【第六章】陵の下で


 メディトリアは、神々の創った庭園のようであった。

 それは、頂に銀雪を抱く高山から始まる。流れ出るせせらぎは所々に美しい湖を形作りながら、青々とした草原を這うように下り小川となった。流れは低木の群がる川筋を経て、緑の濃い山々の狭間を抜けてゆく。次第に広くなる流域は緻密な農地と小集落によって満たされ、支流はやがて大きな川となる。

 水辺には街が造られ、そして都があった。理石のうず高く積まれた宮殿の許では多くの民が暮らし、地を耕し、鎚を叩き、物をひさぎ、芸を愉しむ。人々のその様子は都の外にも遍く拡がり、誰の所領であっても秩序が保たれぬ場所はなかった。彼らの繁栄は水の流れが尽きるまで続き、やがてそれを見届けた川は険難な山脈へと消える。

 そのひとつがヒメル川であり、もうひとつはアブネ川とよばれた。ヒメル川の水はヒメル死湖で地下に潜り、アブネ川の水はイガラの瀑布で空に撒かれる。その行方を追うことも、遡ることも出来ない。ここが庭園の終わりだった。

 彼らの住むこの世界は、太陽と大地から始まったとされている。その後の事は神話として伝えられ、今では次のように語られている。

 かつて、太陽は円くもなく熱くもなかった。また、大地は平らでもなく冷えてもいなかった。それらはひとつに繋がっていたが、やがて二つに分かれた。その結果、太陽と大地は今の姿になった。この時、陽神イシンと地神ルフォイが現れた。陽神イシンは雲を生み出し、雨と雷で大地を削った。そして地神ルフォイも月を生み出し、夜の闇で太陽を隠した。この時、雲神グリフと月神ピアが現れた。

 ある存在から相反する二つが分離し、さらに同類を生じて数を増やす現象を『転』という。生み出されたその一群は『輪』とよばれ、元始の転では四柱の聖神が出現した事になる。さらに、これらの聖神は次の転における源となり、その延々たる連鎖がすなわち彼らの神話であった。神々とはそういった輪の集合であり、故にそれは輪神とよばれる。

 そして、この陽神イシンと地神ルフォイの二柱が『天地紀(ヨトウィン)』の始まりとなった。紀とは神話における時代であり、その次は『生命紀(ゼシントァ)』、そして『自然紀(イェトンテ)』と続き、やがて『霊理紀(カトゥイジン)』、すなわち今に至る。この神話において人は自然紀に生まれ、その最初の世代が祖神リギドとなった。

 霊理紀の始まりとなった聖神は、霊神プルと理神ダルハである。霊とは形のないものに作用する法則であり、霊神プルは言語、哲学、算術、芸術などを司る聖神の祖となった。理とは形のあるものに作用する法則であり、理神ダルハは工学、軍事、技術、医術などを司る聖神の祖となった。この二柱以降、全ての聖神は文明的な概念の具現として生まれる様になる。霊理紀とは要するに、それを唯一理解する人間のための時代だった。しかし、そういった深遠な理解は神祇官たちの領分であり、大衆における神話は世界の成り立ちを説明する壮大な創世物語として、そして歴史や娯楽と結合した身近な民族伝承として伝えられていた。

 一年に四度、王は輪神と向き合い、祭祀を執り行う。それと同時に様々な祭りも催され、メディトリアの人々の楽しみとなっていた。そういった王家の統治は、史実の上でもすでに五百年を超えている。

 この平和な時代によって、陸の孤島といえるメディトリアは確実に繁栄していた。彼らの唯一の悩みは、その繁栄ゆえの現象だった。領内の開墾可能な土地は全て消えうせ、ここ百年は人口の増加が頭打ちの状態となっていた。しかし、それ以外に問題らしきものを抱えることもなく、彼らはこれまで過ごしてきたのである。

 この事を可能にしたのが、神託がもたらす知識であった。記録にあるものでは薬理や疾病に関する事柄が多く、特に薬についての知識はメディトリアの代表的な貿易品となるまで発達した。閉鎖的な環境にあるこの国で、病魔は逃れようのない災厄だった。それが猛威を振るうたびに人々を苦しめていた悪疫は減ってゆき、やがて神託はこの国の安泰と入れ替わるように姿を消した。

 そして数百年の長きにわたる年月が過ぎ去り、神々の沈黙が破られたのは一年前の事であった。この地に禍ある時、神託が下る。それが彼らにつたわる言葉であり、伝承の起源は、メディトリアにかつて外寇があった時代に遡るだろう。その侵略は、前年の戦役と同じくガルバニアからであったと伝わっているが、これについては余りにも古い出来事であるせいか、記録が残っていない。だが、その時もおそらく聖神の加護に恵まれたであろう事は、多くの人々が信じるところであった。


      †      †


 聖密院の正殿に、王がいた。エスーサへの帰還から間もなく、家宰サンク・タルムが開いた諮問の場だった。玉座の前には、家宰、尚書長、主膳長の三人が並び立ち、王の傍には侍従長ジジ・スタコックが侍している。分厚い毛織物の上衣を羽織った尚書長が、軽く咳払いして口を開いた。

