【第八章】檻


 メディトリアは、すでに夏を迎えていた。山吹色に降りそそぐ日差しが、陽炎となって大地を溶かしている。海から隔たった内陸部特有のこの暑さも、いずれは峠を過ぎる筈であるが、それが下ってくる気配は今のところ微塵も感じられなかった。

 だが、そんな中でも戦役への備えは着実に進んでおり、その規模は総動員体制に近い。領家の当主たちが王に対し挙国一致での国土防衛を誓約すると、民衆の間にくすぶっていたデロイへの敵愾心はふいごで吹かれたように煽られていた。

 無論、この国の誰しもが事態の穏便な収束を望んでいたが、それはすでに過去の事である。踏みにじられた彼らの期待は逆流し、怒りとなって人々を駆り立てた。それは、慎ましさや忍耐や寛容という美徳で抑えられていた排他的衝動が、帝国という淫婦によって誘い導かれている様でもあった。敵の標的となる事が予想される三つの家都は念入りに防備が固められ、食糧の備蓄にも余念がない。

 メディトリア側の予想では、デロイ軍の到着は遅くとも秋という事だった。オシア大蜂起と呼ばれた反乱は第一軍団によってほぼ鎮圧され、ノクニィ峠に最も近い街カリナソスには、オシアでの任務を終えた諸部隊がすでに集結を始めている。

 デロイ本州のガルバニアでは、民会の投票によってメディトリア戦役の実行が承認され、彼ら自身も戦意を高揚させつつあった。オシア州におけるメディトリア軍の裏切り攻撃や、帝都でイド・ルグスが引き起こした事件について、デロイ市民の大部分はそれを事実として受け止めている。そうした認識の影響も当然あるが、それ以上に彼らを後押ししているものは、枢軸貴族たちに誘導された楽観的な世論であった。

 確かに、ダ・プーの改革によって平民たちは発言権を得ていたが、こういった情報操作にはまだ免疫を欠いている。いかに強い力を得たとしても、使い方を知らなければ役には立たない。他人からそれを与えられた彼らは、なおさら貴族たちの思惑通りに操縦されるばかりであった。

 そして、夏の日差しがようやく陰りを見せる頃、集結を終えた第一軍団はついにメディトリアへ向けて兵を発した。討伐について事前の布告といったものは一切なく、それは以前の戦役においても同様である。こういった倫理に乏しい侵略へ対し、それを野蛮と非難する国際社会というべきものは、この世界のこの時代には存在していなかった。

 国境にひしめく第一軍団の将兵は八万人に達し、その総勢では十万を優に超える。先遣の部隊がまずノクニィ峠に到着するが、メディトリア側の守兵は彼らを見ると、砦をすてて一人残らず逃げ去った。敵地への入口を確保し、易々と険しい峠を越えたデロイ軍は、開けた場所を見つけると橋頭堡となる拠点を築き始める。だが、彼らの主力となる軍勢は、その完成を待たず家都ダルカスへと向かった。

 メディトリアの領土は、ヒメル川流域とアブネ川流域で大まかに二分される。ダルカスはアブネ川流域への入口であり、三領家の一つであるダルキア家の都であった。ノクニィ峠を越え、ヒメル川流域の下端へ侵入したデロイ軍はダルカスを包囲し、交通の要衝であるこの都市の攻略を試みる。だが、街の背後はデファニノ山系から下ってくる急流に守られ、正面には幅広の濠と高い城壁があった。前年の戦役においても、第一軍団はこの都市の堅牢さを見て取り、迂回してカシアスへ向かったのである。そして、様子見の攻撃を数度行ったうえで、その防備がさらに強化されているのを知った彼らは、ひとまず情報の収集に専念しつつ橋頭堡の完成を待った。

 彼らがこの国に足を踏み入れてから見た、どの村邑にも人影はなく、またどこを探しても食料になりそうなものはなかった。耕地の作物もすべて刈り取られ、間もなく秋が訪れるとは思えぬ荒涼とした様子である。その徹底ぶりは、オシア征伐を終えたばかりの軍団兵から、今年中には故郷へ帰りたいという望みを完全に奪うものであった。メディトリアの領民は、おそらくその大半が家都に避難するか、山林深くに潜んでいると思われた。

 第一軍団はしばらくダルカスを包囲していたが、やがてメディトリア側の軍勢と思われる集団がヒメル川方面へ進出した部隊によって発見された。デロイ軍の軍団司ハニアスは情報が集まるまで慎重に待ち、幕僚を集めて軍議を行った。その規模については二万人程度と見積もられ、カシアス近郊に集結するその集団を、彼らはメディトリア側の主力軍と判断した。ダルカスの攻囲を継続しつつアブネ河流域からの敵を遮断するため、四つの大隊を残して彼らはヒメル川流域へと進軍する。前回の戦役と同じ轍を踏まぬよう、彼らは用心深い行動を心がけていたが、こうしてその方面に主力部隊を差し向ける様子からは、このまま会敵して雪辱を晴らすという意図が透けてもいた。

 とはいえ、その彼らにも不安は当然あり、特に『抱鉄』への対策は急務であった。軍団の歩兵たちは兵器に対する防御機動を教え込まれ、行軍の合間にもその訓練は続けられていた。ただ、防御機動とはいっても、兵器を持った敵から狙われた場合には、隊全体を後退させ、それが投擲される瞬間にあわせて駆け足で前進する、という非常に簡単なものである。この方法論に対する心許なさは多分にあるものの、そうした準備は兵士たちの恐怖心を和らげていた。しかし、カシアスの戦いによってこの軍団は人員の大半を失っており、兵器の真の恐ろしさを知る者は少ないといえる。

