【第九章】決戦


 帝国の北端で、キリア州がついに平定された。これまで帝国の侵略を退けてきた都市ラニスは、街を包囲する第二軍団に対し今はその門を開いている。互いに取り結んだ商業協定を根拠にこの都市を支援してきたルムドとカーレは、帝国に喫した手痛い敗北の後にキリアの紛争へ対する興味を急速に失っていた。それは、彼らが負けを認めたという事ではなく、ラニスとの関係と今後の戦費を天秤にかけた結果であるのは明らかだった。彼らのこの判断は単純な損得勘定から生じており、そこには若干の近視傾向があるといえる。

 双子の巨都として知られるこのルムドとカーレは、大海の支配者であり商業国家であった。彼らの社会においては資本こそが権力の源であり、それは国家という枠組みすら内包する原理として働いている。つまり、国そのものが資本によって経営されており、国益というものを厳密なものさしで判断し、最大化することが彼らの正義であった。

 そして、そういう場合において高い位置からの視点を失いがちな己の弱点を、彼らもその長い歴史の中でよく理解している。しかし、国家間の闘争において武力という古臭いものではなく、貿易や経済といったものを魔術のように使いこなす彼らは、自分たちの賢良さを疑っておらず、その判断は早かった。

 これに対し、デロイ帝国では土地と人との結びつきを政治の根本としており、その構造はなんら進歩的なものではない。当然、他国との関係もそれらの延長線上にあるため、この両者の視線は交わることがなかった。ルムドとカーレの人々は、そういった面で帝国の見識を軽んじており、それはある意味で彼らの迂闊さといえた。

 商業都市ラニスの城楼から望む広大な三角地帯は、ここ数年の戦乱とつい数日前まで行われていた包囲戦で荒れ果てていた。とはいえ、キリアはノルデア河の下流地域にあり、流域はガルバニアに劣らぬ沃野である。ルムドとカーレの出兵を口実に、ラニスを攻撃した第二軍団はおよそ半年にわたって戦闘を続け、今ようやく両者は妥協点を見出していた。自市とその周辺を統治するラニス議会は、すでにデロイ側が実質的に支配している地域をデロイの領土として認め、彼ら自身はラニスとその支配海域の自治、ならびに商業活動の自由が保障される結果となった。

 形の上ではデロイ側の勝利といえるが、彼らはそのためにラニス議会の出した様々な条件をやむなく承諾していた。第二軍団にとってこの包囲戦はあくまで受動的なものであり、これ以上の長期化や拡大の動きを見せれば、貴族院でその越権性を追求されるかもしれない。また、オシア大蜂起がようやく平定されたとはいえ、帝国全土に漂う不穏さは払拭されておらず、主力軍である第一軍団もメディトリアへ遠征中である。この状況下では、いかに野心家のダ・プーといえど自重せざるを得なかった。

 ラニス側の条件によって、帝国がキリア州に対して駐屯可能な軍兵は一万人に制限され、ラニス城市に滞在できる人員も五百名までとされた。つまり、帝国のキリア州に対する領有権とは、与えられたものでしかないといえる。対照的に、ラニス側の自治への制約は存在していない。この要求に対しダ・プーは、ラニスの所有する軍船の数を削減するなどの制限を対抗させ彼らの力を削ごうとしていたが、結局はそれを撤回していた。そして、彼のこの妥協によってラニス議会は態度を軟化させ、講和成立への弾みとなった。

 これは、単なる領土獲得が目的ではない彼には譲れないはずの条件であり、この結果はダ・プー個人にとって敗北に近いのかもしれない。だが、文書の調印後にラニスを去る彼の表情から、読み取れるものは少なかった。ともかく、彼らが長年にわたって続けてきたキリア戦役は、これで一応の決着がついたのである。

 その後、キリア州に対する戦後処理を行いつつ、第三軍団との交代のため待機してたダ・プーのもとに、帝都からの指令が届いた。それは軍団の丘にある第一軍団本営からのもので、至急デロイに帰還せよという内容であった。帝国の軍制では、上位の軍団は下位の軍団へ命令を発することができる。とはいえ、それは民会の決定のように絶対ではなく、作戦上の連携のためのものだった。

 これを受け、ダ・プーはひとまず待機を続けながらこの指令の意図するところを帝都へ問い合わせた。彼らが今ここを発てば、キリアを守る兵士は誰もいなくなるのである。また、兵を一部残すとしても、そういった判断を下すには情報が不足しすぎている。返ってきたのは、第一軍団の留守を預かる軍団司代理、つまり命令を出した本人であった。

 「どうか、内密に――」

 その言葉に続く彼の話を聞き、ダ・プーは思わず白髪交じりの眉をよじらせる。その内容とは要するに、メディトリアにいる味方との連絡が、おそらく完全に失われたという事であった。まだ若い容貌の軍団司代理は、ダ・プーのその表情を見ると唇を小さく震わせる。それは、彼の語ったことが彼自身にも信じられぬという仕草に見えた。

 やがて、オシア州の糧秣集積地が敵に襲撃されたと聞き、ダ・プーは浮いていた腰を席に落とす。気を抜けば泳ごうとする視線を、正面に定めた。

(――という事は、だ)

 頬の強張りを感じつつ、ダ・プーはメディトリアの景観を思い起こしていた。開けた草原と濃緑の森林、そして鋭い峰が縦横に交わるあの地は、まるで巨大な船倉のようだった。入り口は狭く、内部は隔壁によって仕切られ、そして充分な広さがある。デロイがこれまで侵略した国々と勝手が違うことは、誰の目にも明らかであった。

 彼の率いる第二軍団の帷幕には、経験豊富で老練な貴族たちが多数参加している。だが、第一軍団の軍職とは枢軸貴族の若い子弟たちが経歴を磨く場所でもあり、上級兵長や幕僚の顔ぶれには若干の青臭さがあった。とはいえ、彼らはたいてい兵学を修めているため役立たずではないが、その分いくらか理屈倒れの悪癖も持っている。

(峠を抜かれたか、門の押さえが足りなかったか……)

 ダ・プーが無意識に髭をしごく。それらの傾向があるとしても、枢軸貴族たちもこの戦役の重要性を知っており、第一軍団の人材面に大きな粗漏があるとは思えなかった。単純に、敵の動きが彼らの予想を超えていたと推測するのが正しいだろう。これを伝えにきた軍団司代理は、最悪に近いことも仄かに想像している様子だったが、状況からその可能性は少ないといえた。オシア州にいるのがメディトリア軍であるなら、おそらく第一軍団とは戦ってない事になる。兵力に乏しい彼らは、たとえ勝ったとしても痛手を負うはずであり、その上で敵地に進出するとは考えにくい。

(……ならば、奴らの目的は防備の手薄な属州ということか)

 この場合、メディトリア側は本来であれば故郷の防衛にまわすべき兵力を、帝国領内へ差し向けたといえる。その意図を推し量るなら、彼らは敵地を荒らして主導権を握り、結果的に祖国を守ろうとしているものと思われた。また、その場合は帝国側の強力な抵抗が予想されるガルバニア本州を避けるのが利口である。今回の一件についてはそう解釈することが可能であり、またダ・プーもそのように考えていた。

 軍団司代理がこれまでの経緯を説明し終えると、ダ・プーは迷いのない口調で第二軍団を事態の対応にあたらせる事を約束した。その言葉を聞き、軍団司代理は安堵しつつも表情に痛々しさを浮かべ、深々と頭を下げる。そして、口早に礼を述べると慌ただしく帝都へと帰っていった。

(さて、どう動くか――)

 理解と驚きを平行させていたダ・プーであったが、ようやくゆったりと考え込んだ。彼に急ぐ様子はなく、逆に時間を稼いでいるようにも見える。事実、そうだった。

(……間に合うはずが無い。ましてや、あの男の仕業なら)

 鈍い光を放つ、鉛色の瞳を思い出す。イド・ルグス――。これから起きるであろう混乱が、ダ・プーには想像できた。オシアにいる敵軍は、すでに属州へ向けて毒蛇のごとく散っていよう。彼は、無数の蛭たちが首筋を這うような、むずむずとした感触を覚える。

(奴ら、本気で狂ってやがる……)

 もし、彼らが命知らずの戦士であれば、自身が死ぬことを怖れはしまい。それは、常人の思考から少し遠いとはいえ、異常ではない。だが、メディトリア軍の行動はそのはるか遠方にあって、民族あるいは国家の滅亡という事すら、彼らは怖れていないように思えた。帝国という社会の根底へここまでの脅威を与え、倒そうという者は、それを成すか滅びるかの運命しか選択できぬだろう。このことを是として、いかなる危険も顧みないのが彼らの正常であるなら、明らかに常軌を逸している。

 だが、これらの事態と正対するダ・プーの胸の内では、むくりとした期待感が育ち始めてもいた。しばらく萎んでいた野心が、秋雨を浴びた茸のように立ち上がる。

(――俺も、同じようなものかもしれんな)

 この危機に対し、欲情に似た反応をみせるダ・プーもまた、位置的には彼らに近いだろう。彼の場合は、デロイへの忠誠と愛における倒錯者といえる。さらに、イド・ルグスが生きているという予想も、ダ・プーの心の琴線を激しく爪弾いていた。脳裏であぶくのように湧き出す発想を止めようともせず、彼は席に沈み続ける。

 やがて、先ほどの軍団司代理の来訪を知った大兵長たちが、何事かとばかりに集まり始めた。こういった場合、大抵は自分たちへ厄介事が押し付けられてしまうのを、彼らもよく承知している。彼らを居室へ入れ、少々芝居がかった苦慮顔で事情を説明すると、ダ・プーは皆の動揺を制しつつ、指揮下にある全部隊の出発を命じた。


 第二軍団が営地を出たのは、その日の夜であった。ラニス側に気取られぬよう設営物を残したまま、彼らはキリア州を離れる。先を急ぐような行軍ではなかったが、休息は短く行程にも無駄はない。そして、本州ガルバニアを目前にした時には、第一軍団やオシアの状況について、事情を知らされていない末端の兵士たちも噂するようになっていた。

 それらの情報は帝都からのもので、その半分以上は事実といえた。士官下卒を通じてそういったものが漏洩していることは、皇帝はもちろん枢軸貴族たちまでもが事態を制御できておらず、帝国の中枢が明らかに混乱している証でもあった。もし、この状況で軽率な対応を行って事態の収集に失敗すれば、彼らはようやく取り戻した政治的主導権を失いかねない。貴族院において決定を下すべき枢軸貴族にはその逡巡があり、多数の派閥で構成される彼らに即断は難しいといえた。

 そして、ダ・プーはこれを予想しており、こうして善処するふりを見せつつ、己の政治的要求を枢軸貴族たちに捻じ込もうという腹積もりであった。とはいえ、それを公約として求めるのは露骨に過ぎて内外の支持を損なうおそれがあり、密約として求めた場合も危機が去れば反故にされる可能性がある。つまり、ダ・プーもまだ模索の段階であり、貴重な時間を空費しつつその方法と機会を探るのは、彼にとっても危うい賭けだった。

 だが、デロイに到着した第二軍団がひとまず城市の外に留まって情報収集に努めていたところ、貴族院から意外な決定が下された。それは、オシア州で確認されたメディトリアの軍勢を討伐せよ、との議決であった。こういった緊急時には、制度上の様々な手続きを無視することが許されるため、不本意な命令に対する時間稼ぎといった姑息なことはできない。デロイの防備が手薄であるのを口実に、まずは帝都内に帰還することを目標としていたダ・プーであったが、策を弄する前にオシアへ追い立てられる結果となった。

