【第七章】輪神と鉾


 エスーサの空に、人夫たちのかけ声が響いている。デロイ軍の攻囲に備えるため、王都では外壁や門、城市内部に至るまで補修と増築が行われていた。工事に関わる人手は日に日に増えはしていたが、その数はまだ少ない。彼らは、士隊長らが直接に徴募した王都の住民である。予定された賦役を実行しようとしない王の輩たちに、痺れを切らした結果だった。民衆たちは、王家領家の慌ただしい動きと錯綜する噂に混乱していたが、最近になってようやく正しい情報が伝わり始めており、兵の家の呼びかけに応じる者は今後増えるものと思われた。

 目下の作業として、濠に溜まった土砂を掻き出す人夫に交じり、スタインらがいた。壁を造る石積みを行う時などは、口でやかましく指示を出す彼らも、この地道な作業に対しては身体を使って手本を示すしかない。このエスーサという都は、カシアスやダルカスといった街に比べ、その防御力は数段落ちるものと彼らに認識されている。最奥部にある聖密院は鉄壁の備えであるが、都市として発達しすぎたことが外郭部の城砦機能を損なう原因となっていた。この四人の士隊長は、先王の命により王都のそこかしこに見られる築城普請の古法を解析し、会得している。少なくとも、そう思っていることは確かだった。そんな彼らに、己が保有する薀蓄を死蔵させる気など欠片もなく、小規模ながらも工事は着々と進められていた。

 昨日、兵の家の営地では演習が行われていた。だが、王都の一角にあるその場所は今、静けさに包まれている。平素から実戦さながらの訓練を行う彼らに怪我は絶えず、この時期にこそ休養が必要だった。演習も、士気の引き締め程度で終わっている。伍番隊が組織する騎兵だけはそのまま野駆けを行い、山野で馬の仕上がりを試す。翌日の昼、つまり今しがた帰営した彼らも三々五々と解散していた。

 ウル・メイノスは、営地の裏門に立っていた。休息日である今日、従士たちには外出も許可されている。待つ人のいる者、娑婆の空気を吸いたい者はすでに街へ消えており、人影は薄い。見えるのは、庭場で士長に怒鳴られながら天幕の設置と撤去を行っている新兵たちだった。

(まだ、やらせてやがる。しつこい奴らだぜ……)

 メイノスが目を薄める。しごかれているのは、士長らが行った抜き打ち試験で落第した者たちだった。要するに、営設の訓練を怠っていたのである。戦技ばかりに気を取られる新兵にはよくある事であった。実戦においては迅速な行動が必要となるため、当然の処遇ではある。だが、彼らのしごきには上下関係を叩き込むという意図が常に感じられた。

 今は伍番隊の士隊長代理を任されているメイノスだったが、自隊ではこういった厳格さを一切認めていなかった。選り抜かれた従士二百五十名がこの隊に所属し、二百騎が軽騎兵として、残りは精鋭中の精鋭である五十騎隊として編制されている。これらの騎兵は、国軍の眼となり耳となるべく創出された。この隊の設立と時期を同じくして領家も騎兵を擁するようになったが、単純な戦闘要員である彼らとは性質も錬度も完全に異なる。少数で戦場の奥深くまで浸透し、生きて帰ることがその主たる使命だった。それゆえ、規律によって束ねるを良しとする楯兵とは、一線を画している。

 彼らの生還に必要なのは、鋭敏さと柔軟性であった。たった数騎で任務に挑む事が当然である彼らには、上下関係などあって無いようなものである。互いの能力に対する信頼が、彼らの規律といえた。ある者が未熟であるなら熟練者に従えばよいのであり、能力の均一化のためにしごきを行うのは無駄な事だとメイノスは思っている。だが、戦場において逃げ場のある騎兵と、逃げることが敗北に直結する楯兵では、物事への処方が当然違う。歩と騎は、その戦い方においても考え方においても、相容れない存在であった。メイノスとて、それが解らぬ訳ではない。だからこそ、黙って見ているのである。

 馬に関するあらゆる技術と知識を、彼らはバルバル族から学んだ。この蛮族は、メディトリアのウラトル高原に住む遊牧民だった。エキル人にとって未踏の地であるユニオノ山脈を越えてこの地に来たといわれる彼らは、アルダネス王朝の成立以前からメディトリアに定着しており、王家との数度の抗争の後に帰順した。現在は、凍てつく山脈を越える能力を失った彼らであるが、その優れた騎馬技術は誰しもが認めている。国軍の召集において彼らの集団はバルバル騎兵とよばれ、欠かさざるべき存在であった。

 イド・ルグスの指揮の下、先の戦役に参加した伍番隊は、その能力の優位性を存分に発揮した。先導部隊としてメディトリアに放たれたデロイ軍の偵騎を狩るように討ち、軍勢をまとめて退く彼らを殲滅したのである。カシアスでの会戦に先立つ両軍騎兵の前哨戦であり、これ以降は帝国軍もその偵察活動を縮小するしかなかった。

(ならば、ボルボアン王はなぜ死んだのか……)

 メイノスは、ふと思った。戦場の下見を行っていた王が、カシアスの森でデロイ軍の兵士に射られたのはなぜか。接近しつつあった第一軍団は、確かに大軍であった。その周辺には騎兵が配され、警戒線が敷かれている。だが、伍番隊の餌食となるのを嫌って、彼らはそれよりも遠くに斥候を放つ事はなかった。そうであるはずだった。

 ――時が経ち、彼は夕暮れに包まれていた。新兵たちがいた場所には、綺麗にならされた地面だけが残っている。辺りを見回したメイノスが、門から顔を出す。昨日の演習の後、王に呼ばれたイド・ルグスは今朝早くに昇殿していた。こういった事は密命の形で伝えられるため、それを知るのは士隊長とメイノスだけだった。スタインたちは何事もなかったかの様に工事の指揮に向かい、メイノスだけが彼の帰りを待っている。

(長すぎる……。何かあったのか……?)

 謁見がここまで長引く理由とは、何であろうか。あれこれ考えを巡らせながら通りの雑踏を見ていたメイノスは、その先にイド・ルグスがいることに気づいた。道の端を、目立たぬ様子でゆっくりと歩いている。

(ようやく、戻ってきやがった。……あんなに用心しなくていいのによ)

 兵の家の従士には、王朝の保有する兵力として以外にも、多くの役割があった。そのひとつが、王家の法務官と協力し治安を守ることだった。そして、彼らが法の執行に力を貸す場合、人々の恨みをかうこともしばしばある。武装を解いて街中を歩くときは、なるべく市民を装いながらも、気を抜かない事が鉄則であった。

 痺れを切らし、メイノスが手で招く。だが、反応は無い。ようやくイド・ルグスが門へと入った。一歩引いたメイノスの前を、無言で通り過ぎる。その背を見て、メイノスがむっとした表情で口を開く。