 その相反する感情を内包しながら、帝国社会の縮図ともいえるこの軍団は、徐々に敵へと近づいてゆく。しかし、周囲を警戒しつつ前進する彼らに対し、メディトリア軍もまた緩慢に後退していた。やがて、ヒメル川の南岸をじりじりと西に遡上する両軍はカシアスに接近する。この状況に、デロイ軍の幕僚はメディトリア側がカシアスの森で再びの決戦を挑んでくるのではないかと期待し、兵卒たちは家族への便りを念入りにしたため後退する輜重の荷に託す。だが、緊張を高める第一軍団を誘うように後退していたメディトリア軍は、カシアスの近郊をつるりと通過すると、そのまま北のヒメル川に向かう。そして、彼らが家都の目前にある橋を渡ると、第一軍団はその姿を見失った。敵との交戦を避けつつ情報を収集していたデロイ軍の先導部隊も、この状況で橋を通ることは出来ない。家都カシアスとヒメル川の二つを隔て、友軍から孤立することは自殺行為である。

 軍団司のハニアスは難しい判断を迫られるが、即座にカシアスへ対し囲郭を築かせ街を封鎖した。その上で部隊を渡河させ敵軍の行方を追わせるも、彼らはすでに消え去っていた。とはいえ、その軍勢の行方は不明ではあるものの、橋を渡れば王都エスーサへは数日で到達できる。軍団の幕僚たちは、メディトリア軍の意図を王都周辺での決戦と推察し、ハニアスに進言した。戦役を早期に終結させたい帝国側の心理を利用し、各家都の包囲に兵を割かせた上でエスーサまで誘い込み、軍団の本隊を撃滅するというのが敵の目論見と考えられた。確かに、これまでの推移はその筋書き通りである。だが、デロイ軍にとってもこれは望むところだった。

 彼らがカシアスまで遡上する間に、後方で動かすことのできる兵はすべてこの主力集団に呼び寄せられており、街の包囲を継続したままエスーサに向かったとしても、軍勢の数は六万人を下らない。およそ三倍の兵力差で、彼らが決戦を避ける理由は何ひとつ無かった。軍団司ハニアスは、眼前の橋を渡ってエスーサへ向かう事を決定した。

 そして五日の後、彼らはエスーサを直接見ることのできる丘の上で止営する。周囲に敵の軍勢は発見できず、また警戒していた待ち伏せ攻撃もなかった。メディトリア側の反撃を数で揉み潰す覚悟でやってきた彼らは、戸惑いを隠せない。さらに、丘の上から見る王都エスーサに人気は微塵もなく、優雅な七つの城塔がただ立っているだけであった。この異常な状況に対し、ハニアスは背後に残した部隊を増強するため、急いで兵を送ろうとする。だが、これ以上軍勢を分割することに、幕僚たちは強く反対した。その結果、思い直したハニアスは、ひとまずエスーサの攻略を行いつつ、メディトリア側の出方を試すことを決定する。王都の周辺に何らかの罠がある可能性は、承知の上であった。

 確かにデロイ軍は、数の上では圧倒的な優勢を誇っている。しかし、敵の精鋭騎兵との遭遇を恐れる彼らの索敵範囲は狭く、その利を充分に発揮しているとは言いがたい。また、メディトリア軍との野戦を警戒して大集団で移動するため、その動きはどうしても鈍くなる。ゆえに、後退する敵に対し積極的な対応ができず、こうして相手の出方を待つ結果となった。もし、彼らがもっと柔軟な用兵をしたなら別の展開もあり得たであろうが、そういった選択肢は全て、自身の慎重さによって封じられたのである。敵襲に備えて警戒線を張りめぐらせた第一軍団はやがて、果実に群がる蟻のように王都を取り囲んだ。


 エスーサの城壁の上に、イド・ルグスはいた。眼下のデロイ兵を覗き見て、彼はその表情を緊張させる。敵は昨日と同じく、遠方の丘に築いた営地から軍勢を繰り出し、隊伍の帯で王都を包囲していた。だが、その距離は明らかに近くなっている。

 いよいよ、乗り込んでくるか――。彼はそう思うと同時に、己の強運に感謝していた。退去の準備は、すでに完了している。ふり向いたイド・ルグスの見る市街は、廃墟のように静まりかえっていた。このエスーサに留まっている者は彼と王、そして家宰とわずかな王の輩だけである。当然、帝国軍はそういった状況に気づくであろうが、それでもここを完全占領しようとするであろうと、予想済みであった。都の住人や周辺の領民、大部分の王の輩は、戦役の準備が始まると同時にカシアス、ダルカス、アビウズの各家都へと分散して避難しており、ここは要するに放棄されていたのである。その決断の理由は一つではないが、戦役の早期決着を望むであろう第一軍団が、この王都に攻撃を集中させることを見越しての対処であった。エスーサの防備は他の家都に比べ脆弱であり、狙われれば救援が必要となる事は間違いない。その結果、自軍は行動の自由を奪われ、主導権を手放すことになるだろう。だが、そういった事態はこうして回避され、ここまでのイド・ルグスの策戦には、ほぼ狂いが無い。今の彼にとっては、この王都といえど何かとの比較が可能な事象のひとつでしかなかった。

 そして、彼がここに居たのはその狂いに対するためだった。この国において帝国側と明確な面識を持つ者は、かつて帝都に滞在したイド・ルグスだけである。第一軍団を確実にここへ誘き寄せるため、彼自身が餌になるつもりであったが、その必要はすでにないものと思われた。普段は感情の起伏に欠けるイド・ルグスといえど、望みうる最善の展開を得られた今、その心は穏やかではない。