「――陛下。わたくしが役職を仰せ付かっておるように、陛下にもご責務がおありでしょう。ですが、各々の分限を超える事案につきましては、必ず合議で決するのが王家の掟でございます。ましてや、帝国に対し兵を差し向けるというなら、当然我々に……」

 尚書長が暗い声で言葉を連ね、オシアでの王の独断を回りくどく諫める。彼は尚書官の長だった。王家の政務を一手に引き受け、エスーサを含め所領への具体的な施策を全て差配する。所領の大半は家外の官である地領主たちが治めていたが、彼らに対する尚書長の影響力は絶大であった。

 彼がようやく意見を述べ終えると、次に主膳長が口を開いた。尚書長と同じ小言めいた言葉を聞きかされ、ダナが小さく息を吐く。主膳官たちは財務を担当し、王家が得る全てのものは彼らが管理していた。それらを必要に応じて分配、貸与する権限を持つこの部職は、他の王の輩から恐れられる存在でもあった。

「とにかく、陛下におかれましては今後、我らの存在をお忘れにならぬよう、胆にお銘じ下さい。よいですな、陛下……?」

 主膳長の言葉を継いで、侍従長が玉座の下から念を押す。仕方ない、といった顔で頷くダナを見て、尚書長と主膳長が小さく一礼した。その様子を確認した侍従長が、視線を家宰に向ける。このジジ・スタコックを筆頭とする侍従官は、王と他の王の輩との中間に位置し、両者をとりなす特殊な役職であった。尚書、主膳といった各部職はその長から命令が下るが、侍従官だけは王から直に命を受ける。そのため、彼らには王と深く結びつく者も少なからずいた。

 基本的に王の輩の職は、その役の軽重を除けば完全な世襲であった。部職の役は、最高位の長は家宰が、それ以下の役はその長が人事権を持つ。たとえ王であろうと、彼らの同意無しにその任命を行う事はできない。従って王の輩においては、家宰が直接的に、あるいは間接的に大きな力を持っていた。だが、彼の恣意が全く及ばぬ例外として、先に述べた一部の侍従官と神祇官がいた。

 神祇官とはつまり王族であり、王自身が神祇長を兼ねる。彼らは各地の祠に配され、王の子孫は必ずこの職を与えられた。現在の王であるダナも、かつては神祇官としてエスーサの王陵を預かっていたのである。

 侍従長が、玉座の下から家宰に発言を促した。尚書長と主膳長の二人はこの家宰の命によって呼ばれており、侍従長も彼へ加担している事は明白であった。彼らを見下ろすダナの表情は、気丈ながらも硬さを隠せない。会合は王からの諮問という名目ではあったが、実際には家宰が全てを主導していた。

 段取りどおりに発言の機会を得た家宰サンク・タルムが、王に対し長旅の疲れを慮る。だが、その穏やかな会話の中でも、二人の眼つきは鋭く尖っていた。さらに、家宰はオシアに集結するデロイの大軍のことに言及して、静かに言った。

「あえて、陛下にご提案致したい。現状において、帝国とは慎重に接するべきかと存じます。これについて、我らの意見は一致しております。彼らと対立することは、賢明ではありません。我々の力にも限りがある以上、危険な賭けは慎んで頂く必要があります」

 静まり返った王の間の空気が、急速に冷えてゆく。家宰を見るダナの面持ちは、微動だにしない。玉座の下で、侍従長が普段はかかぬ汗を感じる。張り詰めた緊張の糸が、きりきりと鳴るかの様だった。沈黙の中、厳しい顔つきの家宰がさらに言葉を加えた。

「これは、陛下の独断がもたらした結果とお心得頂きたい」凍てついた眼だった。「オシアで賭博性の高い外交を行い、領家へ無理な派兵を求めた事が、そもそもの間違い。帝国から危険視され、領家からも距離を置かれ、すでに我々は孤立しております」

 だが、ダナの受け答えはあくまで冷静だった。透き通った声が、王の間に響く。

「その場合、最善をもって穏便に事を済ませたとしても、帝国に対し何らかの譲歩は免れられん。それについては、どうする気だ?」

「……たとえ、多少の所領と引き替えになったとしても、王家を存続させることは出来ます。これは、領家においても同じこと。それが可能なら、奪われたものもいつかは取り戻せましょう」

「お前も、オシアの惨状は知っておろう。彼らは国中の緑を奪われたのだぞ。メディトリアも同じ憂き目に遭えば、我らが生きてゆくことは出来まい」

「しかし、同じ属州においてもディネリアなどは、いまだ平穏を保っているのも事実。我らの立ち回り次第、という事でございます」

「それは、奪うものが無いからだ。奴らがあの地に期待するのは、黒塗りの野蛮な戦士ぐらいだろう」

「そうであるなら、なおさら好都合。この地にも、強兵はおりまする」

「……つまり貴様は、それをデロイに売り渡せというのか?」

 言葉の穏やかさとは裏腹に、肘掛の上にある小さな拳が震えた。だが、それを見つめる家宰の表情は、ぴくりとも動かない。彼の右から、声が上がった。

「その原因は、陛下ご自身にもおありではないですかな?」尚書長だった。「帝国の思惑が、仮に陛下の仰る通りであるとしましょう。しかし、それと我らの態度とは全く別のこと。国の大事を決める以上、王であっても独断してよい筈がありません。オシアにおいて陛下は、その事を無視された。我々だけならいざ知らず、それを領家に対しても露呈なされたのは、陛下ご自身でございましょう」

