第2話 理想の身長差?

 二人の家の近くにある公園。外はもう真っ暗で他に人は誰もいない。しかし念には念を入れて誰にも邪魔されない、街灯と人目を遮る絶好のスポットに二人は身を潜めていた。そしていつもそこで隠れてキスをしていた――――


「なおくん……」

「小実……」


 直高が見下ろし、小実が見上げ、視線が交差する。小実はその視線を瞼で遮断し、ぷるぷると子鹿のように足を震わせながらも少しずつ踵を上げる。

 そして二人の唇と唇の距離は埋まっていき――――


「むぎゅっ」


 今日も元気よくその壁に激突した。

 記録は直高の顎に首の辺りに顔面が埋まった。



 意中の相手である曲里直高から条件を突きつけられてからの小実は、一日でも早く、一ミリでも高く、身長を伸ばすために涙ぐましい努力をしていた。


 小学生の頃は毎食牛乳、休み時間は鉄棒にぶら下がり、逆立ちを練習した結果無駄に上手くなって体育の授業で褒められた。そして背を伸ばす方法を模索し、これらの民間口承はまったく効果がないと知り絶望した。


 中学生の頃、正しい方法を学習してからは風呂上がりのストレッチは欠かさなかったし、見たいテレビがあっても早寝して、苦手なチーズも我慢したり工夫して摂取したりした。


 「なんだか今日はいける気がする!」と、根拠のない自信に意気込んで直高をいつもの公園に呼び出す。

 しかし、学年も同じで成長スピードも大差がない。ということは、小実が成長した分直高も成長するわけで。

 結果は同じでベルリンの壁に阻まれて撃沈するのだ。


 直高は余裕なのかなんなのか、小実のキスチャレンジを拒むことはなかったので小実は遠慮なく何度も何度も何度も挑戦した。

 正攻法だけではない。恋愛成就のためなら卑怯な手も駆使した。

 

 時にはバレないように厚底の靴を履いて。

「ズルすんな」


 時には肩をぐっと押し込んで背を縮めようとしたり。

「力技を使うな」


 少し高い場所から。

「高低差を利用するな」


 といった具合に不正はすぐにバレてしまい尽く撃沈した。

 一向に約束は実現されないまま時は過ぎ、高校二年の春――――


 さらさらの栗毛を肩まで伸ばしたショートボブ、切り揃えられた前髪の下から覗く大きな丸い瞳を物憂げに細めている。小動物のような可愛らしい顔立ちに相応しい小柄な体格を丸めて机に突っ伏したまま、支木小実は前の席にいる女の子に声を掛けた。背は小実よりもだいぶ高く、すぐ後ろの席にいる小実は授業中苦労している。


「まさに難攻不落……どうしようじゅんちゃん」

 狼狽する小実を同じ二年C組のクラスメイトであり親友の『油上潤ゆがみじゅん』は面倒くさそうに顔をしかめる。手入れされていないボサボサの黒髪を短く後ろでまとめ、テニス部らしい健康的な体を小実に向けて潤はこう言った。


「だから何度も言ってるけどそんな条件無視して白黒はっきりさせりゃいいじゃん」

「それはダメ! 約束だもん!」

「ダメならダメって断るっしょフツー。保留にするってことは気がある証拠じゃん?」

「それはあたしもそう思うけど」

「思うのかよ」

 支木小実は変なところでポジティブなのである。

「なおくんもこのみんのことずっと待ってんじゃない?」

「あたしもそう信じてるけど」

「ならブチュっといけブチュっと」

 身も蓋もない言い方に小実も想像してしまったのか、顔がみるみる紅潮していく。

「でも、約束は守りたいもん。待っていてもらえるなら、あたしもいつか……その、キス……できるようになるまでがんばる」

「面倒くさいやつ」

 

 クラスメイトのからの辛辣な一言を受けて再び机に向かって轟沈する。まあしかしこの歯に衣着せぬ物言いが小実にとってはありがたく、時に強く背中を押してもらうこともある。言動は乱暴だが、小実のことを思ってあえて厳しい指摘をしてくれる姉のような存在だ。


