【第五章】王と孤軍


 天幕の外が急に騒がしくなった。早春とはいえ、まだ冷たい空気が吹き込むため入り口には蓋布が張られている。外の衛士の一人が駆け足で戻り、位置に付く気配が感じられた。ダナ・ブリグンドは机の上を手早く片付け、書き仕事で乱れた袖口を調える。そして、外していた指飾りに気づき、素早くそれを指にはめた。

「――通せ!」

 彼女が、入り口の向こうで仲間の到着を告げる衛士に答えた。従者はすべて出払っている。エスーサで暮らしていた頃、ダナは数多くの王の輩たちに厳重に囲まれ、護られながら暮らしていた。だが、このオシアにある兵の家の営地では、わずかな衛士と数人の従者が従うのみであった。

 蓋布を通して符丁を確認する声が、わずかに聞こえる。そして、天幕の入り口に三つの影が落ちた次の瞬間、三人の男が布を割って中に入ってきた。

 天幕の中央には、仮の玉座があった。その周りには、高さの違う方机が取り囲むように置かれ、木棚がいくつも載せられている。それぞれの家具には様々な柄の薄織物が掛けられ、王の居場所として最低限の格調を保っていた。辺りには木板冊子や獣皮紙の巻物、鉄筆と葦の筆、液炭壺、蝋、重石と砥石などの文具が乱雑に置かれ、まるで尚書官の砦のような様相を呈している。その正面に、一段低い机を隔てて王と対面できる場所があった。三人は顔を伏せ、そこへ歩み寄る。顔を布で覆った左右の二人が前に出て、片膝をつく。中央の男も膝をついた。

 ダナが玉座から立ち上がる。長衣の上にまとう袖なしの旗袍は、華奢な肢体の形を崩す事なく見事に包んでいた。全身に少女のあどけなさを残しながら、眼つきだけは男のように凛々しい。

「――陛下、イコフとリュカの両名、任務を終えて帰還致しました」

 背の低い男がうやうやしく報告する。

「イコフ、リュカ、よくぞ無事で戻ってくれたな。イコフよ、さぞ困難な役目であっただろうが首尾はどうだ?」

「ご覧の通り、師士殿を連れ戻して参りましたぞ。案の定、枢軸貴族たちの良からぬ企みに巻き込まれておったようですな」

 イコフと呼ばれた背の低い男が、面を上げて答えた。

「どうやって、あの邸宅まで辿り着いた?」その問いには、やや憂いが感じられる。

「貴族どもの馬車を奪って軍団の丘へ行った後、リュカが手綱を握って邸宅まで突破しましてな。無謀ではありましたが、街には兵士も少なく、運も味方してくれたようで」

「ほう……」耳を傾ける王の表情が、次第に硬くなってゆく。

「今後、これまで通り貴族たちの下へ戻るのは無理でしょうな。ただ、正体が完全にばれちまっているとしても、まだ忍び込む事はできますぞ」

「……イコフ、馬鹿は休みやすみ言え。貴様は、私にいったい何度お前たち親子へ酷務を命じさせる気だ? 終いには、貴様らへ死ねとこの私に言わせるつもりか?」彼女が、視線を尖らす。少女の怒気で場がしんと静まった。「……もう、綱渡りは終わりだ。二人とも、本当によくやってくれた。院に戻ってしばらく休め」

 イコフは、その言葉を聞くと瞬きもせず王を見返していたが、やがて静かに答える。

「――陛下。いま、自分だけが休む事などできませぬ」

 やや間があり、リュカも裏返った声で言う。「ええと、馬鹿をやっちまったのはおれで、それにまだまだいけますって。バレてませんよ、たぶん。ちょっとばかり、騒ぎになっただけで……」だが、にらみつけたイコフの目がぎん、と光る。そして、ふたたび王を見据えた彼が、しみじみと言った。

「……この儂も、息子のリュカも、奴らに一杯食わせてもう充分生きた甲斐があった、そう思うております。たとえ陛下のご心配を疎かにしようとも、命を惜しむような退き方はしたくございません。そもそも、帝国による討伐が必定となった今、我らに国へ帰ってどうしろと仰られるのか。仮に盤上の小さな駒であっても、死に場所がなければそこにいないのと何が違いましょう」

 王は、表情一つ変えず二人を見据えている。だが、デロイの地で数え切れないほどの危機を共に乗り越えてきた彼らは、揺るがなかった。やがて、目を閉じたダナが告げた。

「よかろう、当面は私の許で働け。有能な人材に使いっ走りの役目を与える事にはなるがな」

「……御意。我ら二人、捨て駒として気兼ねなくお使いくだされ」

「へへ、使いっ走りだけじゃなく何でもこなしますぜ。荒っぽい事なんぞは、特に」

 ダナの表情が、呆れてやや緩む。「二人ともご苦労だった。下がって安らうがいい」

 王に頭を下げたまま、イコフとリュカは音も無く後退する。

「――いや、待て。二人は暫くここに居てくれ。イド・ルグス、面を上げろ」

 ぴたりと止まったイコフとリュカの前で、ひざまずき頭を垂れていたイド・ルグスの体が、ゆっくりと起き上がった。彼は静かに王の顔を拝し、一礼する。わずかの間、ふたりの眼が合った。