「おい! 無視かよ……?」

 イド・ルグスは振り向き、ようやく気づいた、という顔で答えた。

「ああ……。お前か」

 全身を見回し、メイノスは違和感を覚える。

「……随分遅かったな、もう夕方だ」

 そう言い、彼の姿をもう一度確認した。今朝のままに見えたが、何かが違っている。

「何か、あったのか……?」

 表情を窺うように聞くが、イド・ルグスの言葉は無かった。

「――しばらく、外出する」

 ようやく、声が返ってきた。

「今からか? まず、スタインたちを呼んだ方が……って、おい?」

 庭場を横切る道を、イド・ルグスは進んでゆく。厩舎に入ると、手近にいた馬に馬具を載せて出た。追ってきたメイノスも、同じように馬を曳く。

「……おいおい、どこに行くんだ?」

「明日の晩には、戻る――」

 そう言うと、イド・ルグスはするりと馬に乗って駆け出す。慌ててその後を追うメイノスが叫んだ。

「どういう事なんだよ!」

 閉ざされる寸前の門を潜って、二騎は王都を出た。だが、丘を下って街道にさしかかる前に、メイノスとの差を広げる馬影が消えた。強引な操縦を嫌って、彼の馬が脚を鈍らせる。完全に振り切られたことを悟ってなお、手綱を握り続けた。

「……畜生め、どうなってやがる」

 街道をしばらく走って、メイノスはようやく馬を停めた。薄暮の空に、明星がくっきりと光っている。

 ――逃げられた。それは、彼が始めて経験するイド・ルグスの態度だった。さっき見たのは、本当に奴だったのか。そんな気さえして、首筋に寒いものを感じる。

「くそっ、いったい何だってんだ……!」

 すでに、地平は闇に隠されていた。彼の吐いた言葉が、その暗がりの中に消えた。


      †      †


 岩の上に無数の石が載せられ、その石の上には夥しい礫が積まれていた。さらに蔓草の網で密に包まれたその塊は、根を生やしたように泰然と落ち着いている。

 草生した石社の前に、イド・ルグスはいた。道らしい道も通じず、雑木林が開けただけの空間から星々が見下ろしている。この古びた祀り場を知る者は、おそらく彼以外にはいない。イド・ルグスはここに来るたびにそれを再確認し、そして思索に沈む。エスーサの北にある、兵の家に与えられた禁領の片隅に、この祠はあった。

 現在、メディトリア全土の祠を管理しているのは王家の神祇官である。だが、ここにあるような小型の石社は、彼らにも忘れ去られる運命にあった。こうした遺跡は少なくないが、その存在に気を留める者はいない。それは、長年の王家の統治によって、人々の信仰する対象が変化している事を物語っていた。

 イド・ルグス自身は、その事に何の感慨も抱いてはいなかったが、今は違っていた。ここは、士隊長として、そして師士として構想を尖らせ、思考を深めるために使っていた場所だった。今は月明かりだけが照らす、その祠を見つめる。闇に根を張るそれは、完全に林の一部へとけ込んでいた。

 メイノスには、悪いことをした。そう思う彼だったが、脳裏には王陵での出来事が鮮明に焼き付いて片時も離れない。イド・ルグスが王と共にあの場所へ入ったのは、太陽が真昼の輝きを放ち始めた頃だったろうか。促されて歩みを進め、闇の中に見える入口へ潜っていった事を思い出す。


「――そこで目を慣らせ。下り坂だ、狭いぞ」

 先行する王の声が、地の底から響く。ひんやりとした羨道に立ち入ったイド・ルグスは、視界を失って立ち尽くしていた。暗がりにうっすらと見え始めた左右の壁は、こぶしほどの丸石で埋め尽くされている。

 不気味な卵のように思えるそれに手を這わせつつ、進んだ。爪先の彼方に歴代の王が眠っている事を感じ、イド・ルグスの足運びは畏れに満ちている。果たして、自分にこの場所へ踏み入る資格があるのか。それを問うべき王は、はるか先に消えていた。

 微かな風に土のにおいを感じながら、闇に溶ける天井がいつまでも続く。やがて、左手に光が見えた。そちらからの声に導かれ、入口らしきものを這いつくばって抜けると、ようやく足元が明るくなった。周囲は割石を積んだ通路であり、先ほどまでの羨道とは異質に感じられる。入口の辺りを見回していた彼が、声に呼ばれた。

「何をしている? 早く来い」

 通路を抜けると、光が目を射した。そこは、石室だった。四、五人がゆったり過ごせるほどの空間が広がっている。王は、手に持った種火を最後の燭台に移し終えたところだった。吹き消された火口が、紫煙を上げる。

 壁際に、方机と座台がいくつかあった。小さな文具棚と共に置かれたそれは、相当に年季が入っている。壁の燭台の上には黒い煤の斑が天井まで続いており、そこには空気穴のようなものがかろうじて見えた。石室の奥は、間口を隔ててさらに別の空間につながっている。王がそちらに目をやり、イド・ルグスの視線をその先に導いて言った。

「――あの玄室に、わが王家に伝わる古文書が保管されている。書かれた年代は定かではないが、本当に古いものだ」

 台形の断面を持った空間が、かなりの奥行きまで続いていた。天井は狭く、傾斜のある壁は重厚な積み石である。壁面には数段の溝が横に掘られ、その場所に装丁の朽ちかけた巻物が隙間なく詰められていた。

「私はこれを、父から受け継いだ。その巻は五百を下らぬが、我々は単に伝書とよぶ。数巻から数十巻で大項を成し、それに属する事柄を余さず記している。我らにとって大いに役立つものであるが、人に与えられた公界の百科には遠く及ばぬ――」

 明確な意図も告げられぬまま、王家の陵墓に立ち入る緊張に身を固くしていたイド・ルグスであったが、今は声を出すことすら完全に忘れていた。

「――とはいえ、これらの書がこの国にある知識と明らかに異なることは、疑問の余地がない。父上の授かった神託も、ここにあった。我々は、それを見つけたに過ぎん。まあ、こう言ってもお前には何の事だか、解らぬだろう」

 岩の中に納められ、燭火の届かぬ先まで続く文書をイド・ルグスは呆然と見る。ひきつった彼の表情に目をやり、王が言った。

「私も、何から説明すればよいか迷っている。この伝書の存在を知る者は私と家宰だけだが、お前もこの事を知らねばなるまい。まずは、過去の出来事から順をおって話そう」

 ゆらゆらとした光に囲まれながら、彼女は声を響かせる。

「……かつて、これらの書は王陵の片隅で朽ちゆく由来不詳の遺物であった。この玄室にこうして納められ、代々の王から父へ、そして私が受け継いだ今も、それは変わっていない。ここに立ち入ることのできる者ならば、興味から必ず一度は文書を紐解くだろう。だが、中を見たとしても、めまいを催すような文字がびっしりと書かれているだけで、読むことは出来ない。父上も当然そうだった。その後、父は即位して帝国への対処法を模索し始めた。その過程で多くの侍従官を国外へ放ち、様々な情報を集めた。デロイに対抗する上で父が最も重視していたのは、新しい知識だった――」

