六月九日

阿山ナガレ

第1話 電車は一両目が空いている

 発車ベルが鳴った。


 男は、自宅のベッドの上で目覚めた。まずは、メガネを探さなければ。枕元をまさぐる。いつもの場所より少し左にある。次は携帯電話だ。これは枕のすぐ横にある。手に取り、日時を確認する。

 六月九日、午前七時二十八分。

 目覚ましのアラームは三十分ちょうどにセットしてある。それが鳴りだす前にアプリを起動し、アラームを解除しておく。

 これら一連の動作を手早く済ませ、男はむくりと起き上がった。今朝はアラームより先に起きることができた。睡眠はバッチリ。爽やかな目覚めだ。

 男は溜息を吐いた。前回の目覚め同様に、頭は冴えきっている。素晴らしい目覚めなのだ。嗚呼、それは分かっている。分かっているからこそ、何と陰鬱な朝であることか。

 男は、もう一度携帯電話を確認した。六月九日である。二度も確認したが、やはり六月九日だ。なんだか無性に腹が立ってきた男は、そのまま携帯電話を床に叩きつけた。

 ぼんやりと天井を見上げる。すると携帯電話が鳴りだす。午前七時四十分だ。二度寝防止用にアラームを二つセットしていたことを忘れていた。だが、今はそれを止める気力は無い。アラームが鳴り続ける間、男は呆然と宙を見据え、そして、呟いた。

 「訳わかんねー……」


 午前八時十分、軽く朝食を済ませて、男は自宅を出た。大学へ向かうのだ。


 午前八時二十二分、駅に着いた。定刻通りであれば、後二分で電車が来る。だが、今日は一分ほど遅れてくる。そして、空いているのは一両目だ。さすがに五回目だ。そういうことは覚えてしまう。


 午前八時二十五分、電車が来た。彼は先頭車両に乗り込もうとしたが、ここで少し待つ。扉が開くと同時に、小学生が飛び出してくるのを知っているのだ。一度、突き飛ばされて痛い思いをしたことがある。

 案の定、小学生二人が歓声を上げながら駆け出してきた。彼はそれを扉の脇で見送ってから、悠々と車内へ進む。やはり一両目は空いていた。どこへでも座れるが、今回は西側の中央に座ることにした。


 発車ベルが鳴った。


 「え、本日は、先日の集中豪雨による線路の復旧作業により、若干の遅れが生じておりまして――」と、車内放送で電車遅延の弁明放送が流れた。別に聞くつもりは無いが、内容を覚えてしまっている。


 午前八時三十九分、目的の駅に到着した。駅から大学までは徒歩五分。一限の授業には余裕で間に合う時間だ。

 改札を出てから慎重に十一歩進んだところで、突然後頭部を叩かれた。振り向くと、友人がニヤケ顔で立っている。中西だ。奴は同じ電車の三両目に乗っていたのだ。

「オィーッス、小林。早く行かないと、遅刻するぜ?」

「お前が絡まなきゃ、余裕で間に合うよ」

今回は、わざと痛そうに後頭部を擦りながら悪態をついてやった。しかし、中西は特に悪びれる様子も無かった。そして、その男――小林は呟いた。

「くそ、十三歩じゃなかったのかよ……。もしかして、時間なのか……?」

中西が聞き返す。

「ん? 何か言ったか?」

「なんでもねーよ。ほら、急がないと、あの信号、赤になる。遅刻するぞ!」

中西を急かして大学へ向かった。実際、ここで二人で喋りすぎて遅刻したこともあるのだ。


 午前八時五十分、予鈴が鳴った。大学の西二号館、二〇一号室で電磁気学の講義が始まる。二コマぶっ通しで、長谷川教授による授業だ。内容は、”フーリエ変換”について。小林にとって、この講義は五度目なのだが、何度聞いてもよく分からない。恐らく、今日は理解できない日なのだろう、と割り切ることにした。実際、中西も寝てしまっている。


 午前十二時十分、昼食。残念ながら、彼の昼食は今回もカレーである。こんな状況だからこそ、食事はバリエーションを変えて楽しみたいのだが、どうやら運命はそれを許さないようだ。別なものを頼もうとしても、中西が勝手に食券機の「カレー」のボタンを押してしまう。小林も、なんとか抵抗しようとするが、どうあがいても無理だった。”フーリエ変換”の講義同様、と割り切るしかないのだ。