 だが、その昂りもこれからやるべき事を思えば、徐々に醒めてくるのを感じる。隧道で城外に脱出した後は、王と供の者を連れて速やかにギラメラ門へ向かわなくてはならない。王はイド・ルグスに対し、自らを随行させるよう命じていたが、彼女がここにいる事には別の理由もある。王都を放棄するなら、聖密院が敵に占拠された場合に備え、宝物その他の品々を運び出すことはもちろん、院の各所を儀式的に封印して還俗せねばならない。その責任者として残ったのは、王と家宰だった。そして、務めを終えた二人は、今もここに留まっている。都から北の森へと伸びる隧道は、彼ら王の輩が以前から使用してたものであり、イド・ルグスも今回の戦役で初めてそれを知った。その出入口は簡単に見つかるものではないが、軍団の将兵がこの都市になだれ込む瞬間に脱出するのが、最も安全と思われた。あとは、その時を待つばかりである。

 城壁の外は、凍りついたように静かだった。イド・ルグスが耳をそばだてる。街中から、ごみをあさる鴉たちの鳴き声だけが聞こえていた。

 ――来る。そう確信した時、彼の姿はすでにそこから消えていた。滑るように側壁を降り、大聖門へと急ぐイド・ルグスの背後で、甲高い号令が響き始めた。


 こつこつと足音を響かせ、小さな人影が歩廊を急ぐ。聖密院には、普段から異世界のような趣があるが、いまはその時間が止まっていた。辺りの庭木が尽きると、その先に石造りの玄門が現れる。ダナ・ブリグンドは、衛士のいないその門へ早足で近づいた。だが、柱の影から不意に男が現れ、道の中央に立った。

「――これは、陛下。こんな時に、どこへ行かれるのか」

 家宰、サンク・タルムだった。すでに先ほど、イド・ルグスによって退去の準備が促されている。特に驚いた様子も見せず、ダナは歩みを緩めつつ言った。

「タルム、聞きたいのは私もだ。お前が、まだここにいる理由をな――」

 表情を動かさず、そう言う。この門の先には、王陵の入口があった。

「それについて、ご説明する必要はないでしょう。そもそも、伝書をここに残すことを許可なされたのは、陛下ご自身でございます。わたくしは、せめて退去の瞬間までこの玄門に留まる所存。万に一つの間違いが、起こらないとも限りませぬ」

「その間違いとは、こうして私がやって来ることか?」

 間を空けず、王が答える。棘のある言葉だった。王陵にある伝書の存在を知る者は、彼女と家宰、そしてイド・ルグスの三人だけである。エスーサを放棄するにあたって、当然この書についての対応も必要であった。しかし、他の宝物とは違い、運び出すという事は諸々の事情から不可能であり、それは今も王陵にある。羨道から石室への入口、そして石室から玄室への間口に、それぞれ入念な擬装を施した上で石室に囮の棺を置いて、二人は伝書の隠蔽作業を終えていた。様々な制約の中で、それは精一杯の対処といえた。

「――陛下は、このエスーサをいとも簡単に敵へお与えになりました。誠に遺憾ではありますが、王陵を守ることにも執着しておられません。ならば今は、わたくしが最後までここにいるべきかと存じ上げます」

 慇懃な中にもふてぶてしい表情を見せながら、家宰は答える。乾いた視線を交わし、王が言う。

「要するに、信用できないということか。だが、私とて手は充分に尽くした。これ以上、何を望むというのだ?」

 彼女の尖った声に、家宰も語気を強める。

「望むも何も、全ては陛下ご自身から始められた事でございましょう。王家の神威をこれ以上損なうお積もりなら、わたくしも黙ってはおれません。我が身を呈しても、あの聖典を護りぬく覚悟でございます」

「ほう、ようやく本音が出てきたな。だが、身を呈すとは何かの間違いではないか。お前なら、もっとうまいやり方を知っておろう。父上の最後を見れば、それは明らかだ――」

 王の声が、冷め切った空気に響いた。身じろぎひとつせず、家宰は王へその視線を向ける。氷像のような静けさを漂わせ、そして答えた。

「――これは、心外なお言葉を頂きました。輪神の思召しにこそ、わたくしは仕えております。王とはいえ、その声の前ではただそれを聞き、長らうなら生き、さもなくば死すのみ。わたくしに、いったい何ができるというのでしょうか」

「確かに、貴様は何もしなかった。あの日、少数の供を連れて戦場の地形を確認していた父は、偶然その場で遭遇した敵の矢を受けて絶命した。これらの状況については、はっきりしている。だが、当日の明け方に、道を誤ったとおぼしき敵の集団がカシアスの森に接近しつつあるとの報告があったそうだ。そして、その情報は森へ向かう父に伝わる前に、どういう訳か消え失せた。これについて、何か思い当たることはないか?」

「……そのようなことを急に仰られても、返答は致しかねます。お言葉ですが、少なくともわたくしはそういった事実について把握しておりません。その根拠となる事柄に関して陛下がご存知であるなら、なぜわたくしにご相談頂けなかったのでしょうか?」

「ふん、白々しいことを。王の命に執着のない貴様を信用するほど、私の心は広くないぞ。今はもう、お前がどうこうできる状況ではない。ここで伝書の番をするより、せいぜい自分の事でも心配していろ――」

 王が、そう言い放つ。だが、挑発的なその言葉に、家宰は何の反応も示さない。互いの視線には、もはや敵意しかなかった。もし、ここで大地が真っ二つに裂けようとも、どれほどの影響を彼らに与えうるだろうか。そのような空想を、さほど滑稽とは感じぬだけの重みが、この空間を満たしている。