 そう言って目を閉じ、王はゆっくりと息を吐き出した。

「――ある時の事だ。父は、ガルバニアで手に入れた写本にどこかで見たような文字があるのに気づいた。それは、楔形の紋様を組み合わせた独特の姿をしており、あの古文書に記された文字とよく似ていた。そのとき父が何と思ったか、私は知らない。だが、即座にそれについての情報を集めさせた所をみると、何か予感のようなものを感じたのかもしれぬ。やがて父は、文書を解読する糸口を得た。帝国ではその文字についての研究が進んでおり、金さえ積めば必要なものは手に入る状況だったのだ。無論、父はそうした。そして、家宰にこの事を打ち明け、書の読解を共に進めた。巻物に書かれた記事は、闇夜の中を目隠しで這うがごとき模索を続けるふたりにとって、興味の尽きぬものであった。記されていたのは、天文、地理、植物、鉱物、医術、算術、農学、工芸、建築、軍事、兵器……。ここまで言えば、ふたりが何を探し出したか、見当がつくだろう。そこには焔硝なる薬と、それを用いた種々の兵器について書かれていた。記事には、正に切り札といえるその威力が詳らかにされており、父がその兵器に並々ならぬ興味を抱いたことは容易に想像できる。だが、その期待も程なくして失望へと変わった。焔硝を調合するには『石の塩』という薬石が不可欠であるが、それがいったい何なのか、まったく見当がつかなかったのだ。もちろん、その後も文書の解読は続けられたが、やがてふたりは軍制の改革に取り掛かり、この場所に足を運ぶ機会も少なくなった。父に命じられ、私が王陵を預かる事になったのは、ちょうどその頃だ――」

 壁に向けた視線をイド・ルグスの方へ移し、彼女が言葉を続ける。

「それはつまり、王位を継承するのが私であるという事だった。当然、書の存在についても聞かされ、私は多忙な父と入れ替わるようにその解読を引き継いだ。およそ半年であらかたの内容を理解できるようになったが、その物量たるや生半なものではなく、珍しさより退屈さを感じることが多かった。しかし、それらの無味乾燥な記述の中にも、自分の知るものがしばしば現れる。それだけが、私の愉しみだった。……イド・ルグスよ、いつだったか父上に招かれた謁見の席で、バルバル族の咸肉(ハム)のことを話してくれたな。覚えているか?」

 術にかかったように王の声を聞いていたイド・ルグスは、それが自分へ問いかけである事にようやく気づいた。確かに、覚えている。だが、語られた言葉は理解の許容を超えており、彼はただ無言で頷くだけだった。

「……ウラトル高原産の咸肉は、色づきが生肉のように映え味も良い。あの時お前は、石を砕いて肉にまぶすことを教えてくれた。それが、彼らのささやかな秘密なのです、とな。その時、私はふとある記述を思い出した。『塩漬けした肉を陰干しにして熟成させる場合は、石の塩の粉末を添加すると色が鮮やかになるだろう』。これは、文書にあった塩蔵肉の保存についての処方だ。ならば、バルバル族が咸肉に用いる石とは、ここでいう石の塩と同じものではないか。それが事態を打開する鍵となり、やがて兵器は完成した。その後に行われた抱鉄の開発については、お前の方が詳しいであろう――」

 バルバル族はその薬石を、夏季放牧地であるウティカ湖周辺からさらに登った高山の乾燥地帯で掘り出していた。この部族以外に高原から上の地域へ足を踏み入れる者はおらず、彼ら自身もその場所へ行くことは少ない。つまり、その石の存在を知っていたのは彼らだけであり、それと焔硝とを結びつけたのは、この何気ない会話だった。石を掘り出す作業については困難が多く、現在も産出量は限られている。採掘については王の輩たちが秘密裏に行っており、その薬石が焔硝の原料であることはイド・ルグスにも知らされてはいなかった。

「要するに父上の授かった神託とは、あの伝書から得られた知識なのだ」

 瞬きひとつせぬその瞳の中で、燭火が揺れている。時の流れが止まったかの様に、王陵は静かだった。玄室から漏れる風が、ぬるりとイド・ルグスの肌を撫でる。

「…………もし、それが事実であるなら……これまでの神託とは、つまり――」

 じっとりと汗をかき、ようやく彼が口を開く。その声を聞いた王の表情は心なしか和らいだようであったが、すぐに元の表情を取り戻す。彼女が、やがて答えた。

「私の言葉に、偽りはない。それは確かであるが、残念ながらお前の想像については、否定も肯定もできぬ。それについての証拠は、存在しないのだ。とはいえ、限られた事実から推測するなら、過去の神託で得られた知識は全てあの古文書から得たものだ、と考えるのが自然だろう。当然、私はメディトリアの王としてそれを容れることはできぬ。しかし、そう理解する以外に、どんな説明がありえるだろうか――」

 影を帯びた王の声が二人を囲む石壁に沁み、そして消えた。

「……現実とは、どこまでも非情だ。だからこそ、父上は家宰と結託しそれを聖神からの授かりものと偽った。あのとき父が、ここにこのような文書があり、それにはこう書いてあったと、どうして言えようか。そんな事をすれば、これまで玉座を支えていた柱はすべて針と化して、我らを貫くであろう。だから、あの様にした。実行した父も片棒を担いだ私も、それを弁解するつもりはない。お前にも、この事は明かすべきではなかった。だが、全ては今のメディトリアに必要なことなのだ。もう一度、はっきりと言おう。この先、玉座の存在によって守られるものなど、何一つ無い。父はそれを噛み締め、生きていた。理不尽な現実に対し、何の不満も口にせず。ならば、我々も懐古の眼差しを明日に向け、生きてゆかねばならぬ。そうは、思わぬか……?」

 王の言葉は、穏やかだった。だが、イド・ルグスの身体には、ただ冷たいものが這っていた。石室の片隅にある腰掛に目をやるが、現実感は希薄だった。彼女の話を、頭で理解することはできても、心では信じられなかった。そして、葛藤するイド・ルグスの意識に、ある疑問が浮かんでくる。その顔を床に向けたまま、彼が言った。

「――これらの文書が、王家にもたらされた経緯とは……。それはいったい何処から、そして、どのように……?」

 彼にとって、当然の問いかけであった。イド・ルグスには、ボルボアン王がこの国を真に思って行動したと、そう信じる事ができる。だが、それが事実なら聖約や輪神の加護といったものは、どこへ行ってしまうのか。書の出所について知ろうとする彼は、その答を求めていたのかもしれない。重苦しい声に、王が答える。

「それについては、手がかりが無いでもない。あの巻物に書かれていた字は、デロイではグルグア文字とよばれている。かの国でそれが研究されていた理由は、古代人が遺したという文書を読むために必要だったからだ。彼らの認識が正しければ、それを記したのはその古代人、つまりグルグア人だという事になるだろう。そして、我々とグルグア人との接点はたった一つしかない。かつて彼らの外寇を退けた、あの戦役だ」

 グルグア文字、古代人、文書、戦役――。言葉が、イド・ルグスの頭の中で踊った。

「ならば、伝書がこの国に伝わったのはその時であろうか。我々は、それを想像する事しかできん。だが、戦役の結末から見てその品々は、敗北した彼らから得たものだと考えてよいだろう。そして、我ら王朝はその文物を最大限に活用し、メディトリアを繁栄の時代に導いたのかもしれぬ……」

 イド・ルグスの視線が、玄室の中へと注がれる。そこにあるくたびれた巻物は、埃にまみれつつも飴色の光沢も帯びていた。この書に携わった人々の汗や手脂が、装丁にこびりつく濃い染みとなってその痕跡を留めている。それを見つめるイド・ルグスは、徐々に冷静な思考を取り戻しつつあった。彼女の話は多分に推測を含みつつ、しかし整合性を失ってはいない。聞いたことを鵜呑みにはできぬと思っても、それを嘘だと感じる事ができなかった。考えを巡らせる彼の背に、冷たい汗がにじむ。

