記憶から来た女

 修道院へ至る道は昨日から降り続く雨ですっかりぬかるんでいる。

 水たまりやわだちに車輪がはまり込んで馬車が大きく揺れると、元々乗り物酔いする体質のヨハンはその度に吐き気をこらえることになった。

 せめてもの救いは、馬車の窓が都の物よりいくぶん大きかったことで、こうして硝子ガラス窓を開け放しておけば、こらえきれなくなった時に、少なくとも客車を汚して御者をうんざりさせることはないわけだ。


 晴れていれば、まだ気分の良い旅路にもなったかもしれないな――

 小降りになったとはいえ、しつこく振り続ける雨が窓から入り込んで、容赦なくヨハンの外套を濡らす。

 窓の外には収穫が乏しそうな粗末な畑と、遠くに横たわる未開拓の森といった辺境の典型的な風景が、飽きもせず延々と続いている。


 人や荷馬車とすれ違うこともしばらくなかったが、黒雲と畑に向かってまっすぐ伸びていく道の先にボツリと小さな人影があることにヨハンは気づいた。

 徐々に近づいていくにつれその姿が明らかになってきた。粗末なローブを頭からかぶって、黙々と歩いている。巡礼者だ。

――こんな辺境に熱心なことだ。

 みすぼらしい客車の中でヨハンは思い、同時にそれは、宮廷術師にも関わらず、このような辺境に呼び出される自分の境遇にも言えることだと気づいて、思わず苦笑した。

 おそらく巡礼者の目的地も同じだろうし、馬車に乗せてやっても良いかもしれない。退屈な田舎道を雨に濡れて歩く気分を想像してヨハンは思った。が、同時に今は任務中であることも思い出す。

 本来なら巡礼者一人相乗りさせたところで問題になることはない、が、今回に限ってはどうだろうか?

 迷っているうちにも馬車は進み、気がつくとずぶ濡れの巡礼者とすれ違うところだった。ヨハンは声をかけようと、慌てて窓から顔を出した。


 ローブの下に長い髪が見えた。鮮やかな赤だ。


 何故かその姿にヨハンは気をとられ、声を発することができなかった。

 ヨハンに気づいた女がゆっくりと顔を上げる。雨に濡れて薄汚れてはいるが、まだ若い。上品で端正な顔立ちの中に燃えるような赤い瞳がまっすぐヨハンに向けられている。


 思わず息を呑んだ。


 ヨハンはたまらず目を逸らして、首をひっこめてしまった。

 信仰心のあつい女性が一人で巡礼することは、それほど珍しいことではない。しかし彼女の容姿に何か異様なもの、いや不吉なものを感じたのだ。


 しばらく馬車に揺られながらヨハンは息を整えた。任務を意識するあまり、神経質になりすぎているのかもしれない。一体なんだと言うんだ。あれはただの赤毛の女だろうに。

 そう思う一方、今振り返っても、その女の姿は米粒のほどの大きさにしか見えないだろうにも関わらず、あの赤い瞳だけは未だに自分の姿を捉え続けているだろう、という考えが古い悪夢に似たしつこさをもって、ヨハンの脳裏から離れないのだった。



 ヨハンが修道院についた時には日が落ちかけていた。薄曇りの青い光によってところどころが朽ちた石造りの建物が距離感を失って、こちらにのしかかってくるかのようだ。


 御者に荷物を下ろさせドアをノックする。係の修道士に来訪を告げると、ほっと一息つくまもなく、慌ただしく執務室に通された。


「遠いところからご苦労だった。」


 ヨハンを出迎えたのはザビネル枢機卿すうきけいである。異端審問官いたんしんもんかんを兼ねるこの男の教区も当然こんな辺境ではないが、お互い大変だな、というような同調の様子は微塵もない。潔いまでの社交辞令だった。


「これはこれはヨハン様、いつ以来でしたかな…」

 傍らにいる修道院長が、対照的に精一杯の愛想と笑顔でヨハンに挨拶した。額に浮かんだ汗が、中央の高等職二人を迎えて、どうしていいかわからない困惑を雄弁に物語っている。もっとも一方のザビネル枢機卿は、この辺境で教区すら持たない一介の修道院長に、壁際にある書棚以上の注意を払うとは思えなかった。


