第2話 中西は二十二秒後にやってくる
午前七時三十五分、その男――小林は、深く溜息を吐いた。そして、先刻目に焼き付けたばかりの、2番ホームの情景の記憶を呼び起こした。違和感を探せ。ヒントを探すのだ。
だが、その努力は徒労に終わった。何も不自然な点は感じられなかった。2番ホーム全体を俯瞰で見ようという今回の試みは、全く無駄に終わったわけだ。まあ、あのホームに不自然な所はない、ということが分かっただけでも収穫だろうか。
二度目のアラームが鳴った。七時四十分だ。さて、そろそろ朝食を摂らなくては。彼は、おもむろに立ち上がり、ローテーブルの上の小さな電気ポットのスイッチを入れた。じきに湯が沸き、それをインスタントコーヒーの粉末を入れたカップにどぼどぼと注ぎこむ。芳ばしい香りが彼の鼻をくすぐった。コーヒーをひと口すすり、冷蔵庫を開けると、昨日買ったサンドイッチが入っていた。これを買ったのは、もう遠い昔のことのように感じられる。彼はサンドイッチを手に取り、つまらなそうに開封した。
彼はサンドイッチを頬張りながら、前回までの六月九日の一連の流れを思い出そうとしていた。彼はコーヒーを片手に持ったまま、PC横のプリンタからA4用紙を一枚抜き出した。机に置き、ペンを取る。ひとまず、情報を整理しようという試みだ。
*
6月9日
7:28 起床 ←発車ベルの音
8:25 電車に乗る
8:39 大学前駅。中西に会う。
9:00 1、2限目 電磁気学講義
12:10 学食
13:00 3限目 英語Ⅱ講義
14:40 4限目 情報システム学講義
16:10 4限目終了
16:18 大学前駅2番ホーム、下り列車発車
*
時系列順に、今日の出来事をさらさらと書き出す。そして、最後に「16:18」を大きく丸で囲み、そこから「7:28」へ向けて、ぐいっと矢印を引っ張った。過去五回、彼はこの一連の流れを体験している。その全ての回において、16:18、すなわち午後四時十八分を回ると同時に、彼の意識はその日の朝――午前七時二十八分へと戻るのだ。
そして奇妙なことに、朝、彼が目覚めると同時に、決まって頭の中に鳴り響く音があった。それが2番ホームで流れている発車ベルのメロディだ。なお、1番ホームや3番ホームでは、流れている発車ベルのメロディが異なる。そしてその2番ホームからは、彼が朝へ戻されるのと丁度同時刻――すなわち午後四時十八分に出発する電車がある。この奇妙な一致から、この現象の原因は恐らくその電車にあるのではないか、と仮説を立てて、実際に検証に挑んだのが、直近二回の六月九日である。つまり、四回目と五回目の六月九日だ。ちなみに、今朝で六回目の六月九日を迎えたことになる。
四回目の夕方、彼は実際にその列車に乗り込んでみた。だが、車両のドアが閉まり、発車ベルが鳴ると同時に朝に戻されてしまった。五回目は、列車の外から観察してみた。ホームの乗客らを眺めてみたが、特に変わった様子は見られず、そのまま朝に戻されたのだ。
さて、今回はどうするべきか。彼は悩んだ。そうこうしているうちに、時刻は午前八時を回ろうとしていた。
結局考えはまとまらなかったが、少なくとも時刻を基準に物事が動いているのは間違いない。確か、父から入学祝いで貰った腕時計があったはずだ、と思い出し、机の引き出しの奥から銀色のクロノグラフを引っ張り出した。
午前八時三十八分、駅の改札を出た。左手に装着した腕時計を注視しながら歩を進める。やがて、彼の後頭部は勢いよく叩かれた。中西だ。
「オィーッス、小林。早く行かないと、遅刻するぜ?」
「お、おう」
今回は、特にコメントを考えていなかった。腕時計の秒針の動きに夢中だったのだ。中西が訝しがる。
「どうした、元気ないな」
「……二十二秒か。改札抜けてから、二十二秒で中西がくるんだな」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもねーよ。つか、急げよ。毎回言わせんな」
午前八時五十三分、講義室に入る。どうも中西は毎回歩調が変わる気がする。講義室に入る時間が安定しない。”フーリエ変換”とやらはもう六回目だが、やはり理解不能だ。半分以上寝てしまった。
午前十二時二十分。小林の昼食はやはりカレーだった。どうあがいても、カレー以外のメニューを食べることはできないのだ。今回は、食券機の押すボタンを間違えた、とゴネてみたが通じなかった。そういう運命なのだ。
しかも、ゴネた分だけ注文時間が延び、少しばかりいつもと違う展開になった。いつも座っていた学食の席が埋まってしまうという事態を引き起こしたのだ。仕方なく、中西と共に一番奥の窓際の席へ移動する。
隣の席では、数名の生徒が携帯ゲーム機に興じていた。二限目の講義が無かった連中だろう。小林たちが学食を訪れる、そのずっと前から盛り上がっていた印象だ。ゲーム機を操作していた一人の男子学生が、思わずのけぞって叫んだ。
「うわ、マジかよ。またこの敵に引っかかった!」
周りから画面を覗き込んでいた数名の学生たちが、けらけらと声を上げて笑う。その中の誰かが言った。
「気に入らない展開なら、リセットしちゃえば?」
操作していた学生は、「そうだな」と言ってゲーム機の電源を落とした。すぐさま再起動する。その様子を見て、中西が小林に話しかけた。
「なんだあれ、途中で止めちゃうのか?」
小林は、彼らの持っているゲーム機を一瞥した。画面はさっきチラッと見えた。彼が数か月前までやりこんでいたゲームだ。カレーのルーをスプーンでぐるぐるとかき混ぜながら応えた。
「ああ、ハイスコア狙ってんだよ。あのゲーム、レアアイテム出すには高得点が必要なんだ。序盤で躓くと、どうしてもスコア低くなっちゃうからな」
「へぇ、なんか勿体ねぇな」
再プレイが始まった。今回はうまくいっているようだ。周りの学生が、固唾を飲んで見守る。気になるのか、中西も時々食事の手を止めて、ちらちらと彼らの様子を伺っているようだった。小林の頭の中では、一人の学生が放った言葉がリフレインしていた。
”――気に入らない展開なら、リセットしちゃえば?”
俺のこの現象も、誰かがリセットボタン押してるのかもな。そいつが用意したステージでハイスコアが出なくて、俺にはそれをどうにかしろ、と言っているのだ。そんな気がした。
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