第一章 敗れた恋と月宵神社

第1話 狐と狐と私

 私の住む言霊町には、とても月宵神社つくよいじんじゃという小さな神社がある。通勤路にあって、真っ赤な鳥居と立派な美しい対の狛狐が目を引く小さいながらも立派な神社だ。

 月宵神社の前を通るとき、いつも私は何とはなしに挨拶をしていた。特にお参りをするというわけでもない。たまに忘れるときもある。でも、なんとなく狐と目が合ったとき、私は心の中で挨拶していた。

『おはようございます!』

 今日も一日良いことがあるといいなと思いながら、私は目のあった狛狐に挨拶して職場に向かった。


「あっ、真琴ちゃん、ちょっといい?」

「はい?」

 仕事終わり、帰ろうとしたところに島本陽菜しまもとひな先輩に声をかけられた。いつも明るい陽菜先輩がすこし陰った顔をしている。

「どうしたんですか?」

「あの、ちょっとここでは……喫茶店行ける?」

「?」

 どうしたんだろう、と不思議に思いつつ、私は陽菜先輩と一緒に会社の裏のカフェに入った。ちょうど夕食がまだだったので、ついでに済ますことにする。

「うん、先に食べちゃいましょう」

「? そうですね」

 声をかけてきたのは陽菜先輩のほうなのに、その話をあまりしたくなさそうに見えて、私はますます困惑する。料理が運ばれてきて、他愛もない話をしながら食事を済ませたころ、陽菜先輩はようやく重たい口を開いた。

「真琴ちゃん、言いにくいんだけど……田代君のことなの」

「え?」

 陽菜先輩の口から出たのは、三か月ほど前から付き合い始めた私の彼氏の名前だった。嫌な予感に眉をひそめる。そういえば陽菜先輩と田代さんは同期だ。

「田代君……ほかにも女がいるわ」

「え……?」

「この前同期会でね、話になったの……真琴ちゃんのことが。そしたら、田代君、真琴ちゃんのことは遊びだって。本命は別にいるって。もともと彼ね、女癖が悪くて、同期内でも有名で……。真琴ちゃんが田代君のこと好きなのはなんとなく気づいてて、でも大丈夫だと思ってたの。でも、付き合うことになったって聞いて、放っておけなくて」

 目を伏せながら申し訳なさそうに語る陽菜先輩は、そっとスマホの画面を私に見せた。そこには田代さんと見知らぬ女性が写っていた。陽菜先輩の言葉を、初めは真実として受け取れなかった。硬直した私だけど、思い返せば田代さんの行動に思い当たる節がいろいろあって、納得してしまう。

「……陽菜先輩、教えてくれてありがとうございます。今日は……帰りますね」

「うん……」

 震える声で礼を告げて、私はお金をおいてその場から立ち去った。


 涙が止まらなかった。真偽のほどを本人に確認したわけじゃない。確認するのは勇気が要るし、怖かった。帰り道、気づけば涙がこぼれだす。

 田代さんは格好良くて、入社した時から目を引く人だったから。彼に憧れを抱く女子社員は多かったし、そういう声もよく聞いた。かくいう私もこっそり憧れている一人だった。今年に入ってからの配置換えで同じチームになり、私はますます田代さんに惹かれていた。そんなおりに開かれた打ち上げの飲み会で帰り道が同じになり、そのとき田代さんから告白されて付き合うことになったのだ。正直なんで私なんか、って気持ちもあったし、信じられないという気持ちもあった。でも、私は有頂天で舞い上がってしまったんだ。

「馬鹿だなぁ~……あんなに素敵な人が……ひくっ……私なんか相手にするわけなかったんだ……ぐす……遊ばれてたんだぁ……っ」

 とぼとぼといつもの帰り道を泣きながら歩く。暗いのと、あまり人がいないのが幸いとしか言いようがない。夜道で泣きじゃくりながら歩く女など、完全に声をかけたくない案件だ。