「よくぞ戻ってきてくれた、師士イド・ルグスよ。怪我などはしておらぬか?」

「わたくしは無事でございます。――陛下、なぜ、ここにおられるのですか……」

 低く抑えた、静かな声だった。だが、彼の言葉の隙間には戸惑いが満ちている。

「お前がそう思うのも当然のことだ、事情については私が直に説明しよう。この二人の補足を交えてな……」

 ダナが、透き通った声で穏やかに語り始めた――。王家に仕える王の輩たちは、聖密院とエスーサの周辺を本拠とする。だが、数は多くないが王領を離れて正体を隠し、見聞きした事を聖密院に知らせる役目の者もいた。彼らは市井に紛れて暮らし、大きな危険とは無縁の生活を送る。イコフとリュカは先王ムー・ボルボアンに命じられ、彼らの手引きでガルバニアへ潜入した。そして、属州から集められた隷民に成りすまして貴族たちへ接近し、荒事をこなす便利屋として使われていたのである。こういった侵襲性の高い間諜はこの二人だけではなかったが、彼らは特に深い場所へ浸透していた。

 ダ・プーの改革が成立し、イド・ルグスが帝国との友好に尽力する頃、枢軸貴族たちは勢いを失ったかの様に沈黙していた。だが、彼らはマクニサス家を中心に着々と謀略の準備を進めていたのである。イコフらの報告が明らかにしたのは、ダ・プーたち平民派の貴族に対する追い落としと、メディトリアへの再侵攻の企みであった。

 しかし、この事はすべて筒抜けという訳ではなく、もたらされた断片的な情報から推測したものであり、王家は独力で対応するしかなかった。ダナは選抜した王の輩を連れてオシアへ向かうと、駐留していた王家の軍に加わり情報を集めた。

 そして冬が過ぎ、やがて春が近づくと、ついにその日がやってきた。第一軍団は、援軍としてオシアに滞在する王家の軍を呼び寄せ、不意討ちをかけて殲滅するはずであった。当然、メディトリア側から攻撃されたという状況を装うのである。だが、謀略の実行に感づいたダナは軍を返し、彼らの襲撃は失敗する。危うく難を逃れた王家の軍であったが、その裏切りを伝える虚報は帝都に届けられていた。それと同時に、ダナの命がイコフらに下される。イド・ルグスを救出せよ。それが達成されたのは謀略のさなか、あの夜であった。

 味方であったはずのメディトリア軍が帝国に叛旗を翻し、審問によって追い詰められたイド・ルグスはデロイ市民を殺害して逃亡する。イコフとリュカは彼を救ったものの、その筋書きが事実として帝国全土に広まるのは、時間の問題であった。


「あの晩は、もう少しで手遅れになるところだったわい」イコフが言った。

 これまでの話を、イド・ルグスは静かに聴いていた。

「でも、あの邸宅の奴らは死んでたぜ。貴族の狗どもの仕業だ」リュカの表情が歪む。

「師士殿に事情を説明する手間は省けたが、不憫なことじゃ……。邸宅の位置を探るのに手間取っていたら、貴族たちの審問が始まっておってな。なんとか馬車を奪って丘まで行ったんじゃが……」

「へっ! あの時、迷ってたらイドの旦那はどうなってた事か……」

「……おそらく、追われるか捕まるかして無事ではなかったろうな。それは事実じゃ」イコフが言う。「まあ、いろいろあったが、みな生きて帰れてよかったわい……」

 言葉には、生々しい感慨がこもっていた。だが、それを聞くイド・ルグスの表情に喜びの色はない。ようやく掴みかけていた祖国の安泰を突如失い、己に味方する者たちを目の前で殺されたのである。二人に救われ、自身を巻き込んだ事変の正体を知った今も、彼の心は揺れ動いていた。

「――イド・ルグスよ、事情について理解できたか」ダナが穏やかに問いかけた。

 すでに夕刻になっていた。薄暗い玉座で光が瞬き、燭台に灯が点る。イコフとリュカも、火口を持って天幕内の燭台に灯をつけて廻った。

「イコフ、リュカ。ご苦労だった。下がってよい」話し疲れたダナが玉座に深々と沈みこみ、言った。二人は天幕から出る前に王とイド・ルグスに一礼し、静かに退出した。

 香料の混ぜられた蝋燭が燃え、微かに甘い香りが周辺に漂い始めた。

「すぐに夜が来る……。お前も、そこの木座でくつろぐがいい」

 彼の近くに、普段は従者が侍っているであろう腰掛があった。その木目を見つめるイド・ルグスの感情は、すでに起伏を失っていた。重く沈んだ意識の中心にあるのは、乾ききった心象と罪の自覚だけであった。そして、持ち前の冷静さが無慈悲にそれを俯瞰している。イド・ルグスは正面の方机を見据え、居住まいを正すと口を開いた。