「……とはいえ、それも可能性のひとつでしかない」澱んだ空気に、王の声が響く。「いつだったか、父上がこう言っておられた。この国は、いちど滅んでおるのかもしれん、とな。記録のない時代の出来事については、全てを推し測るしかない。そして、人の想像とは恐ろしいものだ。もし、伝書が戦利品として王家にもたらされたのなら、私のご祖先はどうやってそれを読んだのであろうか。敵を捕らえ、そう強いる事もできようが、別の状況も考えられる。つまり、そもそもあの戦役で勝利を収めたのはグルグア人たちであり、メディトリアはそのとき彼らに乗っ取られたのではないか、という事だ――。エキル人と称する我らは、目の色も肌の色も周辺の民族とは異なっている。また、部族的な文化を持つ隣国に囲まれながら、我々の風習に泥臭さはない。民衆の意識としても、ディネリアやオシアといった地域の人々やバルバル族たちを、蛮族として見る者は多い。そういったことの根本には、いったい何があるのだろうか」

 ふと言葉が途切れ、表情のない瞳がイド・ルグスを見る。

「それは、確かにあり得ることだ。だが、その父の想像に、私は賛同できない。グルグア人とよばれる古代人について謎が多いのは事実としても、この狭隘な地を得て彼らが満足するだろうか――。帝国の学士たちの中には、グルグア人が知識の世界的独占を目論んでいたと考える者もいる。彼らは侵略した各地で文書を奪い、自らの言葉に置き換えた後に元本を焚していたそうだ。だが、その行為が単なる統治の手法であるのか、何らかの呪術的な支配を目的としていたのか、それは定かではない。少なくとも、グルグア人たちはそれらの書を大切に保管していた。やがて、彼らはこの地に攻め入り、そして敗れた。その国力の差を勘案するに、彼らはおそらく疫病にでもやられたのだろう。薬学や医術について、グルグア人は豊富な知識を持っていたはずだが、それが逆に慎重さを失わせる事もある。また、その当時のメディトリアは悪疫の多い地域でもあった。伝書にも、その事は少なからず散見できる。現在より雨が多く、夏はしばしば酷暑にみまわれたという。まあ、今でもここの夏は暑いが――。また、今は干拓されている沼沢地なども手つかずで、そういった場所から定期的に熱病が発生していたそうだ。もし、グルグア人たちが罹患者を治療できたとしても、蔓延する速さがそれを上回れば、結果は見えている。異邦人である彼らの症状は重く、生き延びる者も少なかったろう。その後、我々は伝書を手に入れ、皮肉にもそれはメディトリアの繁栄と安定の礎となった。新しい知識がもたらされ、悪疫の予防と治療も始まり、王朝は強固な権威を手に入れた。だが、これにはある前提が必要となる。もし、私がグルグア人の立場だったなら、国の宝ともいえる品々を易々と敵に渡しはせぬ。玄室にある程度の文書であれば、焼くのは簡単だ。しかし、今それは我々の手元にある。ならば、そこで何らかの交渉があったのかもしれん。つまり、取引だ。王家とグルグア人の間で契約が結ばれ、我々はそれを手に入れた。そうは、考えられないだろうか――」

 ここでようやく、王の声が止まった。だが、明らかに思考を飽和させた様子のイド・ルグスに構わず、彼女は言葉を続ける。

「その場合、グルグア人たちの望む条件とは何だろうか。まずは、自分たちの命の保証があるだろう。そのためには、契約を反故にされぬよう正義が守られる必要がある。また、自分やその子孫たちが、この国に受け入れられる事も求めねばなるまい。それを言葉にするなら『心、義を正し人に和す』と表せる。さらに、我ら王家の側にも条件はあっただろう。グルグア人たちの所有する書がどれほど役立つものだとしても、血塗られた過去があるのは間違いない。それらの文物と引き換えに彼らを救うなら、その行為は悪を助け、加勢する事にはならないか。王朝が善を標榜する以上、彼らの過ちに対し否定の姿勢を示す必要がある。言葉にするなら『命、地に満ちるとも邦を侵さず』という事だ。そして、双方の言い分を形にしたこの契約がいつまでも守られ、両者がメディトリアでひとつになる事を願った。つまり『時、久しく流れて永きを知る。我ら、此処に在り』となる……」

 ――そんな、馬鹿な。そう思うイド・ルグスの額には、冷たい汗が浮いている。それは雫となって眉を滑り降り、彼の視界をにじませた。

「やがて、文書はこの玄室に収められた。王は死すと王陵に葬られ、祖神となる。つまり、ここは聖神の座所なのだ。この空間に収められるという事には、そういった意味がある。ならば、あの伝書から知識を得て神託とした事も、道理からは外れていない。聖約とは神と交わす契約であり、我らのご祖先は何かを偽っていた訳ではなかった。ならば、父上も――。私は、そう思いたい」

 穏やかであるが、感情のこもった声だった。ようやく口を閉じて、彼女が疲労感を露わにする。この国において、王が己の声を用いて話をするのは自然な事であり、彼女もそれに慣れている。とはいえ、その威厳を保つにも限界があった。普段のイド・ルグスならば、話の途中で王を気遣ったであろうが、現在の彼にそんな余裕はなかった。

 突然、伝書なるものの存在を明かされ、それが神託の源であると伝えられ、その由来についての説を聞かされ、王朝の秘められた過去を仄めかされる。この話が、途中からその論拠を曖昧にしている事は、彼にもよく解っていた。だが、イド・ルグスのその心を、さざ波のような感情が洗っている。それは、己の信じる輪神の力が否定されるという事だけではない。王の語った突拍子もない結論が、彼の心に何かを訴えていた。確かに、全ての神託があの伝書から得られたという推測には、反論の余地もある。だが、状況証拠からは、それ以外の説明を求めることも難しいだろう。そういった葛藤の中で、彼は王の示唆する聖約解釈に対し、次第にではあるが惹きつけられていた。そこで語られた王朝のふるまいに、イド・ルグスは少なからず感じるものがある。全く異なった性質を持つ両者が、互いの繁栄のため宥和と共存を果たし、この国を永い平和の時代に導いたのである。それこそが、メディトリアの正義ではないのか。聖約も神託も、全てはそこから生み出されたのだ――。己が住む世界の真実を垣間見て、やや現実感を失った彼の思考へつけ入るように、その理解が甘く響き始める。

 ひと息ついて普段の表情を取り戻した王が、イド・ルグスへ語りかけた。

「……かくして、我が王家は神託を手に入れた。伝書がどのように運用されていたかは分からぬが、おそらく神祇官たちがグルグア人の力を借りながら扱っていたのだろう。しかし、そこに記された知識がいかに詳細なものであろうと、生きた知恵ではない。それらを実践し、文化として消化するには長い時間が必要である。やがて、医術や暦、天文、農学といった英知がエスーサに蓄積され、この国は大きく様変わりした。疫病が猛威をふるい、凶作や天候不順が飢饉をまねき、蝕や星の動きが人心を惑わすたびに、彼らは聖神に祈りを捧げていたに違いない。だが、その時代は終わりを告げ、人々は玉座にひれ伏すようになった。この国の抱えていた問題の多くが解決され、我が王朝は安定と繁栄の時を迎えたのだ。その結果、神託の必要性は薄れ、やがて伝書を読む必要もなくなった。神託や聖約についての解釈が、どの時点で今のものに変えられたのかは判らない。だが、事実を伝えるより、理解の容易なものに置き換える方が安全だという理屈は正しいだろう。その結果、玉座の生み出す権威はより強固なものとなった。父上の行った改革において、それがどう影響したか、言うまでもない」