 その時、遠くから声が響いた。何と呼んでいるかは判らない。王が、短く息を吐く。緊張の焦点をずらした二人に、声の主が近づいてくる。イド・ルグスであった。

「――――陛下、家宰殿。今すぐ、ご退去を……!」

 大きく息を吸い、そこで言葉を切らす。気づけば、王都の澄んだ空は微かなざわめきを漂わせている。その様子を感じ取り、家宰が口を開いた。

「陛下、この者と先にお行きください。わたくしは、囮として最後に逃げましょう」

 そう言いつつ、頭を垂れる。手筈どおりの順番であった。視線を浴びせつつ、王は無言で踵を返す。だが、共にその場を去るイド・ルグスの耳には、家宰のつぶやきがはっきりと聞こえていた。

「……全く、不憫な男だ。愛する者を殺されたことに、気づいておらぬとは――」

 イド・ルグスの足が止まった。だが、その言葉が己に向けて発せられたものではないと察し、何事もなかったかの様に歩いた。もし時間の猶予を読み違えたなら、と思うと気が気ではなく、急かすように王を追う。だが、次第にその足が重みを増し始め、一歩が鈍くなる。やがて、彼は気づいた。――先ほどの言葉は、私に対するものか。

 全く、不憫な男だ。愛する者を殺されたことに、気づいておらぬとは。愛する者を、殺されたことに――。

 イド・ルグスは、悪い予感を覚えた。ぞくぞくとした悪寒が、彼の肌を這う。

 ――ユノ。ユノのことか。

 そう思い至り、前を進む王を眼で追った。それは、彼にとってもすでに、過去の記憶となりつつある。家宰の声は、彼女にも間違いなく聞こえた筈だった。しかし、その姿は何の反応も示さない。立ち止まることも、言葉を発することもなかった。次第に、王の歩みは速くなる。足元の歩廊が、いつまでも続いていた。


 隧道を抜けたイド・ルグスは、王とその供を連れて東に向かい、そして家宰たちは逆方向へと逃亡する。デロイ軍がその動きに気づく事はなく、彼らの追跡もなかった。王都を占拠し、すぐさま全ての大兵長と幕僚たちを集めた軍団司ハニアスは、敵軍の居場所を彼らに推測させる。その結論を聞き、彼は地団駄を踏まんばかりに感情を昂らせた。

 エスーサの周辺にメディトリア軍を発見できぬ以上、彼らは川下へ向かったものと思われた。その先には、ダルカスを包囲する友軍と橋頭堡に配された諸部隊がおり、敵軍の主力集団に襲われれば、数量的にほぼ互角の戦いを強いられるだろう。だが、メディトリア側がそう行動したなら、時間的に考えるとその知らせはもう届いている筈であった。デロイ軍の後方部隊にとってこの状況はあくまで想定内であり、ある意味で彼らは待ち構えていたのである。ならば、敵の目標は別にあると判断するのが妥当であり、彼らが姿を消してからの時間経過を勘案すると、その場所はメディトリアの中にはない。つまり、その外である。敵の軍勢がそこへ行ける経路は、ただひとつ。現在においても彼らが保有している関門、ギラメラ門であった。

 難攻不落の要塞であるこの門には、戦役の開始から間もなくオシア側とメディトリア側にデロイ軍の部隊が配され、両方面から封じ込めが計られていた。だが、これらの部隊は、軍団の本隊がエスーサへ到達する頃には所属元の大隊へと呼び戻され、少数の見張りだけが残されたのである。これは、エスーサに接近する軍団本隊が自らを増強するため、ドミノ式に部隊を前進させた結果でもあった。つまり、メディトリア軍にその経路を与えたのは彼らであり、王都の周辺に目を向けすぎた事がその原因といえる。しかし、そう述べたてた幕僚たちの表情は、ハニアスとは対照的に平然としていた。

 仮に、後方をメディトリア軍に遮断されたとしても、味方がノクニィ峠を確保している以上、補給を含めて互いの条件は五分。時間が経てば、敵はデロイ本州からの増援と自軍に挟撃される形となり、持ちこたえることは不可能である。もし、敵が別方面へ進出するなら、後方の部隊に追撃させればよい。それが、幕僚たちの意見であった。その上で、彼らはメディトリア側の行動を愚策と笑う。その後、ハニアスは軍団の本隊を橋頭堡まで戻すことを決定し、後方の部隊にはオシア州へ行き敵の居場所を探るよう命じた。そして彼らは、すぐさまエスーサを発った。


 その頃、ノクニィ峠を守る帝国兵の前に、敵と思われる集団が姿を現していた。峠にある砦からオシアに目を向けると、そこには遮るような丘陵がある。やって来た軍勢は、その丘の上に留まり眼下の砦を俯瞰した。とはいえ、慌てて守備を固める砦のデロイ兵に比べ、その数は少ない。

 帝国軍の占拠する砦は、峻険な山の帯を切り通したような場所にあり、両翼ぎりぎりまで垂直の岩壁が迫っている。その壁の片側には、塔のような岩山がそそり立っていた。やがて、丘の上から物見らしき五、六名の従士が走り下ってくると、その山の付近に埋まる石塊を盾にして身を隠す。その様子を見て、砦のデロイ兵は丘の上の集団がメディトリア軍であると、ようやく確信する。だが、帝国領であるオシア側から敵が来たことに、峠を守る彼らも戸惑いの色を隠せない。

 物見たちの何名かは石の陰から砦を窺い、辺りに生い茂る箒草のせいでその姿はよく見えない。峠のデロイ兵たちは警戒を続けるが、彼らは丘の上のメディトリア軍を単なる斥候と判断していた。敵の本隊がここに到着するのを見越し、すでにメディトリア領内の味方へ救援を要請する伝令を走らせている。彼らは、あくまで待つつもりであった。

 やがて、物見たちが隠れていた岩から小さな呻きが聞こえ、激しく咳き込む声が響く。その岩陰から、薄墨のような煤煙が漏れているのが見えた。やや間があり、物見たちが弾けるように駆け出した。砦の方には目もくれず、彼らは滑稽なほどの逃げ足で斜面を上ってゆく。そして丘の上にいた者たちも、じりじりと後退して稜線の陰に隠れた。