 現段階で、本当にメディトリア軍がオシア州に進出したのか、そして今どこにいるのかといったことは不明確であり、貴重な戦力である第二軍団を帝都から動かすのはその確証を得てからだと、ダ・プーは予想していた。もし、この議決が第二軍団を帝都から遠ざけるための口実であり虚偽に基づいているなら、枢軸貴族たちはその判断をいずれ追及される事になるだろう。だが、メディトリア軍がオシアに存在しており、さらに集結していることは事実のようであった。

(……これは、どうしたことだ。奴らは、いったい何をしている)

 やがて、自身もそれを確認したダ・プーは状況の理解に苦しむが、彼に選択肢は残されていない。慌ただしく物資の補給や人員の補充が行われ、第二軍団は獲物を与えられた猟犬のようにオシア州へ向かう事となった。


      †      †


 この時、メディトリア軍は確かにオシアにいた。

 抱鉄を用いてノクニィ峠を封鎖した後、彼らはイド・ルグスと合流してデロイ軍の糧秣集積地を襲撃し、所用の食料を手に入れている。その後、軍勢は各隊ごとに士隊長に率いられ、それぞれが受け持ちの属州へ向かった。

 すでに、彼らに帰ることのできる場所は存在しておらず、帝国全土を擾乱して反デロイの旗を高らかに揚げるか、それとも一人残らず無残に殲滅されるか、運命は二つに一つしかない。とはいえ、捨て身の覚悟をもって帝国のはらわたに喰いつかんとするこの集団に、足取りの重さは感じられなかった。

 そして、イド・ルグスと伍番隊の一部だけはオシアに潜伏し、帝国側の撹乱と情報の収集を兼ねた動きをしている。彼らは、分散したメディトリア軍をつなぐ神経のようなものでもあり、イド・ルグスはその中枢であった。

 数日が経ち、オシアとガルバニアの州境近くで帝国側の伝使たちが伍番隊に捕捉されていた。彼らはメディトリアの第一軍団から帝都へ向けられた書簡を持っており、内容はノクニィ峠の閉鎖を報告するものだった。メディトリア側の偵察においても峠付近の交通は確認されておらず、状況からみてこの連絡は鳥などを用いて空を経由していると思われた。さらに、書簡がオシア州を出るときには馬で運ばれていた所をみると、ガルバニアへ直通するほどの長距離は飛べないようであった。この対応をみるに、第一軍団は後方を遮断されたものの、冷静に行動しているといえた。また、こういった書簡は複数の経路で運ばれていたため、その一部を奪取することは難しくない。皮肉にも、このデロイ帝国の高度で堅牢な情報伝達網は、敵であるメディトリア側へも恩恵を与えていた。

 さらに数日後、イド・ルグスは第一軍団よりの続報を入手する。それがまたもや暗号化されていない平文であるのを見たイド・ルグスは、やや警戒しつつそれを読んだ。だが、その内容を確認した彼は、曖昧ながらも別の不安を覚える。

『ノクニィ峠復旧は、二次崩落により一時中断。目下、迂回路を捜索中』

 正確には、それは不安ではなく恐怖だったのかもしれない。不安とは理解している事柄に対して催す感情であり、己の理解できないものへ抱くのは恐怖である。

『迂回路は、依然として発見できず。志願者を募り復旧作業を進めるが、遅々として進まず。犠牲者は、すでに五百余名を数える』

 第一軍団から本州への連絡は筒抜けであり、それは連日のように届けられる。この時、ようやくイド・ルグスは己の想定から、何かが抜け落ちている事に気づいた。

『復旧作業中に数度の大崩落あり、将兵約二千五百名を失う。作業続行のため衆議を行うも、士官下卒らの強い反発によりやむなく説得を断念す。軍紀、甚だしく乱れる』

 それは、第一軍団を統率する兵長たちの悲鳴に近いものであった。イド・ルグスがどう詮索してみても、それが敵の欺瞞情報だという兆候は発見できない。彼はやがて、決定的といえる書簡を入手する。

『その後、峠の状況を詳細に検分した上、復旧の望みは極めて薄少と判断。本日、幕議によってギラメラ門への転針を決定、全軍に通知す。食料の入手に難あり、糧秣は残された輜重に頼るのみ。至急、本州よりの救援を求む』

 これを受けたイド・ルグスに、言葉はなかった。速やかに、属州へ向かう各隊に駿馬をさし向ける。待つこと数日、すでに州境を越えようとしていた彼らは、稲妻に打たれたかの勢いで引き返してきた。指定された合流地へと急行する軍勢に先がけ、スタイン以下の士隊長たちが、イド・ルグスのもとに集合する。

 彼らの表情には、各隊の帰着を待つ間にその覚悟を決めたかのようなイド・ルグスとは対照的に、痛恨の念がありありと浮かんでいた。心のどこかで、抱鉄という兵器をいくらか斜に見ていたこの四人は、報せを聞いて驚愕仰天したであろう。ノクニィ峠の封鎖には、抱鉄の備蓄分全てが投入されたが、それでも少ないとされていた。そもそも、この兵器は運用における実績がまだ不足しており、その不安定さを勘案すれば到底メディトリアの外へ持ち出せるようなものではない。そういったイド・ルグスの意見もあり、彼ら四人も当然それを最善策として支持したのである。

(――必然だったそれが、盲点となったのか)

 そう思い、イド・ルグスは湿った息を吐いた。彼自身、足りないのではないかと常々心配してはいたが、多すぎるなどとは一瞬たりとて思わなかったのである。まさか、十万人を越える人員を抱えた軍団が、峠の復旧を断念するような結果になろうとは――。

 そして、彼の抱いた確信に違うことなく、第一軍団の兵士たちはギラメラ門の攻略に行き詰まりつつあった。彼らから帝都へ向けての通信は、減りはしたものの途絶えておらず、イド・ルグスは当然それを手に入れている。あの険門を見た者なら、攻め落とすためには空を飛ぶ必要があると一目で理解するだろう。文面には、渓谷の埋め立てを計画する様子も窺えたが、巨石すら押し流す急流に彼らが勝てるとは思えない。奇跡でも起きぬかぎり、彼らはいずれ峠の攻略を諦めざるを得ないのである。

 もし、第一軍団がメディトリアを脱出する迂回路を探したとしても、見つからないであろう。そういった道が存在しない訳ではなかったが、それはスタインたちがすでに遮断してしまっている。デロイ軍には、峠の復旧を再び試みるという選択も残されているが、すでに糧秣の残りが心細くなっている以上、より確実な方策を優先するに違いなかった。メディトリアの大半の民衆たちが避難している各々の家都には、領内からかき集めた大量の食料が備蓄されている。第一軍団は犠牲を避けてそれらの拠点を攻略しなかったが、現状においては家都への総攻撃こそが、彼らの視野にある唯一の突破口といえた。

 それは、イド・ルグスら五人にとって背筋の凍るような展開であり、全くの悪夢である。彼らは帝国の軍事技術について知悉しており、第一軍団は豊富な森林と手持ちの資材から種々大量の攻城兵器を用意するに違いない。もし、家都が一箇所でも陥落したなら、人数としてはメディトリアの人口数分の一が虜囚となる。彼らは、当然の事として虐殺される可能性もあるが、あるいは人質として他の拠点を投降させるために用いられるかもしれない。そうなれば、ギラメラ門に残る王も、別の城市に籠る領家の当主も、遅かれ早かれ彼らに従わざるを得ないだろう。

 もはや、帝国の属州へはるばる兵を差し向け、その屋台骨を揺らがすという遠大な計画が頓挫していることを、イド・ルグスを含めた士隊長全員が察している。清々しいまでに向こう見ずなこの男たちも、思考の温度はまだ平熱を保っていた。だからこそ、彼らは無防備の属州という絶好の標的を眼前にして、こうも鮮やかに引き返せたのである。

 だが、こうして集まってどんな手が打てるというのか。ギラメラ門を経てメディトリアに戻ることは、まず不可能である。その時イド・ルグスが、デロイ本州から接近しつつある第二軍団の存在を明らかにした。偵騎の報告によると、軍団のほぼ全兵力がこちらへ向かっている。それを聞き、スタインたちの顔様はさらに険しくなった。しばらく、四者四様に地面を見つめる。やがて誰からともなく面を上げ、その視線を交差させた。砂埃にまみれた眼窩の中で、ぎらついた瞳だけが動いている。

 だが、その鋭利な眼つきとは逆に、彼らの口元は嗤っていた。メディトリア軍は劣勢ではあるが、蜘蛛の巣に似た情報網をこの戦場に張り巡らせ、すでに第二軍団を捕捉している。また、味方は選り抜いた精鋭であり、士気も高い。食料物資においても、メディトリアへの敵兵站路に残された集積分が、ほぼ無尽蔵に使用できる。五人の合意に、余計な言葉は要らなかった。その後、彼らは夜半まで軍議を続け、各々の隊へと散っていった。

 翌日、メディトリア軍は完全に合流し、目立たぬ場所で野営する。休息もそこそこに、イド・ルグスは兵たちを集めて今後の計画を明らかにした。当然、故郷における抜き差しならぬ状況についても語られたが、従士たちの多くは存外に冷静であった。彼らにとって家都の防備は絶対であり、多少の犠牲はあっても陥落するとは考えていない。むしろ、属州での厄介な任務から解放されたことを歓迎しており、その表情は涼しげでもあった。これらの属州へ直接乗り込んでゆく事には、少なからず脅しの意味があるといえる。従士らの本音としては、そういった善悪の不透明な手段より、自分たちを頼って欲しいのであろう。また、彼らはこの状況を好機とも捉えており、その過剰な自信は篤い信仰心の裏返しでもあった。

 そして、イド・ルグスにはそういった兵士たちの心を含め、様々なものを立体的に俯瞰することができた。彼はこれまでの経緯から、ものごとの多面性という屈折を通して対象を見るようになっていたのである。自分たちの将来にあるものを感じて、イド・ルグスの身体が少し震えた。だが、彼の中で渦巻いていたのは恐怖や不安ではなく、ダ・プーが覚えた高揚に近いものなのかもしれない。

 高く晴れ、微かに砂塵の舞い散る空に出立の号令が響く。やがて、軍勢は一糸乱れぬ縦隊となってオシアの丘陵へと消えていった。


      †      †


 イド・ルグスとその軍勢は、オシア中部の街道を北に進んでいた。大蜂起の鎮圧後、オシア州は帝国によって完全に占領され、その全土がガルバニアから派遣された地領官たちの管理下に置かれていた。だが、高位の官吏らは状況を察してすでに逃げ出しており、残された街や村落は静まりかえってその門扉を閉ざしている。この属州にも、自治領という彼らが征服される以前の社会秩序を保存した場所があったが、乱の制圧と掃討によってそれらの勢力も完全に排除された。この無残な敗北を命からがら生き延びた州民たちは、これからやってくる冬と食糧不足をどうやって乗り切るかという、喫緊の問題に直面している。唯一の援助は帝国の統治から期待するしかなく、この状況においても彼らは従順であった。メディトリア軍は、道中で鹵獲した数百両もの輜重車を駄獣に牽かせ、それらの集落を縫うように街道を行軍した。

 彼らは、まずアクアイアス河上流の船着場へ行き、それらの品々を入手したのであるが、そこには呆れるほど大量の物資、食料、家畜が放棄されていた。この船着場は今回の戦役のためだけに造られ、第一軍団への補給物は必ずここに荷揚げされるのである。水路となるアクアイアス河は、南のディネリア州からの支流を交えてオシアを下り、ガルバニアを通じて大海へと注ぐ。高低差に乏しい流れは緩やかで、帝国物流の大動脈であった。

