第6話 三ヶ月

『今朝はごめん。油上から預かったプリント、良くなったら見ておけよ』


 母親からわざわざプリントを届けに来てくれたことを聞いて嬉しくて、それからこんなメッセージをもらった時はとても幸せな気分だった。

 しかし――――


『それから……約束のことだけど、三ヶ月後。それで最後にしよう』


 三ヶ月――――

 直高から約束のことで連絡がきたのはこれが初めてのことだった。

 そして、これが最後になるだろう。

 いつかは終わりを迎えるものだった。しかしいざカウントダウンが始まると急に現実味を帯びて悲しくて切ない気持ちになる。


「ううん。あたし、最後まで諦めないから」


 三ヶ月あれば、背が伸びる可能性もゼロではない。後悔はしたくない。できることはすべてやっておこうと持ち前の前向きさを発揮する。

 勉強机の上に二冊の本が並ぶ。一つは健康や背を伸ばすための方法が記された本。

 そしてもう一つは理学療法士を目指すための本。直高と父がきっかけをくれた大事な目標。この二つを胸に邁進することを誓う。


 小実は約束の日を少しずらしてもらった。

 地元の小さな夏祭りがあったのでその日に合わせる形にしたのだ。



 そして――――

 瞬く間に月日は流れ、小実の背はついに一ミリも変動することなく夏祭り当日を迎えた。



 土曜夜市。毎年七月に行われる小さなお祭り。どちらかと言えば子ども向けのイベントなので小さい頃は楽しみにしていたが、最近はめっきり行かなくなった。

 しかし小実は直高と一緒ならどこでも、どんなことでも良かったのだ。ただもし最後になってしまうのなら思い出だけは残しておきたかった。


 二人は近くのコンビニで待ち合わせしていた。いつもの場所だと、どうしても意識して純粋に祭りを楽しめなくなりそうなのであえて違う場所にした。

 それに最後にはどうせ訪れることになるのだから。

 

 この日は気合を入れて浴衣に袖を通す。

 秘密のアイテムは下駄。

 間違いなく一発でバレるが今日は許してもらおう。


 約束の時間よりもかなり早めに着いたが既に直高は到着していた。

「ごめん、待たせたかな」

「…………いや」

 かなり遅れて返事があった。そんなに待たせてしまったのだろうかと心配になるが、直高が「行こうか」とリードしてくれたことが嬉しくてそんな杞憂は吹き飛んだ。本当はもう少し浴衣姿を見て褒めてもらったりしたかったがこれ以上贅沢は言うまい。


 直高の服装はおしゃれというよりは動きやすさを重視した格好だった。直高らしいと言えば直高らしい。スポーツ少年だったあの頃を思い出すような出で立ちだ。


 少しだけ昔に戻ったような気分で、二人は祭りの中に飛び込んだ。


 射的、金魚すくいをして遊んだり、出店の食べ物を立ち食いした。

 後先も考えずりんご飴を食べて唇と舌が真っ赤になってしまい後悔したが、それも自分らしいと思い出の一ページにする。


 そして祭りを締めくくる花火が打ち上がる。祭りも終りが近いことを悟り、それは同時に二人のこの奇妙な関係が終わることも意味していた。


 どちらかが言い出すわけでもなく二人は約束の場所へと向かう。



 街灯と人目を遮る絶好のスポットに二人は身を潜める。

「ありがとう、なおくん。今日はすっごく楽しかった。幸せだった」

 まるで別れを告げるかのように言葉。

 しかし言葉とは裏腹に小実は清々しいほどの笑顔だった。

「俺も楽しかったよ」

「……なおくん」

 そう言ってくれたのが意外で、言葉にできないほど嬉しくてたまらなかった。

 感情が昂ぶり小実は直高に抱きついた。

 直高は何もしない代わりに、何も言わずそれを許してくれた。

 厚い胸板にこつんと額を預け、小実は呟く。


「これで、本当に最後なんだね」


 振り仰げば愛しい人の顔が映る。

 唇がいつもより近い。下駄を履いているおかげだろう。


 直高が見下ろし、小実が見上げ、視線が交差する。小実はその視線を瞼で遮断し、ぷるぷると子鹿のように足を震わせながらも少しずつ踵を上げる。

 そして二人の唇と唇の距離は埋まっていくが――――



 それでもやはり足りなかった。



 これ以上は届かないことを悟り、背伸びをやめる。

 再び直高の胸に顔を埋めると嗚咽が漏れた。


「っ……ひぐっ……うぁっ……!」


 一人では十五センチの距離を埋められなかった。

 小学校の頃からずっと想い続けてきた恋の夢は今儚く砕け散った。


 覚悟していたのに、何があっても泣かないと決めていたのに、下を向いた瞬間にすべてが終わったのだと実感して、ぽろぽろと感情の塊が雨となって降り注いでいく。


 すると突然、直高は小実の顎に手を当てくいっと持ち上げる。

 そして――――

 直高の顔がゆっくりと近づいていき、唇と唇の距離は、ゼロになった――――


 驚きに目を見開く。不意を突かれてあれほど溢れていた涙は嘘のようにぴたりと止まった。

 直高は苦しそうに膝を少しだけ屈め、必死に姿勢を維持していた。

 不格好でも膝が震えていても、必死に十五センチの距離を縮めていた。

 すっと、二人の唇が名残惜しそうに離れる。


「約束だからな。付き合ってやるよ」

 顔をりんご飴のように赤く染めながら、震える足を隠すように直高は強がる。

「うそ……だって、膝……?」

「リハビリしたんだ。三ヶ月間」


 だから三ヶ月――――

 あの時、あのメッセージを送ってくれた時には、既に直高の返事は決まっていたのだ。


「…………いいの?」

 小実は目をうるうるさせながら問う。

 今更ながらにずっと不安にさせたことを後悔し、吐露する直高。

「ごめんな、ずっと待たせた」

「ううん。背伸びしても届かなかったのは口惜しいけど……こうしてもらえるの、すごく嬉しい。なおくん。これからもあたし絶対になおくんを支えるからね。だから……あたしを幸せにしてください」


 そして、もう一度。

 気持ちを確かめ合うように二人は口づけを交わした。

 今度は十五センチの距離は簡単に、極自然に埋まり、恋の呪縛はゆっくりと解けていった――――

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キスができたら 甲由 @kou_you

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