三話
「ねえねえ! 部室で一緒にご飯食べない? どうせ紫苑のことだから一人で食べてるんでしょ?」
翌日の昼休み。教室で授業の後片付けをしていた俺の元に、瑠璃がやってきた。恒例の大声で偏見を語り出す彼女は本当に芯があるというかなんというか。しかし、そんな彼女の芯をへし折らなければいけないのは心が痛い。
「毎日一人で食べてるわけじゃないし、瑠璃に言われなくたって部室で食べる予定だったよ」
「やっと私と食べる気になってく……」
「昼休み特別補習だ。来週の火曜日に『夏休み直前確認テスト』があるの忘れてるだろ。もし今のまま瑠璃がテストを受けたらどうなる?」
「赤点、です……」
言った色とは真逆に、瑠璃の顔はみるみるうちに青ざめていく。俺の言葉足らずで勘違いをさせた挙句、地獄に叩き落とすようなことになってしまったことは申し訳ないが、そこは致し方ない。危機感のなさが招いた不運だと思ってもらうことにしよう。
しかし、その不運も裏を返せば幸運なのである。
「赤点を取ったら?」
「夏休みに補習があります……」
「よし。天文部が廃部にならないためにも勉強するぞ」
「……はい」
珍しく、しおらしい返事をした瑠璃を横目に、俺は教室の壁にかけられたカレンダーを確認する。来たる火曜日。確認テストと銘打った成績下位者ふるい落としテストが行われる。もしそこで赤点を取れば夏休みに補習。夏休みに補習があれば、無論、部活動など許可されるはずもない。従って、彼女の部活動が許可されなければ、最低ラインである天体観測も行えず、廃部への道まっしぐらというわけだ。
かくして廃部を防ぐべく、俺と瑠璃は天文部の部室に向かった。一線校舎四階の端。屋上へ続く扉に一番近い部室だ。昔は天文部も栄えていたらしく、それなりに大きい部室が名残として残っているのだが——、
「はぁ……こうして散らかった部屋を見ると俺たちが、どれだけ堕落しているかがわかるな」
俺は机が机として機能していない状況を見て、呆れるように嘆息する。そもそも片付けが得意とは言えない俺と、イメージ通り大雑把な瑠璃のことである。さして使わない机の上を片付けるはずもなく、まして部員が二人だけならば尚更だ。
「それなら今日の勉強は延期ということにできませんか?」
「却下だ。ほら、そこに置いてある本をどかせばスペースできるだろ」
言いながら、俺は端が折れまくった雑誌を応急処置的に机の端にどかして、本に隠れていた『それ』を見て、
「すげぇ……」
と、ありきたりな感動を口にした。雑誌に埋もれていた『それ』は心の底から思うすごいと思えるものだった。
「本当に綺麗だね……」
いつの間にか俺の背後から『それ』を覗いていた瑠璃が、俺と同じくありきたりな感動を漏らす。しかし、それも仕方がないことだった。ありきたり——と言えば言い方が悪いが、人間の本能からの感動がこみ上げているのだから。
手ほどの大きさ——十五センチくらいだろうか。小さく、とても画質がいいとは言えない写真だ。それなのにその写真は——いや、写真の中に切り取られた世界は、それがただのプリントアウトされた画像であるということさえ忘れさせるほどに、幻想的で美しかった
——『それ』は流星群を写した写真だった。
「ちょっと画質が荒いけど……って、紫苑?」
見たままの感想を述べる瑠璃は、呆然と写真を見つめる俺に気づいて俺の肩に手をかける。そうされてやっと、自分が十五センチの世界に吸い込まれていたことに気がついた。
「いや……なんでもない」
「なんでもないって、なんか変だよ?」
「いいんだ。本当に、綺麗だなって、思っただけだ」
なんでもないわけがないことなんて、俺が一番わかっていた。動揺を隠すのは得意だと自負していても、瑠璃に勘付かれてしまうほどには心が揺れ動いていた。それも仕方ないことだと思う。なぜなら、
「なんであそこの写真がここにあるんだよ……」
一年前の『あの日』——家の近くの山で眺めた星空と全く同じ星空が写し出されていたのだから。
「紫苑? この写真がどうかしたの?」
「いいや。ちょっと懐かしいなって思っただけだ。なんでもない」
「ふーん……それならいいけど」