 船着場からは、メディトリアのある西以外に北へも街道が伸びていた。必要なものを手に入れた彼らは、誰に遮られる事もなくこの道を進んだのである。こうして全軍が合流する以前、彼らは天幕その他のかさばる物を持たず、携行する糧秣も最低限に減らして人目を避けつつ行軍していたが、今の姿はまるで馬運業者の行列であった。飯時には炊煙を盛んに上げ、夜は大きな火を焚いて暖を取る。これまでは少ない食べ物を分け合い、楯の上に横たわって無言の夜を過ごしてきた従士たちであったが、消耗していた彼らの気力と体力は日増しに回復しつつあった。


 一方、第二軍団は戦役の準備を終え、本州ガルバニアを離れるとアクアイアス河に沿ってゆっくりと遡上していた。軍団司ダ・プーは、この頃ようやくメディトリア軍が集結した理由について、ある程度正しく想像するようになっていた。だが、彼以外の人々にそこまでの理解はなく、ダ・プーもまたそれを口にはしなかった。

 敵は、味方の大軍を魔法のように飛び越え、今にも帝都へ攻め上ろうとしている。デロイの大多数の人々からは、そう見えただろう。とはいえ、その人数は未だ不明であり、霧に包まれたような姿でしかない。帝都にいる枢軸貴族にとって、第二軍団を敵に差し向け、経過を見守るしかなかった。彼らは強制動員によって兵士を集める事もできたが、実行するには充分な根拠が必要であり、さらに重大な責任が伴う。彼らの派閥から不和の火種は完全に消えておらず、現時点でそういった決断に至ることは不可能といえた。

 やがて第二軍団は、メディトリア軍がオシア中央部の街道を行軍中であるとの情報を入手する。それは近隣の村々からの報告であり、ダ・プーは用心深く騎兵の集団を先行させ敵状を探らせた。彼らの数はおよそ一万人前後と見積もられ、第二軍団は北へと向かうその軍勢を追跡する。この時点における軍団の規模は歩兵約三万五千、騎兵約千五百騎であった。さらに、街道の先はコロヒス河へと向かっており、その周辺に架けられた橋はすでに落とされている。

 状況はデロイ側の明らかな優勢であり、軍団の幕営ではこのまま敵を背後から急襲すべきとの意見が多数上がったが、ダ・プーは笑ってそれらを却下した。メディトリア軍の進路はすでに河が阻んでおり、このまま進めば敵は逃げ場を失うのである。背水の陣という言葉はあるものの、死地を目指して意気揚々と突き進むかのようなメディトリア軍の行動に、ダ・プーも苦笑せざるを得ない。眼前を遊泳するこの集団が、どういった意図を持つのかその判断は置くとしても、討ち漏らした残敵の掃討に手間取ってしまえば、それは枢軸貴族の尻拭いに奔走するのと同じである。メディトリア軍が自分にとって理想的な交戦地点へと向かっている以上、ダ・プーがそれを妨げる理由は何もなかった。

 街道を行くメディトリア軍は、こうして敵が背後に迫るのを知りつつも、急ぐ様子はなかった。それどころか、余った食料を近隣の集落に分け与えながら鈍行している。当然、それらの物資は追跡する第二軍団によって没収され、オシアの人々の口に入ることは無かった。追跡は十数日ほど続けられ、彼らはついにコロヒス河へ到達した。第二軍団がメディトリア軍の状況を確認した時、すでに彼らは河畔への布陣を終えていた。

 ダ・プーの幕僚たちは、敵の軍勢が待ち伏せや夜襲を企図しているのではないかと疑って備えを怠らなかったが、それらは全て徒労であった。メディトリア軍は、河の湾曲部の飛び出した岸に陣取っている。背後には河へ落ち込む断崖があり、正面には輜重車が障害物として配置され、唯一開けているのはその車列の中央にある出入り口だけだった。

 その構えは砦のようであり、敵はここで徹底抗戦するものと思われた。第二軍団はこの陣に接近せず、行軍一日ほどの距離にある丘へ設営する。そのまま待機が命じられ、三日が過ぎさった。全てはダ・プーの指図であるが、幕営に引きこもったままの彼は、側近にすら何の説明も行っていない。理由もなく敵へ猶予を与える事に、将兵の不満は少なからず蓄積しつつある。だが、彼はこういった秘密主義的な行動で幾度か軍団を救っており、兵士たちは良い意味で緊張を高めていた。このダ・プーの指揮術は単なる自己演出ともいえるものの、それは彼の才能の一つでもあった。

 その日の午後、メディトリア側の軍使が第二軍団の陣営へとやってきた。やや騒然とした空気の中で、彼らはダ・プーへの面会を求める。やがて会談の席が用意され、その軍使は挨拶もそこそこに用件を切り出す。それは、要するに停戦の提案であった。ダ・プーの側近たちは、どうやら降伏する気かもしれんな、などとひそひそ耳打ちし合う。しかし、続いて軍使たちが出した停戦の条件を聞くと、その場が静まりかえった。

 デロイ側は、メディトリアから軍勢を完全に撤退させること。さらに、全ての属州を放棄すると同時に、その独立を認めること。彼らの出した条件は、この二つであった。自分たちの耳を疑う幕僚の前で、これらが履行されるなら我々はオシアから兵を撤退させてもよい、と軍使の一人が付け加える。

 数度ほどやり取りし、その言葉に間違いがないことを確認した幕僚たちは、さすがに険悪な目つきで軍使らを見た。軍団司であるダ・プーとこの軍使が直接に面会できたのは、メディトリアに同情的な彼らがそう計らった為であった。矛を交える前に交渉できれば、貴族院で彼らへの寛大な処置を訴えることもできる。だが、救おうとしていた相手からあべこべに降伏せよと迫られたも同然の彼らは、失望して完全に言葉を失っていた。

 メディトリアの軍使はぴくりともせずに返事を待っていたが、それに対し幕僚の大半は呆れた表情を彼らに向けている。その一人が、治領を独立させようにも当事者がこの場にいないようだが、と皮肉を言って周囲の乾いた笑いを誘う。ならば、彼らを連れてくればいいのか、と軍使が応じるが、もう幕僚たちは何も答えなかった。彼らの気まずい視線がダ・プーに向けられたが、他人事のように暇を持て余していた彼は、この交渉に何の興味も抱いていない様子だった。ダ・プーは、この軍使を丁重に送り帰すよう命じた。

 その後、両軍ともに再交渉の動きはなく、彼らは対峙を続ける。この状況のまま二日が経過したが、夜になるとダ・プーは唐突に軍議を催した。いよいよか、と色めきたつ大兵長たちに対し、明日の攻撃が知らされた。命令を受けた士官は目立たぬよう準備を行い、下卒たちは寝床でその様子を伝え合う。珍しく風が絶えて静かになった天幕の中、彼らは淡々と過ぎる夜陰に眠気を誘われつつも、耳を澄ませば細波のようにざわめいていた。

 あくる朝、ダ・プー率いる第二軍団はメディトリア軍の目前に現れた。河岸に陣取ったメディトリア兵たちも、彼らの襲来に呼応してすでに戦列を整えている。この日の夜明けには、軍団の騎兵集団がここにきて敵陣近くの森を占拠していた。軍団の歩兵大隊はその木立の脇を抜け、素早く戦列を展開する。まるで職人に積まれる煉瓦のように、デロイ式の重厚な陣列が組み上げられてゆく。その戦力は、精鋭の長槍冑兵が約二万四千、軽装の投擲徒兵が約六千、そして貴臣騎兵が約千五百騎。さらに、ルムドとカーレの傭兵軍団と戦った際に得たキリア戦奴が加わっており、その数は約五千。直前のキリア戦役で第二軍団の被った損害は軽微であり、戦奴が加わった事で逆に戦力を増していた。

 対するメディトリア軍は、志願してこの地に赴いた精鋭の戦鉾楯兵が約一万。王家に所属する兵の家と領家の従士たちの混成部隊であるが、この死地で共に過ごした日はすでに百日を超えている。いまや、彼らの絆は硬い鉱物のごとく結晶しており、旺盛な士気に支えられた隊伍の一つひとつが凶器といえた。この楯兵の隊列は、敵を迎え撃つように輜重車の前面へ配置されており、さらに左右に分けられていた。中央にはある程度の間隔があり、防壁である後方の輜重車も含めて、その部分は素通しになっている。さらに、第二軍団の接近と同時にメディトリア側の陣地後方から、騎兵の列が蛇のように次々と現れる。展開を終えつつあるデロイ軍の本陣で、それに気づいた者が指差して叫んだ。

 彼らの注視する先を、躍動する馬体が埋めてゆく。その列は、輜重車や兵列の隙間を抜けると左右に分かれ、自軍戦列の両翼で集まり始めた。この騎馬集団の総勢は、先の戦役を生き残った王遼騎兵が約八百騎、バルバル騎兵が約千二百騎、兵の家の騎兵が約四百騎であった。騎馬の数だけでいえば、デロイ軍よりひと回りほど多い。

「――おいおい、こいつらは一体どこにいたんだ?」

 ダ・プーが、少々勘気のこもった声を放った。第二軍団は、敵の騎兵がオシア州にいることを知って警戒していたが、それは数ではなく質に対するものだった。騎兵同士の小競り合いを避けるため、彼らは最小限の偵察だけで情報を収集していたが、メディトリアに赴いた第一軍団の場合と違って、ここオシア州は敵地ではない。当然、不審な軍勢の通過や略奪があれば報告されるものと勘定していたが、それは楽観的に過ぎたようである。とはいえ、第二軍団によって付近の哨戒はある程度行われており、敵が築いた陣地の規模と収容力からみても、この騎兵たちは昨日あるいは昨晩の時点で到着したと思われた。

「不覚ながら申し上げれば、おそらく森の中かと……」

 渋い表情ではあるものの、脇に控えるラボアが率直に答えた。水源から遠い丘陵は砂漠化が進んでいるが、このオシアでも特にコロヒス河などの周辺はまだ緑が濃い。その意味で、ここは森に潜伏した騎兵との絶好の合流地点である。メディトリア軍の不可解な行動について、今ようやくその背面が透けて見えたといえた。騎兵を率いるラボアたちも、敵にしてやられたという感は強く、それが彼の言葉にも表れている。

(……奴らも必死だな。とりあえず、悪くない布陣ではある)

 戦場を見回し、ダ・プーは心でそう呟いた。彼の心に、動揺はない。敵は兵士の数で圧倒的に劣るが、河へ近づくにつれて狭くなる地形がその差をいくらか埋めている。また、メディトリア側の布陣にある中央の空隙については、一見すると敵をそこに誘い込み、さらに両翼から挟撃せんとする罠のように思えた。とはいえ、帝国軍団のような戦巧者が相手では、多分に稚拙すぎるといった解釈も当然ある。この布陣をどう捉えるか、それそのものが心理の塹壕といえた。さらに、彼らが騎馬を扱うその巧妙さは、魔術的と評しても過言ではないだろう。この軍勢を、イド・ルグスが指揮しているという彼の予感は推測に過ぎないが、今はもう確信に近かった。

(だが、ここまで複雑な男だったか――)

 それについて、違和感も同時にある。背負うものの重さか、あるいは別の何かが奴を変えてしまったのか。振り返って、ダ・プーが背後の黒い森を見やる。無理もない、と彼は思った。

(俺だって、こうしているだけで背中が寒い。ましてや奴の立場なら、たっぷりと冷たいものを味わった事だろう。――だがな、この先はもっと涼しくなるぜ)

