【終章】


 曇天に、雪がちらついていた。白い息を吐きつつ、ダ・プーがやや身震いする。すでに真冬であるが、ここオシア州で降雪は稀なことであった。帝都デロイより自分を追ってきた家人から用件を聞き終え、いかにも時間が惜しいといった様子で指示を与える。

「――それから、マクニサス家からの使者はすべて門前払いだ。解ったな」

 ダ・プーはそう念を押し、急かすように家人を送り出す。道草を食んでいた馬は彼に飛び乗られ、ぽろぽろと馬糞をこぼしつつ駈け去った。自分の馬に戻って、ダ・プーは寒空を見上げた。

(ふん……。どいつもこいつも、手のひらを反すように態度を変えやがって)

 彼の率いる平民派貴族は、一時的に帝国の議決権を握ったとはいえ、政局全体ということではまだまだ流動的な状況であった。浮動層を取り戻そうとする枢軸貴族と、派閥に定着させようとする平民派の綱引きは今が佳境であり、ダ・プーがこの国の実質的な指導者になれるかどうか、これからが正念場といえる。とはいえ、枢軸貴族側からダ・プーに歩み寄る動きも少なからずあり、先ほどの指示はそれらの件についてであった。

 彼と犬猿の関係であったゼノフォス・マクニサスは、帝国の体制崩壊を見る前に亡くなっていた。マクニサス家の当主は義理の息子フォスタルが継いでいたが、ダ・プーとの関係はさらに悪化しているようにみえる。しかし、実際はその全く逆であった。前回の議決でフォスタルは密かにダ・プーと通じており、結局のところ帰趨決定票はマクニサス家が投じたのである。枢軸貴族たちの中でもこれに気づく者は皆無であり、デロイの今後の機軸はこの二人が共握しているといってよい。先ほどの指示は、身内を含めてそれを誰にも気取らせぬためのものだった。

(……奴も、心の底ではどう思っている事か。だがな、真の売国奴とは貴様のことだ)

 この両者の新たな関係は、ある意味でデロイにとって爆弾のようなものでもある。ダ・プーとフォスタルの二人には、今の騒乱ですらその嵐の序章にしか過ぎないといえた。彼らから見ればこの政争はすでに終わったも同然であり、いまは互いに手の内を探り合っている状況であった。それ故に、あれこれと硬軟織り交ぜて仕掛けてくる枢軸貴族の残党に対し、ダ・プーの対応は余裕を含んでいる。しかし、その腹の中は粘ついた泥にまみれており、馬に乗った彼は自嘲気味に頬を緩ませた。

(とはいえ、俺も正真正銘、本物の外道だ。ろくな死に方はせんだろうな……)

 彼が煽った属州の騒乱においては、結果的に相当数の犠牲者が生じていた。その多くは帝国側の官民であり、これについての責任をダ・プーは免れ得ない。しかし、そういった人々は帝国の先鋒である軍団兵の列後に隠れ、その威を借りつつ他人の血を吸う寄生者に成り果てたと、彼は考えていた。もちろん、彼自身もその一人であるが、たとえ自分がこういった渦中で死ぬとしても、それを恨みはしないであろう。この帝国は、後戻りできぬ覇道の半ばにしてメディトリアという伏兵に苦しめられており、最前線の兵士たちは疲弊している。そういった状況で、特定の人々だけが肥え太るのを見過ごすほどダ・プーは親切な男ではない。真っ当で、真面目な市民は軍団に所属するか、ガルバニアで農業を中心とする諸産業に従事し、殖産に励んでいる。その生産者の中には技術を研究し、それを広めるため属州に向かう人々もいた。ダ・プーは、彼らのような者に対してはこの混乱に巻き込まれぬよう心を砕いたが、それ以外の人々には全く同情していなかった。それどころか、欲に釣られてその危険を忘れてしまった彼らに対し、いい罪滅ぼしになったではないかと容赦のない目線を向けてもいる。こういった極めて独善的な処断で同胞を死に追いやるのが道から外れているとしても、ダ・プーはその良心に何の痛痒も感じていない。

 そうした上で、自身の所業に対する確信を欠いて国家の枢奥へ手を伸ばすのがいかに危険かという事を、彼は感じつつあった。フォスタルも、義父の死に様を見てその覚悟を決めたのだろう。そう思うダ・プーは、彼との決着をおぼろげながらも予感し、そして期待していた。

