第3話 あの三両目には何かがある

 発車ベルが鳴った。


 午前七時二十八分、彼は七度目の六月九日の朝を迎えた。

 起き上がり、頭を抱える。そして宙を眺めながら頭の中を整理していると、携帯電話が鳴った。午前七時三十分のアラームだ。解除し忘れていた。同時に四十分のアラームも解除しておく。


 さて、少し時間を戻して、彼の六度目の試みを説明しよう。

 彼は、敢えて2番ホームから離れてみた。というより、駅から離れてみた。これまで手掛かりとしてきたのは、起床後に脳裏に響く2番ホームの発車ベルだ。今回は、この前提そのものを疑ってみた。過去五回の午後四時十八分において――ちなみに、彼はこの時刻を”限界タイムリミット”と定義している――、彼は常に駅構内にいた。必然的に、発車ベルが聞こえる位置にいたわけで、それなら限界を迎えた瞬間にそれを耳にするのは当然の道理だ。ならば、朝に戻る瞬間に聞こえる発車ベルは、本当に朝聞いたものなのだろうか。意識が朝に戻る直前に聞いた音が、ただ直前の記憶として残っているだけに過ぎないのではないか。それを己が勝手に手掛かりだと信じ込んでいるのでは? そう考えた。

 結論としては、発車ベルの音は、やはり頭の中から響いているということだ。今回、限界を迎える時間、彼は大学構内の図書室で過ごした。駅からは離れており、そのホームの音など届くはずもない。しかし、今、朝を迎えた瞬間、彼の脳裏に響き渡ったのは、やはりあの発車ベルの音だった。


 午前八時三十九分、小林は大学前の駅に到着した。ふと思いつき、あえて改札を通らずに通路脇に立ち止まってみる。中西が同じ電車の三両目に乗っているはずなのだ。たまには、奴の後頭部を俺が叩いてやるのも悪くない。だが、いくら待てども中西の姿は見えなかった。はて、同じ電車に乗っていたはずなのだが、と小首を傾げながら時計を見ると、すでに五分が経過している。慌てて改札をくぐり、大学へ歩を進めようとしたところ、その二十二秒後、彼は後頭部を叩かれた。中西だ。やはり改札を出てから二十二秒が経過しないと、奴に会うことはできないらしい。そして、いつものやりとりを交わして、二人で大学へ向かった。


 午後三時十五分、情報処理室にて課題をさっくり終わらせた小林は、PCのブラウザを開いて物思いに耽っていた。過去に行った五回目の試みについて、思い返していたのだ。あの弧を描いたホームの端からは、電車待ちの人々の様子がつぶさに見て取れた。そこには何の違和感も感じなかった。夕刻になり自宅へ帰ろうとする会社員、学生、主婦といった面々だ。いつも通りの金曜日の夕方の風景だった。電車の乗り降りの様子にも別段変わったところは見られなかった。強いて言うなれば、いつもより混雑していたということくらいだ。

 そして、四日目の試みについても思い返した。四回目の朝の段階で2番ホームの発車ベルの音に気付いた彼は、四時十八分発の下り列車に自ら乗り込んでみたのだ。記憶が確かではないが、乗り込んだのは四両目か五両目のあたりだった。ひどく混雑しており、電車の中はすし詰め状態。すぐに朝に戻されたこともあって、僅かな時間だったにも関わらず、ひどく窮屈な思いをさせられたのを覚えている。その時は、電車に乗り込むことがこの輪廻を断ち切る鍵だと大いに期待していたので、そもそも周囲を観察するつもりなど全く無かった。

 そこで、今回――七回目の計画だ。もう一度、あの電車に乗り込んでみようと考えた。今度はより周囲に注意を払いながら。


 午後四時十分、講義終了のチャイムが流れた。彼は荷物をまとめ、情報処理室を後にした。駅へ向かうのだ。中西が声を掛ける。「また明日な」と。小林は「明日があればな」と冗談めかして応えた。我ながら皮肉が利いた答えだと口を緩めた。


 午後四時十六分、2番ホームに到着。電車を待つ多くの利用客が、ホームの各所に整然と列を作っていた。小林もその一つに加わる。今回は三両目が来るあたりに並んでみた。前方にはすでに二十人ほどが列を成している。会社員、学生、主婦と、その職種は様々だ。そのほとんどが、手元の携帯電話を凝視していた。SNSか、メールか、それともニュースや電子書籍でも読んでいるのか。その手持ち無沙汰を画面にこすり付けるかのように、彼らは画面を見つめていた。

 やがて、電車がホームに入ってきた。車内の席は埋まっているが、立っている人は数名程度に見えた。この駅で大勢の利用客が乗り込む。すし詰め状態になるのはこれからだ。

 小林は腕時計をちらりと見た。午後四時十七分だ。あと一分で限界を迎える。電車のドアがすっと開く。電車の中からは数人の客が降りてくる。彼らが立ち去るや否や、列の先導者が車内へ素早く潜り込んだ。それを合図にするかのように、ホームから大勢の客が車内へなだれこんでいく。小林も周りの様子を気にしながら、それに続いた。ふと、誰かと目が合ったような気がした。

 車内はあっという間に人で溢れた。

 彼が車内に入ったときには、すでにドア付近のスペースしか空いていなかった。彼はドア横の手すりに掴まった。間もなく、発車のアナウンスが響く。シューっという音と共に、ドアが閉まった。ふと、小林は車内から声を聞いた。それは、小さくはあるが、悲痛な叫び声。――「ちょっと、ちょっと待って!」

 女性の声だった。降りそびれたのだろうか? だが、誰もその声に応えない。ドアはもう閉じられてしまった。だが、女性はさらに声を上げながら、必死に人混みをかき分けてドアへ向かってきた。四、五十歳ほどだろうか。買い物帰りの主婦のように見えた。彼女は、小林のすぐそばのドアに倒れこむように駆け寄り、その窓を数回叩いた。「待って! 待って!」と悲痛な声を上げる。この女性の紫色のカーディガンには見覚えがあった。確か、小林が並んでいた列の、前から二番目に並んでいた女性だ。乗る電車を間違えたのだろうか? だが、その表情からは、尋常じゃないほどの焦燥感が見て取れた。よく見ると、目にはうっすらと涙も浮かんでいる。女性は、さらにドアを激しく叩き、外へ向かって叫んだ。しかし、それは発車ベルでかき消された。だが、小林は、彼女の声をはっきりと聞いた。「そこの、15センチくらいの――」


 そして、八度目の朝を迎えた。


 発車ベルは鳴らなかった。

 午前七時二十八分、発車ベルの代わりに、ある一言が頭の中に響く。


 「そこの、15センチくらいの――」


 女性の、悲痛な叫び声だ。八回目にして、発車ベルの音は彼女の声に差し換わった。間違いない。あの女性が鍵だ。あの三両目には何かがある。

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