 視線を前に戻し、ダ・プーは改めて戦場を見つめた。彼の思考が、じりじりとその温度を上げてゆく。軍団の戦列が完全に整うまでに、わずかな時間があった。兵卒も士官も、視線を前に向けながらも緊張に押し潰されぬよう、己で己を鼓舞しつづける。自分たちの優勢を疑わぬものの、虚勢の気配を欠いた敵の静けさが、長く激しい戦闘を予感させていた。数刻後には、生き残って戦歌を謡うか、あるいは骸となって沈黙するか――。やがて、前進の号令が全軍にかけられ、鮮やかに空へと抜ける。殺人機械の一部となった彼らは、時を刻むように足並みをそろえると、ゆっくりと進み始めた。


 デロイ軍は、厚みを持たせた長槍冑兵の戦列を中央へ配置し、投擲徒兵でその両側面を固めていた。貴臣騎兵の集団は二分され、投擲徒兵の後方へと置かれた。全体の陣形としては、両翼を折り畳んだような縦深形である。だが、それでもメディトリア軍の戦列よりは幅広になっていた。また、通常は徒兵たちが位置する戦列前面にはキリア戦奴がおり、敵と味方に挟まれた彼らは、追い立てられるように前へ進んでいる。

「――閣下、やはり敵陣に抱鉄はありません!」

 慌ただしく報告を取りまとめたラボアが、少し高い声でダ・プーに報告する。本陣の周辺は伝騎の往来が錯綜し、まさに阿吽の呼吸で情報を伝え合っていた。ダ・プー本人はそういった集団に囲まれながら、前進する味方をゆるゆると追っている。その上向きの視線は何も見てないようであり、その薄っぺらな表情は全てを聞き流しているとも思えた。

 軍団の前進に対し、メディトリア軍はまだ動きを見せない。左右に分かれた戦鉾楯兵の方陣と中央の空間、その戦列の両翼に置かれた騎馬の集団、それら全てが静止している。また、後方にある車両の防御線には人が通れるほどの間隔があり、それ以外に壕や壁はない。確かに、メディトリア側の兵士はそこを通って出入りできるが、敵を遮断できない不完全な陣地でもあった。そういったものをラボアはつぶさに観察していたが、その全体像をいまだ読み解けずにいた。逆に、ますます彼らが何に勝機を見出しているのか、判らなくなる。彼は、内側へと向かいつつある意識を紛らすように、視線を前方へと投げかける。その時、ふと何かに気づいた。

「閣下、戦奴たちの様子が……」

 両軍の最前列は、個々の兵士が見分けられる距離まで近づいている。キリア戦奴の隊伍がわずかに乱れはじめ、敵のいない中央へと集まりつつあった。彼らの役割とは要するに牽制であり、遅かれ早かれ撃退されることは誰もが承知している。だが、この行為は明らかな軍律違反であり、それについては軍団の掟として叩き込まれていた筈だった。皆の視線がダ・プーに集まるが、反応はなかった。そのまま行かせろ、という事である。

 確かに、敵の重歩兵とまともにぶつかる隊と、正面に何もない隊があるのは不公平ではある。とはいえ、それを問題にすれば軍隊という制度が成り立たなくなるのは明白であり、ラボアたちは濁った感情をその眼つきに滲ませた。また、彼らには今回の戦闘が終わればデロイの永住権が与えられるという破格の待遇が約束されており、帰る場所もないこの傭兵たちは、第二軍団に救われたといってよい。

「――所詮、あの巨都が吐き出した膿ということか。まあ、たとえば戦車でも突っ込んでくりゃあ、許される事だが……」

 戦奴たちは、すでに右の隊が左に動き、左の隊が右に動き、中央では何隊かが押し合いへし合いしている。この世界のこの時代、戦車はすでに時代遅れの兵器であった。いつもの毒舌口調で、ダ・プーがその言葉を吐き捨てる。

 その時、戦奴たちの向こうに何かが見えた。彼らのいる場所は、戦場の中でもやや小高くなっており、本陣からはその丘に遮られて先が見通しづらい。目を凝らしていると、地面の稜線を上りきったそれが、はっきりと見えるようになった。四頭の馬に曳かれた車両状の物体が、滑るように近づいている。皆が、あっという顔で表情を崩す。ダ・プーは頬を緩ませたまま、目だけで驚いていた。気づけば、それはすでに敵陣地から長い距離を疾走していたようであり、戦奴たちの一部がどよめいている。

 ラボアには、ひと目でそれがデロイ式の戦車だと判った。幅からみて、二十数両ないし三十両程度が横列となって進んでいる。さらに目線を遡上させた彼が、敵の陣地を見た。そこにはオシアの帝国軍から奪った荷馬車や天幕、物資が乱雑に置かれていた。彼の思考が、瞬時にその過去を想像し始める。

 今回のメディトリア戦役は、第一軍団にとって重要な意味を帯びており、彼らは相当に気負ってそれに臨んでいた。戦車はすでに実用性のない兵器であるが、それゆえに希少であり高値で取引されるため、貴族の隠居などが好んで蒐集する品でもある。当然、出征する倅や孫の華々しい戦果を願うあまり、それを持って行かせようとする者もいるだろう。だが、このかさばる贈り物を受け取った彼らは、水路でそれを運ぶことはできても、結局は船着場に置いてゆくしかない。確かに、馬車などに積める大きさではあるが、兵站上の隘路である陸上輸送に、この骨董品を持ってゆく余裕など無いのである。

 それを運んだのは、皮肉にもメディトリア軍だったか――。ラボアがそう思った時、戦奴の集団では混乱が始まっていた。先頭の戦奴たちは立ち止まり、状況に気付かない後ろの者ともみ合いになっている。戦車の方では、役目を終えた御者たちが次々に跳び降りていた。背の低い車体からは、敵を倒すための棒が幾重にも突き出しており、その一つひとつが刃の華を咲かせている。車輪にも同じようなものが生えており、回転するそれを見ただけで戦意を喪失しかねない。戦奴たちが、ここにきてようやく恐怖の叫びを上げた。

 デロイ軍の兵士たちは、その一部始終を目の当たりにしながら、何もできなかった。衝突は一瞬だったが、麻痺した現実感の中ですべてが鮮明だった。背筋の凍るような音が響き、人の腕が、脚が、くるくると四方に吹き飛んでゆく。なぎ倒し、押し潰し、切断してなおも、戦車の勢いは止まらない。責め具で拷問されるような悲鳴が苦しげに折り重なり、そしてようやく止まった。頭皮をその根につけた頭髪の束、ぼろきれのように削がれた皮膚、巻き取られて絡みつく腸の一部。血の収穫が、どろりと垂れ下がる。肉と刃と車輪と馬が圧縮されたその壁のようなものから、多くの者が目をそむけた。

 この事態にダ・プーの周りにいる者たちも声を失い、その視線を曖昧にしていた。だが、戦奴たちの惨状を直視し続けるダ・プーの瞳からは、ぎらぎらとした異常な光が漏れている。傍にいるラボアもまた、その尋常ではない昂りをみせる表情から、目を離せずにいた。次の瞬間、戦場の時間が動きだして彼らの注意は別のものに奪われる。メディトリア軍の左右にいた騎馬隊が、猛然と突進を始めていた。

 それに少し遅れて、デロイ軍の騎兵が迎撃するように走り出す。目の前にいる味方の投擲徒兵を外側に迂回しつつ、敵の騎兵の出口を塞ぐように前進する。この貴臣騎兵に対しては、デロイ軍の前進が始まる前に、ダ・プーから次のような指令が下されていた。メディトリア軍の騎兵が出てきた場合は、軽く交戦したのちに後退して、背後の森の前まで奴らを誘導しろ。貴臣騎兵らは、急な事ではあったがその手はずで動いていた。だが、騎兵の数では劣勢である彼らが、その後の展開をどう考えているかは不明瞭でもある。

 ダ・プーらにとって、ここまでの展開は許容内であるらしく、戦奴たちには改めて前進が命じられた。だが、敵の騎兵が向かった先を見て、その表情がやや怪しくなる。メディトリア軍の両翼にいた騎馬の群れは、戦場の外側ではなく中央へと突進していた。両軍の戦列はまだ衝突しておらず、彼らの行く先にあるのは戦車の残骸と戦奴たちの列であり、さらにその先には冑兵の槍ぶすまが待っている。いかに精強な騎兵といえど、ここを突破することは無謀といえた。

 だが、この戦場中央では連鎖的に事態が進行しつつあった。千騎を超える騎兵の集団が右からも左からも自分たちに迫っているのを見て、すでに浮き足立っている戦奴らの生き残りが動揺している。何人かが走り始めると、次の瞬間には狼に追われる家畜のように全体が動き出した。敵から逃げる戦奴を見て、その後方にいた冑兵たちは槍を下ろして通すまいとするが、彼らは濁流のようにその間隙へと雪崩れこむ。捨て駒であることを完全に自覚した彼らの、逃げ足の速さと突進力には迷いというものがなかった。

 混乱の中で、仲間に押し出された者が次々に槍の餌食となり、足を滑らせ転倒した者は容赦なく後続に踏み潰される。それでも彼らの勢いは止まらず、ついに冑兵の分厚い戦列を突き抜けた。混乱と無秩序の中から抜け出し、身体一つで逃げる戦奴たちがその突破口から爆ぜるように散ってゆく。

 彼らの潰走が余りにも短時間であったため、軍団の誰もがそれを阻止できない。とはいえ、この戦列崩壊よりは次に起きたことの方が、一瞬の出来事であった。メディトリア軍の騎兵が、戦奴たちを追いかけるようにしてデロイ軍の戦列を突破してしまったのである。この信じがたい光景を見て、冑兵の士官たちは怒鳴ったり走り回ったりしてどうにかしようとしていたが、結局は何もできなかった。その早さと勢いは、まさに酒樽の底が抜けたかのようだった。

 ダ・プーたちはそれを見て、決壊した堤防から逃げるように後退する。彼らは窮地に陥ったように思えたが、その視線の先には別の騎兵たちがいた。森から湧き出す馬群には、肌を黒く塗った男たちが乗っている。しがみつくように馬に乗っていたダ・プーが、それを見てようやく手綱を引く。ディネリア騎兵たちが、轟音と共にその左右を抜けた。背後の森に潜んでいた彼らは、合計で二千騎に達するかという大集団である。眼前のメディトリア騎兵へと、勇ましく突っ込んでゆく。

 この時、メディトリア騎兵には背後からも敵が迫っていた。デロイ軍の両翼にいた貴臣騎兵たちは、中央を突破する敵騎兵の後を追うように馬を駆けさせ、今まさにその背後へ迫ろうとしている。メディトリア騎兵は、ここに至って数の上で劣勢となったばかりか、このままでは敵に挟撃されることが確実になったのを察知し、その進路を変えた。大きく二つに分かれ、戦場の右と左へそれぞれ離脱してゆく。貴臣騎兵、ディネリア騎兵も同じく分かれ、彼らを追った。両軍の騎兵たちは、まだたっぷり残っている馬の脚力を使って、まるで飛ぶように疾駆する。戦場から遠ざかる彼らは、すぐに見えなくなった。

 何千という蹄が大地を削る轟きは彼方へ消え去り、残された歩兵たちもそれと前後して会敵していた。衝突する互いの戦列が、粘土のようにぐにゃりと変形した。その時、兵士のふりしぼる声と声が飽和して何も聞こえなくなった。敵に対する恐怖心、家族への想い、生き残ったら何をするか、そういった正常な思考があっけなく消えさる。戦場の空気はすでに沸点を超えており、誰しもが発狂したように戦った。