(はん、中途半端な手打ちなんぞつまらん。せいぜい、度胸のある所だけでも見せてみろ。徹底的にぶっ潰して、その存在だけでなく歴史の上からも貴様らの全てを消してやる)

 舌なめずりするような表情で、彼が白い息を吐く。それらの感情は、幼児の残虐性と老人の執拗さ、そして歳相応の緻密な計算を倒錯的に同居させつつ、なおかつ無垢で純粋なものでもあった。一行の道先に、騎馬の集団が見えた。その表情をころりと咲かせ、ダ・プーが単騎で駆け寄る。オシアでの任務から帰ってきた、ラボアたちであった。まるで恩人に対するかのような労いに、彼らもいくらか驚きつつ応じる。とはいえ、ラボアらの果たした役目は到底他人には話せないものであり、その心中はやや複雑でもあった。

 あれこれと話し込み、彼らもようやく明るい顔つきを見せる。ラボアたちは、今回の任務に伴ってメディトリア軍へ参加しており、それはメディトリア騎兵独特の技術である長距離偵察術を習得することが目的でもあった。彼らの頬はそぎ落としたように細っており、氷のように澄んだ瞳がその成果を雄弁に物語っている。オシアでの戦闘の後、こういった技術こそがメディトリア軍の魔術の源だとラボアたちは痛感しており、この事で彼らの戦役にもようやく区切りがついたといえた。

「ところで、イド・ルグスの遺体についてですが――」

 そうラボアが切り出し、ダ・プーが嬉々として答える。

「おお、もうここに来ているのか?」

「……ええ、おそらく。この辺りは、すでに彼らの網の中です」

 ラボアはもう、地形を見ればどこから見張られているか大方判断できるようになっていた。デロイ軍の偵察技術は、児戯に等しいと彼が改めて思う。だが、メディトリア式の偵察術とは、そういった個人技能を超越した部分にその深みがあるといえた。通常、斥候隊とは一枚の底引き網のごときものであるが、彼らはそれを極限まで分割した上で輪環的に運用し、全体を生物の神経とよく似た構造へ変化させる。ラボアにとっても、それはまだ非日常の技であり、息を吸って吐くようにそれをこなすメディトリア騎兵のことを想像すると、肌に冷たいものを感じざるを得ない。とはいえ、たった数十日ではあるがその過酷な任務をがむしゃらにこなし、彼らからもいっぱしの騎兵と認められたラボアたちもまた、並大抵の人間ではなかった。

 デロイ帝国とメディトリアの講和が成立した後、第一軍団はギラメラ門を通ってガルバニアに帰還していた。この門の攻略に行き詰まった彼らは、徐々に部隊の統制を失ってゆき、それぞれが別個に行動するようになっていた。その結果、イド・ルグスたちが心配していた家都への総攻撃は行われぬまま、彼らは終戦を迎えたのである。外部への唯一の連絡手段であった家鳩は、その混乱の中で飢えた兵卒たちに貪り食われていた。しかし、どうにかして本州との連絡をつけようと志願者を募って、ノクニィ峠周辺の山岳を少人数で登攀する動きもあり、その何割かはそれに成功していた。これについてメディトリア軍はもちろんダ・プーたちも予想しており、兵の家の伍番隊とラボアらがその対処に当たったのである。メディトリアを脱出した彼らは全てオシア州で捕らえられ、第一軍団からの報せが帝都に届くことはなかった。オシアの荒野で繰り広げられたこの捜索戦の結果が、帝都での議決にどれほど影響を与えたか、それは言うまでもない。

 また、今回の講和は第一軍団の将兵にとって到底受け入れがたい屈辱であり、彼らがその事実を消化するには長い時間が必要であると思われた。この戦役に参加しなかった平民たちには、ようやく危機が去ったという安堵と先行きに対する不安とが混ざり合い、虚脱感のようなものとなって蔓延しつつあった。