「でもでも、落ち込んでばっかりもいられないよね! もうちょっとで身体測定もあるし!」

「この世であんたほど身体測定を楽しみにしてる子って他にいないと思う」


 鼻息荒く意気込む小実に潤は虚ろな眼差しを送る。

 小実にとっては自分の成長を実感でき、直高との距離があとどれくらいで縮まるのかがわかり、夢実現への具体的な指針となり小実の原動力となるからだ。

 一年前の直高との差は十センチ。この差がどれだけ埋まるかがとても楽しみだった。


 しかし待ち望んでいた身体測定の日、事件は起きた。


 息を吸って柱に背をつけ、背中と膝をまっすぐ伸ばす。あごを引くと頭の上に測りが落ち、ぴたっと止まる。

 そして先生から記録用紙が返ってくるこの瞬間をいつもウキウキしながら待っていた。


「え……?」


 その数字を見て愕然とした。


「先生、これ間違ってます」

「あら、本当?」

 先生が固定されたままの測りと見比べる。しかし――――

「……いえ、これで合ってるわよ」

「ウソ! だって……」

「ちょっと~! 後ろつっかえてんですけど~! 早くしてくんない?」

「あ……ごめんなさい……」


 あんなに努力した。

 楽しいことも我慢した、辛いことも我慢した。

 しかし現実は残酷で、たった三桁と小数点一位の数字が重く重くのしかかった。



『今日、久々にいいかな? いつもの場所で……』



 小実はスマホを手に取り直高にメッセージを送ると少し遅れて「了解」と、返事が返ってきた。

 前回の挑戦から実に一年ぶりくらい。以前はもっと頻繁に呼び出していたが、高校入学以降は初めて直高を呼び出したので少し緊張した。



 いつもの公園。いつもの木の下。あの時約束を交わした二人だけの特別な場所。

 しかし歳を重ねる毎に想いはどんどん強くなっている。鼓動だって前よりもずっと早く、会いたいという気持ちが先走っている。

 それともこれは焦りなのだろうか。自分の願いが叶わなくなるかもしれないという恐怖からくるものなのだろうか。


「ちがうちがうっ」


 小実は嫌な想像を打ち消すようにぶんぶん首を振る。

 手鏡で何度も容姿を確認し髪を整え笑顔の練習をする。気持ちを落ち着かせるよう何度も深呼吸した。

 そして木の向こう側からじゃり、と砂をかく足音が聞こえて心臓が跳ね上がる。


「悪い。待たせた」


 抑揚のない低く重い声。けれど小実にとっては聞き違えようのないほど甘く、耳を貫いて脳に直接響くような深い声。


「ううん! あたしも今きたとこ――――」


 努めて平静にいようとした小実は、振り向いて直高の姿を見た瞬間すべてが真っ白になった。

 闇に溶ける短い黒髪、小実とは対照的にきりっとした端正な顔立ち。背は小実よりもずっと高くどきっとしてしまう。

 しかし――――

 かつてスポーツ少年だった頃のイメージは消えていた。年中焼けていた肌は青白く、逞しかった腕は細くしなやかに伸びる。クールで影のある雰囲気も昔の印象とはぜんぜん違う。

 そして膝を曲げないぎこちない足の運びで小実に近づいていく。


 昨年、ある事故を境に、直高は変わってしまった――――


 しかし例えどんなに直高が変わっても、小実の気持ちは変わらない。

 いや、より強くなっているのだ。

 吸い込まれるように歩を進める。細くなったとはいえ、女子のものとは違う厚い胸板に手を添える。

「なおくん」

 名前を呼ぶだけで愛しい気持ちがこみ上げてくる。

 前置きなど必要ない。感情を押し殺す必要もない。やるべきことは一つ。


「なおくん……」


 しかし見上げた瞬間。小実はすべてを悟ってしまった――――


「背、伸びた……?」


 認めたくない事実に愕然としながら尋ねると、直高はけろりと答える。


「ああ、5センチほど」

「じゃあ170センチ……?」

「そうだな。お前は?」

「155……」

「15センチ差か」


「……いやぁっー!」


 悲鳴を上げながら小実は走り去った。スケールの小さい小実が唯一、楽しみにしていた一日は無残な結果で幕を下ろす。

 気持ちとは裏腹に身長差は縮まるどころか離れていく一方だった。


 カップルにとって理想の身長差は十五センチ。

 ちょうど直高と小実の身長差だ。


 しかしその理想は、お互いがその距離を詰め合ってという条件付きである。

 小実が背伸びしても稼げるのはせいぜい七センチが限界。

 残りの八センチには届かない。

 想いが一方通行ではその差は決して埋めることができないのだ。

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