 鉾が振り下ろされ、槍が突き込まれ、短剣が肉をえぐり、楯で殴って足蹴にする。放たれた徒兵たちの投げ槍が優雅に空を飛び、死の雨となって降り注ぐ。数で勝るデロイ軍はすぐに半包囲の形になるが、敵の戦鉾楯兵たちの戦列はそれを支え、小刻みな進退と各隊の連携でデロイ軍に対抗していた。軍団の主力である長槍冑兵は隊伍の柔軟性に難点があり、こうした不揃いな戦列に対して圧力をかけるのは苦手だった。帝国軍とは二度目の戦闘になる敵の兵士たちは、その戦術を奏功させつつ軍団兵と互角に渡り合っている。定位置に戻ったダ・プーたちには、そういった状況がよく見えていた。

(――さすがに、踏みとどまるな。たったこれだけの数で、俺たちに歯向かおうとするだけのことはある。それどころか、幸運すら奴らの味方をしておるようだ)

 戦場の目まぐるしい推移を心の中で反芻して、彼がそう思った。敵から逃げていたさっきの自分に対し、腹の底からひとつふたつと笑いが浮いてくる。それをこらえると、ダ・プーは体の芯が熱くなるのを感じた。偶発的なものではあったが、敵の精鋭騎兵に戦列の突破を許したことは、軍団にとってかなり危険だったといえた。下手をすれば、河岸へと向かう狭い地形の中で挟み撃ちとなり、大軍ゆえに併殺されることもあり得たのである。そして、メディトリア側の狙いとはそういった事態へつながる不確定な要素を、可能な限り戦場に充満させることだったのであろう。その途中までは、彼らの軍略は神がかっているとしか言いようのないものであったが、結局は属州ディネリアから二日前に到着した騎兵たちが、それを阻止したのである。

(だが、時間は俺に力を貸したようだな。何者が奴らの肩を持とうとも、その流れには逆らえまい)

 さらに、先ほど両軍の騎兵たちが描いた機動を思い起こして、ダ・プーは愉悦に浸る。この世の中に、あれほど美しい動きが他にあるだろうか――。それは、この軍勢を率いているであろうイド・ルグスへの賛美であり、彼の自己陶酔でもあった。冷徹な現実主義者として、高邁な理想主義者として、さらに戦場の芸術家として己を自負するその意識こそが、彼の自我における本態といえる。

 このダ・プーの性質とは、派閥の利害を通じて関係する人々にとっては単なる個性であるが、側近のラボアたちはその美意識を少なからず共有していた。ダ・プー本人はすでに涼しげな表情を取り戻していたが、彼らの視線はまだ興奮気味に敵と味方の戦列を往復している。抵抗は激しいものの、軍団は少しずつ敵を押しているように見えた。だが、この戦場にはそんな彼らの関心が向けられぬ場所が、一箇所だけあった。戦車と戦奴の残骸、つまりあの壁である。両軍はその危険な障害物を避けるように衝突しており、前後にはどちら側の兵士もいない。その時、気まぐれにそちらへ目を向けていた一人が、何かを目撃した――。

「…………閣下、一騎が――。一騎が、こちらへ向かって……」

 その不明瞭な報告に気づいたラボアが、彼の視線をなぞった。確かに、壁のこちら側に一騎がいる。遠目にではあるが、その具足や馬装からみて明らかに味方ではなかった。

「――イド・ルグスか、あれは……?」

 そう言ったのは、ダ・プーだった。首を突き出し、自分の目でそれを見定めようとしている。騎兵用の平らな兜が鼻までを隠し、その男の容貌は定かではない。ラボアが、周囲へ鋭く問いかけた。

「あの騎兵は、どこから来たのだ? 見ていた者はいるか!」

 もしや、味方の戦列に破れがあったのかと、彼の目線が左右に踊る。やや沈黙があり、先に報告した男がきんきんとした大声で、叫び答えた。

「……気づいた時には、こちら側へ跳び下りておったのです!」

 要するに、馬に乗ったままあの残骸を越えた、という事か――。ラボアはその壁に改めて目を向けたが、そういう芸当が可能かという思考をすぐに捨て、周囲の騎兵を集めはじめた。この本陣には、ダ・プーの他には側近と伝騎が約三十騎、貴臣騎兵が戦場から離脱する際にここへ戻された近衛騎兵が二十騎ほどおり、その戦力はおよそ五十騎ほどである。彼ら第二軍団にとって、指揮者の必要に応じて集散する兵士たちの所在地が、すなわち本陣であった。

 ラボアは、自分の部下を中心に二十騎を集め、残りをダ・プーの側に残した。ダ・プー本人はそういったことに頓着しない性格であるが、ここの安全を確保するのはラボアの責任であった。たった一騎に精鋭の二十騎をさし向けるその判断と、ダ・プーの諾意を求める彼の険しい視線が、あれはイド・ルグスだと語っている。少なくとも、帝国側でイド・ルグスにもっとも詳しい人物が、そのように見たということであった。

 二十騎を従え、ラボアが集団から飛び出していった。この馬群と一騎は、近づくにつれ次第にその進路を変えてゆく。一騎の側は衝突を避けるように馬を走らせ、もう一方はそれを追った。本陣への接近を阻まれた敵は、ラボアたちと距離をとりつつも彼らの隙をうかがっている。やがて、馬群の側から三騎ほどが前に出て、一騎に迫った。帝都で見たイド・ルグスの馬上戦鉾術から、その程度を見切ったと信じる者たちであったが、あっさりと斬られた。

 その鉾の軌跡は、演武で披露されたものとはまるで違っており、ラボアたちは少なからず動揺する。だが、その男の特徴的な身のこなしは、彼らがイド・ルグスから馬術を教えられた際に見知ったものとよく似ていた。鉾の届く間合いが判らぬまま、さらに二騎が馬の鼻面を斬られ、落馬する。数人が槍を投げて応戦するが、全てかわされた。

 苦戦しつつも、ラボアは敵の一騎が本陣へ接近することをかろうじて阻止していたが、時間が経つにつれ焦りの色が見えはじめる。集団の先頭に出ようとする彼を、部下たちの馬が遮った。彼らもまた、ラボアを守っているのである。この状況にラボア本人も熱くなりかけるが、すぐに思い直して頭を働かせた。このままでは、敵を討ち取れる見込みがないのを悟った彼が、ダ・プーへと視線を投げかける。その先にいたダ・プーは躊躇することなく、従えていた二十騎の近衛騎兵を繰り出した。

 この集団は、ラボアたちと一騎に接近しつつ、敵を挟みこむ位置へと動いている。だが、そのとき一騎が持っていた鉾を投げ捨てて、騎乗姿勢を変えると両手で手綱を握った。そして、進路を変えた彼は二つの馬群の間をすれすれで抜け、さらに加速する。それを見たラボアは、全身が粟立つのを感じた。これまでこの一騎は、敵に阻まれて近づけぬふりをしながら、この時を待っていたのだとようやく気づく。ラボアたちは目を血走らせ一騎を追うが、猟犬のように疾走する敵との距離は縮まらず、非情にもそれは開いてゆく。

 その行く先には、ダ・プーがいた。伝騎の十騎ほどが周囲に残っており、主を守ろうと隊伍を組んだ。だが、どういう事かダ・プー本人は剣を片手にこの敵を迎え撃とうとしており、彼らはもみ合いになった。一騎が、矢玉のようにそこへ突っ込む。抜き放たれた刃がきらめいて白い筋を曳き、金色の火花が散った。二、三人が、馬上から崩れ落ちる。本陣の中央を突っ切って、一騎はそのままの勢いで駆け去ってゆく。次の瞬間には、猛烈に追いすがるラボアたちが、その両脇を通り過ぎた。

 鬼気迫る眼差しを背後に向け、ラボアは人と馬が折り重なる先を凝視する。乗り手を失って棹立ちになる馬たちの下で、将棋倒しに何人かが倒れていた。周りの者たちは全員、馬からとび降りてダ・プーを探している。彼らからやや離れた場所で、血糊に赤く染まったダ・プーらしき男がよろめきつつ立ち上がると、何かを叫び散らした。さらに、その男が駆けつけた兵士を殴ったのを見て、ラボアは視線を前に戻した。

 完全に頭へ血を上らせ、彼の表情は歪んでいた。一騎が、ラボアたちに猛烈に追走されながら本陣から離れてゆく。彼らは、やがて森へと走り去った。ダ・プーの側には数騎しか残っていないが、何事もなかったように定位置へと復帰して指揮を再開した。

 両軍の死闘は依然として続いており、耐えがたい喧騒が辺りを満たしている。メディトリア軍は、波状的な包囲に耐えつつじりじりと後退していたが、強い攻勢に出ることもあった。だが、命の危険と引き換えに得た数十歩の前進を、反撃する敵の戦列が無情にも奪う。そのせめぎ合いに終焉の兆しはなかったが、兵士たちの声は確実に荒い呼吸へと変わってゆく。そして、時おり静けさが感じられるようになると、次第に隊伍の進退が滞りはじめた。戦場は、すでに昼を迎えつつあった。



 岩壁に掘りぬかれた穴から、青空が見えていた。メディトリアの王であるダナ・ブリグンドは、その抜けるような空に目を向けている。彼女のいる石室に、たった一つある窓であった。ギラメラ門とよばれるこの砦には、こういった採光のための穴がいくつかあるが、それは必要最小限のものでしかない。

(……なまじ見えるから、かえって恋しいのだな)

 この門へデロイ軍が攻め寄せて、すでに二十日が経っている。その間に彼女は、人間というものは一日に一度は日の光を浴びる必要があるのを、当然のことながら再認識していた。ここ数日は敵の寄せ手もなく静かであるが、彼らは門の攻略を断念した訳ではなさそうだった。砦の眼下にある渓谷の流れは徐々に濁っており、川上のデロイ軍が何らかの工事を行っているものと判断できた。

(逆に、諦められてしまっては困るのだ……)

 今回の戦役において、これまで帝国側はこの場所を奪取する動きを見せていなかった。だが、ここに至って彼らが急に攻略を始めた理由については、砦にいる者も大方把握できている。この門へはすでに、メディトリアに通じる道だけでなくオシア側への出口にも敵の軍勢が集まっており、完全に包囲されていた。しかし、砦の防備は万全であって敵の寄りつく隙はない。ともかく、どう攻めようにも足場が無いのである。唯一考えられる攻め手は、砦のはるか下方から穴を掘ることであったが、それもまた無理難題といえた。岩盤が硬いことは当然として、地中を進むには一度下方向へ掘らねばならないが、その層には地下水が含まれており、掘った穴はたちまち井戸になるのである。彼女自身も、難攻不落と聞かされていたこの砦がその言葉通りの場所であるのを、今まさに体感しつつあった。

(――とはいえ、それも万能ではないな)

 こうして防衛している間は、この砦への情報もまた完全に遮断されていた。メディトリア領内のことは推測できても、オシア州へと出撃した一万余の軍勢がどうしているか、現在はまったく判らなくなっている。祈るしかない、という無責任なことは言いたくないが、事実そうであった。

(皮肉なものだ……。私の本来の役割は、そうであるというのに)

 彼女も、祈るだけで何にも関与し得ない存在は、素直に無意味だと考えている。王族の役目である諸々の祀りについても、それが自身を含めて数多くの人々の心に影響するというただ一点において、意味があるといえた。だからこそ、父と協力して王権というものを拡張してきたのである。ボルボアン王のそういった強い意思が、その切迫した状況で彼女の精神と融合し、現在のダナ・ブリグンドという人格を形成していた。

(……それらの伝統的な王の勤めを、否定するつもりはない。だが、ならばこの国を統治していたのは、いったい何者であったのか)

 その答は、彼女にとっても明確ではなかった。そういったことへの考察を曖昧にしたまま、メディトリアの王として実権を掌握しようとするこの親子の思想には、少なからず矛盾があるともいえる。父であるボルボアン王は、自身をこの国における実質的な王とは思っていなかっただろう。また、家宰であるサンク・タルムはその候補者といえるが、実際はそうでなかった為に、あのような挙に出たと彼女は考えている。