 午後一時、三限目の講義が始まった。山田助教授による英語の時間だ。開始から十五分ほどで中西が指名される。居眠りしていたのがバレたのだ。今回、小林は静観していた。中西が大勢の前でこっぴどく叱られているのを見るたびに、昼食のカレーの件の溜飲が下がるのだ。これが奴にとっては運命なのだ。


 午後二時四十分、四限目。東三号館の情報処理室へ移動する。角田講師の情報システム学の時間である。今日は、HTMLによるWebサイト作成の実技の時間に当てられていた。出席の点呼さえ終わってしまえば、実質、九十分間の自由時間に近い。小林の好きな講義の一つである。しかし、最初の一、二回こそ、真面目に打ち込んでいたが、さすがに五回もやると飽きてしまった。今ではもう殆どのHTMLタグを、で打ち込むことができる。今回の講義では、最初の十分でおざなりに作ったものを提出し、あとはのんびりニュースサイトを眺めて過ごしていた。


 午後四時十分、講義終了のチャイムが鳴った。めいめいが荷物をまとめて次の場所へ移動する用意を始める。そのまま帰る者、サークルに行く者、バイト先へ急ぐ者、五限目の選択講義へと向かう者、三者三様だ。中西は軽音部に顔を出すらしい。ずいぶん熱心に活動している。小林は、帰宅する派だ。家でテレビゲームに打ち込む方が性に合っている。それに、彼にはすぐにでも駅に向かわなければならない理由があった。


 午後四時十五分、小林は駅に到着し、呟いた。

「やっぱ、この駅なんだよな。今度こそ……」

 この現象の根源は、小林も理解していた。この駅に何かがある。それだけはなんとなく勘付いていた。そして、懐から定期入れを取り出し、改札へ向かった。

 

 改札をくぐり、奥から二つ目の階段を上がると、そこに2・3番ホームがある。彼の目的地はそこだ。そこでないと、あの発車ベルは聞こえないのだ。過去四回の経験で、そこまでは絞り込んだ。この2・3番ホームに、きっと何かあるはずなのだ。

 ホームでは、帰宅する多くの人々が電車を待っていた。2番ホームは下り線、3番ホームは上り線だ。どちらも列車到着前だが、あちこちに順番待ちの列が出来ている。この駅は、若干ホームが弧を描いているので、弧の内側にあたる2番ホームの端からは、その全景が見渡せる(もちろん、電車がホームに居ないときに限るのだが)。彼は、2番ホームの奥の端――先頭車両が来るであろう場所に陣取り、ホームの様子をよく観察することにした。

 なお、彼が自宅に帰るには3番ホームから急行に乗ればよい。上りの急行は、午後四時二十一分発――あと数分で発車だ。だが、それは今回重要ではない。

 小林は携帯電話を取り出して、その画面を見た。午後四時十七分だ。その肩に力が入る。下りの電車がホームに入ってきた。

 この電車に乗るべきだろうか?

 彼は自問自答する。いや、前回はこの下り電車に飛び乗った。しかし、結果は変わらなかった。今回は電車の外から観察すると決めたのだ。

 電車が2番ホームに停車した。扉が開き、乗客が次々と入れ替わっていく。彼は、その様子をじっと見つめていた。何か手掛かりがあるはずなのだ。それを探さなければならない。

 そして、ひとしきり人の移動が終わり、列車のドアが音を立てて閉じた。手掛かりらしいものは、何一つ掴めなかった。彼は携帯電話の画面を確認した。

 午後四時十八分だ。

 僅かな期待と共に、彼は携帯電話を握りしめた。



 そして、発車ベルが鳴った。


 男は、自宅のベッドの上で目覚めた。枕元をまさぐる。メガネはいつもの場所の、ちょっと左だ。携帯電話は枕の横。六度目なので手慣れたものである。そして、いつものように携帯電話で日時を確認する。

 見るまでも無かった。今は六月九日、午前七時二十八分だ。

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