 さらに、家宰の左から声が上がる。「報告では、いずれの領家も陛下のご帰還を知りながら、何の動きも見せてはおりません。エスーサに使いを寄越すでもなく、これは明らかに不穏な兆候でございます。彼らに対し、陛下が今後も強硬な姿勢で挑むなら、何が起きてもおかしくはありません」

 主膳長が冷やかに言う。オシアから帰ってきた彼女に、この事はまだ報告されていない。さすがの王も、動揺の色を滲ませる。すぐに元の表情を取り戻したダナであったが、その仕草は落ち着きを失っていた。

「想像以上に、領家は我らへの信頼を失っております。失策でしたな、陛下……」

 追い討ちをかけるように、家宰が言った。それを受ける彼女に、言葉は無かった。爪先に付けた指飾りを、しばらくの間かちかちと鳴らす。溜め息をつき、口を開いた。

「――では、まず領家の意向を確認する事が先だな。それでいいか……?」

 精一杯の威厳と共に吐き出した言葉であったが、妥協の響きは隠せない。無表情を装いつつも、それを聞く家宰は若干の余裕を取り戻していた。

「ひとまずは、それで良いかと存じます――」

 深々と一礼する。暗がりに隠れた彼の口元は、苦笑を微かに浮かべていた。


      †      †


 王都エスーサから川を下ると、家都カシアスにたどり着く。その街は、ヒメル川流域でカピリノとデファニノの二つの山脈が最も接近する位置にあった。王都と同じく周囲を濠と城壁に囲まれたその姿は、メディトリアにアルダネス朝が成立する以前の戦乱の世を偲ばせる、数少ない遺物でもある。

 カシアスから見える川のほとりは、水気に富んでいた。密集した下草が生え、森のように木々に覆われているが、流域に生える木はあまり高くない。水辺を好んで生える常緑樹は幹を横に伸ばし、その背丈より枝振りの広さを稼ぎ、所々にある隙間ではさまざまな低木がこぼれた光を頼りに茂っている。

 だが、夜の明けたばかりの今、川面からの濃い霧がその景色を遮っていた。カシア家当主、バルシオ・カシアは眼を皿のようにして、霞の彼方を窺う。衛兵の報告を受け、酔いも醒めぬまま上がった門楼であった。

 朝日を受け次第に晴れゆくその先に、軍勢がいた。完全武装の兵士が、びっしりと並んでいる。密集し、完全な矩形を描く四つの方陣を見て、バルシオ・カシアは腰も抜かさんばかりに驚いた。

(――あれは、王家の軍ではないか!)

 カシアスに王家の使いが訪れたのは、昨日のことであった。デロイ帝国への今後の対処を決するにあたり、まずは領家としての意見を求めたい、という王の親書はすぐさまバルシオ・カシアに届けられ、その日のうちに領内の家士へ緊急の召集が命ぜられた。

 夜になるとカシアス近隣の家士たちは集まったが、遠辺を治める者たちは明日の到着になるものと思われた。家都で残りの者を待つ彼らは酒宴を開き、その飲みっぷりを披露する。貴顕の衆としての誇りは高いが、彼らは要するに、そういった消費がその主たる役割であった。その彼らが、自らの分け前を割いてボルボアン王の求める騎兵や楯兵をカシアスの戦いまでに擁することが出来たのは、ひとえに王家への信用ゆえであった。

 だが、彼らが内心で孤児たちの集まりと蔑んでいた王家の軍が用兵上の規範と示され、さらに従わざるを得なかった事は、領家の家士たちの反感を少なからず買っていた。そういった様々な障害を見事に乗り越えたボルボアン王が、ようやくたどり着いた戦場に立つ事なく斃れると、彼らの心も次第に冷めてゆく。そして、現在の彼らが新王ダナ・ブリグンドの強引な指図に不満を抱くことは、否定できぬ事実であった。

 朝の光を受け、彼方にある鉾の穂先がきらめく。霧が晴れると、軍勢の一人ひとりの姿を窺うことができた。バルシオ・カシアには、兵士たちの視線が全て自分を捉えている様に思える。さらに、積み上げられた黒い鉄の塊を見ると、彼は背筋を震わせた。先王から、城門すら板切れのごとく吹き飛ばすと聞かされていた兵器だった。

 完全に酔いの醒めた彼が、昨日の親書の事を思い出す。

(馬鹿な……。王家では家宰らが帝国との交渉を主張し、陛下と対立していたはずであろう。親書は、そういった経緯で発せられたのではないのか。だが、あの軍勢は明らかに王家の全兵力……)

 冷たい汗が額を流れ落ちる。いかに王家の軍といえど、無断で領家の所領へ踏み入ってよい訳がない。これほどの軍勢が領内の誰にも発見されず、まるで空気のように自分の喉元まで忍び寄ってきた事が、彼には恐ろしかった。

(…………恫喝、これは明らかな恫喝だ……!)