瑠璃は納得していないと言いたげに相槌を打って、しかし疑問を俺に投げかけることはせずに、「でもさ」と前置きをして言葉を続けた。
「本当に辛い時は私に話してよ。私が紫苑のことを好きだからとか、そういうのは関係なくて——ほら、一年も同じ部活仲間として頑張ってきたんだからさ。友達として、相談してよ」
そう話す瑠璃の顔はどこか切なかった。あくまで友達としてしか相談を聞けないからなのか。それとも、友達としてでさえ相談をしなかった俺のせいなのか。もう一年も一緒にいるのに、それだけはわからなかった。わからなかったから、
「ありがとう。瑠璃の気持ちは嬉しい。けど、瑠璃に話すほどのことでもないよ」
今更、俺の心にへばりつく後悔を話すことなんてできるはずがなかった。一年間も引きずり、誰にも言えなかった『あの日』のことなんて。この一年間で、いくらでも話す機会なんてあったのに——それこそ、告白のたびにその話をする機会はあったのに。
「わかったよ」
瑠璃の顔から切なさが消え、ぎこちない笑みが浮かぶ。その様子に、罪悪感と嫌悪感を抱えた。瑠璃に気を遣わせてしまったことへの罪悪感。まだ『あの日』のことを引きずる自分への嫌悪感。その二つを確かに胸に抱え込んで、ふと写真を手に取り裏を見て——、
「瑠璃」
俺は真っ直ぐに瑠璃を見つめた。なんて自分勝手でなんて自分本位なのだろうと、二重の自己嫌悪が胸を締め付ける。でも、手に握った十五センチの中に——否、十五センチの裏に書いてあった言葉が目に焼き付いて離れないから。
「明日、星を見に行こう。テントも何もいらない。準備なんてしなくていい。ただ、星を見に行くんだ。——そうしたら、瑠璃に全部を話せる気がするから」
瑠璃に『あの日』のことは話せないと無理に理解させた。それなのに、数秒後には話せる気がするとほざいて。付け加えて、突飛なわがままさえ押し付けた。もし俺が瑠璃の立場なら、とうに関係を切っていた。それほどに自己中心的だと思う。それは客観から見た瑠璃なら尚更なはずなのに、
「……わかった。本当に、紫苑はわがままだね」
瑠璃は今度は嬉しそうに笑った。その姿を見て、俺は写真を持っていない方の拳を握りしめた。
『あの日』から明日でちょうど一年。ニュースを見る限りでは、今年も『あの日』と同じ夜十一時に流星群が見られるらしい。そのことに、偶然とは違う——運命を感じながら、俺は一年前の後悔と決着をつけるために山に向かうことにした。
俺は震える手で、『もし見つけたなら、秘密基地に行って。そこに私からの手紙があるから読んでね』と書かれた写真をポケットにしまい込んだ。
夏の風物詩とも言えるけたたましい蝉の鳴き声が鳴り響く夜。俺はベッドの上で寝転がり、跳ね回る心臓を抑えるのに必死になっていた。
結局、写真を見つけてからは勉強をするはずもなく、二人で世間話をしながら昼食を食べて、昼休みは終わった。もちろん部活にいそしむやる気も起きなかったから、顧問の先生に許可をもらって、今日は休みにしてもらった。
無論、瑠璃もそれに従ってくれた。本当にわがままだったのはわかっているが、それでも文句ひとつ言わない瑠璃には感謝してもしきれない——もしくは、彼女自身も『あの日』のことを聞きたいからという自分勝手な理由を秘めているのかもしれないが。
どちらにしても瑠璃に迷惑をかけ、勉学を疎かにしてまで俺がしたかったことは——何もしないことだった。
「風香……」
一人の幼馴染の名前を呼ぶ。家が隣同士で、それこそ俺の部屋にある窓から手を出せば、風香の部屋の窓に届くほど近くて。よく遊んだ仲だ。その仲から、中学校に上がったと同時に恋人という一つ上の段階に上がった時の喜びは忘れもしない。
そして、一年前。風香が自殺した時の絶望は今も俺の心にへばりついている。
「やっぱり、会いたいよ」
呟き、天文部の部室で見つけた写真を呆然と見つめる。
『あの日』も、この写真のように——いや、全く同じ星空だった。流星群が見られるというニュースを聞いて、窓越しに目配せをして急いで山に登ったのだ。なぜかお互いに星が好きで、近くの山の頂上を『秘密基地』と呼んで、そこでよく星を見ていた。だからその日も、いつものように星を見に行った。
