第3話 身体と気持ち
曲里直高は健全なスポーツ少年だった。小学生の頃は背が高く、運動神経抜群で体を動かすのが大好きで年中外で遊んでいたせいか肌はいつも健康的に焼けていた。
幼馴染で家も近い小実から慕われ、急に告白されたのでつい意地悪をしてしまった。
「お前がズルなしで立ったままキスできたら付き合ってやる」
小実は直高の言葉を信じ、ひたむきに背を伸ばそうと努力し続けていた。
その気持ちは純粋に嬉しかったし、直高自身も小実の前向きで明るく一途なところは嫌いではなかった。
そして歳を重ねると背だけではなく、時折どきっとするほど女の子としての魅力が増し、直高も次第に彼女を意識するようになった。
小実には秘密にしているが、キスを迫られる度に胸が張り裂けそうになっていた。
期待していた。唇と唇が触れ合うことを。付き合って恋人になれることを。
しかし小実の背は一向に追いつく気配がなかった。
高校一年の春。小実と同じ地元学校に通うことになった直高は決心した。
次にキスを迫られた時は自分からキスをしてやろう、と――――
一緒に学校に通って、どうでもいい話をしながらおどけたり、夕暮れのなかで手を繋いで帰ったり、いつもの公園のいつもの場所でこっそりと――――
そんな日々を過ごしてみたいと思っていた。
しかし――――
これらはすべて過去形だ。
入学して間もなく直高は交通事故に遭う。
一ヶ月間、意識不明の重体だったが奇跡的に一命を取り留めた。しかし両足の損傷は激しく、無情にも医師からは膝は一生曲がらないだろうと宣告される。
リハビリをしっかりすれば少しは曲がるようになるらしいが、どのみち今までのようにできないのならとてもやる気にはなれなかった。
唯一の救いは退院してからも皆が温かく迎えてくれたことだ。クラスメイトもほとんどが地元の友達だったので、隔たりは感じても疎外されるようなことはなかった。
入学時にはどの運動部に入ろうか迷っていた。何でもうまくやれる自信はあった。
しかし、大好きだったスポーツを今までのようにすることはできない。それはこの上なく苦痛で、そんな現実と直面するくらいなら最初から顔を背けていた方がましだった。
直高の気分はまるで両足を底なし沼に浸けたように決して浮かび上がることなく、粛々とその現実を受け入れて沈んでいくのみだった。
学校に行くのも苦痛だった。
二年A組の昼休みの時間。この時間になると教室はいつもに比べてだいぶ静かになる。うるさい男子グループがこぞって外や体育館に向かい、無意味に汗を流すからだ。
かつてその一員だった直高は現在、昼休みはほぼ図書室で過ごしている。特段本が好きというわけでも、勉強をしたいというわけでもない。ここなら静かに本を読んで、誰にも話しかけられることなく時間を潰せるからだ。
しかし、最近になって小実の姿が見かけることが多くなった。別に隣に座ったり、話しかけるようなことはない。ただ普段と同じように慌ただしい様子で、いろんな本を物色して借りているようだ。
学校ですれ違っても、以前のように周りを気にせず笑顔で手を振ったりはしない。気まずそうに目を伏せて通り過ぎるだけだ。
それでいい――――
直高はそう思った。自分と一緒にいては気を遣わせてしまうから。
ちくりと胸に刺さる棘に気づかない振りをして、直高はやり過ごしていた。
『今日、久々にいいかな?』
だから久しぶりに、およそ一年ぶりに小実からこんなメッセージが届いた時は心底驚いた。小中学生の頃は一ヶ月に一度、多い時は週に一度は呼び出されていたからだ。てっきり愛想を尽かされていたのだと思っていた。
そして思い至った。
自然消滅ではなく、ちゃんとけじめをつけて未練を断ち切ろうとしているのだと。
それでいい――――
そう思っていたはずなのに直高は、その発想に至ってからはなかなか足が進まなかった。これまでさんざん不意にしてきたくせに、矛盾した思いを抱えている自分が嫌で仕方なかった。
しかし小実の赤くなった頬や潤んだまっすぐな瞳はあの頃のままだった。
それなのに唇と唇の距離だけが離れていたことが悲しかった。
小実は落ち込むのかと思いきや、むしろ前より積極的にアプローチをするようになった。
学校ですれ違えばはにかんだ笑顔を向け、些細なことで携帯に連絡してきたり、キスしようと公園に呼び出されることも増えた。
しかしどこか無理をしているような焦りのようなものを感じ、今までの関係が崩れそうな予感を湛えていた。
それが確信に変わったのが学校の清掃中の出来事だ。
「あ、なおくん」
学校で話しかけられたのは久しぶりだった。
直高はこの時、階段の掃除を担当していた。膝が曲がらない直高はただでさえ階段に苦手意識があるのだ。しかしクラスメイトに引け目を感じて言うに言い出せず、案の定箒を持って格闘中だった。
ゴミ箱を持って階上に現れた小実が一瞬、救世主のように見えた。しかしその気持ちはすぐに陰鬱としたものに変わり、見られたくないものを見られてしまった気恥ずかしさで一杯になる。
「あたし、手伝うね」
その時小実はどんな表情をしているのかは分からなかった。こんな情けない姿を見られて、とても目を合わせる気にはなれなかった。
「いいよ。お前ゴミ当番だろ。さっさと降りろよ」
劣等感というヤスリが言葉を研ぎ澄まし小実を突き刺す。有無を言わせずに「降りろ」と命令したつもりだ。
小実は息を呑むが、自身の痛みよりも直高を心配する気持ちが勝った。
「だっ、大丈夫! ほら、ゴミ当番ってこれだけ終わったらどうせ暇だもん!」
道を譲っても痛みなど無視して小実は近づいてくる。震える声を押し殺してまで明るく振る舞う。それが分かるくらい一生懸命に直高を支えようとした。
「それにどうせ下まで行くし! せっかくだから一緒に――――」
「だからいいって!」
無様なぐらい感情的になって小実を拒絶してしまう。
「……ごめん」
小実はゴミ箱を持って階段を駆け下りると、目の端からきらりと雫が舞い落ちる。
「あ……」
いつも以上に小さく見える背中に手を伸ばそうとして――――
今の自分にそんな資格はないとその手を引きぎゅっと握り締めた。
小さくて頼りなくて、支えてやりたいと思っていた小実との立場が逆転したことがこの上なく情けなかった。不甲斐なかった。
弱さを認められず小実を傷つけてしまった言葉の刃は、直高自身の心もズタズタに切り刻んでいた。
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