 バルシオ・カシアはその時、眼下を騎兵が駆け抜けた事にようやく気づいた。それは数騎の集団で、城壁の周辺を大胆にも探っていた。のけぞるように窓から下がった彼は、青ざめた表情のまま門楼の出口を探す。

(冗談ではないぞ……。まさか王家は、我らを討とうというのか……)

 石壁を掴む彼の手が、震えていた。


 自分たちを覆い隠していた濃霧は消え、カシアスの街がその美しい姿を現していた。方陣の正面に、イド・ルグスが立っている。朝には開けられるはずの街の門が、硬く閉じられていた。彼は、楼上で慌ただしく動く門衛を見ていたが、やがて背後へ視線を向ける。

「スタイン殿……」

 呼びかけたものの、続ける言葉に迷った。イド・ルグスが困った眼をする。彼には、ファー・スタインが影のように寄り添っていた。

「……何だ? いや、何でございましょう、だな」

 いかにも小者、といった風に肩を縮こまらせた彼が、上目遣いで答える。彼のにやけ面を見て、イド・ルグスは複雑な表情で首を戻す。スタインが言った。

「そうだ、そうやって前を見てろ。儂は、お前の副官なんだからな。兵の家の全員が、これを見ている。どういう事か、解るな……?」

 王から直々に師士の座を拝し、士隊長の中でも一番の実力者であるファー・スタインを従える。それは、王家の軍勢を完全に掌握するという事を意味していた。イド・ルグスが身に付ける簡素な胸甲と具足をじろりと見て、スタインが呟く。

「……その冑も、後で改めんとな」

 彼の装備は、その多くが革であつらわれていた。金属はごく一部に使われ、それ以外の部分は全て柔らかく使い込まれている。長年愛用し、戦鉾を振る上で必要な冑であったが、士隊長の誰の装備より見劣りすることも事実だった。

(つまり、師士に相応しいものに変えろという事か……)

 イド・ルグスは、スタインの考えている事がよく解っていた。五人の士隊長が別個に率いていた兵の家であったが、この集団には今、団結の核と求心力が必要とされていた。確かにそうではあるが、と思う。

 夏の暑さが、徐々に地面から這い上がってくる。イド・ルグスが手を振ると、林に隠れていた騎兵が隊伍を組みながら出てきた。抱鉄の前まで馬を駆けさせると、そのまま整列する。青草の茂る足元に蹄の震動が微かに伝わり、背後のスタインがぼそりと訊いた。

「おい、あれの中身は空なんだろ……?」

 彼の言う通り、用意された抱鉄の中に焔硝は入っていない。この兵器の開発とは要するに、焔硝を爆発寸前の状態に保ちつつ、なおかつ爆発させないという矛盾の解決が目的であった。しかし、何事にも完璧を期待できる筈はなく、本物の抱鉄をこれ見よがしに積むのは正気の行いではない。

 イド・ルグスが頷くのを見て、スタインが額に浮き始めた汗を拭った。背後の陣容を眺め、息を大きく吐いて言う。

「長丁場になるかもな。領家の連中が、さっさと腹を括ってくれりゃあいいんだが……」

 振り向いた彼が拳を振ると、楯兵が動いた。それぞれの士隊長に従い、半数が跪休する。さらに背後の林の中では、下馬した別の騎兵の一隊が、交代のために待機していた。

 だが、イド・ルグスは領家の者たちが、何らかの反応を示すまで待つ気はなかった。正午になれば、自らが城市に赴いて談判する。スタインには言わぬが、そう決めていた。

(――この様な威圧で、解決すべき問題ではない)

 それが、イド・ルグスの率直な意見だった。そして彼は、自分自身と、スタインを含めた自分以外の軍勢との間に、微妙な温度差があるのに気づき始めていた。背後に並ぶ楯兵たちの眼は静かな高揚に彩られ、普段通りの躁を感じさせるスタインも、その表情に底の抜けたような軽薄さがあった。さらに、馬上で隊伍を保つ騎兵たちにも、同様の昂りを見る事ができる。

 兵の家はこれまで、王家が所有する唯一の武力であり、王の所領を警護する重大な役目を負ってきた。しかし、聖約の存在がその権威を担保する現在の王朝において、彼らは必要悪ともいえた。そのため、王に仕えながら王の輩の一員とは見なされず、その一生を武芸に費やすのである。また、彼らは社会から弾き出された下層民の子供である事が多かった。メディトリアでは、罪人として裁かれたり重い過失を犯した者は、見せしめとして厳しい罰を受ける。それには、死罪ではなく土地や権利の没収といった処分が適していた。生活の手段を失う事が、彼らの世間では極刑に等しいのである。処分された者の運命は様々であるが、その子供たちが兵の家の門を叩くのは自然な事だった。それでも、従士として選ばれ、ここにいる者たちは運に恵まれている。そういった受け皿からも漏れた場合、居場所を探してさすらうしかない。だが、彼らの将来に明るい展望は用意されておらず、それ故に人々は秩序を好むのである。それは、この国が持つ厳しい一面でもあった。

 兵の家における人事は、王が管轄するとされている。だが、平時に使役するのは各部職の長、あるいは家宰だった。彼らが誰に帰属するかは常に曖昧であり、戦時の指揮権を含めて確たる規定はない。数百年を数える王朝の均衡において、それを明らかにすることは逆に危険とされたのである。そのため、士隊長において実行力は必ずしも美徳とはならず、シュマロ、オフィル、リュコスの三人はその意味で善良な士隊長だといえた。