 デロイ兵たちが、丘を駆けあがる男たちを何事かと見る。息を切らし足を鈍らせた彼らは、やがて腰丈まで生えた草を手で掴みつつ進むが、夏の青草は抜けるばかりで何の役にも立たない。その様子に、峠の守兵たちが緊張を緩ませ甲高く笑った、その時――。

 怒涛のように、砦の側面から土砂が噴出した。膨大な量の礫塵が飛び散り、宙を舞う。砦とその周辺が、茶褐色の中に消えた。地面に刺さるように、石と土の雨が降り注ぐ。そして岩山の根元にぽっかりと空いた穴が見え、次の瞬間その上の岩盤が崩れおちた。石の塊はあっけなく消え、山の露出面がさらになだれ落ちる。連鎖的な崩落は数度続き、そのたびに濃い塵雲が丘をかけ上った。それが止むと、そびえ立っていた岩山は半ばまで瓦解していた。ばらばらと転がる石の音が、麻痺した聴覚の中で跳ねている。

 ――砦が、完全に消えていた。その場所には、岩盤の巨大な切片が無残にも積み重なっている。丘にいるメディトリアの従士たちが皆、無表情にそれを見ていた。大地に散らばった石塊の群れは、まるで墓標のようだった。視線の先にある光景をしばし見つめ、やがて彼らはその場を去った。


      †      †


 カシアスの北でその姿を消したメディトリア軍は、すでにギラメラ門を通過してオシア州にいた。そして、デロイ側が占拠していたノクニィ峠には、兵の家の従士たちが事前に大量の抱鉄を埋設しており、それは峠にやってきた彼ら自身の手で点火された。その威力は、作業を指揮したシュマロたち士隊長の想像をはるかに上回るものであった。

 岩山を構成していた岩盤は波動の良質な伝導体であり、抱鉄の爆轟がその内部に反響することで結合層の劣化が進み、あれほどの崩落が起きたのである。それは、単純な爆発力によって生じた結果ではなく、奇岩自体の不安定さもその一因といえた。

 そして、砦の守兵は一人残らずその下敷きとなり、ノクニィ峠は通行不能となっていた。メディトリア領内の第一軍団は外部との連絡を断たれ、孤立する。当然、オシアからの補給も途絶える事になり、彼らには手持ちの糧秣しか残されていない。第一軍団は十万人を超える人員を擁しており、橋頭堡へ大量に集積された物資も、多く見積もって数十日分しかないものと思われた。

 だが、メディトリア側の意図は、彼らの補給を断つことではなかった。首尾よく峠を遮断できたとしても、第一軍団が全力でその復旧にあたれば時間稼ぎにしかならない。そして、それがイド・ルグスの狙いだった。メディトリア軍の目的地は、帝国の属州である。各隊がそれぞれの州へ進軍し、駐屯するデロイ兵を駆逐する。その後、自治領と属治領に蜂起を呼びかけ、集めた軍勢で第一軍団を迎え討つ。とはいえ、州民たちがそれに応じるかは予測不能であり、最悪の場合は逆に攻撃される事態もあり得た。その危険は承知の上だが、第一軍団の追撃を受ける心配がなくなった今、時間的な余裕は確保できている。

 メディトリア領内の軍団兵が峠の惨状に気づく頃、イド・ルグスらはカピリノの山すそを東行し、ギラメラ門に近づいていた。山脈から流れ出る夏の雪解け水は、渓流となってヒメル川へと注いでいる。デロイ軍はギラメラ門を再び封鎖するため、すでに部隊を差し向けているだろう。どちらが先に到着するか、それが運命の分かれ目となる。道なき道を進み、凍えるような沢を越え、彼らは先を急いだ。

 だが、門まであと少しという地点で、事故が起こった。川を渉っていた数名が、馬もろとも流されたのである。不運にも、その中には王がいた。例年を超す暑さのため、沢は急流となっている。馬から落ち、しばらく流された彼らは、何とか岸に這い上がって事なきをえた。その後、一行は最後の力を振り絞るように進み、やがてギラメラ門に到着した。門の周辺に帝国兵はおらず、それはイド・ルグスの行動がいまだデロイ軍の一手先にある証だった。

 第一軍団を出し抜きここにたどり着いた彼らは、それだけで小さな勝利を収めたといってよい。しかし、この事を喜ぶ者はいなかった。沢の一件で体調を崩していた王は、到着から間もなく高熱を発し、すでに一歩も動かせない状態となっていた。幸いな事に、門の周辺は薬草の群生地であり、供をしていた薬師が彼女を治療するが、夜になっても熱が下がる気配はなかった。

 そして、王を見守るイド・ルグスと侍従官たちには、この状況がよく判っていた。たとえ、彼女の精神が鋼のように強くとも、その少女の体には限界がある。王としての務めと重圧、家宰たちとの対立、エスーサでの連日の儀式と作業、脱出後の強行軍――。そういった事に、いつまでも耐えられる筈がなかった。その日の深夜、王はふと目を覚ましイド・ルグスを呼んだ。すぐにやってきた彼が、粗末な寝台の前でかしこまった。

「……起きていたな」

 そうつぶやき、王は人払いを命じた。やつれているという程ではないが、その動作には力が感じられない。

「何から、話せばよいか……」物忘れをした時のように、彼女が眉間へしわを寄せる。

「……確か、前にもそんなことを言ったな。お前には、こういう込みいった事情を聞かせてばかりだ。その全てが、知って愉快なことではなかったろう」

 王が、浅く息をする。彼女の言葉も仕草も、全てが緩慢だった。

「なぜ、こんな事になってしまったのか……。私にできるのは、語ることだけだ。それは、父上がお前を選んだ時から始まった。王家の抱える問題を解決するため、その能力があり正義に篤く私心を持たず、何色にも染まっておらぬ者が必要であったのだ。だが、父は道の半ばで斃れ、私に与えられた時間はあまりにも短かった。だから、私は――」