「本来ならこの地方の葡萄酒ぶどうしゅのえも言えぬ芳醇ほうじゅんさについて、時間をかけて紹介したいところだが、事が事なのでね。単刀直入にいこう。」


 と言って、ザビネル枢機卿は羊皮紙の束を差し出した。ずいぶんとなことだ、とヨハンは心の中で呟いて、それを受け取った。


「三年ほど前から、ここからそう遠くない術者の集落――田舎によくある何の変哲もない便利屋の村といったところだが――そこで、常識では考えられない威力の術の発動が度々目撃されている。」


 羊皮紙の束は地方政庁に寄せられた密告の類をまとめたもののようだった。ざっと目を通しただけでも、魔女の疑い、悪魔との契約、冒涜的な態度。といったお決まりの言葉が、役人の書く格式張った文体に散りばめられている。


「それほど信用できる情報とは思えませんが」


 ある程度吟味しているふうを装うために書類に目をおとしたままヨハンは言った。


「もちろんだ。これだけでは、我々が動く証拠にはならん。異端、特に魔女についての捜査は慎重の上にも慎重を期せねばならん性質のものでね。」


 平然と言い放つ。ヨハンは内心、鼻白んだ。


 この男が今の地位についてから、異端審問いたんしんもんや魔女裁判で死刑になったものは千人は下らないだろう。その甲斐あって魔女や異端の策謀が未然に防がれてきた――ということになっているのだが、この「敏腕」異端審問官が執り行う壮絶な拷問を伴った宗教裁判が、奇妙なほど教会と地方領主の利益にかなうように成されてきた、という事実はもはや法王府内では公然の秘密だったからだ。


「君が私のことをどう思っているかは知らないが、私とて、領民の反乱を防ぎたい貴族連中や、近隣の集落の嫉妬じみた密告だけで、過酷な異端審問を行うつもりはないのだよ」


 ヨハンの侮蔑をかわすように、ザビネル枢機卿は白髪の目立つ頭をわざとらしく掻いた。どうやら愛嬌のつもりらしい。


「一応聞いておくが…ここに報告されている術の発動は、優れた術者でもある君の目にどう写る?これは異端や魔女どもが成す、口にするのも汚らわしい邪悪な術式によるものだろうか?率直な意見を聞かせてもらいたい」


 先程から続く茶番じみたやりとりの意図に気づいてヨハンは溜息をついた。

 ようするにこの男は試しているのだ。ヨハンが自らの地位と安全の為に、かつての親友を売れるかどうかを。


「では…申し上げますザビネル卿」


 ヨハンは気負うこともなく口を開いた。特に迷うことはなかった。どう答えるかは、都を発つ時にすでに決めていたからだ。


「これらの術の発動は優れた術者によるものです。この報告にあるような地上30リーグにも及ぶ水柱は、邪悪な術式など用いなくとも、我々のような宮廷術者であれば誰でも起こすことができるものです。

 また悪魔との契約など、冒涜的な所業については、真実味に乏しく、明白な証拠もなく、おそらくは単なるでしょう。

 この中で、示される証言のうち、唯一信じるに足るものは、かの者がであるという、この一点のみですが、一方で才能に恵まれた術者の行動は、時として凡人の理解を超えるもの、ということも忘れてはなりません。これらをもって、この者を異端、もしくは魔女とするのはいささか無理があると思います」


 知らずに熱がこもってしまったようだ。口上を述べている間にザビネル枢機卿が僅かに目を見張るのがわかった。まったく意外な、という感情をこの男が抱く時にはそういう表情を浮かべるのかもしれない。