 だが、このように日陰者の宿命を常に持つ彼らも、今は違っていた。勅命の下に神託の兵器を抱き、王家に次ぐ勢力である領家の本拠を威圧する。それが、現在における彼らの姿であった。戦うことだけを期待され、それ以外に顧みられる事のなかった無名の兵士たちは、もういない。

 ごうん、という重々しい音と共にカシアスの正門が開かれた。半開きの扉から三騎が出てくる。先頭の一匹は銀色の葦毛で、鞍を雉の羽で飾っていた。バルシオ・カシアの使者である事は間違いなかった。馬に鞭をくれながら橋を渡り、土埃を残して王都へ続く街道を駆け抜ける。

 三騎が姿を消すと、王家の軍はしばし沈黙し、そしてどっと沸いた。スタインの笑い声が空に響く。彼らにこの状況が何を意味するか、解らぬ者はいなかった。自分たちに恐れをなし、狼狽気味に使者を送り出した領家の者たちに、罵声を浴びせる。興奮して楯を地面に打ち付ける者、脱いだ兜を高らかに掲げる者。彼らを率いる士隊長らも、昂った表情を隠そうとしない。

 そしてイド・ルグスは、この光景を見たことがある、と思った。かつて帝都に単身で赴き、軍団の丘に起居していた頃。プルー・ダ・プー率いる第二軍団がキリアへの派遣を命じられた時の、欲望と恐怖をない交ぜにした将兵の興奮と高揚。あの時、全くそれに共感を持たなかった彼も、今は違っていた。共に戦い、共に勝ち取る。そこに宿命を甘受する潔さなどなく、生々しい感情だけが脈打っていた。そして心に伝わったその熱が、彼の感じていた温度差を埋めるかに思える。

 だが、イド・ルグスはどこか硬い表情で彼らを見ていた。余りにも早い仲間たちの変化が、じりじりとした何かをその心に残している。また、彼が王に協力を誓ったのは、あくまで立場の弱い彼女を助け、政治的均衡を保つ事が目的であった。しかし、王を巡る力関係は予想外の動きを見せており、そういった誤算も彼の感情から熱を奪っていた。

 仲間たちと同じく、彼の生い立ちも不遇であった。コノス語の弁通士であった父は、イド・ルグスが幼い頃にその生業を失った。かつては、王家の勅許を与えられた国外の貿易商が定期的にエスーサを訪れていたが、ボルボアン王が彼らの入国を禁じると、民間におけるコノス語の通訳は必要なくなったのである。身分の固定されたこの社会において、職そのものが消滅することは珍しかった。メディトリアでは、村々を巡る芸人たちですら彼らの職座組合があり、家長は必ず何らかの権利を所有していた。この国では、土地や権利を持つことが、生活の基盤である。数少ない弁通士としての生業を失った一家は、王の温情により耕地を与えられた。だが、王都を離れた彼ら三人が、村邑に馴染むのは難しい事であった。そのせいか、十年を経ずして父は亡くなり、その翌年に母も世を去った。

 だが、イド・ルグスはその事を恨んではいない。彼の父は、農夫になっても息子にコノス語を教えることをやめなかった。それは、周囲の者にエスーサでの豊かな暮らしに未練があると思わせ、帝国語であるコノス語を捨てない姿勢もまた、デロイに対する危機感を強める邑民の反感につながっていた。幼いころは理不尽に感じていたが、今のイド・ルグスは父の行いが愚かなこだわりであったと、充分に理解している。

 突然、何者かに肩を激しく叩かれ、彼が振り向いた。

「何だ、湿気た面しやがって」目尻を下げたスタインが、その首を掴んで引き寄せる。顔を覗きこみ、彼の眼が鋭く光った。「イド……。辺りが落ち着いたら、きっちり兵をまとめろ。俺の努力を、無駄にするな――」

 低い声でそう言うと、スタインは笑いながら離れてゆく。シュマロらに声をかけ、冗談交じりに言葉を交わす彼を見ながら、イド・ルグスは思った。

(……スタイン殿に、迷いはない。もう、後戻りは出来ぬ)

 彼の眼が、王都の方角を見やる。心の中に、しこりがまだ残っていた。

(本当に、これでいいのか。王は、我々をどこへ導こうとしているのだ……)

 そこには、雲ひとつ無い空があるだけだった。


      †      †


 領家からの使者が、次々と王都に到着していた。さらに、それを迎える家宰たちに、王が兵の家を掌握し、領家の所領へ向けて動員した事が報告される。この件について、王からは何の言葉もなく、全てが事後の連絡であった。オシアでの王と士隊長の対立を見て、両者が結託する事はないと考えていた彼らには、全く予想外の展開だった。

 開かれた朝議の場で、全ての領家が王家への全面協力を約束すると、デロイの脅威に武力で対抗することに重臣たちも同意した。だが、家宰らの意見は力によってねじ伏せられたも同然だった。兵の家には、帝国軍の侵攻を退ける策戦の立案が命じられた。それを王と三領家が承認すれば、メディトリアとしての最終的な決定が下される事となる。

