第4話 人

「この世の終わりだよ……」


 重い空気を醸しながら机に突っ伏し文字通り沈んでいる小実。


「勝手に終わらせるな」


 小実の頭上に見えない暗雲が立ち込め、今にも降り出しそうなどんよりとした空気をしっしと鬱陶しそうに払う潤。

 放課後の2-Cの教室は別棟に阻まれて西日が差し込まず、暗鬱たる気分を助長させる。


 小実がただならぬ負のオーラを発しているので潤は渋々といった様子で相談に乗っていた。掃除中のできごとを話すと、潤は教室内が二酸化炭素過多になるのではないかというほど深く長ーいため息を吐いた。


「『人』っていう字はどう書くか知ってる?」


 潤は藪から棒に問いかける。


「……そんなの知ってるよ」

「じゃあその成り立ちは知ってる?」

「……昔のテレビドラマで言ってたもん……人と人が支え合ってできてるんでしょ」

「じゃあそれを指で作ってみて」


 机に顔面を埋めたまま生返事する小実に命令すると、面倒臭そうに両手の人差し指二本をくっつけて小学生でも知っている漢字一文字を作った。

 潤の目から見たそれは『入』だった。この辺りの浅慮さにも軽く苛立ちを覚えつつ潤は小実の指を乱暴に掴む。


「あんたらの『人』って字はこう!」

「痛い痛い痛い!」


 骨が折れのではないかと思うほどの強くぎゅーっと指と指を押し付け合う。

「もう、なにするのよー!」

「ちょっと考えてみなって」

 痛む指を涙目で揉みほぐしながら彼女の趣旨を汲み取る。


「……それって、あたしがなおくんを助けてあげたいって思うように、なおくんもあたしのことを助けてあげたいと思ってるってこと?」

「そうだね。日本人らしい善意の押し付け合いとも言う」

「…………」


 言葉は時に鋭利な刃となる。それを小実は先ほども実感したばかりだ。

 人は人と会話をする時、なるべく角が立たないように丸く削ったり柔らかいものを選んだり優しく下手投げで取りやすい位置に投げるものだが、潤は鋭く尖った硬質なナイフをビュン、と豪速球で投げてくるのだ。


「でもどうしてなおくんがあたしのことを?」

 その点がどうも腑に落ちなかった。

「そりゃなおくんも男じゃん。男ってのは見え張って強がって女の前でカッコつける生き物じゃん。好きな女を助けてやりたいって思うじゃん」

「好きって!? あたしのこと!?」

「まあ便宜上」

「…………」


 いちいち言葉に翻弄され一喜一憂する小実はすっかりいつもの調子を戻していた。小実がやる気になるエンジンをかけ、舞い上がって暴走しそうならブレーキをかける。潤は小実の操縦の仕方を熟知していた。


「なおくんがこのみんのことを嫌いじゃないのは間違いないと思うよ。だからあんたが無遠慮に踏み込んだことをちゃんと謝ればたぶん許してくれるよ。でも距離と言葉には気をつけないと……」


 潤は自分の両手の人差し指をぎゅっと押し付け合って、ぱたんと共倒れになった。

 いまだに滲む指の痛みを言葉とともに深く胸に刻みつつ小実は頷いた。



 潤の助言通り距離をとって、直に謝らずスマホでメッセージを送ることにした。どんな顔をして会えばいいかわからなかった、という理由もある。


『今日は余計なことしてごめん。』


 内容もこれだけ。これ以上のことは言うのはそれこそ余計だと思ったからだ。


『こっちこそ悪かった』


 直高からの返事もまた、たった一言だけだった。

 しかしそのたった一言で小実は地獄の縁からすくい上げられた気分だった。


 しかし小実はまだ理解していなかった。

 自分がいかに自分勝手で傲慢だったかということを。

 今まで築いてきたものが壊れるまで、わからなかった。



 あれから数日経ったある日の朝。

 曇天の空模様だが降水確率ゼロパーセントの天気予報を信じ切った小実は最悪の事態を想定することもなく、いつも通り自転車で通学していた。学校へ続く車道は朝のラッシュで渋滞していてその横を悠々と追い抜いて行くのは爽快だった。

 しかし――――

 ザザァー、と突然の豪雨に見舞われ、ちょうど近くにあった潤の家に駐車させてもらいバスに切り替えることにする。

 傘も無いので先ほど追い越したバスが止まる停留所までダッシュするが、何とかたどり着いた時には既にびしょびしょになっていた。


(うー、朝からついてない……)


 雨と嘘天気予報を呪いながらバスに乗り込むと、そこに小さな幸せが転がっていた。乗り降り口付近の手すりに直高が掴まっていたのだ。


「なおくん!」


 小実は地獄に仏、とばかりに大きな声で名前を呼んだ。

「…………」

 周りがその声に反応して注目が集めり、直高は小実を睨みつけた。

「ご、ごめんなさい……」

 小実はこのバスに乗っている人全員にくるくる回りながら謝罪する。


「…………」


 せっかく昨日仲直りできたと思ったのに、直高が不機嫌そうにしているのを見て小実はしゅんとする。


 バスや電車を利用する時、直高は空席の有無に関わらず絶対に座席を利用しない。足を曲げることのできない直高は座席に座ると誰かの迷惑になることや気分を害してしまうことがあったからだ。

 かと言って徒歩では遠すぎ、自転車にも乗れないのでバスを利用する他なく、直高にとって人が多いこの時間の通学は苦痛でしかない。

 

 いつもなら人の少ない早い時間のバスに乗っているはずだが今日に限って遅いのはなにか理由があったのか。

 しかしいずれにせよ、小実はこの時『ラッキー』と思っていた。相手の気持ちも知らずに、自分の幸福だけを喜び舞い上がっていたのだ。


 小実も空席があるにも関わらず直高の隣に立ち吊革に掴まると、ドアはゆっくり閉まりバスが発車する。

 昨日スマホで謝罪をしたが、やっぱりちゃんと自分の口から謝りたかった。今度は失敗しないようにと、落ち着いた口調で話しかけるが――――


「おはようなおくん。昨日は――――」

 ごめんね――――

 そう言う前に――――

「席空いてるぞ。座れよ」


 小実とは目を合わせようともせず、

 小実は直高しか見えていなかった。周囲が二人に奇異の視線を送っていることなど気付いてもいなかった。


「……あ、でもほら、あたしびしょびしょだし、席濡れちゃうといけないからやっぱり――――」

「座れって」

「…………ごめん」


 決して強い口調ではなかった。ただそこに、「頼むから分かってくれ」という強いメッセージが込められていたことに気づき、今頃になって状況を察して小実は席についた。


 昨日とまったく同じ過ちを犯し、激しい自己嫌悪に陥った。頭の中が底のない螺旋階段のようにぐるぐる深淵へと落ちていく。

 叩きつけるような激しい雨の中、バスはゆっくりと進んだ。会話は一切ない。早く着けばいいのに、と心のなかでずっと念じていた。

 大好きな人と同じバスに乗っているのに、どうしてこんなに辛いのだろう。どうして想いはいつも一方通行なのだろう。

 

 頭がフラフラしてまともな思考ができなくなったのか、それとも現状に耐えきれなくなったのかは分からない。小実は学校に着いてからこんなメッセージを直高に送信した。


『あの時の約束……まだ生きてるよね?』


 返ってきた答えはこうだった。


『あんなガキの頃の約束を本気にするなよ』


 小実の中で何かが音を立てて崩れた。

 両手の人差し指がひどく痛んだ。

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