 結論として、先王ボルボアンの提唱した国軍の様式はすべて実現され、その動員体制がメディトリア全土に施行されたのである。師士として軍勢を率いたイド・ルグスはそれをよく知っており、彼もその力にひれ伏す一人であった。

「だからこそ、我々はデロイの侵攻を防ぐ事ができた。――これは私の推測であるが、ここ数百年のメディトリアの気候変化には、彼らコノス人が関わっているのかもしれない。グルグア人たちが姿を消し、現在のガルバニアのもとになる社会が生み出された時代、コロヒス・アクアイアス河の下流では大規模な灌漑事業が始まっている。彼らのそういった活動が、自然に何らかの影響を及ぼしているのはあり得ることだ。多雨や酷暑が穏やかになった事とこの国の幸福は、密接に関わっていよう。もし、我らの保有する伝書が、かの地からメディトリアにもたらされたのなら、彼らは全ての種を自分でまいた事になる」

 この国における知識の集積については、聖密院、つまり王家がそれを独占している。その是非はさておき、そういった意味で下流に身を置くイド・ルグスと、頂点から俯瞰するダナには決定的な違いがあった。彼は今まさに、王が自分とは全く異なる次元の視界を持っている事に気づき始めている。この国の秩序とは、歴史の狭間に消え去ったグルグア人の統治思想がエキル人の文化と融合し、真に完成したものといえるかもしれない。

「だが、コノス人どもはそんな事に興味を持たぬだろう。己の挫折における皮肉な因果を知ったとしても、連中は侵略を止めはしまい。そんな奴らの思うままに、我々が害されてよい道理があるだろうか。だが、人に与えられた霊理とは何者にも等しく働き、善と悪を区別しないのだ。父上はそれを知っていたが、この国では玉座の高みが王を孤独にする。人々は厳かにひれ伏し、その隔たりこそが秩序だった。彼らにとって聖密院とは、信仰という供物と神託という賜り物を交換する公器だったのかもしれぬ。かつてはそれが我らを守護していたが、現在は違う。帝国という第三者の闖入によって、その幻想はついに暴かれたのだ。そして父が死に、数百年にわたるメディトリアの夢物語は、いま終わろうとしている。……師士、イド・ルグスよ。必要なことは、全て語ったつもりだ。お前は、その上で何を信じ、誰に加勢するのか、決めねばならぬ――」

 澄んだ声が、石壁に響いた。玄室の静寂は、彼の息から音を奪ってなお、万物を沈黙させる。イド・ルグスに聞こえていたのは、その言葉の余韻だけであった。

 王が見ていたのは、神ではなくこの国の過去と未来だった。ならば、玉座の高みとは誰よりも先を見通すための場所に過ぎないのか――。彼が、そう思う。だが、確かにいえるのは、彼女の知りえる情報こそがこの国の限界であり、それ以上は望めないという事である。イド・ルグスは、これら一連の仮説に反論することの無意味さを、すでに察していた。歴代の王、そして先王から受け継いだ知識と、彼女が集めた情報を照らし合わせ、熟慮の末に得たであろう結論である。グルグア人の伝承について、彼もデロイで聞いた事はあったが、それは漠然とした伝説でしかない。王の説が、帝国の学識すら超えた高度な推論である可能性は、充分にあるといえた。

 また、イド・ルグスにとって、その説が己の感情と相容れない部分を持つとしても、彼に求められているのはそういった意味での確認ではない。王は、自らのふるまいに対する理由としてそれを説明したに過ぎず、現在問われているのは従うか否かという選択である。さらに、彼の心情に対し最も摩擦が大きいと思われる神託と伝書の関係についても、王本人の証言という疑いようのない結論が存在していた。そういった事に加え、ここで露わにされた彼女の思惑を考えるなら、イド・ルグスの覚える葛藤などちっぽけなものなのかもしれない。だが、その胸にはどうしても捨てることのできない感情が残っている。やがて意を決したように、その口を開いた。

「……僭越ながら、陛下に申し上げます。仮に、わたくしが陛下のお言葉に従ったとして、その結果、この国はどうなりましょうか。我ら兵の家が力による支配を続けるなら、やがてその影響はメディトリア全土に及ぶでしょう。たとえ、帝国の悪行に鉄槌を下す事が出来たとしても、玉座の重みを失った我々がデロイのような存在に近づいてゆくのは、避けようがありません。明日を重んじる陛下が、その混乱に向けてこの国を導くというなら、果たしてそれは正しいのでしょうか――」

 それは、冷静な問いかけであった。私情を捨ててなお、彼の心にはその危機感が残っている。帝都に赴いた後から、彼が漠然と感じていた落ちつきの無さとは、この事だったのかもしれない。デロイに勝てるものとは、要するにデロイそのものではないのか。帝国の繁栄する根本の理由がそこにあるなら、彼らと戦うものはいずれデロイになってしまうのではないか。普段のイド・ルグスであれば、誰かにそういった感傷をぶつけることは無かったであろう。だが、今の彼はそう問わざるを得なかった。王はしばし瞑目し、やがて彼を見据えて答えた。

「……我らの抱くメディトリアの正義とは、この国に住む人々の幸福のためにある。数百年もの間、王朝の秩序はそれを守ってきたが、今はどうであろうか。確かに、この国は信仰がもたらす平穏の中で繁栄を続けてきた。だが、その結果として社会の様々なものが飽和しつつあるのも事実である。本来なら、民衆たちに現状へ対する不満があってもよい筈だが、我々がそれを聞くことは無い。これは、この繁栄を生み出した信仰そのものが、それらの感情を去勢しているからだ。逆にデロイの人々から見れば、我らは欲望の不具者といえるだろう。あくまで利己的な動機からそれを選択したとしても、その自覚を失えば本来の目的を知る者はいなくなる。今の我々は、それに近い――。この国の民が、新たな幸福を求めることは、他人の不幸を願うことに等しい。生活の基盤となるあらゆるものについて、誰かがそれを失うのを待つ以外に入手の手段がないからだ。イド・ルグス、貴様ならそれがよく解るだろう。母を亡くした後、お前はどんな目に遭った?」

 唐突な問いだったが、彼の頬がぴくりと動く。母親が死んだとき、その財産はわずかな借入を口実に全てが差し押さえられ、彼に残されたのは身の周りの物だけであった。耕していた土地も、他の邑民の介入によって相続は認められなかった。小さな農地であっても常に誰かが必要としており、こういった好機を逃す手はない。追われるように村を出たイド・ルグスは農作業の手伝いなどで食いつないでいたが、両親が死んでいることを知られるとすぐに暇が与えられた。家族がいないということは、継承する財産や土地がないという事であり、信用は無に等しい。孤児とは、夜盗や野荒しとほぼ同義であった。仕方なく血縁を頼って各地を転々としていたイド・ルグスであったが、彼を受け入れる余裕のある家はなく、結局は野盗に近いことをして暮らすようになった。盗賊行為は程度に関わらず重罪であり、没収されるものを持たぬ流民は、死をもって罰せられた。捕まれば、殺される。それが、彼の日常だった。現在でもイド・ルグスは、この国の善悪観を通じて過去の境遇を受け入れることしか出来ない。