 声が止まる。閉じた目蓋は、眠そうにも見えた。

「――いや、そんなことを言っても仕方がない。お前に伝えたいのは、それじゃない。口は動いても、頭が働いておらぬな……」

 ぽつりとそう言い、イド・ルグスに視線を向ける。腰布の下には脚絆がきつく巻かれ、それは砦に滞在するための装備ではなかった。その眼を見た彼は何かを言おうとするが、先に口を開いたのは王だった。

「……お前たちの考えは、解っている。私が眠っている間に、侍従官とも相談したのだろう。それを責めるつもりはないし、足手まといになる気もない。だが、ここに置き去りになる前に、伝えることがある――」

 それを聞き、イド・ルグスは硬い表情を寝台に向けた。こうして言葉で先回りされるのは、何度目になるだろうか。この王の物言いは他人を寄せ付けぬものであり、寒々とした感情を抱くこともある。彼女の人格において、歳相応の優しさや甘さといった未成熟な部分は、極限まで圧縮されているといえた。とはいえ、偉大な王の唯一の後継者として教化されることの厳しさを、イド・ルグスはこれまでの経緯の中でひしひしと感じ、それは彼の義心に何かを響かせてもいる。そして、王を支持する理由にそういった個人的な感傷があることを、彼は否定できなかった。

 だが、人間とは成長の過程で大人になりきれない部分を少なからず残すものであり、それが良い方向に働けば個人的な魅力となり、逆に働いたとしても心の逃げ場という救いを提供する。また、人の行動とはしばしばその部分に影響され、それは人生に対し不確定な弾力を与えつつ、結果的に幸運をもたらしたり、逆にその人を破滅させもする。

 そして、極論においてはこの予知性に乏しいものがあるからこそ、人間は希望を持って生きてゆけるといえる。イド・ルグスが知る王の言動からは、そういった無用の用ともいえる部分が完全に抜け落ちていた。それは、ある意味において人格的な畸形であり、この国にふりかかった理不尽さの犠牲者には、彼女も含まれているのかもしれない。

 声を待つイド・ルグスへ、王はしっかりとした口調で告げた。

「あの、ユノという女についてだ」

 その言葉を聞いたイド・ルグスが、覚悟を決めたように目を閉じた。ユノは、彼が十年来つれそった内縁の妻だった。それを知る王の言い方に婉曲な響きがあるのは、結婚していない男女が一つ屋根の下に住むことが、不道徳な行いとされていたためだった。兵の家の従士に婚姻は認められておらず、それは彼らの身分の特殊性にも関係していた。しかし、その事はすでに形だけの禁忌であって、こういった場合の王の言い方も曖昧にならざるをえない。

 カシアスの戦いの後に、彼女はイド・ルグスの前から姿を消していた。その理由について、彼には思い当たる節がひとつだけある。だが、心のどこかには、何かよからぬことが起きたのではないか、という疑念が少なからずあった。それを現実のものと思えば、彼はいても立ってもおれなくなる。そしてエスーサからの脱出の直前、家宰の放った言葉がその不安を大きく煽っていた。

 まさか、王の輩がユノを。だが、なぜ――。ギラメラ門への途上、彼は疑念と問いを募らせた。エスーサの周辺は、完全に王家の縄張りである。あの時の家宰の声が、王に聞こえなかった筈はないが、彼女からは何の言葉もなかった。

 家宰は私を陥れるために、全く無根拠なことを口走っただけなのか。ならば、陛下はなぜ黙っておられるのだ。そう思うイド・ルグスであったが、彼はスタインに言われた事を思い出していた。――こうなった以上、何があろうと絶対に迷ってはならん。

 イド・ルグスが師士として構想したことの多くが、すでにその手から離れていた。ユノの身に何が起きていたとしても、それに比べれば一粒の砂に等しい。この国の命運を懸けた策戦が、今ようやく軌道に乗ろうとしているのである。そこに私情を差し挟む余地など、残されてはいない。ならば、今それを王へ問いただす事で、何を得られるというのか。そう思い至り、彼はその砂粒を心の底へ沈めたのである。

「……結論から言えば、あの女は内通者であった。お前が士隊長となった後、その言動を何者かに知らせ、情報を提供していたのだ」

 イド・ルグスの眼が、鈍く瞬いた。ありえぬ、という考えが即座によぎる。

「彼女は、定期的に訪れる密使へ報告を行っていた。留守の多いお前が、それに気づく事は不可能だったろう。やがて父が亡くなり、私はその事実を把握した。家宰も、要らぬことを喋ってくれたものだ」

 ――まさか。イド・ルグスの視線が虚空に向かい、瞳がそう言っていた。ぞくぞくとした悪寒が、彼の肌を這う。無表情にその様子を見ていた王は、言葉を続けた。

「あの男、賢いのか馬鹿なのか……」つぶやく様に言う。「あらかじめ言っておくが、彼女は無事だぞ。……聞いているか?」

 表情を硬直させていたイド・ルグスが、はっと王を見る。

「ユノは、お前を裏切った訳ではない。彼女に近づく者が、巧妙なやり口を用いたのだ。王、つまり私の父が、お前の素行や言動を内密に知りたがっていると信じこませ、彼女を内通者に仕立てあげた。無論、父上はその様なことを命じてはおらぬ。常に正確で明瞭な報告を行う彼女は、あくまでお前の味方だった。父の崩御と共にその役割は終わったかに思えたが、密使はこう告げた。新王陛下も、同様の情報をお求めである、と。だが、彼女はそこで驚くべき行動に出た。イド・ルグスという男がこのような監視を必要とせぬことを、私へ直訴しようとしたのだ。即位後の慌ただしさの中、彼女の嘆願は運良く私に直接届けられ、全ては明らかになった。その時点で、密使を差し向けた者の正体は不明だったが、こうして訴え出たことで彼女に危害が加えられるかもしれぬ。だから、私が匿った。ユノは今、アビウズにいる。この件の首謀者は、家宰とみて間違いないだろう。彼女の存在を知りつつ、なおかつ私によって消されたと認識しているのが、明らかな証拠である。その原因を作った者だからこそ、そう誤解するのだ。全てが内密に取り扱われたため、家宰はユノの行方を掴めていなかった。そして、私とお前の関係にひびを入れようとして、ついに尻尾を現した。全く、余計なことを言いおって――」