「なるほど!同門のよしみはまだ続いているらしい!」


 ザビネル枢機卿が愉快そうに笑うと、修道院長が不安そうにヨハンを見た。ここで私も笑って大丈夫だろうか、と問いかけるような顔である。


「ここで問題にされている術師はガライ・メラニウス。元宮廷術師で、故クロウ・メラニウスの息子。また君の親友でもあるそうだな?」


 ヨハンは黙って頷いた。その名前に思い当たったのか修道院長が、ああ…あの、と小声で唸った。


「私とて、ガライ術師のような高名な術師の存在を忘れていたわけではないのだ。ましてや、そのような優れた術師が都を出て、不釣り合いな辺境の集落に身を寄せていることを、私が知らないわけでもない」


 ザビネル枢機卿の口調は満足げだった。


「なら、審問するまでもないのではありませんか?確かにあの男は…」


 ヨハンが、言いかけた時、


「しかし」


 ぴしゃり、とザビネル枢機卿の表情が一変した。狼が追い詰めた獲物をようやく仕留められるとわかった時に浮かべるような、それは残虐とその悦楽を知りつくした顔に違いなかった。


「禁脈の発動となれば話は別だ。ヨハン術師。あの集落で禁脈と交渉が行われた形跡があるのだよ。」


――禁脈


 ヨハンは愕然として、思わず手にしていた羊皮紙の束を取り落とした。ザビネル枢機卿がゆっくりと立ち上がり、優雅な所作で床に散らばった書類のうち一枚を拾い上げた。


「この馬鹿げた証言を信じたわけではないが、体面というのもあってね、この修道院に配下の者を何人か配置することにして、しばらくあの集落で起こされる術を監視していたのだ。

 確かに度々、強い術が使われはするが、どれもガライ術師なら造作もないような類のものだったよ。あのような田舎の集落の者には、それこそとでも思えるかもしれんがね。」

 ――だが。ザビネル枢機卿の目が光った。

「四日前のことだ、あの集落で未知の術が発動され、二百年間決して聞かれることのなかった禁脈の声が、確かに聞こえたのだ。」


「そんな馬鹿な…」


 下腹部が強い力で押し付けられているような、重い感触があった。


「信じたくないのは私も同じだ。滅び去った以来、あの禁脈に近づく者がいるなど!」

 枢機卿はヨハンの側に来ると、肩を叩き、耳打ちするために顔を近づけた。服にしみついたこうの匂いに混じって、枢機卿のくすんだ体臭がヨハンの鼻をついた。

「どうだね?ガライ君は禁脈の研究をしていたのではないか?それで宮廷にいることができなくなった。そうではないか?」

 と囁いた。首に縄をかけられ、それをゆっくりと締め上げれるているような感覚があった。

 しかし、ヨハンは自分を奮い立たせ、毅然と枢機卿に向き直る。

「それは事実と異なります。」


「ほう?」

 枢機卿は首を傾げた。

「ガライ術師が宮廷を出たのは自らの意志によるものでした。我々は彼を追放しておりません。ましてや彼が禁脈に近づいたなどという話は聞いたこともありません!」

 みるみるうちに枢機卿の顔に失望の色が広がった。


「ふむ。ならば、より調べる他ないようだ。ガライ術師の捕縛、逮捕ということになるか…」

 ヨハンは笑みを浮かべざるを得なかった。ヨハンはようやくこの男の意図に気づき、言った。

「あの男が黙って捕縛されるとは思えませんな。重装歩兵の20に、術師の2人は必要でしょう」

 枢機卿は忌々しそうな顔をした。

「君もご存知の通り、ここはあの面倒な公爵の領地で、ガライは公爵のお気に入りときている。昨今は、その程度の部隊を領内に入れるだけでも、忌まわしいとやらが必要な状況でね。正直なところ、ここで騒ぎを起こしたくはないのだ。私はむしろガライ術師が自ら法王府に出頭し、この件について釈明することを望んでいる。」