「うう……っ……」

 ふと気づくと、月宵神社の前まで来ていた。妙に闇が強く、月の近い夜だった。月宵、と呼ぶにふさわしいなとぼんやり 思ったそのときだった。

「どうしたんだい、人間の御嬢さん?」

 突然声が聞こえた気がした。耳に心地よく響く低い男の人の声だ。私は涙をぬぐいながら顔を上げた。そして息をのんだ。

 神社を背にして目の前に立っていたのは、月の光でもわかるくらいに色白の肌をした背の高い男の人だった。ビー玉みたいに透き通った水色の瞳がきらきらと輝きながら私を見ている。煌めく銀色の髪を見て、外国人なのかと思った。それにしては仰々しい和装だ。そんな信じられない美形の男の人が私をこまったように覗き込んでいる。

「そんなに泣いていては、可愛いお顔が台無しだよ」

 でも、どう考えたって、普通の人間にはふさふさの耳なんて生えてないし、おしりにしっぽはくっついてない。

「ひっ……」

「御嬢さん?」

 これは、夢だ、夢に違いない。いや、違う、幻覚だ。ショックすぎて幻覚を見ているんだ。きっとそうだ。きっと……――


 そして私の意識はブラックアウトした。



「んっ……」

 私は身じろぎをして、そっと目を開けた。木目の天井が目に入る。 いったいここは、どこだ。混乱している私はそっと身を起こした。あたりを見回して、嫌な予感がする。部屋にある柱の作りや装飾品を見れば、なんとなくここが月宵神社の社の中なのではないかと思ってしまった。まさかそんな罰当たりなことは……。なんてことを考えていた私を、現実に引き戻す声が聞こえた。

「おや、目が覚めましたか」

 声のしたほうを恐る恐る振り返ると、先ほどの男の人がちょこんと正座で座っていた。これ見よがしに生えた獣の耳がピクリと動いた。

「……あう……」

「驚かせてしまって、悪いことをしました。私はつき御芳月夜命みかぐつくよのみこと様のおつきの狐にございます。 以後、お見知りおきを」

「み、みかぐ……? きつね……? ど、どうも、ご丁寧にありがとうございます……?」

 丁寧に頭を下げた月さんにつられて、ひきつった笑顔を浮かべた私は頭を下げた。

「あ、あの……あなたはいったい……」

 月さんは着物の衿と姿勢を正して、真剣な面持ちで私を見つめた。つられて私も姿勢を正す。

「本来であれば、私のような霊神の類は人間の皆様の前に姿を現すことは禁じられております。特に昨今の人間の皆様と私たちのつながりが薄れておりますゆえ。しかし、貴女様は日々私たちに話しかけてくださっているため私たちとの繋がりができていたことと、放っておけないほど傷心なさっていらしたため、声をおかけいたしました」

「……う」

「と、堅苦しくお伝えいたしましたが、平たく言えば、可愛い御嬢さんがひどく泣いていて放っておけなかったので声をかけちゃいました」

 にこっと笑うお狐様のしっぽがふわっと動く。

「いや、実は、いつも挨拶をして くださる貴女のことがずっと気に入っていたんです。お名前は?」

「く、草香真琴といいます……」

「真琴様、いったい貴女の御身になにがあったのです。あんなにも泣き崩れて……ああ、こんなにも目を赤くして……」

「ひゃあっ!」

 少しひんやりした指先が私の眼もとに触れて、驚いた私は叫んで後退さる。

「逃げないでください」

 逃げないでいと言われても、得体のしれない自称お狐様の綺麗な顔がこんなにも近くにあったら体が勝手に逃げてしまう。しかし、その手が私の顔を捕まえてしまった。近づいてくる顔から逃げることができず、私はギュッと目をつむる。

