第5話 送信
午前の授業が終わり、昼休みの時間。
直高は図書室のある棟へと続く渡り廊下を歩きながら、空を見上げた。
朝の豪雨が嘘のように憎らしいほど晴れている。
昨日小実からメッセージを返した後も悶々として寝付けず、朝寝坊してしまった。
そして今朝、バスでの出来事に加え、携帯でのやりとり。
『あんなガキの頃の約束を本気にするなよ』
これ以上ないほど小実を傷つけた。本当は自分が傷つきたくなかっただけなのに、自分のことしか考えられない身勝手さに嫌気が差す。
できることならあのメッセージをなかったことにしたい。戻れるものならあの頃に戻りたい、やり直したい。
しかしそれはただの現実逃避だ。直高には今しなければならないことがある。
――――謝ろう。
言葉はもう取り下げることはできない。すべて元通りには戻らないだろう。
それでも小実を傷つけたことだけはちゃんと謝りたかった。
直高はそのまま図書室へと歩を進める。昼休みならここが一番小実に会える可能性が高い。
図書室のドアの前で立ち止まり、一度深く息を吸って吐き出す。言うべきことはたったの一言だけだ。それなのに最初の一歩がなかなか踏み出せなかった。
結局自分から踏み出す勇気は出せず、後ろからやってきた生徒に便乗する形で入室する。今日は来ていないかもしれないという希望的観測を裏切り、見慣れた小さな後姿を発見した。
小実は専門書がずらりと並ぶ棚の一番上にある本に一生懸命手を伸ばしていた。届きそうで届かない。そのもどかしさに自分たちを重ねて胸がずきんと痛み、見ていられなくなった直高は後ろからその本をひょいと掴む。
タイトルは長く全部は読めなかったが運動機能障害に関する本だった。
どきりとした。いつもこんな本を読んでいたのだろうか。それはなんのために、と逡巡していると小実が振り向いた。
「あ、ありが――――」
直高の顔を見ると、小実の言葉はそこで止まった。
一瞬かなり驚いた顔をするが、すぐにその表情は悲しみの色を帯びていく。泣き腫らして目の周りは赤くなっており、顔も赤みがかっている。
「……っ」
謝らなければ、そう思いながら本を渡そうとする直高の横を小実は脱兎の如くすり抜ける。
「あ、待てよこれ……!」
逃げたい一心なのだろうか、目当ての本に目もくれず出口へ向かう。
しかし――――
何もないところで小実はずっこけた。
小実にはよくあることだった。そして七転び八起きという言葉がよく似合う小実は転んでもただでは起きない。しかし小実はいつまでも立ち上がることはなかった。
「小実……? おい、小実!」
静寂に包まれた図書室は一転、騒然とする。直高が慌てて駆け寄って肩を揺するが苦しそうに呻くだけだ。顔はさっきよりも赤く頬を触るとかなり熱を帯びている。
司書の先生と保健室に連れて行く。熱は三十九度を超えていて、朝の雨が原因だろうと保健の先生は断定する。しかし直高はそれだけが原因ではないような気がした。
小実はその日学校を早退した。
放課後、油上潤という女生徒が直高の元に訪れ、「ちょっといいかな?」と、人気のない空き教室前の廊下に連れて行かれる。
「このみんの宿題とかプリント持って行くの引き受けたんだけどさ。悪いんだけどこれ、なおくんが持って行ってくんない?」
ちなみに潤と話すのはこれが初めてである。それなのに何故いきなり「なおくん」呼ばわりされているのか。
そもそも自分が引き受けたものを人に押し付けるという了見なのか。
「……自分で行けよ」
「えー、だってウチからだとこのみんちまで地味に遠いし、わざわざ往復しなきゃいけないじゃん」
「じゃあ最初から引き受けるなよ」
「ご近所なんでしょ? 堅いこと言わずさ。それとも……会いたくない理由でもあるのかな?」
「…………」
踏み込まれたくない領域に平気でずかずかと上がり込んでくる。直高が苦手なタイプの人間だ。
「このみん、学校来てからずっと落ち込んでたんだよね。顔も酷かったし、きっと何かあったんだろうなって」