「……世間から弾き出された者に、この国の社会は酷薄だ。デロイなどでは、奴隷ですらそれよりもまともな生活をしている。これについて、説明は要るまい」

 ガルバニアでは、奴隷や隷民はありふれた存在だった。彼らは帝国の社会に不可欠な存在であり、高度に合理化されたその制度は、ある意味において人道的といえた。役に立たぬ奴隷に対する処罰が過酷である反面、素行の良い者は主の家族と同等の待遇が保証され、さらに能力があれば重要な仕事に就くこともある。デロイにおいて奴隷制とはふるいの様なものであり、心がけや努力や才能といったものに応じ、一度は不要と判断された人材を社会に再配分する機関でもあった。メディトリアの人々はこういった帝国の制度に嫌悪感を露わにするが、イド・ルグスは帝都での経験から、それが短絡的な先入観でしかない事を知っている。少なくとも、この国にそういった受け皿が不足しているのは事実だった。

「その後、お前は兵の家の門を叩き、隊士候補となった。そこでスタインに素質を買われ、正式に入門したと聞いている。壱番隊で頭角を現し、やがて士長の席を目前にしたお前は、唐突にバルバル族の監視役を任じられた。左遷に近いその命令に対し、お前がどう思ったか私は知らない。だが、内心では未練を感じなかったのが正直な所ではないか……?」

 イド・ルグスが、強張らせた視線を王の足元に向けた。彼に、その問いの意味が解らぬ筈はなく、ぴりぴりとした感情が胸の奥底を這った。秩序の保たれたメディトリアでは、生活の手段を失った流民たちは、邑や街に住むことはできない。かといって、あまり人里から離れた山に近づくと、そこは猟民たちの領域となる。流民たちの生きる場所は、街でも邑でも山でもなく、その所々にある荒れ野や川辺だった。猟民とは、田畑を荒らす獣の駆除、炭焼き、木材の切り出しなどを行う人々である。殺生を生業とする彼らは、被差別民として扱われる事がしばしばあった。だが、山に住むことは猟民の権利でもあり、その生活は決して悪くはない。先王ボルボアンは、武器の扱いに長けた彼らを狩弓猟兵として召集したが、領家の家士たちにその決定が最後までしこりとして残った事は、イド・ルグスの記憶に深く刻まれている。そして、必要のない獣を狩るのが猟民の役目なら、王領において必要のない人間を狩るのは、兵の家に所属する従士たちの役目だった。その日になると、隊の従士は手配書の束に目を通し、武装を整える。夜半に営地から目的地に移動し、集落を包囲する。朝日と共に急襲し、昼には仕事を終える。縄に繋がれた流民たちを連れ、夕暮れにエスーサへ戻る。少人数ならば危険性は少ないが、秩序から遠ざかり群集になった彼らは、急速に人間本来の欲望を取り戻す。それは、治安の維持に必要な行為だと隊士の誰もが思っており、また自ら手を下す訳ではない。だが、結局はそれと同じであった。

「その翌年、お前はバルバル族の馬比べで入賞し、さらに翌年には三番手の腕前となった。お前が何をどう感じていたか、詮索するつもりはない。本人の言葉より、行動の方が雄弁にそれを語るだろう。――ところで最近、エスーサでは身重の女が増えたと聞く。その理由は、容易に想像できよう。冗談のような話だが、それがメディトリアの現実なのだ」

 この国では、家族計画について想像以上の慎重さが必要であった。それら普段の抑圧ゆえに、戦役による多数の死者が刺激となり、結果的に人が増えるのは当然といえる。だが、多くの家で喪が明けぬ今の段階でそれが起きるという事は、そういった欲求の強さを示してもいる。

「また、領家では従士の補充が急速に進んでいる。どんな身分の者でも腕っ節さえ強ければ、士分となって肩で風を切って歩けるのだ。家都では、そういった『にわか従士殿』が騒ぎを起こすことが増えたと聞く。あの戦役の後、皮肉にもこの国は活気づいたのだ。災難がそのまま不幸とならぬ所に、そういった飽和の様相が見えはせぬか……?」

 これについて、口には出さぬがイド・ルグスも気づいてはいる。兵の家でも、そういった兆しを感じることは多々あり、自分以外の士隊長たちにも同様の気色が見られた。それはひと言でいえば社会の胎動であり、彼がデロイで感じたものとよく似ている。

「この現状に対し、何かできるならそうしたいと思う。だが、王家にはそれを解決する手立てがない。今回のように、不幸がやってくるのを待つしかないのだ。お前のような者なら今のままでよいと言うかもしれぬが、ことの根本はそこではない。問題があってもそれが見えず、手段がなくともそれが判らない。そんな状態にありながら、王家はメディトリアに君臨し続けてきた。ご祖先たちが良かれと思って創り上げた秩序ではあるが、その箍が強すぎたのだ。今まではそれが幸いしたが、これからは災いとなる。アルダネス王朝の命脈も、いずれは尽きよう。しかし、この国の民を道連れにはできぬ。今後、お前たちの支持を頼りに、王権はより強まるだろう。危機への対処が、その口実となる。玉座は力に支えられ、さらに高く掲げられるのだ。そして、もし我ら王家が新たな正義を見出せぬなら、それはいずれ地に投げ落とされよう。どのように頑丈な器であろうと、砕け散るに違いない。――確かに、それは混乱かもしれぬ。だが、いつか誰かが、その幕を引かねばならんのだ」

 その表情に、かつてない厳しさが漂う。イド・ルグスを一瞥し、彼女が口を開いた。

「私は、あくまで私の道を行く。従う気が無いのなら、兵の家を去れ。さもなくば、直ちに策戦を用意するのだ。敵は、すでに目前にいる――」


 彼が聖密院を出た時、すでに日は傾き始めていた。営地へ帰り、門を潜り、厩舎へ行き、馬に乗った。そして、ここに来た。夜の闇が、大地へ浸みている。鞍の下に敷いていた毛皮を身にまとい、イド・ルグスは腰を落ちつけた。見上げた空に、星々が輝いていた。

 しかし、視界にある光の明滅も、それを取り囲む闇も、彼の感情に何も訴えかけてこない。心の中は、そこに満ちた水が凍りついたかの様に、何を入れることも出すことも出来ない空間だった。この国の人々にとってメディトリアは天賦の地であり、聖神が自分たちに目を向け慈しんでいると信じて疑わない。輪神たちと取り交わした聖約によってそれは約束され、神託の存在こそがその証明であった。当然イド・ルグスもそういった考えを持ち、それは決して軽々しいものではない。ゆえに、現在の状況において七転八倒するような苦悩を覚えたとしても、無理のないことである。だが、今の彼にそこまでの感覚はなかった。少年の頃までは、聖約や神託といったものを無垢に信じていたのは確かである。やがて従士となり先王の注目を得たイド・ルグスは、徐々にではあるが責任のある役職を与えられた。もちろん部下には不信心な者もいて、彼らには己の言動で信仰を示してやるしかない。王家においては特に、そのような人間であることが重要な立場へ招かれる条件でもあった。だが、彼がそういった段階を一歩ずつ登るたびに、信仰に対する意識は次第に変化してゆく。自身がその姿勢を崩すことは禁忌となり、それを示す皮相的な態度こそが重要とされる主客の逆転に気づき始めたのである。また必然的に、そういった制約は難題を解決する上で足かせにもなりうる。もし、そのねじれが地位の高い人物ほど強くなるのなら、頂点に位置する者には何が求められるであろうか。それは矛盾であり、逆説であった。彼の信仰とはいつの間にか、その事実から目を背けるための自己欺瞞に侵食されていたのかもしれない。あるいは、そこまで見透かされて自分が選ばれたのか。忸怩たる思いが、イド・ルグスの胸に去来する。

