第2話 狐と神様と私

 やばい、やばい、やばい!

 私は終わらない仕事を前に焦っていた。私の右手首には、私にしか見えないといわれた青黒い痣がある。今朝私の目の前に現れた女のお狐様は、名前をよいというらしく、相当おかんむりだった。彼女はつきさんのつい、霊魂の片割れというべき存在らしかった。そんな彼女が私に物申したいと怒り狂っていたのだが、会社に遅刻するからと私が懇願したことと、月さんが人間世界に影響を及ぼしちゃいけないと説得したことで、逃げられないようにまじないをかけた。会社帰りに必ず月宵神社に寄れば、呪いを解いてくれることを約束したのだった。にもかかわらず、突然発生したトラブル対応で帰りが遅くなってしまっているのだ。ただでさえお怒りだったのに、待たせてしまったらいったいどうなってしまうのか想像するのも怖い。祟られてしまう!

 私だけでなく周りも突然のトラブルに、てんてこまいだ。

「真琴ちゃんっ、そっちはどう?」

「まだ終わりませんっ……陽菜先輩の方は?」

「こっちはもうダブルチェックに回したわ、私も真琴ちゃんのフォローに入るわね」

「ありがとうございます……!」

 陽菜先輩が自分のパソコンごと隣に移動してきてくれる。隣に座ってコミュニケーションをとりながら、陽菜先輩に渡せる部分は渡していく。そうして一時間ほどしてどうにかしてすべての対応が終わった。

「真琴ちゃん、お疲れ……」

「お疲れ様でした……」

 チーム全体がぐったりしているのが目に見てとれる。かくいう私も机に突っ伏していた。

「おー、みんなお疲れ様! これは飲みに行くしかねぇな」

 リーダーがぼやいて、それにちらほらついていくとの声を上げる。

「真琴ちゃんも行く?」

 机に突っ伏しっていた私に声をかける陽菜先輩、がしかし、そんなこともしていられないことに気付いてばっと顔を上げた。その動きに陽菜先輩が驚く。

「ま、真琴ちゃん、どうかした?」

 心なしか、右手首の痣から怒りが伝わってくるような気がする。いや、あの女狐様は間違いなくお怒りなのだ。

「わ、私帰らないと……!」

「えっ、あっ、お疲れ様」

 急いで荷物を持って急いで駆け出した。こんな時に限ってエレベーターが来なくて焦ってしまう。まだかまだかと待ち構えていると、ようやっと開いた瞬間飛び乗ろうとした。

「おわっ」

「きゃっ」

 確認せずに飛び込んだ私が悪かった。思い切り降りてくる人とぶつかってしまった。

「ごめんなさい!」

「ああ……大丈夫?」

「すみません!」

 私は頭を下げてすぐにエレベーターに乗った。 ぶつかったのが誰だったのかも確認する余裕もなかった。


「この私を待たせるとは、いい度胸ね!」

 覚えている限りここ数年走ったことのない私が駅から全力疾走して月宵神社に着くなり、肩で息をして言葉もつむげない私を出迎えたのは、鳥居を背に怒りの炎をめらめらと燃え上がらせている女狐様だった。比喩などではない、本当に炎が見える。その隣で月さんがおろおろしている。

「いったいどれだけ私を待たせたら気が済むの! ……ねえ、貴女何とか言いなさいよ! ……ねえ、ちょっと、大丈夫……?」

「真琴様、大丈夫ですか?」

 私の前にずかずかと近寄ってきた宵さんに言い訳をしたかったが、当の私は呼吸に必死で何も言うことができない。尋常じゃない様子の私に、宵さんもたじろぎ、月さんが寄ってくる。それを手で制して、私は深く深呼吸した。息を吸った瞬間にわき腹に激痛が走り身がこわばる。

「ま、真琴様、大丈夫ですか?」

「お、遅くなって……っ、ご、ごめんなさい、し、仕事でトラブルが、ありまして……」

 息も入れ切れに状況を説明した。

「そう、それなら仕方ないわね、とにかくお座りなさい」

 宵さんが怒気を引っ込めて私を神社の石段に座らせてくれる。そしてぱんっと両手を合わせると、私の右手から痣が消えた。その様子を見届けて、私はほっとする。

「ねえ、宵」

 ほっとしたのもつかの間、月さんの声に私ははっとしてそちらを見た。あっ、怒っていらっしゃる。

「私は何度も言いましたね、宵。人様にご迷惑をおかけしてはいけないと。何の罪もない真琴様を祟るなど、掟破りもいいところです」

「最初に掟破りをしたのはどっちよ!」

 静かに怒っている月さんの迫力に怯えている私をよそに、宵さんはひるまず言い返している。

「私が稲穂いなほ様のお供で出かけている間に、人の前に姿を現すなど……! 対の私というものがありながら人間のおなごに恋慕するなど! 言語道断よ!」

「恋慕などしていないと何度も伝えたでしょう!」

 私は口を出してはいけない、絶対に口を出してはいけないと口に手を当てながら怒れるおきつねさま二匹を見ていた。誰か、本当に誰か今私が置かれている状況について教えてほしい。いったい私は何がどうなってこうなっているんだろう。私はただ失恋してこの神社の前を歩いていただけなのだ。なんで私は人外の喧嘩に巻き込まれてしまっているんだろう。お蔭で失恋で傷ついている暇もない。

「こらこら、月、宵」

 座っている私の頭上から、女の人の声が聞こえた。私は恐る恐る振り返る。そこには黒い髪を結った太い眉毛の女の人がいた。いや、女の人、なんだろうか……。しかし、この人どこかで見たことがあるような……。