「……何が言いたい」
「あ、勘違いしないで欲しいんだけど、私は別になおくんがこのみんに何かしたのか勘ぐってるわけじゃないよ? ただなおくんはどうして、このみんの気持ちを受け取らないのかなって。このみんのこと嫌いじゃないんでしょ?」
「それは……お前には関係ないだろ」
答えに窮してお茶を濁す。
「それが関係あるのよ。あの子が暗いと私の調子が狂っちゃう。なおくんだってそうでしょ? だって、あの子から底抜けの明るさを取ったら何が残るのさ」
「…………」
結局潤の頼みを断りきれずにプリント類を押し付けられた。
しかし先ほどは謝りそびれたのでもう一度チャンスをもらえたと思うことにした。
小実の家に行くのは久しぶりだった。
昔はよく遊びに行っていた気がするが、やはり男と女が性を意識せずに過ごせる時間というのは限られている。
インターホンを鳴らすと小実の母親が出迎えてくれて、久しぶりに来たせいか随分と歓迎された。
小実はまだ部屋で寝ているらしく、プリントを返したらすぐに帰るつもりだったがあれよあれよと中まで通されてしまう。
台所に案内されテーブル一台を挟んで、何故か小実の両親と三者面談している。
「最近顔を見なくなったからどうしてるのかと思ったけど元気そうじゃない」
おばさんの歳を感じさせないほど穏やかな微笑みを浮かべる。
「おじさんやおばさんにもご心配おかけしました」
直高が事故に遭った時、支木家の皆はまるで本当の家族のように親身になってくれた。お見舞にも何度も来てくれたが、障害が残るショックで塞ぎ込んでいたため、余計に心配をかけただろう。
今も気を遣ってくれて、潤のように踏み込んだことは聞かないでいてくれたのはありがたかった。
しかし直高にはどうしても気になっていることがあって二人に尋ねることにした。
「最近、小実が図書室で一生懸命本を読んでいるのをよく見かけて、今日たまたま何の本を読んでいるか見えたんです。でもそれが運動機能障害に関する本で……」
直高が言わんとすることを二人は察したのか、少し表情を曇らせる。やはり、と直高はテーブルの下で拳をぎゅっと握り締めた。
もしそれが自分のためだとしたら、自分のせいだとしたらやめさせないと。そんな強迫観念に襲われた。自分のせいでこれ以上人生を狂わせたくなかった。
しかしそれは直高の思い違いだった。
「直くん。これを見てくれ」
そう言うとおじさんはテーブルの横から左足を出し直高に見せた。
「おじさん、これ……」
左膝の皿の部分が変形して大きく腫れ上がっている。高齢の方なんかによく見かける、変形性膝関節症だ。
「ちょっと前から患ってな。それからかな。あいつがその手の本を読んだり勉強するようになったのは……」
ぱしっと膝を叩くと、おじさんはどこか遠い目をして語りかける。
「俺のことも、直くんのことも多分きっかけの一つだろう。だけどあいつはあいつなりに目標を持って今頑張ってるみたいなんだ。だから直くんもそのことで気に病む必要はないぞ」
「…………」
知らなかった。直高の知っている小実は明るくて前向きで、幼くて夢見がちな女の子だった。
しかし小実は目標を見つけそれに向かって邁進していたのだ。
直高はずっと自分の後ろを追いすがっていた少女がいつの間にか自分を抜き去っていたことに愕然とした。
そして同時にある気持ちが湧き上がってきた。
直高は決意とともに二人にお辞儀する。
「おじさん、おばさん。ありがとうございました。小実にお大事にとお伝え下さい」
「ええ、もちろん。小実もきっと喜ぶわ」
直高は家に帰ってベッドに横たわるとすぐ小実あてのメッセージを作る。
メッセージは二件。
『今朝はごめん。油上から預かったプリント、良くなったら見ておけよ』
『それから……約束のことだけど、三ヶ月後。それで最後にしよう』
大きく深呼吸し、直高は送信ボタンを押した――――
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