 そして、ギラメラ門にいたダナ・ブリグンドは、講和の文書へ調印した後に、ほぼ無傷といえる王都へと帰還していた。第一軍団には、この都を離れる前後からすでに混乱が始まっており、居残りの部隊たちも申し訳程度の放火を行ってすぐに後退したため、エスーサは運良く破壊を免れていたのである。こういった被害はメディトリア全土でも少なく、そのことは第一軍団にとっても幸運であった。彼らは、これといった報復を受ける事もなく、故郷に帰ることができたのである。だが、軍団の中には講和成立後もその事実を信じない者たちが少なからずおり、彼らも整然と帰還した訳ではなかった。とはいえ、現在はそれらの問題もすでに解決され、今回のメディトリア戦役は開始から約半年ほどで完全に終結したのである。

「――おお、遺体が到着したようだな」

 ダ・プーが、その声を楽しげに弾ませた。ラボアが視線を向けていた丘から、馬らしきものが下ってくる。一筋の土煙も立てずに近づいてきた彼らを、ダ・プーとラボアたちが迎えた。やって来たのは伍番隊のプロコとガフ、そしてイド・ルグスであった。

 真っ先に下馬したラボアは、淡々と挨拶を交わす。だが、その瞳の芯には熱いものがあった。このイド・ルグスを、ダ・プーらが遺体と呼ぶのには訳があった。彼らは以前の動議の折に、軍団の勝利を捏造するだけでなく、イド・ルグスをも死んだことにしてしまっていたのである。とはいえ、彼の生死に関心があったのは枢軸貴族たちであり、それはイド・ルグスに対する彼らの恐怖心がそうさせたといえる。メディトリア軍はまさに正体不明の魔物であり、過去の事変における情報操作も手伝って、彼らはイド・ルグスが自分たちに復讐しようとしているとしか思えなくなっていた。講和どうこうの以前に、あの化け物が生きている限り安心できぬ、というのがその本音であった。結果的に、ダ・プーの言葉を鵜呑みにして何がしか救われたような気分になった彼らは、相当に冷静さを失っていたといえる。恐怖とは、帝国の社会における原動力の一つであるが、それをもてあそぶ彼らは、皮肉にも重度の自家中毒に陥っていた。

 メディトリア側も、そういった事情を考慮してこれについては渋々了承していたが、自分のことを遺体だの死体だのと呼んではしゃいでいる彼らを見て、イド・ルグスは生ぬるい息をもらす。デロイの人々に死んでいると思われようと、あるいは生きていると思われようと、彼にとって最早どうでもよい事ではある。悪びれるどころか、それを冗談の種にしている彼らに、イド・ルグスは感覚の違いを意識せざるを得ない。だが、ほんの少し前まで殺し合いをしていた両者とは思えぬほど、その関係修復は早かった。ラボアたちコノス人の生死観は、ガルバニアの大地のように乾燥している部分がある。そういったものに加え、互いの目的が完全に一致したこともあって、今では戦友との絆に似た感情すら生まれつつあった。

 道中、ダ・プーとイド・ルグスは馬を並べて進んだ。彼ら伍番隊はメディトリア軍最後の部隊として、これから故郷に帰還するのである。ダ・プーは忙しい政務の最中、それを見送りにわざわざこの僻地へ赴いていた。らしくない慇懃さで、彼がイド・ルグスに礼を言う。普段のダ・プーが好む、男くさいじゃれ合いを行うこともなく、平服ながらも一軍の将という威厳を漂わせる。それを見たイド・ルグスが、今日はとことん私を持ち上げるお積もりかと、ふと思う。そういった予想が可能なほど、付き合いが長くも濃くもない二人であったが、やはり何か通じ合うものはあった。

「――ところで最近、帝都ではこう噂する者がいるのだが知っているか?」

 伍番隊に対する謝辞をそこそこで切り上げ、ダ・プーはそう言う。鞍の上で半身になったイド・ルグスは彼の言葉を受けつつ、若干ほっとする。メディトリアは、ある意味でダ・プーに救われたともいえ、あまり恩を着せられると困るというのが本音だった。理屈としては自分からも頭を下げればよいのだが、それは今やメディトリアという国の代表と目されるイド・ルグスにとって、なかなか難しいことでもある。ダ・プーの提唱した同盟の存在によってメディトリアの地位は相対的に矮小化しており、まだ互いの関係は確定していない。公私を織り交ぜる引き出しの多さでダ・プーに勝てない彼は、せめて翻弄されぬよう身構えるものの、それを煩わしく感じる時もあった。そのイド・ルグスの複雑な心理を知ってか知らずか、ダ・プーはさっそく顔から感情を垂れ流している。

