第4話 四限目は途中退席がふさわしい
15センチ――。さて、15センチとは何だろう。
八回目の午前七時五十一分、コーヒーをすすりながら、小林は考えていた。朝に戻される直前に聞いた、あの一言。「そこの、15センチくらいの――」
彼女は何を訴えようとしていたのだろうか。それを懸命に考えていた。電車に乗った直後、彼女は何かに気付いたのだ。そして慌てた。すぐさま電車を降りようとしたが、間に合わなかった。ドアを叩き、叫んだのだ。そこまでは分かった。
では、15センチとは何だ? そこの、とはどこを指していたのだろうか?
午前八時を回った。いくら考えても答えは出ない。それどころか、もっともらしい仮説すら思い浮かばなかった。
午前八時二十三分、自宅からの最寄り駅に到着した。自宅から駅まで歩く間に、一つ思いついたことがあった。あの女性は、車内で何かに気付いた。あの三両目で何かを見たのかもしれない、と。そこで、今朝はあえて三両目に乗って登校することにした。その車窓から何か手掛かりになるものは見えないかと期待したのだ。
午前八時二十五分、電車がホームにやってきた。三両目に空いている席は無かった。通路の中ほどまで進み、吊り革を持つ。そして見下ろすと、正面の席に見知った顔があった。中西だ。気持ちよさそうに居眠りしている。小林は、彼の耳元で囁いてみた。
「お客さん、お客さん、終点ですよ」
「ぇうっ。何っ……?」
肩をびくっと震わせて、中西が飛び起きる。その様子があまりに滑稽だったので、小林は失笑した。中西が顔を上げ、不満そうに口を開いた。
「……なんだ、小林か」
「オス」
「オス、じゃねーよ。せっかく寝てたのによー。俺の貴重な睡眠時間が……」
「どうせ、長谷川の授業でも寝るんだから別にいいだろ?」
「何で俺の考えが分かった? お前、エスパーか?」
「タイムトラベラー、かな」
「なんだそれ。意味わかんねーよ」
くだらない会話を交わすうちに、電車は駅に近づいた。小林は会話を中断し、減速する車両の窓から注意深く外の様子を伺った。車窓からは駅前のビルの窓や、看板などが見える。あの女性は一体何を見て、何に気付いたのだろうか? 残念ながら、彼にはその答えは見つけられなかった。
やがて電車は完全に停車し、ドアが音を立てて開く。車内の客が一斉に外へと流れだした。小林と中西もその中に加わる。ホームに降り立つとき、小林は車両とホームの間の、僅かな段差でけつまづいた。危うく転ける所だったが、すんでのところで踏みとどまった。すると、中西が彼の後頭部を叩き、「躓いてんじゃねーよ」と笑った。
午後四時十分、小林は2番ホームの電車待ちの列に並んでいた。四限目を途中で抜け出してきた甲斐があり、列の前から三番目――前回、あの一言を発した中年女性の真後ろに陣取ることができた。これなら、彼女の行動をつぶさに観察することができる。
やがて、列車がホームに入ってきた。ドアが開く。列の先頭にいた女学生が、車内の乗客に道を開けるべく、ドアの脇へと身を寄せた。じきに降りる乗客もいなくなり、中年女性を先頭にしてホームの列は車内へと流れていった。
小林は、中年女性の真後ろにぴったりついて車内へ入った。すると、女性は車内に入ってから暫くして、突然不安げに周囲を見渡し始めた。すると、真後ろにいた小林の存在に気付き、話しかけてきた。
「あの、今、居ましたよね?」
「え? はい?」
マーク対象に突然話しかけられ、小林は動揺した。だが、女性はそんなことを知る由もない。なおも辺りを見回しながら言葉を続けた。
「女の子、居ましたよね?」
「え?」
「私の前に、第三中学の制服着た女の子、並んでましたよね……?」
そういえば、列の先頭は女学生だった気がする。だが車内に入ったのは、この中年女性が最初だったような……? そして車内を見渡しても、中学校の制服を着た女生徒は見当たらない。彼が小首を傾げると、その中年女性は突然何かを思い出したかのように悲鳴を上げた。そして叫んだ。
「ちょっと、ちょっと待って!」
彼女は突然車両の出口に向かって駆け出そうとした。だが、人混みに邪魔されてろくに動けない。ドアがゆっくりと閉まる。女性はドアに倒れこむように駆け寄り、その窓を叩いた。
「今、そこの、15センチくらいの隙間に――」
そして、九度目の朝を迎えた。
新たな言葉が加わった。”隙間”だ。15センチの隙間。それが最後の鍵である。そしてもう一つ、あの女性が見ていたもの。それが”中学生の女の子”だ。そしてそれは、彼女の一つ前に並んでいた少女のことである。彼は、いよいよ真相に近づいてきた気がした。