(今になって思えば、この国を支配していたのは均衡という無形の力なのかもしれん。それが、メディトリアにとって最良の統治だったのか。だが、父上の思考はそれら伝統の合理性や蓋然性から遠ざかり、そのまったく逆ともいえる模索をはじめた。まるで、魂の中に眠っていた何かが目覚めたかのように……)

 少なくとも、その何かは王家の知識継承に含まれていはいない。数百年ものあいだ踏み固められた径から外れ、自身の足で踏み出すときのその心境は、彼女にも想像できなかった。そういったものを、人間に秘められた神性とみるか、あるいはただの偶然とみるか、それとも――。この事を考えるとき、彼女の心はある疑問でざわつく。静かに目を閉じると、生ぬるい息を吐いた。

(……そもそも、私や父は一体「どちら」側の人間なのだ? 我らの王家は、本当にこの国の統治者の子孫なのだろうか。確かに、私の目の届く範囲でそれに反する歴史は残されていない。しかし、人の残す記録とは何かを伝達しつつも、別の何かを隠蔽する。その上で、私たちはそれを根拠とするしかないのだ)

 彼女が、乾いた唇をかむ。だが、そうしていると逆に笑いが浮かんできた。

(ふふっ、父も私も、諦めが悪すぎる……。実権はどうあれ玉座に腰掛けておれば、事実というものの無意味さにいずれ気づくのが普通だ。歴史だ何だと詮索する王など、要するに頭がどこか悪いのだ。知りすぎた者より、ただメディトリアの正義に素直な者こそが、今この国を救おうとしている。神がかっているというなら、それは彼らの方だ……)

 深いため息と共に、彼女が眉の根にしわを寄せた。

(……どうかしているな、私は。こうして腐っていても仕方なかろう)

 再び、頭上に見える小さな空を見上げた。だが、その向こうには何も見えない。それが、なぜか悲しかった。いつも最後まで後回しだった親子の情が、今ようやく愁傷のさざ波となって彼女の胸を洗い始めている。ただ一つ言える事として、亡き父に連なるメディトリアの王たちは、説明のできない正義というものを伝える媒体になったのだ。あの者たちを、信じるしかない。そう思い至った彼女が、ふと気づく。――これも、祈るということか。

(どのように取り繕って行おうとも、所詮は下品で人間臭いものでしかない。ものごとの釣合いの上では、好ましきと好ましからざるの区別そのものに意味がないのだ。祈りが純粋であるほど、浅はかで欲深いことの証ではないか。それが気休めでなければ、結局は無いものをねだっているに過ぎん……)

 その穴から降る真昼の日差しが、目を射した。それでも彼女は、じっとそれを見つめていた。



 第二軍団の目前で、百輌を超える車両が燃えていた。敵であるメディトリア軍の兵士たちは、防御線として並べられたそれらの車両の向こうにおり、整然とした戦列を成している。善戦を続けていたメディトリア軍であるが、敵の圧力にじりじりと追い込まれ昼過ぎの段階には、その障害物の背後へと撤退していた。

 デロイ軍はそれを軽装歩兵で攻撃したが、車列の内側へ入り込んだ者は待ち構える敵兵によって叩き出され、彼らの力で突破することは不可能と思われた。やがて、第二軍団は営地から運ばせた種油を車両にたっぷりとかけ、それを燃やそうとする。メディトリア側の兵士は、河から運んだ水で消火を試みるものの、無理とみてその場を離れた。彼らは車が燃えるのをしばらく傍観していたが、やがて慌ただしく昼飯をとり始めた。これに対し、軍団の兵士にも食料が配られ、敵の動きを用心深く見守りながら空腹を満たす。

 さらに、両軍はこの間を利用して死者と負傷者の収容を行ったが、この時ばかりは矛を交えなかった。やがて時間が経って、ようやく火勢が弱まる。しかし、そこには車列に積まれていた岩や土砂が燃え残っていたため、依然として長槍冑兵らの重装歩兵は進軍できなかった。デロイ軍は軽装歩兵に隊伍を組ませ、背の低くなった障害物を越えて一斉に攻撃する。メディトリア軍もまた、敵を押し返そうとその戦列を前進させた。

 昼下がりになって、そういった攻防に終始していた両軍であったが、第二軍団の戦列最後尾では兵士たちがちょっとした騒ぎを起こしていた。後方の森に馬が見えたという彼らからの報告を受けて、ダ・プーのいる本陣から数騎が捜索に出る。だが、その木立に入って間もなく、彼らは泡をくったように引き返してきた。軍団はすぐさま冑兵の一部を反転させ、後方の防備を固めさせた。

 その森には、確かに騎馬の集団らしきものが潜んでいたが、それは味方でもメディトリア軍でもなかった。さらにその時、戦場を離脱した貴臣騎兵から数人が戻ってきており、彼らは敵の追撃中にパレビア騎兵と思われる軍勢から攻撃されたと報告していた。パレビアはここオシアの北西に位置するデロイの属州である。その自治領に封じられた諸侯たちは、所領の治安維持のため、そして帝国へ供出するための兵力を蓄えていた。

 味方の騎兵たちがその軍装を見間違うとは思えず、彼らは今日の昼になってここへ来着したものと考えられた。要するに、パレビアはデロイに対し叛旗を翻したのである。ダ・プーが援軍を要請した属州はディネリアだけであり、今日この場に彼らがいるのはメディトリア側の手引きによるものと考えて間違いない。また、このことは第二軍団にとって衝撃的な事実といえたが、それを感じさせる反応はほとんどなかった。彼らはただ、ものを言うのを忘れたかのように森を見ていたのである。

「――増えたな」

 ダ・プーが、そう呟く。木々の背は高いが、密度は雑木林程度というその森の奥で、何かの影が窮屈そうに動いている。彼らはもう、姿を隠すことができない様子であった。その時、貴臣騎兵からふたたび伝騎があり、彼らを指揮している兵長からの言葉が伝えられた。すでに味方は分断され手勢小数なれど、我々はこれより各自の判断の下で戦闘継続に努めるものとする。以降、彼らからの連絡はなかった。

「キリア、アドリア、パレビア……。見事に揃ったな」

 木々の間に、軍旗がまばらな光を浴びつつ見え隠れしている。誰に聞くまでもなく、ダ・プーはその全てを識別していた。帝国の主要な属州から、オシアとディネリアを除いたものがその三つである。これらの騎兵たちは、どこかで合流はしたもののデロイ軍の攻撃が間近であると知り、急行したものと思われた。森の向こう側ではときおり土埃が舞い上がっており、遅れていた残りの軍勢たちも到着しつつあるようだった。第二軍団の半数はメディトリア軍と交戦しつつも、残りの半数はこの森へと槍の穂先を向けている。

 デロイ軍の士官たちはぴりぴりとした空気を張りつめさせていたが、兵卒には眼前で何が起きているのか判っていない者もいるようだった。本陣にはすでに大兵長の全員が集まっており、彼らはひとまずメディトリア軍の陣地に対する攻撃を中止した方がよい、とその意見を一致させていた。長年の戦友である彼らの、珍しく消極的な意見を聞いてダ・プーは苦笑する。つい先ほど本陣へと戻ってきたラボアが、汗と埃のまだらをその頬に浮かせつつ言った。

「……数が多すぎます。あの三州にこれほどの騎兵がいるとは、聞いておりません」

 もはや、眼前の森に納まりきれないその軍勢は、少なくとも二千騎を超えているものとおもわれた。三千騎、あるいは四千騎か、その中にはメディトリアの騎兵もいるようであったが、とにかくラボアには信じられない数だった。この三州は征服の上で大量の血が流されており、彼らを警戒する帝国によってその所有兵力は制限されていたのである。

「あくまで、報告された数字の上ではそうなる、という事か……」

 ダ・プーが、他人事のように軽い口調で納得する。デロイ貴族にとって、属州というのは単なる収奪の対象に過ぎない。自治領に関連する官職は枢軸貴族たちが独占しており、その背後にあるうまみについてはダ・プーもさほど詳しくなかった。つまり、眼前の状況からみるに、自治領の諸侯たちの保有兵力を管理することは相当の利権なのである。それに気づいたラボアが、血の気を失ってくらりとする。枢軸貴族たちの懐にどれほどのものが転がりこんでいたかは、ここにいる軍勢の規模を見れば明らかである。

「……ともかく、問題は数だな」

 ねっとりとした視線を森に注ぎつつ、ダ・プーは髭をしごいた。ようやく噴き上がってきた怒りをこらえるラボアは、言葉が言葉にならない。あの森の中にいるのが、まやかしでなく本当に四千騎もの軍勢なら、敵に背を向けるのはここで戦うより危険と思われた。また、もしそれが少数であるなら当然、メディトリア軍への攻撃を継続すべきである。ダ・プーは、どうしたものかと上空をよぎる雲塊に視線を投げかけていたが、唐突に本陣へ伝令が駆け込んできた。森に潜む集団から、自らをパレビア・アドリア・キリア・ディネリア連合軍と称する使者たちが、やって来ていたのである。

 ダ・プーのいる本陣は、すでに士官たちの輪の中心となっていた。彼らはそこへ通され、使者の一人が流暢なコノス語で述べ立てた。

「我々の下には、すでにデロイ帝国を敵とする五千騎ほどの勇者が集っており、残念ながらあなた方がいかに精強であろうと、すでにその勝機は砂漠の霧の如きものでしょう。我らには、帝国から独立することを条件として講和を受け入れる準備があり、軍団の方々が降伏されるならその安全は保障いたします。少なくとも、我々からの自発的な攻撃は明朝まで控えます故、速やかにこの件につきましてご検討頂きたい。また、これから我らの言っていることが真実である証拠をお見せいたしますので、くれぐれもお見逃しなきよう――」

 彼らが去ると、その森から聞こえていた音が消えた。直後、木々のあらゆる隙間から馬群が飛び出し、そしてデロイ軍の方へ突き進んだ。まるで、蟻の巣を壊したように湧いてくる騎兵たちが、長槍冑兵の前方を埋め尽くす。彼らはやがて左右に分かれ、朦々とした土煙を残しつつ森へ戻ってゆく。デロイ軍は、即座にメディトリア軍に対する攻撃を中止すると、全周囲へ防御の構えをとった。

 軍団の本陣では、ダ・プーの周辺に集まった大兵長その他の者たちが意見を具申し、さらに彼らの間でも議論が始まっていた。また、敵の集団に先ほどまで味方だったディネリア騎兵がいるのを見て、ラボアらダ・プーの側近たちは怒りに震えている。そういった騒然とした状況にありながら、しかし彼らは諤々と論じ合っていた。

 眼前にいる騎兵の大軍は確かに警戒すべき相手であるが、問題はその反対のことであった。要するに、敵がいつまでも攻撃してこないという、逆の状況もあり得るのである。彼らとて正面から戦って負けるとは思っていないが、前後から挟撃されるのは非常に危険であった。また、騎馬戦力を失った今は、敵の騎兵を攻撃する手段もない。自分たちが相手の立場なら、攻めると見せかけて軍団を充分に疲弊させ、敵が耐え切れなくなるのを待つはずである。その中で優勢だったのが、ひとまず営地に後退する案であった。

 この河畔でメディトリア軍と対峙していた間、彼らは敵の奇襲に対抗するため営地を二重の防壁と壕で囲い、要塞化していた。この営地には千人ほどが残って防備しており、物資糧秣もここに集められている。議論はやがて、殿軍を残しつつ段階的に後退するという方向に収束しつつあったが、ダ・プーはそれを遮って言った。