「そこで私の出番というわけですね」

「その通りだよヨハン術師。君が説得してくれれば、ガライ術師も素直になってくれるかもしれん」

「保証はできかねますが」

 ヨハンが言うと、枢機卿はガライが禁脈を用いた確たる証拠を得られなかった悔しさからか、やや投げやりに言った。

「どちらにせよ、ガライ術師の潔白を証明するには、あの集落から彼を引き離さなければならん。事が事だ。彼も納得してくれよう」


 どうやら、事態はそれほど深刻なものではなさそうだ。ヨハンは安堵した。

 結局のところ枢機卿の狙いは最初から公爵領からガライを引き離したい、といった程度のことだったのだろう。しかし、言うに事を欠いて禁脈とは…



 明朝に集落に発つことを告げて、ヨハンは辞去した。


 二人の会談中、壁の書棚と一体となっていた修道院長は、その後ろ姿を見送って、ザビネル枢機卿の為だけに秘蔵の葡萄酒を出すことを決めたのだった。



「お兄様」


 ようやくザビネル枢機卿から開放されたヨハンを待っていたのは妹のフランチェスカだった。


「どうした?お前のいる修道院は、ここから遠い筈だが?」


 ヨハンがあげた声が夜の礼拝堂に反響した。


「お兄様がこちらにいらっしゃると聞いて訪ねてまいりました。ああ、懐かしい!何年ぶりでしょう!」


 フランチェスカとは五年ぶりだ。ガライが宮廷を出た時、以来ということになるだろうか。


「お兄様はどのような御用でここに?」


 無邪気に尋ねる妹の明るい表情に、ヨハンは胸を打たれた。どこまで明かすべきだろうか、とヨハンは思った。

 ガライとフランチェスカは小さい頃からの付き合いだ。生意気で大人の言う事にすら反発していたガライも、フランチェスカの泣き顔を見るのだけは嫌だったようで、妹の言う事には素直に従っていたものだ。


――あの頃は、この二人がやがて結婚するだろうということに、本人以外、誰も疑いを抱いてさえいなかったのだ。


 ヨハンは自分がひどく感傷的になっていることを自覚した。


「…そうだな。お前には話しておいてもいいだろう」


 礼拝堂のベンチに腰掛けて、ヨハンはフランチェスカにガライが禁脈と交渉した疑いがかかっていること、ザビネル枢機卿が自分に与えた任務について話した。


「…とても信じられません…そんな話…」


「その通りだ。ガライは確かに誤解を与えるようなところもあったが、禁脈に手を出すような男ではない」


 半ば自分にも言い聞かせるようにヨハンは言った。妹は目に涙を浮かべて、ヨハンの袖をつかんだ。


「きっとこれは何かの間違いに決まっています!ガライ様ではない、集落の誰かが禁脈を使ったのでは?」


 おいおい、とヨハンは妹を見た。ガライに肩入れするあまり、といったところなのだろうが、古典時代の術者が束になっても敵わなかったように、禁脈の問いに答えようとするのは危険に満ちた行為だ――もちろんヨハンも詳細を知っているわけではないが――少なくとも便利屋扱いされている田舎の術者集落ごときに、そのような大それた術を探求しようと試み、また実際に使ってみせるような術者がいるとは、とても考えられない。あの以外は。


「おそらくザビネル卿の配下の者が観測を誤ったのだろう。私でもそのような観測が正確にできる自信はないよ。が消えてから、禁脈が話したところなど誰も聞いたことがないのだからね。」


 言ってから、ヨハンの胸に一抹の不安がよぎった。ザビネル枢機卿のあの自信に満ちた口ぶり。あの男が証拠の不確実性などというものを気にするとは思えないが、しかし、その程度の証拠で公爵と関係が深いガライを異端審問にかける危険性をあの狡猾な男が理解していない筈がない。もしかするとまだ何か隠し玉があるのかもしれない。それとも望みを失ったガライが逃亡することを期待しているのか。


「フランチェスカ。私は明日その集落に赴いて、ガライに直接相談しようと思う。どうもこの話は不審な点が多い。潔白を主張するにしても、ガライであれば禁脈を監視する手段についても詳しい筈だ。無実を証明するために私ができる事もあるだろうし」


「はい、お兄様。ガライ様をお願いします」


 ようやくフランチェスカはヨハンの袖を離した。礼拝堂の祭壇におかれた蝋燭が、すっかり大人になった妹の顔を照らしている。涙をたたえた赤い瞳はいつのまにか明確な意思を持ったように思えた。


