第5話 そして世界は五時を超える
十八回目の午前十二時十分、小林は学食の建物に入る直前で突然立ち止まった。「どうした?」と中西が不思議がる。小林は憂鬱な表情を浮かべて、小さく呟いた。
「俺、今日、学食いいや……」
「どうした? 具合悪いのか?」
「いや、な……」
小林が小声で呟いた。
「……どうせ、カレーしか食えねぇし」
本音が漏れた。カレー以外のものが食べられないこの時間――それは、”昼食=カレー”という変えられない”公式”が存在していることを意味する。それはすなわち、同様に”少女の落下”もまた変えられない事実であるということなのだ。彼の絶望は深まるばかりだった。
そんな彼の心中を察することなく、中西が口を開く。
「まあ、この学食、カレー以外はまずくて食えたもんじゃないからなぁ」
そう、それが中西が執拗にカレーを勧めてくる理由である。あくまで、彼は善意でそうしていたのだ。中西が続けた。
「じゃあ、ラーメンでも食いに行くか?」
耳を疑った。”カレーの公式”の元凶そのものから、思わぬ言葉が漏れたのだ。
「近くに旨いラーメン屋あるんだ。行こうぜ?」
小林が唖然としていると、中西が尋ねた。
「ラーメン嫌いか?」
「……いや、行く。行くよ」
動かないと思っていた山が、ついに動いたのだ。行かない理由はどこにもない。
構内から出て歩くこと七、八分ほどの場所に、そのラーメン屋はあった。二人はカウンター席に案内され、小林は塩ラーメンを注文した。ひょっとしたら、店員が注文を取り違えてカレーを持ってくるのではないか、とも疑っていたが、無事、注文通りの品にありつくことができた。ラーメンのスープを一口すすると、中西が店内を見渡して言った。
「なんか、学食以外だと変な気分だよな。昼休みって感じがしないよ」
確かに、と小林も頷いた。彼にとっては、十八回目にして初の学外での昼休みだ。中西が続けた。
「やっぱ、場所が変わると気分も変わるのかね?」
場所か。そういや、少女の位置を動かそうとしたこともあったっけな、と思い出した。あれは十三回目の時だったろうか、少女を三両目の前から動かそうと、わざとしつこく彼女に絡んでみたこともある。目論見通りに、彼のことを迷惑がった彼女は二両目の前へ移動した。しかし、それでも彼女は二両目とホームとの隙間に消えていったのだ。彼女の場所を動かしても結果は変わらなかった。
午後三時を過ぎた。四限目、情報システム学の時間になっていた。
小林は、いまだに考えていた。動かしがたい運命だとばかり思っていた”カレーの公式”。それが、突如ラーメンに変わった理由を。
そして、彼は2番ホームのことについて思いを馳せる。あの弧を描いた、忌まわしきホーム。あのホームが曲がってさえいなければ、あんな隙間など生まれなかったものを。
と、そこで不意に気付いた。思い出したのだ、発車ベルの音を。あの忌むべき2番ホームの発車ベルの音を。そして、今また頭の中に流れ続けている発車ベルの音を。彼は思わず呟いた。
「……3番ホームだ」
どうして今まで気づかなかったのか。十回目の朝以降、頭の中で流れている発車ベルの音は、2番ホームのものではないのだ。それは3番ホームに流れるメロディだった。
ふと閃いた。やはり場所だ。だが、少女の場所ではない。俺の場所が問題だったのだ。居るべき場所はあのホームではない。あの2番ホームではないのだ。
小林はPCを操作してブラウザを起動した。鉄道会社のサイトへ移動し、電車のダイヤをチェックする。そして、目当てのものを見つけた。午後四時四分発の列車だ。そう、乗るべき電車はこれなのだ。
彼は時計を確認した。午後三時十五分。もう一度、モニターの画面のダイヤを確認する。急げばまだ間に合う。そして、すぐさま荷物をまとめ始めた。隣でモニターを見て唸っていた中西が、その様子に気付いて驚く。
「おい、帰るのか?」
「ああ、用事を思い出したんだ」
「そか、また明日な」
「ああ、明日な」
言葉を交わし、小林の口元が緩んだ。そう、今度こそ明日は来る。来るはずだ。
椅子から腰を上げ、立ち去ろうとした刹那、ふと気づいて中西に声を掛ける。
「つか、明日土曜日だから会わねぇだろ?」
「お、気付いたか」
中西がにやりと笑みを浮かべた。
午後四時十七分、2番ホームに小林の姿は無かった。いや、2番ホームどころか、この駅の構内のどこにも彼の姿は無い。そして少女は、ホームの最前列でやがて己を襲う悲劇を知ることなく電車を待っていた。
やがて列車がホームに滑り込んだ。扉が開くと、中の乗客が数名降りてくる。少女は、彼らに道を開けるべく、ドアの脇へと移動した。不意に、車両とホームの間の15センチほどの隙間へと、足を滑らせた。
少女の細く華奢な身体は、なすすべなく奈落へ落ちていくかに見えた。だが、その時、降りてきた乗客の一人がすばやく反応し、手を差し伸べたのだ。膝までホームの下に落ちかけていた少女の身体は、その男に支えられ、力強く引っ張り上げられた。
その男――小林は、抱え上げた少女をそっとホームに下ろして尋ねた。
「ごめんな、痛かったか?」
少女は驚いた表情をしていたが、やがてゆっくりと頭を振った。次いで彼は、少女に「気をつけなよ」と声を掛けて、そっと彼女の頭を撫でた。少女は小さな声で礼を述べると、彼に向って僅かに頭を垂れた。
小林は、彼女が無事に三両目に乗り込んだのを見届けると、その場を後にした。そして、その左手の腕時計を確認した。分針は、静かに四時十九分を刻んだ。
発車ベルが鳴り、列車はゆっくりと動き出した。
――彼は、少女のそばに居なければならなかった。だが、2番ホームでは、彼は少女に近づけない。それは、学食でカレー以外を選べなかったときのように、決められた運命だったのだ。
彼が選んだのは、”2番ホームに居ない”という選択肢だった。午後三時三十分、彼は3番ホームから上り電車に乗った。隣駅まで移動したのだ。そして、その駅から四時四分発の下り列車の三両目に乗り込んだ。その列車は午後四時十八分、2番ホームに到着する。彼はホームに降り立つと、すぐさま少女へと手を伸ばしたのだった。
帰りの電車の中、彼は携帯電話を確認し、安堵した。六月九日、午後四時三十五分。
明日は待ちに待った土曜日だ。特に予定も無い。自宅にこもってゲームをしようとも思ったが、気が変わった。明日は街に繰り出そう。そんな気分だ。
彼は、穏やかな表情を浮かべて、ゆっくりと目を閉じた。
――クラクションの音が響いた。
男は、ベッドの上でゆっくりと目を開ける。昨日は相当疲れていたのだろう。メガネを掛けたまま眠りに就いてしまっていたようだ。携帯電話を探し出し、その画面を見る。外は雨が降っているようだ。六月十日、午前九時三分。どうやら、あの忌まわしい六月九日からは抜け出せたらしい。実際、あれから九日の朝に戻ることはなかった。
だが、どうやらあの件で、何か良からぬものに気に入られたらしい。彼は再び携帯電話を確認する。六月十日。そう、六月十日の朝だ。記憶が定かなら、これが四度目の。
彼は携帯電話を放り投げ、一人ごちた。
「なあ、今度は、誰を助けろっていうんだよ……?」
六月九日 阿山ナガレ @ayama70
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