再び午後四時十分、小林はまたも四限目を途中で抜け出して2番ホームを訪れた。ホームには、すでに件の女生徒の姿があった。身長は140cmほどだろうか。後ろ姿しか見えないが、細身で華奢な印象を受ける。紺色のブレザーと、同じ色のスカートを身に着けており、先だっての中年女性の言葉が正しいなら、これが第三中学校とやらの制服であるようだ。小林は前回と同じ要領で、その少女の真後ろに並ぼうと近づいた。すると、その間にすっと割り込む影があった。あの中年女性である。ここで無理に前に出るのも憚られたので、小林は列の三番目から少女の動向を見守ることにした。
午後四時十七分、列車がやってきた。ゆっくりと停車し、三両目のドアが開く。中の乗客が降りてくることを予想し、少女はドアの脇へと身を寄せた。
――その時だった。
忽然と、少女の姿が消えたのだ。小林は、我が目を疑った。他の誰も気づいた様子は無い。気付いたのは彼だけだった。皆、降りてくる乗客か、ないしは手元の携帯電話に視線が向いていた。
目の前で起こった出来事を頭で整理できず、彼はその場から動けなかった。ホームの客たちは、そんな彼の横を通り抜けて続々と乗車していく。
彼は、おもむろに少女の消えた場所――ドアの脇へと歩を進めた。
よく見ると、列車の車体とホームとの間に、15センチほどの隙間があることに気付いた。この駅はホームが弧を描いているため、列車との間には通常より大きな隙間ができる。”15センチくらいの隙間”とはこのことだろうか……? 彼は、恐る恐るその隙間を覗き込んだ。
その隙間の奥、薄闇の中に見えたのは、灰色の砂利と枕木の一部だった。そして車体下部の鈍色の車輪と、その横に横たわる影――紺色のブレザーを纏った、小さな体躯。
間もなく発車のアナウンスが響いた。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
小林は慌てて叫んだ。その声をかき消すかのように、場内のアナウンスが続く。
「今、人が落ちた! 待ってくれ!!」
必死に叫んだ。しかし、それは雑踏と構内放送でかき消された。誰もこちらに気付いていない。駅員は、五両目あたりで溢れそうになっている客を、なんとか車内に押し込もうと夢中になっている。おもむろにドアが閉まった。小林は叫んだが、それも発車ベルでかき消された。ドアの向こうでは、中年女性が必死に窓を叩いている。彼女は乗車してから事実に気付いたのだ。そして叫んだ。だが、すべては手遅れだ。やがて列車は動き出すだろう。ホームと車両の間に落ちたあの少女は、その車輪とレールの間に巻き込まれ――。
頭の中で発車ベルが鳴った。十回目の朝だ。
彼は理解した。これだったのだ、と。
少女を助けること。それが役目なのだ。そう確信した。そして、それが達成されたとき、全ては終わるのだろうとも思えた。そして彼は、その見知らぬ少女を救うべく動き出した。
十回目の午後四時十八分を迎えた。彼はなんとか少女へ近づき、その隙間への落下を食い止めようと努めた。「努めた」という言葉を使ったのは、残念ながら、それは適わなかったからである。
どうあがいても、彼女と彼の間には、誰かしら第三者が入るのだ。あの中年女性でなくても、誰かしらが彼と彼女の間を人ひとり分だけ隔ててしまう。彼の昼食が常にカレーであるように、それはごく自然にそうなってしまうのだった。結果、彼は少女が落下するとき、常に一歩出遅れた。そういう運命だったのだ。
発車ベルは鳴り続ける。
十一回目、十二回目と、彼は少女を救う試みを続けた。電車が来る前に、駅員に訴えてみたこともあった。これからホームに人が落ちる、と。しかし、おかしい奴だと思われたのか、通り一遍のありきたりな対応でスルーされてしまった。さらに少女に話しかけて注意を促したこともあった。だが、少女は訝し気な表情をしただけで、彼の意図は伝わらなかった。どうしても彼女は隙間に落ちてしまう。そして、彼は僅かな距離が及ばずに、それを止めることができないのだ。
幾度も幾度も、六月九日は繰り返された。だが、どうあがいても少女の落下は止められない。彼の昼食がどうしてもカレーになってしまうように、それは動かせない事実となってしまっていた。
発車ベルが鳴った。
十八回目の朝。彼が少女救出に失敗した九回目の朝。アラームが鳴り響く部屋の中で、彼は呟いた。
無理だ、助けられない、と――。
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