「私もそろそろ宿坊に戻らねばなりません」


「ああ。そうだな。今日はもう遅い。ここにはしばらくいるのだろう?戻ってきた時に、また話そう」


 言って、燭台を手に戻るフランチェスカの後ろ姿を見送った。中庭を急ぐ巡礼服は闇にまぎれてすぐに見えなくなったが、燭台の蝋燭のかぼそい炎は、しばらくヨハンの目に残った。





 日が暮れる前に集落に着くためには、まだ夜のうちに発たねばならない。昨日の今日で長距離を走らされることになった御者は、まだ暗いうちからたたき起こされたこともあって不満顔だ。

 ヨハンは寒気に身をひきしめながら、馬車に乗り込んだ。


 走る馬車の振動に体を委ねながら、ザビネル枢機卿の策謀について考えを巡らしているうち、夜が明けた。森の向こうから上る神々しい朝日が、昨日とはうって変わった快晴を予感させる。

 良い旅路になれば良いが――と窓を覗いていたヨハンの目に、街道をこちらに向かってくる巡礼者の一団が写った。さすがに逆方向では馬車に乗せてやるこもできない。


 巡礼者か。ヨハンは、昨日すれ違った巡礼姿の女を思い出した。あの美しい赤毛と端正な顔立ち、そして赤い瞳。

 記憶の中で、あの女が妹のフランチェスカに似ていることに気づいた。

――いや、むしろうり二つだったじゃないか。本人と見紛うほどに。


 ヨハンの下腹部が、ザビネル枢機卿の詰問を受けた時より激しく重くなった。胸の鼓動が早まっていく。


 礼拝堂で会った妹は巡礼服を着ていた。つまり行きの道中ですれ違ったのは妹だったのではないか?ならどうして、私はそれに気付かなかったのだ?成長していたからか?いや、フランチェスカもすれ違った時に私を見たはずだ。何故私だと思わなかったのか?


 ヨハンは言葉を失った。目の前で、何かひどいが行われていたような予感があった。

 次の瞬間、全てがつながった。それは信じがたい結論だった。だが、それ以外に何が起きたのかを説明しようがなかった。


 ヨハンは客車から御者に向かって大声を上げた


「今すぐ修道院に戻ってくれ!すぐにだ!」

「はあ?何いってるんです?旦那。もうけっこうきちまいましたから、今戻っても着くのは昼前ですよ?」

 間延びした声の返事が返ってきた。忘れ物だってんなら、諦めてくださいよ。

「それでもいい!早く戻れ!」


 もはや声は半狂乱の色あいさえ帯びていた。昨日、礼拝堂で会った女はフランチェスカではない。あれは道中ですれ違った赤毛の女だ。

 私はあの女をフランチェスカと思い込んで全てを話してしまった。いやあの女が情報を聞き出すために自分を妹だと思い込ませたのだ。


――顔なしの魔女。禁脈と交渉し、他人の記憶を操作する、不死の災厄。


 方向転換を終えた馬車が再び走りだす。今すぐにザビネル枢機卿にこれを伝えねば。

 禁脈を使ったのはガライではない。二百年前に滅せられたとも、生き続けているとも言われる顔なしの魔女だったのだ。


 おそらく、最初にすれ違った時に、あの女に術をかけられたのだ。フランチェスカが近くの修道会にいるという記憶が作られ、記憶の中にあるフランチェスカの顔、姿を全て自分の外見に置き換えた。そして・・・


 ある記憶が、深海で発生した泡のように浮かび上がってきた。


「フランチェスカ…そんな…そんな…私は!私は!そんなことすらというのか!」


 ヨハンは人目もはばからずに客車の中で泣き崩れた。そして、御者が止めるのも聞かず、血が吹き出すまで、客車の壁に拳を叩きつけ続けた。


 フランチェスカが修道院の礼拝堂に来れるわけがないのだ。

 五年前、ガライが宮廷を出る直前、病に倒れたフランチェスカは、治療の甲斐もなく息を引き取ったのだ。

 フランチェスカは…もう死んでいるのだ!

 ヨハンは先程までその事を思い出しもしなかったのである。

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禁脈 @megamouth

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