 噂とは要するに、イド・ルグスとダ・プーの二人はオシアで戦う前に協定を交わしており、コロヒス河畔での戦闘はすべて両者の予定に基づいて行われたのではないか、というものである。当然、イド・ルグスの死についてもさっそく疑われている訳であるが、ダ・プーの諧謔を孕んだ破顔にはそれとは別に含むものがあり、イド・ルグスもまたその意味をよく理解していた。それは、あの戦場で軍団本陣に斬り込んだ彼の刃がなぜ的を外したのかという事であり、さらにその後ダ・プーがどうして交渉に踏み切れたのか、という事でもあった。正直なところ、イド・ルグス自身にもどの時点から両者の協力関係が成立していたのか、その答は判りかねるとしか言いようがない。ダ・プーが笑っているのも、おそらく全く同じ理由からであろう。それら二つの状況において彼らが感じたものは名状し難く、互いにその理解を持て余すとしても無理のない事である。とはいえ、特にそれを口にするわけでもなく、二人は語り続けていた。

「それはそうと――」ダ・プーが、ふと話題を切り替える。「まさかお前が、属州からああも完璧に援軍を集めるとはな。全く、恐れ入ったお手並みだった」

 それを聞くイド・ルグスは、最後にギラメラ門で見た王のやつれ顔を思い出す。あのとき属州へは二度目の檄文が送られており、それは彼女が不測の事態に備えて周到に用意したものであった。その成果は、人間の言葉がどれほど巧妙な兵器となりえるのか、イド・ルグスに思い知らせたといってよい。彼女は、戦場に居ずして誰よりも最前線で戦っていたのだ。それを知るイド・ルグスは、真実を気取られぬよう表情を偽っている。全ては、俊英なる王を護るためであった。

「……だが、本当にたまげたのはあの河の使い方だ。あんな事は、戦史の上でも俺は見たことがない。夜が明けたら、自分の陣地が勝手に河向こうへ移動していたのだぞ。まさしく、魔の一手だ。これができる人間が、この世にいったい何人いるというのか――」

 その調子で、ダ・プーの賞賛が続く。これについては確かにイド・ルグスの仕業であり、褒められて嬉しくない訳がなかった。彼といえど、そういった欲を心の奥底では人並みに持ち合わせている。だがそうではあっても、このイド・ルグスという男はどこまでもイド・ルグスであり、そのことに嘘はつけない。気づくと彼は、ダ・プーの声を遮って言っていた。

「――しかし、ダ・プー殿。我々はあの時、ただ必死に戦っていたというだけです。あの河も、あの堤防も、あの戦場につながる街道も、それら全てはあなた方が造った。ああして川筋を変えたことも、結局はその真似をしただけに過ぎない。そう、言えるのではないですか」

 唐突に言葉を浴びせられ、さすがのダ・プーも少し口ごもった。それはそうかもしれんが、と切りかえす彼は、今度はメディトリア軍全体の並外れた優秀さを持ち上げ、取り繕う。だが、それを述べ尽くす前にイド・ルグスが言い放った。

「少なくともそれは、我らが望んだことではありません――」

 その穏やかな声が隠している刺々しさに、ダ・プーが完全に沈黙する。イド・ルグスは己がなぜか腹を立てている事に、その時ようやく気づいた。言葉を受け、ダ・プーの眼は子犬のように寂しげだった。それを見たイド・ルグスは、自分の怒りの不器用さをもどかしく感じる。これまでの両国の対立において、このダ・プーという男には確かに責任がない。とはいえ、自分たちの弱みに付け込んで謀略の片棒を担がせた経緯については、どう批判すればよいのか。彼は、己の心にある子供のような湿っぽさを自覚していた。

 逡巡のそぶりすら見せず、ダ・プーが過去の侵略について謝罪する。少々堅苦しいものの真摯さを感じるその言葉を聞いて、イド・ルグスは胸中の毒がいくらか抜けてゆくのを否定できなかった。自分がこの男の術中にあるとしても、そのことを深くは考えまい。彼が、潔くそう思う。