 この一件により、王と重臣の間には深刻な断絶が生じていた。王家では、家宰におもねる者が王への協力を拒み、彼女も正殿で政務を執ることをやめた。だが、王の行動を制止する事はできず、重臣たちも着々と進められる戦役への備えを見守るだけであった。


(陛下は、何故――)

 侍従長、ジジ・スタコックは考えていた。正殿の中で、浅い息を吐く。

(――何故、我らを蔑ろになさるのか)

 幾度となく繰り返された問いを、心で呟いた。王がオシアより帰還した直後に開かれた、諮問の場での出来事が脳裏に甦る。

(あの時、陛下はあえて領家の意向を確認する方向に我々を誘導したのだ。ご自身は、その結果を知りながら……。全ては、計算づくで進められた事であった)

 考えながら、歩みを進める。他の重臣たちと比べ、彼には王の行動を理解しようとする心があった。これまでの事から、彼女が亡き父であるボルボアン王を意識しているのは間違いない。だが、単純に先王の遺志を継ぐという事にも思えなかった。現状を確認するまでもなく、王は孤立への袋小路に入ろうとしているのである。重い頭を抱え、ふらりと入った広間に家宰サンク・タルムがいた。

「家宰殿、まだおられたのか……」

 つい先ほどまで、ここでは重臣による朝議が行われていた。主のいない正殿に集まった彼らは、今後の方針をいくつか決定した。現状で最も懸念されるのが、兵の家への補給である。重臣たちは、その意思表示として王に対し非協力の態度で臨んでおり、王もまた同じ姿勢であった。だが、もし王と結託する兵の家への配給物を断てば、彼らとの衝突は免れられない。その結果、従士たちが武力にものをいわせる事態となれば、取り返しの付かぬ混乱が始まることになる。彼らの実力行使を阻止する事は、誰にもできない。

 それはあるまい、といった常識はすでに消滅していた。王と彼らによる専制の扉はすでに閂を外され、領家の当主たちもその軍門に降ったといえる。少なくとも、自らがそれに触れることを避けるため、兵の家へはこれまで通りの割当てが守られる事となった。

「……侍従長こそ、何をしておられる?」

 目を通していた皮紙から視線を逸らさず、家宰が答える。デロイとの戦いにおいて、さしあたって必要なのは食料と物資であった。何をどれだけ掻き集める事が可能か、その情報を握れば、王に対し幾らかでも優位に立てる。彼は、そう考えている様子だった。

 広間に入った侍従長が、家宰の持つ目録を眼にした。

「そんな物で、陛下のお心は動きますまい。私にブリグンド様のお考えは解りませぬが、今は我々の事を必要としておられぬのでしょう……」

 抜け殻のように呟いた。そもそも、彼ら重臣たちが慎重論を主張したのは、若き王を慮っての事でもあった。もし開戦となれば、あらゆる責任が彼女に集中する。現状の圧倒的劣勢を鑑みるまでもなく、それは余りにも過酷な試練といえた。彼らの言い分は確かに消極的ではあるが、前回の戦役で帝国に痛手を負わせたことも事実であり、交渉の余地が無い訳でもない。また、そうして時間を稼ぐなら帝国の周辺における状況変化も期待できるだろう。さらに、次の神託を授かる事もあり得ない話ではない。だが、そういった議論を王と交わす機会はなく、彼にできるのはこうして嘆くことだけだった。

 そんな侍従長を一瞥もせず、家宰が口を開く。

「お見苦しいですぞ、ジジ殿。我々は、王家そのものと言ってもよい存在。その力なくして、アルダネス朝は立ち行きません。これから、その事を陛下に学んで頂きましょう」

 それを聞き、侍従長の胸にずきりと痛みが走る。それを教育するのが、彼の役目だったはずである。即位の時点では自分を誇らしくも思っていたが、今は痛恨の念がその心を貫いていた。皮紙を丸め、ようやく侍従長へ目を向けた家宰が、穏やかに言った。

「少なくとも、ジジ殿は陛下に知恵を与えられた。ならば、ご理解下さるでしょう」

 家宰の冷やかな笑みを見て、侍従長が老いた顔をうつむかせる。

「……私の成した事など、何もありませぬ。思うに、陛下の持つ資質は、今は亡きテヘラ様より授かったものでありましょう。争えませんな、血筋というものは――」

 先王ボルボアンの第二妃は、テヘラといった。彼女はサンク・タルムの実姉であり、王家に名高い才女であった。家宰は王と同じく終身職であり、後継者は家宰自身が指名する。サンク・タルムの一代前の家宰であった彼の父が選んだのは、このテヘラだった。だが、ボルボアン王は彼女を妃に召し取ってしまったのである。全ては優秀な子を得るためであり、すでに何度かそれに失敗していた王が、万全を期して選んだ相手であった。

 後継者を失ったサンク・タルムの父は、侍従官となりボルボアン王へ仕えていた息子を呼び戻すと、次の家宰に指名した。家宰の子は様々な職を転任し、王家の全容を把握する事がその務めである。だが、サンク・タルム自身は姉を敬愛し、彼女が家宰を継ぐことを望んでいた。彼の運命も、王によって変えられたのである。だが、王妃となったテヘラはダナを産み落とすと、役目を終えたように死んでしまった。やがて、サンク・タルムの父が引退すると、ボルボアン王と家宰サンク・タルムが王家の中心となったのである。