「わっ、私には恋人がい……」

 恋人がいる、そう言おうとして、はっとした。あまりの出来事にすっかり忘れていた悲しみが、突如胸の痛みとともにせりあがってきた。そして、堪えられない涙がこぼれた。

「な、泣くほど嫌でしたか? ごめんね?」

「ち、違うんです……私……お付き合いしている人がいるんですけど、その人が浮気をしているみたいで……私のことは遊びだったみたいで……」

 口にした途端、自称お狐様の出現という非現実で混乱していた私の脳みそが現実に引き戻された。涙がぬぐってもぬぐってもこぼれる。

「泣かないで……辛いね……」

 すっと頭をなでられて、私ははっと顔を上げた。月と名乗ったお狐様は、まるで自分のことのように悲しそうな顔をして私を見ている。

「私はね、あなたのことをいつも見ていたんですよ。今日は元気そうだ、今日は疲れてるみたいだ、とか、社の前を通るたびに見ていたんです。貴女が嬉しそうだと私も自分のことのようにうれしくなりました。だからね、泣かないでほしいんだ、私に免じて」

「月さん……」

 やさしく私の頭をなでる手に安心したのか、いくら自分で止めようとして求められなかった涙が止まった。それを見た月さんがにこっと笑い、そしてみるみる怖い顔になった。

「しかし、真琴さんを傷つけたというその男……神罰を下してやりたいですね……」

「!」

 禍々しい雰囲気をまとった月さんに、私は言葉を失う。この人、本当に、絶対に、人間じゃない……。

「し、神罰……?」

「しかし、私怨でそんなことをすれば私にも罰が……ええい、いっそのこと……」

 私のためにこの目の前にいる綺麗な人がこんなに禍々しいオーラをまとうこと自体に心を痛めた。目の前のこの人は、人と言っていいのかわからないけれど、私が傷ついていることを悲しみ、私のために怒ってくれている。こんなことってあるだろうか。

「ま、待ってください! そんなことしちゃ駄目です……! それよりも、ただ通りすがっていただけの私のことを自分のことのように考えてくださっているのが嬉しいです。それだけで充分です」

 私は少し恥ずかしくなってうつむいた。

「……真琴さんは、思った通りお優しい方なんですね」

「そんな……」

「貴女に、神のご加護を」

 そうつぶやいた月さんの額が、とんと私の額に押し当てられた。そしてすぐに離れた。なんだろう、何か温かいものが心を満たし、先ほどまで痛みに満ちていた私の胸がほんわりとやさしい気持ちになった。

「さあ、夜も更けました。真琴さん、今宵のことは夢とでも思って……お帰りなさい」

 月さんが私の手を取って立ち上がらせる。

「さ、こちらです。頭と足元に気を付けて」

 月さんに導かれて、私は社の外に出た。確かにすっかり夜も更けている。

「気を付けてね」

「はい、あの……ありがとうございました」

 見送ってくれる月さんにお辞儀をして、私は帰路についた。最後の額を合わせたのは、きっとおまじないのようなことをしてくれたに違いない。そうとしか思えないくらいに心が軽くなっている。なんだか、夢のようなひと時だった。


 家についてすぐ、私は田代さんに別れを告げるメールを出した。



 翌日、スマホを確認したけれど田代さんからの返信はなかった。所詮私のことはその程度だったのだろう。だけど不思議なことに、あまりショックでない私がいた。

 心機一転、出社する途中、月宵神社の前を通りがかる。普段は足は止めないのだけど、昨日の夢のような出来事があったせいか、私は鳥居の前で一礼した。

「ちょっと貴女」

「!?」

 突然目の前に現れた女性に、私は息をのんだ。その女性には狐の耳としっぽが生えている。これまた綺麗な……女のお狐様だった。そしてなぜか、相当お怒りのようだ。

「待って、待ってってば、よい

 同じく突然現れた月さんが、女のお狐様を抑える。

「月は黙ってなさい! 貴女ね! 人間の分際で人の留守に私の月を誑かしたのは!!」

 女のお狐様のあまりの剣幕に、私はその場にしりもちをついた。


 これが、言霊町の月宵神社を舞台にした、狐と狐と私の物語の幕開けだった。

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