「――しかし、メディトリアには貧乏くじを引かせてばかりだ。デロイでは、貴様は死んだという事にされ、オシアでやり合った戦闘もお前たちの負けという事になっておる。俺たちの事はどう言われようと自業自得だが、メディトリアの成し遂げた事跡が隠れてしまうのは、何とも皮肉なことだ」

 それを聞き、イド・ルグスは少し考えて次のように答えた。

「ですが、デロイでは歴史というものが人民の下にあります。一部が隠れたとしても、その全体がごまかされるという事ではないと思いますが……」

「……貴様、まさか本当にそう思っているのか?」ダ・プーが、鋭い視線を向ける。「それが部分的にでも書き換えられるなら、やがて全体を別物にするのも不可能ではない。結末だけを変えて、その過去に遡って修正しないという保証がどこにある? 個々の事象が変えられぬなら、解釈を変更すればいいだけだ。我らの歴史はいずれ、お前たちとの戦争はおろかメディトリアという国の存在すら、曖昧にしてしまうかもしれん」

 そう言うと、ダ・プーは苦い表情を見せた。

「今日のデロイでは、神話や伝説より歴史が重んじられる。そして、大衆の関心は神々ではなく史実や偉人に向けられ、それを参考としつつ規範にもして生きるのだ。奴らがそうする理由は、神話なんぞは嘘っぱちだが、歴史は真実に基づくという事に他ならぬ。だがな、それは歴史が神に取ってかわっただけで、何かに従っておるのは同じだ。結局のところ、それをどう書くかは未来に対する働きかけに過ぎん。歴史というものの本質は、そこにある――」

 ダ・プーが、澄んだ眼差しを空に向けた。イド・ルグスには、彼の言うことが意外なほどすんなりと理解できる。メディトリアという国の枢奥に触れたことのある彼は、共通点という以上の核心的な相似を、そこに見出していたのかもしれない。

「イド・ルグス、貴様に言っておく」声色を下げ、ダ・プーが言う。「俺は、だからこそ未来を創る。そして、いずれおっぱじめるつもりだ。俺が作ったこの同盟を利用して、ルムドとカーレに馬鹿でかい戦をふっかける。まずは、貿易がその発端だ。奴らは、間違いなく傘下の植民市と組んで潰しにかかってくるだろう。大海という底なしの蜜つぼを争って、世界規模の戦役が始まるのだ」

 笑みを浮かべつつ、ダ・プーがその眼をぎろりと見開いた。

「この事に、メディトリアとて無関係ではおられんぞ。貴様らは俺たちに加勢するか、あるいは持っている焔硝をすべてよこせ。のんびり傍観できるなどと、ゆめゆめ思わぬことだ。お前が帰国したら、メディトリア王にこれを伝えろ」

 二人の間に、ただ蹄の音だけが響いていた。凍えるような風も、今は止まっている。実のところ、イド・ルグスは今日ダ・プーに会う前からこういった要求があるのではと予感していたが、こうして実際に聞くと不思議なものを感じた。ダ・プーの言い分は一見乱暴であるが、今の段階でその意図を明かすということは、イド・ルグスたちを信用しているという事でもある。引き替えに得られるものを考えると、決して悪いもちかけではない。

 だが、イド・ルグスのその理解を、じわじわと失望感が追い越してゆく。この人たちは、どうしてこうなのか。デロイで体験した事変のことを、鮮明に思い出す。生々しい怒りと共に、彼が言葉を吐き出した。

「――この世界は、いつからあなた方の独占物になったのか? 仮に、今日は貴方の手中にあっても、明日死ねばそれを手放すのが運命というもの。そうと知りつつ、次にそれを握る人々への目は冷やかで、何一つ残そうとしない。それは、もはや欲望ではなく嫉妬という病です」

 それを聞き、ほう、という表情を作ってダ・プーが言った。

「これはこれは、随分と詩的で難解な批判だな。だが、人間ならば誰でも自分が最優先だ。俺たちのやっている事でたとえ他人が迷惑したとしても、それは止める理由にはならん」