 そして、彼らに神託がもたらされたのは、カシアスの戦いの一年前であった。侍従長ジジ・スタコックといえど、その顛末は詳しく知らされていない。ただ、王が夢の中でそれを授かったと聞くのみである。彼は、ボルボアン王がそれ以前から王陵の玄室に長時間こもり、家宰と共に過ごしているのに気づいていたが、それが何らかの儀式なのか、あるいは祈祷なのか、知らされる事はなかった。要するに侍従長といえど、王家の深奥にいる訳ではないのである。そして、その何らかの行為は王女ダナに引き継がれたようであり、教育係としての彼の役目は、事実上その時点で終わっていた。

 その後、学師たちによって焔硝が調合され、抱鉄という兵器の開発が始まった。原料は硫黄と炭、そしてメディトリアの西にあるユニオノ山脈の高山地帯から掘り出される薬石だった。それは『石の塩』と呼ばれ、神託が下されるまでこの石の存在を知る者は、誰もいなかったのである。

 だが、侍従長の言葉に対し、家宰は表情を見せない。口を開き、乾いた声を放った。

「――我らの存在は、王家そのもの。たとえ王であろうと、我々には従って頂く」

 その眼にある光を見て、侍従長は思った。この方は、自分たちとは違う。自信を失いつつある王の輩の中で、かつての自負を持ち続けている。その様子に、侍従長は少なからず安堵していた。だが、ふと考える。この方を支えているのは、いったい何なのか。先王の崩御を皆が悲しんでいる時も、この方の瞳の輝きは変わらなかった。この方は、我々とは違っている。しかし、何故この方だけが――。


      †      †


 聖密院の賓殿に、イド・ルグスが呼ばれていた。オシアから彼が帰還して、約二十日が経っている。帝国との戦いを見据え、すでにメディトリアは慌ただしく動いていた。王家は元より、カシア、ダルキア、アビウスの三領家も国軍の召集に備えて員数と馬匹を検め、兵錬に余念が無い。王の迅速な実権掌握によって、備えは着々と進んでいた。だが、前回の戦役からようやく一年を経る彼らに、その兵力の回復は望むべくもなかった。

 大聖門を独りでくぐったイド・ルグスの昇殿を迎える者は少なく、彼らもすぐに姿を消した。謁見のしきたりなどは一切無視され、すでに一対一の問答になっている。デロイ軍に対する策戦の立案を命じられた兵の家の代表として、彼は呼ばれていた。

 カシアスの戦いを行った一年前より状況は厳しく、軍略を編むことも難儀であろう、と王が慮る。しかし、その様子に深刻さはなかった。確かに軍勢の数については心細いものの、抱鉄の備蓄は着実に増えていた。学師カイネを始めとする者たちが、焔硝の調合法に改良を重ねた結果である。イド・ルグスが開いた兵の家の軍議でも、この事を受けてスタイン以下の士隊長は、事態を楽観する様子を見せていた。

 だが、王に現在の首尾を尋ねられた彼は、意外な答を口にした。

「我々がいかに戦うかも重要ではありますが、重臣の方々の協力を得られぬ現状についても、憂慮すべきかと存じます――」

 下問を無視するかのような返答に、その言葉を滞らせたダナであったが、穏やかに答えた。心苦しくはあるが、緊急時ゆえの措置である。危機が眼前に迫る中、王家内部の意思統一に時間を割く事は、致命的な過ちになりかねぬ。それが、彼女の返事だった。

 彼は、抱鉄についても尋ねた。カイネ以下の学師は家宰に与していたが、抱鉄はイコフらの王を支持する侍従官が、すでに接収を行っている。だが、その生産が中断されている事も、確かであった。

「兵器の保全には、学師の存在が不可欠です。また、現在の備蓄で充分という根拠はありません。これらの事が、いずれ致命的な過失となる可能性もありましょう」

 何事にも、優先順位というものがある。そう答えるダナだったが、さらにこの事を追求するイド・ルグスに、思わず口調を強める。

「ならば、兵器に関わる者たちを帰順させればよい。彼らは、家宰の顔色を窺っておるだけだ。強く圧力をかければ、他愛もなく屈しよう」

 さらに、物資糧秣の収集はどうするのか、王都防備の普請はどうするのか、彼が鋭く問いかける。逐一の指摘に苛立ちを隠せなくなったダナが、ついに気色ばんで言った。

「――イド・ルグス。緊急時ゆえの措置であると、初めに言ったはずだ。力による解決は、全てやむを得ぬ事である。お前は、いったい何を言いたいのだ……?」

 大きく息を吸い、目を見据えた彼が口を開いた。

「わたくしのかつて知る玉座とは、このように厳しく、そして孤独なものではありませんでした。王は、あらゆる穢れを廃したこの院で暮らし、慎みを湛えた侍従に護られ、賢明で思慮に富んだ朝臣に支えられ、この国の全ての領民に奉られておりました。その事はつまり、王が王である事の所以でもありました」