 長い間、ただ時が過ぎるばかりであったが、ふと気づく。要するに、これはボルボアン様の思召しなのだ――。現在の王、つまりダナ・ブリグンドは、まだ少女といって差し支えのない歳である。いくら頭脳明晰といえど、メディトリア全土を統べる王朝を主宰するには、幼すぎるといってよい。ましてや、現在の難局において自己の論理をこれほどにまで先鋭化させ、厳しい選択をこの国に課そうというのである。それは、単純に彼女だけの意思と動機で行えるものとは考えがたい。つまり、先王が在位であった時期に王家のあるべき姿が方向づけられ、やがては実行に移されるものとして伝えられたのではないか。その強権的な言動に目を奪われがちであるが、聖密院という伝統の中枢にありながら時代の先を見極めんとする彼女のひたむきさは、先王とよく似ている。そして、彼は今ようやく、そう思えるようになっていた。

 もはやイド・ルグスは、王の主張を奇異なものとは感じていない。そもそも、彼が王に問いたかったのは、この国が延々と守ってきた秩序の重みについてであった。絶対的ともいえる意味を持っていたそれが、現在の彼にはメディトリアを構成する要素として認識されている。その中においては神託の出所という重大事も、眼前の星ひとつに等しい輝きでしかない。見上げる夜空に、光がきらめいていた。だが、それを取り囲む闇は深く、そして暗かった。

 ――聖神は、確かにいる。天と地がこの世にある限り。だが、その存在は、我らを見てはいない。

 イド・ルグスは首筋に粟立つもの感じた。胸中に充満する、その感情を噛み締める。それは、己の理解が及ばぬものへ恐怖によく似ていた。この国の人々は、神話や聖約といった大いなる物語を共有している。たとえ自身が取るに足りない存在であっても、その役割を自覚することで、全体の一部としての己を意識できた。それは、精神的にも物質的にも、手の届く範囲の環境から引き出せる充足に対して、可能な限り依存しないという生き方でもあった。そういったものを精神の核とする彼らにとって、それが不可能になる事態を想像することは、不安を超えて恐れに近いものといえる。

 だが、そういった思いに追われるイド・ルグスの心は、ある意味で囚われから解放されつつあった。人間であるなら誰しも、その芯に正義という主観の根本がある。是非を問うためのそれが、客観の視点からは如何に無意味なものであろうと、いやそうであるが故に、それは彼の感情の拠り所だった。信仰を失った訳ではないが、その大半を脱ぎ捨てたといえるイド・ルグスの心には、むき出しの正義が姿を現していた。

 やがて、彼の瞳に捉えられた星辰が、その輝きを増し始める。夜は完全に深まり、漆黒の空でそれは、より鮮やかに燃えていた。膨大な光点がゆらゆらと揺れ、天を照らす。降るようなその星空は、やがて地平の境を侵すかに思えた。その混沌とした蠢きを、流星が切り裂いてゆく。夜が更けゆく中、イド・ルグスはいつまでもそれを見ていた。


 曙の頃、彼方の山稜から駆逐された闇は、頭上へ向けて徐々に去ってゆく。石社を囲む林の奥から、鳥たちのさえずりが聞こえている。そして、木々が穏やかさを取り戻し、静寂が再び辺りを包むころ、古びた遺跡は元通りの孤独な姿を取り戻していた。


      †      †


 天幕の中で、スタイン、シュマロ、オフィル、そしてリュコスの四人が立ち尽くしていた。ひと通りの説明を終えたイド・ルグスが、四人の返答を待った。誰も、声を出そうとはしない。二、三度ほど眼を瞬かせた後、あくまで冷静を装ってスタインが言った。

「――お前、正気か?」

 だが、彼の頬はまだ、妙な具合に歪んでいた。シュマロたちも、同じような顔をしている。四人の反応はイド・ルグスの予想通りであったが、彼らにとってイド・ルグスの策戦は、その見積もりをはるかに超越した位置にあった。その全容を知った今も、慄然とした空気が濃く残っている。彼らの様子を見て、イド・ルグスは先ほど語った策戦の要点について説明した。眉を寄せて聞く四人に、変化はない。しばらくして、スタインが言った。

「もう一度聞こう。お前はこれが、本当に正しいと思っているのか?」

 彼らも、理屈の上では全てを理解していた。問題は、それ以前にイド・ルグスの精神状態が正常なのか、という事である。穏やかな様子で、彼が答えた。

「現状における唯一の選択である以上、私はそう考えています」

 イド・ルグスに迷いは無かった。この計画の危険性は、彼も重々承知している。オシアで帝国との決戦を予感してから、練り続けていた策戦のひとつであった。だが、内容の突飛さはスタインら四人の反応をみても明らかであり、それを実行するなら内外に相当の反発があることは確実である。王家の内部対立に解決の糸口はなく、さらに領家との関係の不穏さが加速する現状で、こういった策戦を推し進めることは火に油を注ぐ行為に等しい。彼にとって、この案はあくまで思考上の実験であり忌避すべきものであったが、今は違う。この策戦への自己評価が一変した事と、昨日の王との謁見は、確かに無関係ではない。だが、それは王の意見に同調した彼がその分別を弛緩させ、積極策という博打に魅了された訳でもなかった。この策戦が選択された理由は、これが少なくとも領民にとって最も安全であり、また事態の最終的解決が可能であると気づいたからである。とはいえ、これまでイド・ルグスはそういった点にあまり目を向けておらず、なぜこの案を着想したのか彼自身も説明することは難しい。しかし、現在の認識において最も優れているのがこの策戦である以上、彼は四人の理解を得られるまでその理を説く覚悟であった。

 イド・ルグスが口を開こうとした時、スタインがそれを遮る。

「説明は、もういい――。確かに半端なやり方では勝てまいが、それにも限度はある」

 四人にとって、この計画は尋常なやり方から飛躍しすぎていた。そもそも、彼の言うようなことが実際に起きるのか、まったく見当がつかない。イド・ルグスはその成否がすなわち策戦の成否ではないと説くが、スタインたちの認識は全くの逆であった。諤々と議論を交わす両者の視点はどこまでも遠く、その口調からは徐々に冷静さが消えてゆく。

「……イド、何を考えている。貴様は、自分ひとりの力で師士になったつもりか? これは兵の家に与えられた、絶好の機会でもあるのだぞ。儂たちがこれまで積み上げてきたものを、お前は何だと思っているんだ?」

 その時、シュマロが言葉を挟んだ。

「スタイン殿。……少々、議論の筋が違っているのではないか」

「何だと……。どういう意味だ?」スタインは、徐々にその表情を紅潮させる。

「確かに、ルグス殿の策戦は奇抜だ。はっきり言えば、狂っている。だが、その問題はあくまで実現の可能性にあるというのが、私の正直な意見だ。そう頭ごなしに否定するのは、いかがなものか。構想の通りに事が運ぶなら、最も勝利に近いやり方ではある。それは、間違いない」