「氏子を困らせるなど、ふたりとも悪い子ね」

「でも稲穂様! 月が!」

「しかし稲穂様! 宵が!」

 女の人は手でふたりを制した。するとぴたりとふたりは黙った。

「言い訳は聞きません。はじめまして、草香真琴様、私はこの月宵神社に棲まう氏神、月神門宵上稲穂姫つきみかどよいのかみいなほひめでございます。どうぞ、稲穂とお呼びください。いつも真琴様のお声は私に届いておりました。ありがとうございます」

「ど、どうもご丁寧に、ありがとうございます……!」

 氏神ということは神様だ、私は息をのんで頭を下げた。

「頭を上げてくださいな、真琴様。このたびはうちの子たちが迷惑をかけてしまったみたいで、本当に申し訳ございません」

「い、いえ、そんな……!」

 私の脳みそが、考えれば考えるほど大混乱を起こす。一体全体、どうしてこんなことになってしまっているんだろう。私は田代さんの浮気を知って傷ついていた私を、見かねた月さんが慰めに姿を現してくれて、ほっこりしたところで激怒した宵さんが出てきて、そして今私の目の前には神様が降臨している。いったい何が原因で私はこんなことに巻き込まれているんだろう。

「月、事情はどうであれ、氏子の前に姿を現すのは掟破りでしたね。後ほど罰を与えます。宵、貴女も氏子を私情で祟るなど、言語道断です。後ほど罰を与えます」

「申し訳ございませんでした」

「……」

 月さんが謝り、宵さんが無言で耳を垂らした。私はあわてて立ち上がる。

「え、あの、ま、待ってください、罰って……」

「真琴様がお気になさることではございません。真琴様がお優しい方だとは重々承知しておりますが、掟は掟なので特別扱いはこの子たちのためにもならぬのです」

 稲穂様の優しい声音の中に有無を言わせぬ厳しさと強さを感じて、私は黙った。これは人が口出しをしていいような領域ではないのだろう。

「……稲穂様、発言をお許しください」

 そのとき、低い声で宵さんが言った。稲穂様がそっと宵さんを見る。

「いいでしょう」

「月のことは、許してあげていただきたいのです」

「宵……?」

 月さんが驚いたように宵さんを見つめた。

「月は、以前よりこの娘のことを気にかけておりました。稲穂様のご容姿に似ていることも要因の一つだと思っております。そんな娘が夜道を泣きながら歩いている姿を見て、月はどうしても放っておけなかったのです。深く傷ついた氏子を我らが慰めることは夢だった、で済ませることができたものだったと思います。それくらいするであろうことくらいは対である私も重々承知しております。それを嫉妬の心から夢じゃなくしてしまったのは私です。彼女のことを想って行動した月とは違い、私は私欲のために行動しました。どうぞ、罰するなら私を罰してください」

 深く頭を下げながら言う宵さんの言葉に、私は引っかかる。容姿が似ている? 私はまじまじと稲穂様の顔を見つめた。さっき誰かに似ていると感じたのは、いつも鏡で見ている自分の顔? 言われてみれば眉毛の印象が強くてぴんとこなかったけれど、目鼻立ちが私に似ている。

 呆けてそんなことを考えている私をよそに、稲穂様がそっと宵さんの頭に手を置いた。

「……宵、自分で何が駄目だったのか重々承知しているのですね。貴女は頭が悪くないのに、そうやって思慮できる広い心を持っているのに、すぐに感情的に行動してしまうところがありますね。そのことで真琴様にとんでもない迷惑をかけたこと、反省なさい」

「はい……」

 しょんぼりとした声を出す宵さんに、稲穂様はそっとため息をついて私を見た。そしてそっと笑う。

「この子たちがね、騒いでいたのですよ。いつも通りがかるたびに声をかけてくれる氏子が、私の容姿にそっくりだと。特に月が気にかけていました。もしかすると、真琴様はかつて私が人間に近しい存在だったころの血族の子孫なのかもしれませんね」

「え……」

 とんでもない話をさらっと言われ、私はフリーズする。神様の血族? そ、そんなことってあるの?

「今は神と呼ばれる存在になりましたが、私もかつては人のように暮らして、人のように生きていたのです。残念ながらその記憶はほとんど私の中には残っていないのですが……。

 さて、良いでしょう、とても反省しているようですし、罰することで真琴様も悲しまれます。二人とも、特に宵、真琴様に謝りなさい」

 稲穂様の言葉に、2匹の狐はこちらを向いた。

「……悪かったわね、祟って……。ごめんなさい」

「真琴様、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした」

 地面につかんばかりに頭を下げる2匹に、私は飛び上がる。

「いえ、あの! いいんです。びっくりしましたし、あの、正直怖かったんですけど……でも、月さんのお蔭で悲しいことを吹っ切ることができましたし、宵さんのお蔭で余計なことを考えずに済みました。ありがとうございました」

 私は正直な気持ちを伝えた。驚くほど田代さんのことを引きずっていないのは、あきらかにこの神社での出来事のお蔭なのだ。

「ほら、あなたたち、顔を上げなさい。せっかくなので、このご縁を大切に扱うことにいたしましょう。真琴様」

「はい」

「よろしければ、これからたまには私たちとお話してくださいませんか?」


 この神様の無邪気な言葉が、私をさらなる混乱へと誘うとは、この時の私は想像していなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

言霊町のおきつねさま 神水紋奈 @seagodragon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