禁脈
@megamouth
手風琴
音楽などずっと聴いたことがなかったものだから、ガライ兄さんが
ガライ兄さんは僕らのそんな様子を見て、一瞬戸惑った表情を浮かべたけど、僕らがただ驚いているだけだということに気づくとすぐに表情を崩した。
「なんだサトリ。手風琴も聞いたことないのか?」
僕が頷くと、ガライ兄さんは大きな声で笑って
「じゃあ、
僕は慌てて、手を振った。
「みんなも呼んできていい?」
ガライ兄さんは口をとがらせて「どうせ、この時間はみんな家で飯でも食ってるだろう」と言ったが、僕はそれを無視して、弟のシモンに「ガライ兄さんが手風琴を弾いてくれるって皆に教えてくるんだ」と伝えた。
無口なシモンが何も言わずに集落に向かって野原を駈け出した。
夕日に照らされた人影が小さくなっていくのを見送ると、ガライ兄さんは手風琴を傍らに放り出して「そうか、誰も
集落からは夕飯の煙がチラホラと立ち上っている。
――はたして皆ここに来るだろうか。
僕がさっきよりもずっと不安になって振り返ると、ガライ兄さんは既に横倒しになった柱に腰を下ろして「別におもしろくもないぞ。音楽なんて」と、皮肉っぽい笑みを浮かべたので、僕はようやく安心することができた。
*
ガライ兄さんがやってきたのは2年前のことだ。
さる
都から来ただけあってガライ兄さんの術は一流だった。
だから仕事のない時はこうして一日中、大昔の放棄された貯蔵迷路を漁ったり、時代遅れの祭壇に寝そべって雲をながめたりしている。
代々
本当なら、そんな術師に集落に滞在してもらえるのは幸運なことなのだろうけど、集落の大人はガライ兄さんのことを好きではないようだった。
目の前ではへりくだって、顔色をうかがうような態度で話すのに、本人がいない所ではあからさまに「あの
集落のみんなは古くからある術師のしきたりにしたがって、勤勉だ。
毎日の忙しい仕事の合間でも、術の練習をやったり、行商人が持ってきた中古の
それでも暮らしは良くはならない。新しい術を覚えても、それは近隣の集落や街の術師たちも同じなので、目立って報酬が上がったりはしないからだ。悲しいけど仕方がない。
それにもし勤勉にそれをこなさなかったとしたら、他の集落から取り残されて、最後には飢えて死んでしまうかもしれない。僕達は勤勉でなければ生きられないのだ。
一方、ガライ兄さんが真面目に術を研究しているところなど誰も見たことがなかった。それでも、僕らが見たことがないような術を使えるので、公爵様が直々に依頼した難しくて稼げる仕事をたった一人でこなしてしまう。
日々のうんざりするような暮らしの中にいる僕らには、それはひどいペテンのようにさえ見えた。
遠くの丘で昼寝しているガライ兄さんを指さして、ある人が僕に言ったのを覚えている。
あいつは才能があるんだろう。昔は努力もしていたのかもしれん。でも勤勉の美徳を忘れちまったら、術師としては生きていけない。
じっさいどうだ、あいつは都からも追われて、ついにはこんな田舎の
今に、ここにもいられなくなっちまうだろうよ。
だから、あいつには関わらないほうがいい、と。
それに嫌われる理由はもう一つある。あの笑い声だ。ガライ兄さんは人が失敗したり、バカなことをすると特に大声でよく笑う。
ガライ兄さんが口の端っこを引きつらせて、喉を鳴らしてあの耳障りな音をたてると、日頃の行いのせいもあって、笑われた人は自分が心底馬鹿にされているように感じるらしい。
それにしても。と僕は思う。それなら、ガライ兄さんも皆に優しく、術の手ほどきをするなり、自分から仕事を手伝うなりすればいいんじゃないか、と。
村の人間が
いつだったか、僕は意を決して、大人たちがガライ兄さんをどう思っているか、本人にはっきりと言ってやったことがある。
それを聞いたガライ兄さんは肩をすくめて言った。
「そんな怖い顔すんなよ。別に特段支障があるわけでもないからいいじゃないか」
「ガライ兄さんは良くても、僕らが困るんだよ!」
「ならお前ら兄弟も俺にまとわりつかなきゃいいだろ?他の連中と同じようにさ」
僕と弟のシモンがガライ兄さんにくっついてまわるのは、母さんの命令だった。
ある日、母さんが父さんの術師としての稼ぎの少なさについて長い愚痴を言った後、僕にこう言ったのだ。
「あのガライの人でなしも、お前たちには油断するだろ。ついてまわって、少しでも稼げそうな術を盗んできな」と。
でも、最近になってわかったことがある。術を盗むどころか、自分が大人になったとしても、ガライ兄さんのようにはとてもなれそうにない、ということだ。
ある夏の日のことだった。昼ごはんの用意に水を出すように言われた僕は、地面から水を引っ張ろうとしていた。
水脈の言うことは複雑だ。それは水の性質についての問いが中心で、時には万物のあり方なんていう、難しい問いもある。僕は、父親や母親に教えられた通りにそれに答えていく。そうしているうちに水脈の機嫌が段々と良くなっていくのが感じられる。あともう少しだな、と僕は思う。
その時、ふと、ガライ兄さんが僕の隣で大あくびをしているのに気づいた。きっと少し前からそこにいたのだろうけど、僕が
一瞬目が合って、ガライ兄さんはいたずらっぽくニヤリと笑った。そして、ほとんど
それは僕が一度も見たこともないような鮮やかな
僕が時間をかけてようやく湿ってきた地面が一瞬で真っ黒になった。と思った次の瞬間、
水柱の上端は集落の尖塔にまで達した。夏の光でキラキラした水しぶきが集落中に降り落ちる。それはまるで晴れ渡った日の一瞬の通り雨のようだったので、子供たちは一斉に家から出てくると、服が濡れるのも構わずにはしゃぎ回った。
ガライ兄さんは水柱の隣に座りながらその様子を満足気に見ている。
一方で家の中にいる沢山の大人たちは暗い視線でガライ兄さんを睨みつけていた。
その夜、いつになく酔っぱらった父さんが母さんに吐き捨てるように言った。
「あいつは悪魔と取引してやがる」
――だから
「あんな奴のそばに息子どもを置くな」
*
もう一時間は待ったというのにシモンも集落の人間も誰も帰ってこなかった。
日はほとんど落ちてしまって、あたりは黄昏時の青い光に包まれてしまった。その少し前から、僕はうつむいて何も言えなくなって、ただ、自分が弟に命じた事を後悔していた。
「腹減ったな」
ガライ兄さんは怒るでもなく、呆れたふうでもなく、空に向かって言った。
「飯食いに戻るか」
そこに何かの感情が込められているようにはとても思えなかった。僕は顔をあげて、待って、と言おうとした。でも、なぜだか、目の周りがひどく熱くなってくるような気がして、口が上手く開かないのだった。
僕の顔を見たガライ兄さんは、その時、手風琴を最初に弾いてみせた時よりも、もっと、戸惑った表情を見せた。ガライ兄さんのそんな顔を僕は見たことがなかった。
「馬鹿だな。お前。」
と、静かに言って、一つ溜息をつくと、横倒しになった柱に腰掛けて、目を閉じて手風琴を弾き始めた。
熱くなっていく
楽しげな、でもどこか不安になるような、おかしな曲だった。
どこか遠くにあるという、見たこともない
閉じた目の中で、僕は、その光景が見えたような気がした。
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