「ですが、その他人という人々には、残念ながらあなた方の子孫も含まれています。貴方は、その残された数十年の人生のために、ガルバニアの未来をも害するおつもりか?」

「ふん、何を言うか。我らコノス人は、この事でより栄えてゆくのだ。吹けば飛ぶような落ち目の国より、悪名高くとも大きな国を残すのが、親心というものではないか」

「国は、奪うより維持することの方が、より大変です。貴方はそれを知り尽くしながら、あえて問題を大きくし、それを次世代に託そうとしている」

「……仮にそうだとして、その何が悪い。膨張の勢いとは、そういった困難すら帳消しにする強力なものだ。お前も、それを知っておるだろう」

「つまり、その麻薬のようないかがわしいものに依存して生きるよう、あなた方の子孫は強制されるのです」

「ほう……。ならば、俺たちにメディトリアを見習って、引きこもって暮らせというのか? 貴様らには同情するが、そんな事を指図される筋合いなど無い」

「これは、指図ではなく事実の指摘に過ぎません。貴方の言う膨張には必ず限度があり、その時になって世の中を元に戻すことは、今それをするよりはるかに難しいのです」

「……そんな事は、大した問題ではない。だから俺は、貴様らに焔硝を求めた。自分の事だけでなく、子孫の幸福がいつまでも続くよう、常に配慮しておるからだ」

「ですが、あの様な兵器を世界に蔓延させて、自分たちだけ無事でいられる筈がありません。もし、戦場で日常的にあれが使われるような事態になれば、どんな英雄でもそこから生きては帰れぬのです――」

 暗い眼で、イド・ルグスが言う。ボルボアン王が、なぜ抱鉄の使用をためらっていたのか、今の彼には理解できた。それは、王の心配した事がすでに起こっているからであり、イド・ルグスにはその一端を担った哀しみがある。口を閉じ、ダ・プーは不機嫌そうに話を聞いていた。

「勝者であり続けるために、あなた方の子孫はいずれ命を湯水のごとく消費する羽目になるでしょう。それは、おそらく彼らにとっても地獄の苦しみです。また、それに耐え続けたとしてもこの世界に限りがある以上、膨張の終わりは必ずやって来ます。彼らが、その時になってそれに関する全ての問題を解決するという事は、果たして可能でしょうか?」

 その真っ直ぐな視線が、ダ・プーに注がれている。考える様子を見せたのはわずかで、すぐに馬鹿馬鹿しいという風に答えた。

「……ふん。もし、お前のいう事がいくらか正しいとしても、その責任を俺に問うのは無茶というものだ。何がどうなるにせよ、それまでが幸福なら充分に意味はある」

「貴方は、ご自身ですら解決できぬような行き詰まりに、この世界をいち早く導こうとしているのです。私がこう言えば、貴方はきっと次のように答えるでしょう。いま俺がそれをしなくても、次の奴はやるに違いない。だから俺がやって何が悪いのだ、と。あなた方は、結局のところ自分たちの子孫すら信用していません。エキル人の私には、それが人類全体の不幸と思えてならないのです――」

「ならば、俺にも言わせてもらおうか」感情を抑え、ダ・プーが太い目線を放つ。「人類というものにも、様々な民族があって一つではない。それらの中でも強者が弱者を駆逐して、この世の中は今日まで続いてきた。その意味において、世界というものはただ一つしかない。それが、いずれどん詰まりに行き着く運命だとしても、俺たちは最後まで勝者として君臨してやる。これについて、自分の国を守る以上に貴様らが口出しできるとでも思っているのか?」

「……この世界が一つというなら、当然その権利はある筈です。我々の子孫にもまた、こうして先送りした問題が束になって降りかかるでしょう。統治者である貴方には、その責任がある。もし、それがやって来た時には、どのように弁解なさるお積もりか?」

 イド・ルグスのその問いに、ダ・プーが口の回転を速めて答える。

「やって来るも来ぬも、その時代に俺はもう居らぬ。乱暴ではあるが、知った事ではないと言うしかない。それが何よりも謙虚な態度であって、貴様らの方がよっぽど嫉妬深いというものだ。少なくとも俺たちは、何かにびびって悔いを残す事こそが、人類の不幸につながると考えている」