「――この現状をみて、有利な場所で敵を迎え撃ちたいという諸君らの考えは、たしかに理解できる。とはいえ、残念ながらそれに賛同することは難しいのだ。我々は、遠路はるばるやって来て、こうしてメディトリア軍をこの河岸へと追い詰めた。だが、それは同時に、我らにもまた安全な場所がない、という事でもある。営地に退いて持久したとしても、敵に後方を遮断されてしまえば、いずれは撤退するしかないのだ。我々は、多数の騎兵に脅かされながら、自力で撤退することになるだろう。帝都からの救援は期待できぬし、我らが馬より速く走ることもできん。オシアの村々は飢饉に瀕しており、糧秣の調達も難しい。この状況で、営地に戻れば事態が好転すると、なぜ言えようか。我々は、何としてもこの場に留まるべきであり、その結果として敵は窮地に陥るだろう。この戦場で、いま最も腹を空かせておるのは、あの森の軍勢である。この地に奴らの兵站線はなく、略奪する食料も見当たらない。だが、我らがここから去れば、あの者どもは河岸のメディトリア軍と合流して、飯にありつける。それこそが、おそらく敵の狙いだ。もし、諸君らが敵に包囲されておると思うなら、それは愚かなことである。ここに留まり、奴らを分断し続けるなら、勝利はおのずと我々の手に転がり込んでこよう――」

 異論をとなえる者は、誰もいなかった。それどころか、やや土気色だった彼らの表情から曇りが消えていた。軍団は、重装歩兵の大隊二つと若干の軽装歩兵を、即座に営地へ向かわせる。ここに陣地を築くための物資や、当面の食料を運ばせるためであった。

 彼らが営地に向かう途中、追ってきた敵の騎兵たちが姿を現した。デロイ軍は縦隊となって行軍していたが、その左右は冑兵の槍によって守られている。最後尾の隊が縦列の中央を通って先頭へ移動することで、全体が順繰りに前進していた。騎兵たちは機会を窺うように追跡していたが、デロイ軍に隙はない。進路にはコロヒス河の古い川筋があったが、彼らがその起伏を難なく越えると、騎兵たちは攻撃を諦めていなくなった。

 輜重を伴った二個大隊が戻ってくる頃、すでに塹壕が掘り始められていた。そして柵が設けられ、デロイ軍は夜通しの作業で陣地を完成させようとする。対面するメディトリア軍も同様に防衛線を強化していたが、その速度は明らかに軍団のほうが上回っていた。属州連合の騎兵たちは、その大部分が森から離れて野営しており、デロイ軍からは居場所がわからない。彼らは作業中に攻撃されることを怖れていたが、敵にその動きはなかった。

 そして地平線が白み始める頃、第二軍団の兵士たちは轟くような音を聞いていた。それは徐々に大きくなりつつ、時折なにかが転がるような響きが加わる。音がするのはコロヒス河とは逆の方向であったが、そちらには何も見えない。彼らはまだ暗いうちに騎兵を差し向け、何が起きているのかを探らせる。斥候たちが帰ってきた時、すでに夜は明けていた。

「――河が、流れている。確かにそうなのだな?」

 ダ・プーが、再度確認した。昨日から、軍団兵はみな一睡もせず働いている。この程度のことは彼らにとって日常茶飯であるが、それでも疲労の色は隠せない。その報告が何を意味するのか、理解できた者のしぐさにも若干の鈍さがあった。彼らはコロヒス河のほとりにおり、流域には古い川筋が残っていた。氾濫の多かったこの河は、オシアが属州化されたのちに治水工事で整流され、さらに所々で堤防が築かれている。ここの川上にはそういった堤防があり、さらに昔の川床が平行していた。それは、ここと営地との間を通り、下流へと続いている。もし、何者かが堤防を決壊させたなら――。一変した本陣の空気に、場違いな朝の清々しさが漂っている。

 この時点で、昨晩までそこにあったはずのコロヒス河には一割程度の水量しかなかった。兵士にそれを確認させると、ダ・プーらは周辺の地図を広げる。彼らは、元々オシアの大部分と地続きの南岸におり、そのまま下流へ向かえば帝都に着くはずであった。だが、今の位置はパレビアに近い北岸側へと移っており、近くに渡河できる橋はない。また、糧秣を集積した営地とも、河で隔たれている。

 その時、調査のため新たな河の下流へ向かったラボアが、帰ってきた。その流れは、さほど遠くない場所で従来の河へと戻っており、要するに川筋が完全に変わっていることが確認されたのである。それと同時に、メディトリア軍の居場所は河岸ではなくただの丘になっており、陣地による封鎖はその意味を失っていた。さらに、営地に戻るためには資材を調達して架橋する必要があるが、その作業を進めるにはメディトリア軍はもちろん、あの厄介な騎兵たちも排除せねばならない。もはや、第二軍団には守勢にまわるだけの食料がなく、それが無理なら渡河をあきらめて川下に撤退するしかなかった。だが、彼らのいるコロヒス河の北岸はパレビアの間近にあり、すでにその勢力圏内にいると考えてよい。そして、この属州パレビアは今まさに帝国へと叛旗を翻しており、彼らが第二軍団を黙って通す道理はなかった。必ずや、メディトリア軍とこの属州連合軍に加勢する者が来援し、生かして帰さじとばかりに攻撃してくるだろう。今は、ほぼ五体満足といえる第二軍団であったが、その戦略的状況は危険水域にある。どうなるにせよ、彼らが相当の犠牲を支払わなければならない事は確実といえた。

 この状況に対し、大兵長を含めた士官らの表情はさまざまであるが、敵がなぜこうも迅速に堤防を破壊できたのか、という疑問を呈する者はいなかった。程度の差はあるものの、堤防工事を施した河川はいずれ、川底が周辺の土地より高い天井川になる。当然の事として、そういった河は護岸されていても決壊しやすい。帝国においてそれは常識であり、彼らにとってこの事態は充分に予想可能だったのかもしれない。大兵長たちも、さすがに前向きな言葉が思いつかず、沈黙する。若い士官の中には、脱ぎ捨てた兜を地面に叩きつけ、悔しさに震える者もいた。まるで、真冬のように空気が冷たく感じられ、皆の吐く息がただ白かった。

「――奴らと交渉する」

 その時、ダ・プーが唐突に言った。

「使いの者を選び、準備しろ」

 ラボアへそれを伝え、ゆっくりと辺りを見回す。不意をつかれた大兵長、そして士官たちが顔を見合わせる。さらにダ・プーは、兵士を分けて休息させろと命じた上で、今しがた立てられた自分の天幕に入っていった。

 この場にいる誰しもが、呆然としていた。二転三転する戦況に、たしかに神経をすり減らしていた彼らであったが、その戦意はまだ喪失していない。それどころか、どんな苦境にあってもこの軍団が負けるとは思っておらず、つい先ほどもダ・プーが自分たちを叱咤激励するのを、心の底では待っていたといえる。

 彼方から空虚な風がやって来て、彼らの間を抜けてゆく。ようやく辺りがざわつき始めると、大兵長たちも慌てた様子で集まっており、本陣の目と鼻の先にあるダ・プーの天幕へ躊躇なく押し入った。付き合いの長い戦友であり、政治的にも派閥の盟友である彼らは、自分たちより若干年少ではあるが天才肌のダ・プーを担ぎ上げて、持ちつ持たれつの関係を保っているともいえる。ダ・プーを軍団司として上に置く彼らも、そういった微妙な力関係からか、批判にまわると途端に手厳しかった。帳幕が揺れるような勢いでダ・プーを難詰し、悪態をつき、考え直せと罵声を浴びせる。その激しい言葉は辺りの全員に聞こえていたが、彼らはそれを見守るしかなかった。当然、その心情は大兵長たちの側に属している。異様な雰囲気がこの本陣を中心に拡がっており、周囲には士官だけではなく兵士たちも集まり始めていた。



 必要な準備を終え、ラボアが天幕の中に入ってきた。そこには、すでにダ・プーしかいない。先ほどまでここにいた大兵長たちは、外で自隊の主だった者を集めて衆議している。普段から孤独を好むダ・プーではあるが、この状況においてもそれは変わっていなかった。だが、それが彼にとっての限界を示しているのか、それとも彼がこの事態すら手中に収めているという事なのか、側近中の側近といえるラボアにも判らない。彼が、軍使たちの用意が整ったことを報告すると、ダ・プーは静かに頷いた。その手元に今しがた書き上げられたと思われる文書が伏せられているのを見て、ラボアは背中に冷たいものを感じる。

 心中ではすでに、この交渉の結果を決めておられるのではないか――。胸の内にあるその勘繰りが、ラボアには真実のように思えた。大兵長たちは、当初の姿勢とは翻って、交渉の推移をまずは見守る方向で皆を説得しており、将士らの混乱は収拾されつつあった。軍団の首脳たちのこうした一連の動きに対し、ラボアが芝居じみたものを感じていないとすれば、それは嘘になる。あれこれと考える前に、彼は口を開いた。

「閣下――。本当に、これでよいのですか?」

 何気ない顔で、そう問いかけた。顔を上げ、ダ・プーがそちらに目をやる。しかし、彼が見たラボアのその眼差しは、まるで泣いている様だった。ダ・プーは、それをじっと受け止める。さらに、ラボアが言った。

「我々は、まだ充分にその戦力を温存しております。第二軍団には、この苦境の中でも敵を撃滅する能力が必ずあると、我らの誰しもが信じているのです……」

 軽く息を溜め、ダ・プーは長々とそれを吐き出す。間を空けて、彼が答える。

「――ならば聞くが、それを成した後はどうなる? おそらく、メディトリアに行って第一軍団を救ってくることになるだろう。それを首尾よく終わらせたとしても、今度はメディトリアを討伐しろ、となる。だが、我々とて不死身ではない以上、限界というものが当然ある……」

 その声は、表情にある苦々しさとは裏腹に、穏やかだった。

「命をかけて仲間を救おうとする者は、決して責任に怯むことは無い。お前のような者が、そうだ。だが、俺はそういった者を含め、全てを救わねばならん。それが、プルー・ダ・プーの責任というものだ。このままでは、いずれ敵と情け容赦なく殺しあう羽目になるだろう。それでは、まずい。交渉は、まだ優位にあるうちに始めねばならん。我々はあくまでも、奴らと交渉してやるのだ。それは、多くの者が望んでいる事でもある――」

 ラボアは、黙って聞いていた。その言葉の結果がどうなるのか、彼には判らない。そういった事をひとまず心の隅へ押しやって、ラボアは吐き出すように言った。

「……ですが、閣下はなぜ、それを胸に秘めたまま事をお運びになるのですか? 閣下のご心算に対する意見は当然あるとしても、全てが明らかになった上で納得しない者などおりません。この軍団の誰もが、閣下のお考えを拝聴したいと、そう思っているのです」

「――ふむ。貴様の言いたいことは判るが、それはできぬ。お前たちの心を、お前ら自身に折らせる訳にはいかんのだ。今は理解できんとしても、決して悪いようにはならぬと俺が保証する」

 ダ・プーがふと心を緩ませ、言った。

「正直なところ、だ。俺ですら、この状況が信じられんのだ。世の中というやつは、意外に悪くないものかもしれん――」

 視線をラボアに向け、にやりと笑う。だが、暗がりにあるその顔は無表情で、人外の獣のように捉えどころがなかった。


      †      †


 その後、第二軍団は帝都へ帰還するべく行軍を始めた。速やかに橋を架け、対岸の営地にいた人員と必要な糧秣を回収し、人気のない街道を急ぐ。そして、メディトリア軍の陣地には第二軍団の大兵長全員と、士官たち数百人が残っていた。彼らは、要するに人質であった。デロイに戻ったダ・プーたちが、メディトリアと属州連合の提示した条件で帝国議会へ講和を認めさせることが、解放の条件である。この売国行為ともいえる取引を、ダ・プーがどうやって将兵たち、そして平民派の貴族・富民らに承服させたかは、定かではない。もし、残された数百人に何事かあれば、ダ・プーはおろか平民派という貴族連合そのものが瓦解するのは間違いなく、これが彼にとって一世一代の博打である事だけは鮮明であった。ともかく、こうして彼らは帝都へ向かったのである。