予報通り、流星群は訪れ、俺は心から感動した。そして、彼女の心が読めるわけではないけれど、風香も同じく感動していたと思う。
——だから俺は、あの時の風香の異変に気がつけなかった。
「あんなこと言う奴じゃなかったもんな……今思えばすごいあからさまだった」
今更だ。あの時の風香の心のうちで渦巻いていた闇を理解するには遅すぎる。遅すぎるからこそ、後悔は日が経つごとに増していく。もし俺がちゃんとしていれば、今も風香と楽しく過ごせたかもしれないと思うから。
もしもの世界を空想して、俺はカーテンを開けて窓の外を見つめる。本当にすぐそば——日当たりのことなんて微塵も考えていない位置に設置された窓だ。不鮮明ではあるが咳の音でさえ聞こえたし、風香が部屋にいるかどうかもわかるほどに、俺と風香の日常生活は距離が近かった。
でも、今は物音一つ聞こえない。どころか、風香がいなくなってしまったのと同時に、家は空っぽになってしまったのだ。
「くそ……」
後悔とは別に、負の感情が心の底から湧き上がってくる。赤黒く膨れ上がったそれは、怒りだった。
風香の両親は、彼女が自殺した一週間後に引越しをしたのだ。警察は事件の可能性も考えて捜査をしようとしたが、両親の「騒ぎにしないでほしい」という願いで自殺として処理。その後、家族葬をして、最後にと俺の家に挨拶をしに来た時のだ。
あの時は確か、「今までありがとうございました。そちらの息子さんとは風香もよく遊んでたみたいで、よくその話をしてました。どうぞ、風香のことは忘れないであげてください」なんて言っていた。悲しげな顔で、本当に憔悴しているかのように。
でも、それは嘘だったのだが。風香の両親が引っ越して数日後のことだ。警察が両親の様子を不審に思って細々と調べてみると、風香本人から何度か児童相談所に虐待を受けているという通報が入っていたというのだ。
それを知った時の怒りといったら。言い表せるものではなかった。結局、風香の自殺は突然のものではなく、虐待のせいだったのだ。
蘇った怒りに身体を震わせる。風香を虐待していたあいつらが憎い。——風香にとって相談されるような人間になれなかった自分が憎い。あの日の自分が、今の自分が、憎い。
「……ん」
ふと、携帯電話の着信音が鳴っていることに気がついた。急いで、机の上に放っておいて携帯電話を手に取り、画面に映し出された『
「……どうした? 電話をかけてくるなんて珍しいな」
『珍しいも何も明日の予定立ててないじゃん。どこに行くのかも何時に集合するのかも聞いてないし』
「あぁ……そうだった。そうだったな」
瑠璃のいつもと変わらない声を聞いて、俺はひどく安心した。そのことで、今はいない風香に罪悪感を感じながら、俺はやるべきことを思い出した。
過去を悔やむことなんて、この一年間で何度も繰り返した。繰り返し続けて、その度に後悔と憎悪と怒りが蘇った。そんな日々はもう終わりだ。終わりにする。
——写真の裏に書いてある、風香との約束を守るために。
「明日の夜の九時俺の家に来てくれ。軽食とか敷物とかは俺が持ってくから手ぶらでいい。たぶん夜遅くになるから親にも話をつけておいてほしい」
『おっけー。なんだか遠足みたいだね』
くすくすと笑う瑠璃の姿が簡単に想像できて、俺もつられて笑う。風香のことは今も昔も好きで、自分全てを捧げたいと思うほどなのに。今こうして心を癒してくれるのは、誰でもない瑠璃だった。
「それじゃあまた明日。絶対に遅れるなよ?」
『わかってるって。紫苑との初めてのデートに遅れるわけないでしょ』
そう言って電話は切れ、俺は覚悟を決めるように空っぽの部屋を映し出す窓を、カーテンで遮る。明日は風香の命日だ。風香の両親に逃げられ、葬儀に出られず、彼女の最後さえ見届けられなかった。だから、今度こそ、別れを告げるために。
——あの日から一年間続いた、後悔と憎悪と怒りに別れを告げるために。
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