 さらに、オフィルとリュコスも同じ見解を示す。最後に、リュコスが言った。

「現状において、我々が危険を冒さずして助かる道など無いのだ。これが成功すれば、敵は対応できまい。帝国にとってそれは、正に悪夢である。もし我々が彼らの立場なら、この状況を最も恐れるだろう――」

 沈黙の後、シュマロら三人は小さく頷く。そして、徐々に議論の風向きが変わってゆく。スタインは反対の立場を変えなかったが、それに対しこの三人は理詰めで対抗する。実際の力関係はともかく、理屈の応酬ではスタインが不利であった。さらに彼らは、自分たちの言葉によって賛成の立場を強めてゆく。完全に孤立したスタインが、各々の意見が覆らぬ事を見て取ると、感情的に叫んだ。

「この、糞ったれどもが! 手前ら、儂を虚仮にする気か?」

 その場が、静まり返った。スタインの形相を、皆が見ていた。彼の表情が、イド・ルグスに向けられる。

「……イド、何故だ? どうして貴様はそうなのだ? 肝心な所で、お前は誰にも相談せず怖ろしい事をやる。お前を後押しをする、儂の立場を考えたことはあるのか? いつまでも儂が、笑って許してやるとでも思っているのか……?」

 だが、意外にもスタインの態度に反発したのはシュマロたちだった。逆上したスタインの怒声が響く。彼らはイド・ルグスを支持し、議論は激しさを増す。次第にシュマロら三人の言葉からも冷静さが消え、彼らの本音が見え始める。

「お見苦しいですな、スタイン殿! この期に及んで、貴方の私情を慮る余裕があるとお思いか。我々とて、いつも貴方に従うという訳ではないのですぞ……?」

 そういったやり取りの末、スタインがようやく折れた。渋々ではあるが、彼が最後の賛同者となる。だが、最大の問題である実現の可能性について、現時点でその可否を判断する手段はなかった。その後、成功の確率を少しでも高める方策について意見を出し合う。スタインは不興の様子で早々とその場を去っていたが、シュマロらはさっそく準備に取り掛かる次第となった。これまでになく頼もしい表情を見せる三人にそれを任せ、イド・ルグスは報告のために聖密院へ向かう。

 外出を隊士に言付け、彼は営地の裏門へ向かった。その時、不意に声をかけられる。イド・ルグスを呼び止めたのは、スタインだった。

「イド、首尾はどうだ。……奴らの協力は、得られそうか?」戸板に寄りかかった彼が、問いかける。「まあ、あの様子なら、結果は聞くまでもないな……」

 目をぐりぐりとこすって、スタインが眠気を払った。ここでずっと待っていたであろう彼の言葉を聞き、イド・ルグスの瞬きが止まる。だが、すぐに何かを悟ったようだった。

「スタイン殿……。先ほどの振る舞いは芝居、という事ですか……?」

 あくびをして、スタインが言う。

「……奴ら三人は、あれでも賢い。理に適ったことはすぐに判るが、良くも悪くもこの儂の顔色を窺っておる。それ故に、優れた知恵がありながらそれを持て余しもする。とはいえ、今回ばかりはそれでは困るのだ。奴らが全力を尽くすよう、ああせざるを得なかった。その心の壁を作ったのが儂である以上、言葉だけでそれを促すのは偽善でしかない。……むろん儂も、お前に協力させてもらうぞ」

 スタインが、気だるそうに話す。彼に向けられたイド・ルグスの眼差しが、敬服の色を帯びる。それを見て取ったスタインが、自嘲気味に表情を緩ませて言った。

「イド、さっきお前は驚いていたな。という事は、お前もまだまだ青い。が――」

 彼の笑みが、寒々とした気配を放つ。

「これだけは、言っておく。あの時、儂が言った事の半分は本気だった」

 イド・ルグスを見る。沈黙が、門外の喧騒を消し去っていた。

「……早く行け、イド。こうなった以上、何があろうと絶対に迷ってはならん」

 そう言って、腕組みをしたまま通りの方を指した。だが、その頬には微笑が漂っている。彼の前を過ぎ、イド・ルグスが門から出た。

(シュマロ殿、オフィル殿、リュコス殿、そしてスタイン殿……)

 続く言葉を胸に留め、彼は営地を後にした。


      †      †


「もう、よい。これ以上の説明は、必要ない……」

 そう言って、王が口をつぐんだ。唇が、わずかに震えていた。明らかに動揺している。

「……他の士隊長たちは、何と言っている?」

「四人全員の賛同を、頂きました。すでに、彼らと共に準備を進めております」

「そうか……」

 小さく答え、表情に陰をつくる。そして、視線をイド・ルグスに向けると言った。

「この策戦について、領家の当主たちの了解を得ることは出来るだろう。お前の言いたいことは、充分に解った。私が、何としてでも呑ませてみせる。だが――」

 沈痛な瞳だった。

「――この策戦は、余りにも危険すぎる」

 王の姿には、逡巡がありありと浮かんでいた。乾ききった正殿の空気が、肌を刺す。イド・ルグスが、静かに答える。

「ですが、領民の無事を期すことは出来ます」

「……お前たちとて、この国の民には違いあるまい」

 独り言のようにそう言い、彼女がイド・ルグスに問いかけた。

「ひとつ、聞きたい……。最終的な目標については、どう考えている?」

「……端的に申し上げれば、デロイを滅ぼすという事になります」

 無言をもって、王は応える。その苦悩は、さらに深まったようだった。彼の言葉を裏返せば、自らが滅ぶ可能性もあるという事になる。正直な所をいえば、イド・ルグスにとってもこの策戦は、狂気の領域にあるのかもしれない。

 だが、これしかないのだ。彼はそう思った。確かに、これを承服することは王にとっても厳しい選択であろう。それをひしひしと感じつつ、イド・ルグスはその感情を微塵も表さなかった。厳しい眼差しを、決断を迫るように彼女へと注ぐ。

 唇を噛む王が、玉座の肘掛を指先で弾く。初めて目にするその仕草を、イド・ルグスは無言で待った。彼女が、小さく息を吐く。やがて、静かに言った。

「――いいだろう。お前たちがそうであるなら、私も覚悟を決めよう。だが、策戦が始まる前には可能な限り、兵たちへ家族と過ごす時間を与えてやって欲しい。頼んだぞ……」

「……御意にございます」

「王家の持つ統帥権を、お前に与える。今後、この策戦を知る者は、お前たち士隊長の五人、領家の当主の三人、そして私になる。戦役が始まるまでは、これを誰にも漏らしてはならぬ。領家の承認を得られた後は、士隊長の誰かを各家に派遣し、指図を行え」

 深々と頭を下げ、イド・ルグスが命を受ける。それを見て小さく頷いた王が、視線を鋭く絞った。しばらく見据えて、彼に告げる。

「私は、最後までお前たちに随行する。当然、拒むことは許さん。輪神たちも、この戦役の結末を知らんと欲していよう。そのつもりで、存分に戦え。お前は、メディトリアの鉾になるのだ。この国の、いやこの世の歴史に、その刃の跡を永久に刻み付けろ――」

 二人を包む空間に、王の声がしんと響いた。それ以上の言葉は、交わされなかった。メディトリアに、帝国軍が迫っている。王都エスーサで、戦端は静かに開かれた。



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