 その頃すでに、デロイにいた他の軍団は属州の不穏な動きに呼応して兵を動かしており、帝都にはその一部が残っている状態であった。第二軍団はそこへ戻ってくると、武装した兵士を首都防衛の名目で城市の各所に配置した。さらに、貴族院で緊急の招集を行い、ダ・プーは彼らに対し動議を催したのである。属州ではすでに州民と治領官の衝突が始まっており、同時多発する事態の処理に奔走する枢軸貴族たちは、ダ・プーのこの動きにまったく対応できていなかった。彼の議案とは要するに、帝国属州の解放・独立と引き換えに宗主国としての地位を手に入れ、さらにその実行をもってメディトリアとの和議を締結させる、というのがその大筋だった。集まった枢軸貴族たちはそれを聞かされて驚きはしたものの、ついに正体を現したかとばかりにいきり立ち、壇上のダ・プーへ次々に罵声を浴びせた。

 ダ・プーがその提案の論拠としたのは、以下の三つだった。枢軸貴族たちはひた隠しにしているが、メディトリアの第一軍団はすでに退路を断たれて絶体絶命の窮地に陥っている、という事がひとつ。さらに、それを知った自治領の諸侯らがデロイに対して挙兵しており、いずれ帝国全土を覆う巨大反乱が勃発するであろう、という事がひとつ。そして、現在のデロイにはこの二つを同時に処理する力がなく、このまま何の妥協もなければ近い将来その両方を失うであろう、という事である。

 また、第二軍団はどういう事か、オシアの戦いにおける勝利者として帝都に凱旋していた。逆に、彼らに随行するメディトリアと属州連合の使節たちは、連れてこられたという体である。これらの偽装・捏造については、ダ・プーが交渉の折に付け加えたものであり、彼らもそれを承服していた。つまり、第二軍団はメディトリア軍と属州連合軍に対し勝利を収めたが、それと同時に枢軸貴族たちが隠蔽していた第一軍団の危機を知り、彼らを救うために止むなく今回の動議を行った、という筋書きを描いたのである。

 当然、枢軸貴族たちはそれらを全てを否定した上で、ダ・プーを裏切り者と呼んで激しく非難した。そして、これを聞いた帝国の市民たちは寝耳に水とばかりに驚き、情報はまたたく間に広まった。この両者に確証はなく、デロイの世論がどう反応するか予断は難しいといえる。とはいえ、彼らの視点からも枢軸貴族対平民派という対立軸がはっきりと見えており、ダ・プーの捏造行為は杜撰だが効果的でもあった。また、第一軍団の件について、枢軸貴族は共犯者に後ろから刺されたも同然であり、彼らの反論も歯切れが悪い。そういった不明瞭さにデロイの民衆は憤懣を募らせ、世論はダ・プーの思惑通り平民派へと傾いていた。しかし、彼ら民衆は今回のメディトリア戦役を支持していた筈であり、それは自覚のない責任転嫁といえる。ダ・プーたちがオシアで勝利したということは、デロイの民衆にとっても都合のよい事実であった。

 オシアの交渉において、ダ・プーが付け加えた条件は他にもあった。彼は、全ての属州に対し、独立と引き替えにデロイを中核とする同盟連合に加入する、という事も認めさせていた。だが、議会においてそれは宗主国の地位として説明され、ここでも彼は虚偽を述べている。属州連合の使節らはその場に居合わせていたが、ダ・プーの要請通りそれを指摘しなかった。

 さらに彼は、メディトリアとも密約を交わしていた。それは、互いが口裏を合わせて情報の誘導を行い、第一軍団がすでにメディトリアで降伏していると、属州の諸侯らにそう思い込ませる事であった。そして、彼らは完全に騙された。メディトリア側がこの謀議へ応じたのは、ダ・プーの駆け引きが巧みであったと同時に、彼らにそれを拒絶する余裕がなかったためとも思われた。

 コロヒス河畔での交渉に参加した諸勢力は、例外なく何らかの妥協を強いられており、その勝者が誰なのかは明確でなかった。少なくともダ・プーは、自分が勝ったと思ったであろう。とはいえ、彼を含む平民派の全員が、属州に少なからず治領を持っており、枢軸貴族との決着のために涙を呑んでそれらを捨てたのである。この密約により、属州ではデロイ軍団が事実上壊滅したと認識され、それは州民たちに伝わって途方もなく膨張してゆく。やがて、彼らは手のつけられない暴徒となって、属州は火だるまに燃え上がった。ダ・プーの言葉は現実のものとなり、帝国の領官らとその家族、その他デロイから派遣された者たちが、続々と本州へ逃げ始めた。

 そして帝都では、枢軸貴族たちが機能不全に陥っていた。民衆たちへの声明もなく、かといって何かを決定するわけでもなく、ただ私領をこの混乱から守るため奔走している。デロイ帝国の命運は、ここで決まったのかもしれない。第一軍団からの連絡はすでに途絶えており、彼らはその無事を信じるしかなかった。軍団の自力帰還にしか期待できないのが、帝都の現状といえた。枢軸貴族は、その当主たちの多くがメディトリアの檻に閉じ込められており、彼らの判断力も鈍っている。

 ガルバニアの諸都市と集落、そして農場など様々な場所が、属州から逃げ帰る人々で混乱し始めていた。徐々に都へと迫るそれは、彼らにこの帝国の終わりを思わせる暗い陰だった。この状況で、民衆たちはダ・プーをさらに支持するようになり、それは恐怖の裏返しといえる。また、第一軍団の兵士たちの家族の中には、公然と枢軸貴族を非難する者も現われ始めていた。そういった群集に取り囲まれる危険があるため、枢軸貴族たちは次第に街中を歩くことすら難しくなってゆく。

 彼らは平民派への牽制として、属州へ向かった第三、第四、第五軍団の一部を呼び戻し、都を占拠する第二軍団の軍兵へ対抗させたが、この措置はガルバニアの混乱をさらに加速させた。ダ・プーはそういった動きに武力で応じることはなく、あくまでデロイの法に従って帝都を防衛している。とはいえ彼がその気になれば、民衆の人気に乗じてこの帝都を乗っ取ることも可能と思われた。枢軸貴族たちは、貴族院の議決によってこの第二軍団を帝都から遠ざけることもできたが、ダ・プーはそれに対し武力蜂起という最後の手段をちらつかせて威嚇していたといえる。そういった圧力に曝されながら、それでも枢軸貴族たちはダ・プーに対し妥協する様子はなかった。彼らは当然、第一軍団の健在を堅く信じており、連絡が回復すれば状況は一変すると思っているのである。ダ・プーの優位はあくまで嘘で塗り固められた虚像であり、その意味で確かにそれは正しかった。

 だが、吉報を待つ彼らも、徐々に状況の恐ろしさを感じ始めていた。嘘を嘘のまま放置していると、それが少しずつ真実になってゆくのである。つまり、枢軸貴族たちはこれまでの自身の所業と対面しており、そして追い詰められていた。第一軍団は、本当に帰ってくるのだろうか――。その不安を、誰もが徐々に感じつつあった。事あるごとに、大会堂や議会で平民派と激しい舌戦を繰り広げてきた彼らにも、疲れが見えている。

 そして、彼らの崩壊はその構造の下部から起こった。まずは、その支持富民たちがぽつぽつと、櫛の歯が抜けるように離反し始めた。そもそも、この富民たちが所有する治領は少なく、第一軍団にも参加していない。実際のところ、彼らが枢軸貴族の支持にさほど固執する理由はなかった。さらにそれを見て、下層の貴族たちの心もぐらつかせていた。大貴族たちは、自分たちの政治的優位さえ保つことができれば、大きな出血にも耐えられるだろう。国権の中枢から滲みだす汁とは、それほどに甘いのである。しかし、規模の小さな貴族は競争が激しく、簡単に没落してしまう。これから先、メディトリアの討伐を終え、属州全土の反乱を平定するまでに、彼らがどれほど大貴族たちに使役されるであろうか。さらに、それを下支えする富民たちも消え去ろうとしている。やがて彼らは、隠れるように平民派の門を叩き始めた。また、この不安は中流の貴族たちにもあった。大貴族ではなくとも、その規模は平民派の中に入れば、立派な大粒である。派閥の領袖たちに使い古されてたまるか、という自負が彼らにはあった。そして、離反の波がこの層にまで来たとき、山が動き始めた。ダ・プーら平民派が確保した票数が、貴族院の議決が可能な水準に迫ったのである。それはまだ水面下の動きであったため、気づく者はまだ少ない。二百年もの長きにわたって、この帝国を支え続けてきた枢軸貴族であったが、こうして彼らが崩れてゆく様子は淡々としたものでもあった。さらに、ダ・プーは絶対安全圏まで票が集まるのを待った上で、ついに貴族院へ政案の議決を求めた。

 彼らのその後の動きは、迅速だった。帝国の谷の周辺を自派の軍兵で固め、ぴりぴりとした空気の中、ダ・プーは自らの政案をその日のうちに国令として成立させた。この瞬間、デロイの帝国体制が事実上崩壊したといえる。枢軸貴族たちは、この様子をただ呆然と見守るしかなかった。

 皇帝ルグドネクシス三世が、文書として発布されたそれをダ・プーに受け渡す。その胸には言い表しがたい感情があり、彼の身体と腕が小刻みに震えている。故郷であるガルバニアを守り、メディトリアにいる十万人以上の同胞を救うため、帝国の手足を切り落としたに等しい選択であった。だが、本当にその必要があったのかという問いが、彼の心に深々と刺さっている。属州の獲得に酔いしれ、貪るようにそれを餌食とするデロイの感覚は、完全に麻痺していた。その責任を、誰に求めるべきだろうか。貴族院に召集された枢軸貴族たちは、平民派の集団へまるで汚物を見るような視線を向けている。それは平民派の者たちも同様であり、この場にいる全員の表情が、自分以外の誰かのせいだと言っていた。当然その思いは皇帝自身にもあり、そういった正体のない曖昧さを彼は呪った。

 国令の発布は、直ちにコロヒス河畔のメディトリア軍と属州連合軍のもとへ知らされた。これをもってデロイ帝国は、全属州の独立ならびにメディトリアとの講和を、その関係諸国と締結する事となった。帝国の巨大な版図は過去のものとなり、そこにはいまだデロイ帝国を号する小帝国と、彼らを盟主とするパレビア・アドリア・キリア・ディネリア・オシアの五つの同盟国だけが残っていた。

 この連合はその後、軍事ではデロイの陸軍力とラニスの海軍力を中核に同盟域を防衛し、経済では商業的団結によって各国の産業を保護する共同体として発展するに至った。彼らの盟約は『デロイ同盟』と呼ばれ、様々な政策の共有による地域の安全保障と経済発展を全体の目標として、今ここにその始点が定められたのである。

 また、それはデロイとメディトリアの紛争に終止符が打たれたという事でもあり、この両者には均衡と平穏がもたらされた。デロイの人々がメディトリア戦役と呼ぶ一連の戦争は勝者を生み出さなかったが、しかし全く不毛なものでもなかった。彼らにとっての一つの時代が、こうして終わりを告げた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る