 そこまで言うとダ・プーは気を静め、真顔になった。

「この世界の歴史が、貴様らメディトリアという存在に興味を示さぬとしても、それは当然の成り行きなのかもしれん。俺が思うに、自分たちについてなるべく都合よく描きたいというのが、この人間というものの正体なのだ。その筆が届かぬ場所とは、我らにとって魔物が巣食う暗闇でしかない。たとえ、貴様のいう事がすべて正しいとしても、メディトリアの民と同じように生きるのはまっぴらごめんだ。それは、俺たちにとって死んでいるのと何ら変わりはない――」

 その後、彼らがこれについて語り合うことはなかった。たった数十日前まで、殺し合いをしていた両者である。その事で、互いの感情衝突における奥行きが拡がっていたのに加え、元々分かりきった意見の対立であったためか、この話題はあっさりと打ち切られた。ダ・プーの最後の言葉を聞いて、イド・ルグスがどう思ったのか、その辺りはよく分からない。だが、メディトリアという国は今まさにそういった岐路に立たされており、その問いは彼自身に対するものともいえる。そして、別れの時が来るまで二人は様々なことを話し合った。彼らの先に、街道の終わりが近づいてくる。

 その時になってダ・プーは、デロイでの貴様の新しい名前を考えねばな、などと口走ってイド・ルグスを苦笑させ、それについての最後の一押しに余念がなかった。いよいよ最後という段になっても、あれこれと話しかけている。無難に受け答えしていたイド・ルグスであるが、ふと真面目な顔になってこう言った。

「――そういった算段より、閣下はまずお子を儲けられるのが先かと存じます」

 そのひと言に、今度はダ・プーが渋い表情を見せる。だが、彼の眼には名残惜しさが滲んでおり、それは芝居とは思えなかった。やがてメディトリア側、デロイ側の双方が別れを告げると、イド・ルグスたちは故郷への帰路についた。目にするもの全てが、これまでとは違った風景に感じられ、それはギラメラ門に到着するまで続いている。イド・ルグスが最後に岩扉を潜ると、彼自身の手によって門は閉じられた。

 イド・ルグスの師士としての役目は、この道程をもって完了した。彼らが戦っていた期間は、カシアスの会戦から数えて約一年と半年、帝国による侵攻の始まりからでも二年に満たない。そこで起きた事柄の量と比するに、あまりに短い戦役であった。王都へ帰還するイド・ルグスも、今ばかりは馬を急かそうとしない。故郷メディトリアの風は、すでに春の薫りを運んでいた。


      †      †


 それから数十年が経ち、デロイにおいて初の史書が編纂された。帝国成立から約二百五十年の節目に著されたこの書は、彼らの国がデロイ同盟の盟主として大いに興ったことの証だった。そして、ガルバニアを中心としたその著述の中に、メディトリアという国が確かにある。だが、そこにイド・ルグスの名はなかった。あの戦役そのものが、帝国の暗部を可能な限り撤去した、不自然な更地となっていたのである。これは、後にデロイの中心的人物となったプルー・ダ・プーの過去を、きれいに洗濯するためでもあった。

 この書を著した男は、ダ・プーの死後その墓に文字を刻んだ。墓の表面は、彼の功績を称える文言でびっしりと埋め尽くされていたが、男は石棺の内側にも文字を彫った。だが、棺は彼の手によって閉じられ、それを知る者はいない。安置された遺体と正対する蓋の裏には、こう書かれている。

『これら数々の偉業を見事に成し遂げた父であるが、その生涯において一度たりとも勝てなかった男がいる。敵としても味方としても、軍を率いる事に関して彼に及ぶ者はいなかった。彼がいなければこの私は生まれてなかったのかもしれないが、父の為に私自身がその名前を消し去ったのである。だが、私はそれをここに永久のものとして刻む。彼の名はイド・ルグス、帝都ではメディトリアの鉾と呼ばれる男だった。このように名を憚り、そして忌むことは、神という存在を除けば魔物に捧げられるべきものである。あらゆる人間への興味と愛こそが、歴史という記録における永久不変の課題であることを忘れてはならない』


 彼もやがて死に、その著作は大ガルバニア史と呼ばれた。伝統的な神話や民間伝承の時代は終わり、彼らは我々が古代と呼ぶものの半ばにさしかかっていた。しかしメディトリアという国がその後どうなったか、この世界の歴史はそれを明らかにしていない。


(了)



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爆轟の戦士と神託の王女~メディトリア戦役物語~ 重金やから @OmoganeYakara

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