 王が、血の気のうすい頬を緩めた。

「これで、彼女も不安な日々から解放されるだろう。機密を守るため、この事はお前にも知らせなかった。だが、王都を出て私が何も言わなかったのには、別の理由もある。冷たいようだが、この場合は二人が互いの存在を忘れてしまうのが最善なのだ。聞けば、あの女は子種を受け付けぬ身体だとか。ならば、なおさら関係を続けるべきではなかろう。以前の暮らしを取り戻すことはもちろん、今は会うことすら安全ではない。これを聞いてお前は安心しただろうが、伝えるべきではなかった」

 短い沈黙があり、言葉を続ける。

「……家宰の目的は、おそらく単なる情報収集ではない。お前の身辺へ介入する手段を手に入れ、いつでも王との関係にくさびを打ち込めるよう備えたのだ。そのことが発覚したとしても、奴ならどうにでも言い逃れできよう。今後、家宰がどんな手を打ってくるか予想はできん。ユノには念のため、お前が別の女と住み始めたと伝えた。不測の事態を避けるためだが、今は落ち着いている。思った通り、強い女だ。お前にも未練はあるだろうが、理解してくれ。とにかく、彼女は無事だ。――この事を、伝えたかった」

 いつもより細いが、芯のしっかりした声だった。それを感じるイド・ルグスの胸で、複雑な感情がゆっくりと渦を巻いている。だが、その一つひとつを意識する前に、彼は自分の体から張り詰めたものが抜けてゆくのに気づいた。

 やはり、怖かったのか――。何よりも先に、そう思った。何を聞かされても、動じぬ覚悟はできていた。だが、人間にふりかかる災難とは不合理なものである。理屈ではない何かに激しく揺さぶられ、イド・ルグスはその原始的な感情を抑えられなかった。いくらか落ち着きはしたが、それは今もまだ肌の上を這っている。

 確かに、ユノは強い女だ。イド・ルグスは、当然その事をよく知っている。彼女は、子を生まぬことを理由に、前夫から離縁されるという厳しい過去を持っていた。それは、この国では女としての意義をほぼ失ったに等しい。現在のメディトリアは生と死が均衡しており、死亡率も低い水準にあるため、人々が膨張的な家系を保つことは難しい。氏族の系統はやせ細って数珠繋ぎとなり、その姿は限りなく核家族へと近づいてゆく。結果的に、彼らの課題は実子の生育へと集約され、ゆえに不妊は家系の最大の敵であった。ユノは生家に帰ることもできたが、両親が亡くなれば生活を保障するものはない。そう思った彼女はエスーサへ行き、イド・ルグスと出会った。王都には多くの従士がおり、養い手を失った不遇な女たちは彼らと連れ添うことで、その余生を全うできるのである。兵の家とは、さまざまな意味で社会の浄化に必要な場所であった。

 その後のユノは、イド・ルグスを内から支える杖として暮らした。荒みがちな生活に清潔なゆとりをもたらし、目に見えぬ心のささくれを慰め、ときには領内の賊に対する内偵まで行い、熱心に彼を助けた。ただ、どんなに非の打ち所のない女であっても、過去からは逃げられない。その頃、ユノの前夫が子を授かったと伝わっており、曖昧さを残していた責任の所在に決着がついたのである。これは、彼女と暮らすイド・ルグスにとってもつらい事であった。とはいえ、可能性がすべて閉ざされた訳ではない。叩き方が悪いために、鼓が鳴らないという事もあるだろう。イド・ルグスは、彼女にあることを提案した。要するに、試すのである。二人はまだ、念のための避妊を怠ってはいなかった。だが、どれほど努力しようとユノに懐妊の兆しはなく、この結果は落胆以上の何かを互いの心に残した。

 子が欲しくなかったといえば、嘘になる。己の行動を、イド・ルグスは今でも後悔していた。ならば、彼女の不妊を了承していた事も、初めから嘘だったのか。そう自省するイド・ルグスが彼女をいたわるほど、二人の関係はぎこちなさに沈んでゆく。そして、これがユノにとっても重荷となり、後々の事件へ影響していたのかもしれない。彼にその後ろめたさがある限り、未練を断ち切ることは不可能であった。二人に対する王の思惑は、現実的ではあっても感情には逆らっている。ユノがどんな心境でいるのか想像するだけで、彼は自分の身を切られるようだった。確かに、彼女は王の怜悧な判断に救われたのかもしれない。だが、イド・ルグスはその遠慮のない鋭さが個人へ向けられた場合の痛みを、この件で初めて意識していた。つまり、エスーサで家宰が放った言葉は、ある意味で的確な場所を狙ったといえる。