 ぐい、と顔を上げたイド・ルグスが、王に視線を投げかける。

「ですが今は、院にわたくしのように血腥き者が入り浸り、侍従の大半は仕える事を止め、臣下の者も混乱しておるのが実情です。領民がこの事を知れば、心を痛めるでしょう」

 王の静かな眼が、言葉を続ける彼を見ていた。

「確かに、帝国と戦う事に異存はございません。彼らは、欲望と恐怖に支配される人々です。その愚行を思い止まらせようとするなら、いま一度の脅威を感じさせる事が必要でしょう。我ら兵の家に属する者どもは、そのために居るのです」

 彼の声が、頭上で弧を描く理石に響いた。

「ですが、それは陛下の行いに過ちがあってよい理由にはなりません。もし、今のように強権的なやり方を続けるなら、王家の統率だけでなくメディトリアの統治そのものに、大きな変化を生じさせかねません。ならば、せめて対立を深めるようなご姿勢は避け、彼らが陛下に歩み寄る機会を設けるべきと思います。これにつきまして、何卒ご再考頂きたく存じます――」

 深々と、イド・ルグスが頭を垂れる。目を閉じて浅い息を吐き、王が答えた。

「だが、そんな事をしていては、間に合うものも間に合わなくなる。問題はあくまで時間であり、私は最も迅速な方法を選択しただけだ。オシアの惨状は、お前も見ているだろう。王家の存続という名分があっても、帝国の支配を受け入れる事はメディトリアにとって災厄でしかない。塗炭の苦しみを味わってから、失策を挽回することは出来ぬのだ」

 ゆっくりと面を上げ、イド・ルグスが口を開いた。

「……陛下、たとえ我らがその災いから逃れたとしても、今のままでは王権の歪みが必ず生じます。僭越ながら申し上げれば、己の分限を超えた力を持つことは、不幸の始まりに過ぎません。現状の王と兵の家の専横は、高く積まれた石の様に不安定なものです。それが今日における最善であると主張し、その害が将来に及ぶのを見過ごすなら、我らはあのデロイ貴族たちと何一つ変わりません。また、彼らはそういった事を皆で議論しますが、今この場で意見を述べる者は、わたくしと陛下の二人しかおりません。ならば、我々の行いは彼らより醜悪であり、それが過ちであることは聖約の文言に照らすまでもなく明らかです。このままでは王家が、ひいてはメディトリアの民が、神々に見放されかねませぬ。策戦についてはわたくしが準備を進めますゆえ、陛下におかれましては、まずは重臣の方々のご協力を得られますよう、重ねてご再考をお願い申し上げます――」

 その眼差しの中に、イド・ルグスの決意が見て取れた。いま、自分の目の前でメディトリアという世界を動かす巨大な歯車が狂いつつある。これだけが、彼がその迷いの中で正しいと思う唯一の事だった。長い沈黙があり、やがて王が口を開いた。

「――私には、二つの異なった目的がある。メディトリアを外敵から護ることは当然であるが、為政者である私はこの国の将来も視野に入れねばならん。これは、お前の言わんとする事と意味は似ている。だが、お前がまさに心配している事こそが、私のもう一つの目的であるのだ。今、はっきりと言っておこう。この先、玉座の存在によって守られるものなど、何ひとつ無い。どんな物事にも、必ず限りというものがある。もし、輪神の存在が絶対であるとしても、彼らが生まれる前には何が神であっただろうか。それは、永遠ではない。今という時代も、その断片にすぎん。我らが守る聖約の前に、聖約はあったか。おそらく、それがある期間より無い期間の方が、はるかに長いだろう。ならば、我らのすがる玉座など、実に儚いものである。どこかで誰かが、それに気づかねばならん。その判断を、王以外の何者が下せるだろうか。私は、確信をもってこの事に臨んでいる。故に、改めることは何も無い。残念ではあるが、これが私の結論だ……」

 一気に吐き出された王の声色が、微かな余韻となって漂う。露わになった彼女の思惑が、イド・ルグスの意識にねじ込まれてゆく。どくん、と彼の心が跳ねた。ぞくぞくとした寒気が、足元から這い上がる。彼が、視線を上げた。その瞳は、鈍い光を帯びている。

「……陛下。ならば、これまでの事は苦渋の決断でなく、それが目的であったと? アルダネス朝の血を享ける者として、その様な暴挙が許されるとお思いか……?」

 粘ついた声を受け止め、王が答えた。その響きは、あくまで澄んでいる。

「確かに、これまでは許されなかった事だ。しかし、それを変えた者がいる。全てを転回させる支点となり、状況は一変した。――その者とは、つまりお前だ」

 それを聞いて、イド・ルグスの鼓動が早まる。胸に絡むその言葉を否定しようとしたが、できなかった。彼の心の空白を衝いて、王が語りかけた。

「イド・ルグス、我らに残された猶予は少ない。お前も、そろそろ覚悟を決めねばならん。だが、その前に知るべき事がある。付いて来い――」

 玉座からすっと降りたダナが、ひたひたと歩いてゆく。賓殿を出ても、要所に詰める衛士がこの二人を見咎める事はない。戸惑いながらもその後を追うイド・ルグスが、足を止める。そこには三つの巨石が地面から生え、その上で分厚い板岩が蓋をしていた。

 ここは、王家の陵墓であった。その空間の中に、地底へと通じる石段が薄暗く見えている。神聖な陵の入口が、まるで氷山の一角のようにその姿を露わにしていた。



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