まるで、願いを込めるなら今だぞと言わんばかりだ。

 だから、心からの願いを一際目立つ流れ星に込める。

 ——必ず、風香の分の幸せも掴みとれますように。




 流星群が訪れた夏の夜。人気のない小さな山で男女が二人。彼らはいつかの少年少女のように手を繋いで、しっかりと上を向いて満天の星空を眺めていた。

 ——長く、長く、眺めていた。

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君に捧げる小さな15センチ。 syatyo @syatyo

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