 イド・ルグスが仕えた二人の王は、理知的であったが愚直さも感じさせる人間だった。わかりやすく言えば、個としての用心や臆病さに欠けているのである。彼はそういった危うさを、これまでにも感じたことがあった。生存に関する感覚が人格の基礎であるなら、王とは根のない大木なのか。人物としての知恵や認識力を考えてみても、それは不可思議な偏りであった。あるいは、その事こそが高貴さというものを支える根源なのかもしれない。だが、もし王がそういった特質をもつのなら、それは良いことだろうか、悪いことだろうか――。イド・ルグスが、少なからぬ不安をよぎらせる。だが、彼はそれと同時に奇妙な安堵も覚えていた。それでいいのだ、と心のどこかが言っている。

 誰も口に出さぬが、聖なる都エスーサはすでに帝国軍の手によって破壊され、焦土に埋まっているものと思われた。また、村邑や集落の大部分が無防備な姿をさらしており、それを守る術はもうない。今は犠牲を顧みる余裕がなくとも、惨状はいずれ明確な結果として現れる。これまで黙っていた者も、やがては口を開くだろう。この戦役がどんな結末を迎えるにせよ、反動は確実にやってくるのだ。これまでとは次元の異なる批判が浴びせられ、自身の安定に敏感であればあるほど、耐え続けることは難しい。それは、ある種の鈍さのない人間にとって、神経を狂わせる毒であった。これから、徐々にメディトリアはその中へと浸ってゆくであろう。いや、ユノの一件における状況から考えて、すでにボルボアン王の時代から、それらの予兆は始まっていたのかもしれない――。

 イド・ルグスの長い沈黙を、王が見守っていた。その胸の内にある感情の渦は、まだ残っている。彼にとって消化できぬことも多かったが、やがて口を開く。ユノの処遇について礼を述べると、気持ちが少し落ち着いた。ふと、彼が思う。

 ――家宰とは、いったい何者なのか。

 心の濁りを底に沈め、イド・ルグスは素直な言葉で問いかけた。口の端に笑みを浮かべ、王が答える。

「王家にはびこる亡霊か、あるいはメディトリアの真の守護者か……」

 そう言うと、彼女の表情からほころびが消えた。

「……以前から、私は不思議に思っていた。聖密院の伝統として、王陵には王族だけでなく家宰の一族も立ち入ることが許されている。他の者は、たとえ侍従長といえどその場所を見ることすらできぬのに、まるでそれが当然だといわんばかりにな。この事について、彼らは王と同等の権利を有しているのだ」

 空色の瞳がイド・ルグスをじっと見ていたが、やがてその力が緩んだ。

「まあ、何の確証もない話だがな……。状況証拠をいくら示しても、意味があるまい。――グルグア人についての私の説明を、覚えているか。彼らは、どこへ行ったと思う?」

 目線を宙に浮かせて、彼女がそう言う。

「……王家と王の輩は、これまで互いにその血縁を交えてきた。お前も知っていようが、聖密院に集う家々の系統は、そうする事によって守られているのだ。外部との混交も無く、今となっては個々の血統など存在してはおらん。つまり、血縁的には誰もが王族であり、そして王の輩なのだ。だが、その中で保たれているものが、ひとつだけある」

 澄んだ声の余韻が、イド・ルグスの肌を刺した。

「それは、家統というべきものだ。一族の系譜であり、その記憶でもある。家の主は後継者を選び、必ずこれを伝承させねばならん。当然、その中には家外に秘されるべき事項もある。私にとっては、諸々の祭式や王家代々の口伝などはもちろん、あの伝書の存在を知ることもその一つだ。それがある事すら、外部の者には知りえない。王といえど、その例外ではないのだ。王陵に収められた伝書がグルグア人に由来するなら、彼らが王の輩として国政に参画したことも容易に想像できよう。もし、それが正しければ、その者たちは我々の血統に溶け込み、今もいるのだ。この、空色の瞳の中に――」

 常人より青味を帯びたその淡いきらめきは、メディトリアにおいては貴人特有のものであった。王族や王の輩たちは、聖密院で生まれ育つゆえにそのような眼彩をもつ。少なくとも、この国の人々はそう認識していた。

「おそらく、グルグア人の家統を継ぐ一族が、聖密院のどこかにいる。父上は、その事に気づいてなかった。そして、王に対する彼らの警戒は、鋭く厳しいものだった。それが、父の唯一の誤算だったかもしれぬ。だが、彼らがこの国を害するのか護るのか、誰にも判りはしまい。少なくとも我らアルダネス王朝の統治とは、そういった目に見えない衝突と均衡のもとに育まれたのだ。家宰の正体が何者であろうと、彼らがいままで王家を支えてきた事にかわりはない。いま、私が説明できるのはそれだけだ……」

 王はそう言うと、力尽きたように寝台に身を預ける。

「――お前たち鉾をもつ者は、生きて還ることだけを考えればよい。夜が明ける前に、ここを発て。オシアにいる国軍の精鋭たちが、いまや遅しと待っていよう」


 馬をひいてオシアへの道を下るイド・ルグスが、後ろを振りかえる。そこには、暗がりに沈む山々があった。嶺の上には闇があり、雲の群れが月光を浴びている。その方向に目を向ける彼は、横溢した力の塊のような、重たい何かを感じていた。今に至り、イド・ルグスはメディトリアという存在を、初めて客観視したのかもしれない。箍の外れようとしているその国は、静けさの中に佇んでいた。その場所に蓄積した数百年の内圧が、今まさに放たれようとしている。背後に意識するその塊は、イド・ルグスにとって己の一部のように思えると同時に、怖ろしくも感じるものだった。

 崖道が尽き、潅木が見えてくると、そこはすでにオシアである。ここから先は、死地といえた。イド・ルグスが、鐙に足をかける。王のいるギラメラ門も、デロイの軍勢によっていずれ封鎖されるであろう。心のざわめきを堪え、鞍に乗った。西の嶺を、曙が照らしている。その先に、故郷の空がようやく見えたとき、馬は走りだしていた。



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