「陛下――。なぜ、御身ひとつも同然の備えでオシアに赴かれましたか。僭越ながら申し上げますが、無茶が過ぎるかと存じます」

「……落ち着いたと思ったら、さっそく諫言か。だが、無茶はお前も同じと思うがな?」

「わたくしの独断については、何の弁明もございません――」

 そう言って視線を下げた。面構えに、静かな覚悟が見て取れる。

「ふむ……。言っておくが、師士の任は解かぬぞ」そっけなく、ダナが答えた。

 言葉を受け、イド・ルグスがぴくりと肩を震わせた。その唇が、固く結ばれる。

「責任を感じるのは、無理もない」空色の瞳が彼を見る。「確かに、停戦の交渉において勝手な真似をしたな。国事に関わる事について、二度と独断は許さん。だが、お前を処断するなら、王都で安穏としていた私の立場はどうなる? 本来、外敵と戦うべきは王自身なのだぞ……」

「……陛下。わたくしは、デロイで多くの過ちを犯しました。良かれと思って彼らに協力しましたが、結果的に、それがこの事変の一因となったものと存じます。浅はかにも、彼らのメディトリアへの理解が、やがて誘惑に変ずる事に気づいてなかったのです……」

「奴らに、何を協力した?」

「……彼らには、様々な情報を供しました。わたくしの来歴、メディトリアの輪神について、王家と領家のあらまし、地理や騎兵の能力など。……そして、あの兵器の事です」

「お前がそこまで話したという事は、何か見込みがあっての事だろう? デロイには、我が国ではなく北方に注目する貴族の一派がいる。あの状況でお前は、帝国内部に味方を作るしかなかった。奴らが再びメディトリアに目を向ける、その日までにな」

 ――この方は、全て見ておられたのか。そう心で呟くイド・ルグスは、驚くと同時に恥ずかしくも思った。故郷に知られる事のない己の働きに、彼は小さな満足を抱いていた。だが、王都からの糸は確かに繋がっていたのである。だからこそ、救われたのか。その事を改めて認識する彼は、胸の底に滲んだ感情を言葉に委ねた。

「ですが、わたくしは彼らにもたらすべき情報を誤ったのです……。結果的に、それが枢軸貴族たちに再度の侵攻を決断させる材料となりました。いま思えば余りにも軽率であり、全てはわたくしの思い上がりが招いた事です。重ね重ねの過失とこの短慮は、正義に照らして断罪されねばなりませぬ……」

「つまり、どうにも処分されねば気が済まぬという事か?」

「この事は、わたくしの気分の問題ではありません。当然の処遇であり、咎を欠けば王家の美善を損ないます。今後、陛下の差配の妨げとなりましょう」

「……望む者へそれを与えても、罰にならぬ。これ以上の訴えは、耳障りだ」

 二人の視線が交差し、天幕に冷たい空気が流れる。思わずその眼差しに厳しさを漂わせたイド・ルグスへ、次の言葉が浴びせられた。

「我々は、戦場にある。お前が居らぬでは、話にならん」

 それを聞いたイド・ルグスが、表情を一変させた。

「陛下……! まさか、このまま帝国と戦われるというのですか?」

「ほう、まさかとはどういう事だ? デロイ軍は、すでに我らと対峙しているのだぞ」

「しかし、帝国はわが国への態度を、いまだ明らかにはしておりません!」

 それを聞くダナの眼差しが、軽く笑いを含んだ。イド・ルグスは、言葉を続ける。

「ならば、デロイに対し平和裏に関係を修復できる事も、充分に考えられます」

「ふん、それはあり得んな」ダナが、意見を遮った。「この乱を制圧するまで、帝国は表立って我々と敵対はせぬだろう。だが、その後どうなるかは判るはずだ。どうやらお前は、少しばかりデロイに長居しすぎたようだな……」

 王の皮肉を聞いて、イド・ルグスが言葉に詰まった。目を閉じ、冷静に考えてみる。

(――確かに、そうなのかもしれない。私はこの期に及んで、まだダ・プーたちの言葉にすがっているのではないか。帝国を支配するのは枢軸貴族であり、討伐の口実は充分にあるのだ。だが、戦うとしても今の状況で何ができるのか……)

「……私に考えがある。まずは、それを行う」ダナが、それを読んだかの様に言った。「お前は営地内で謹慎しておれ。今回の件についての処分は、以上だ」

 玉座を見上げたイド・ルグスが、硬い顔で頭を下げる。命令とあらば、抗う術は無い。また、そう命じられた以上、今すぐ戦うという事ではなさそうだった。強い不服を感じながらも、いくらか安堵する。ダナが、穏やかに問いかけた。

「ひとつ、聞きたい事がある……」

 視線を受け、イド・ルグスは言葉を待った。

「――我々は、デロイに勝てるだろうか?」

 しばしの静寂の後、彼が答える。

「陛下。わたくしは兵の家のひとりとして、故郷を守る為にわが身を捧げております。いつ何時であろうと、玉座の僕として馬を駆り、鉾を振るう事を厭いはしませぬ。ですが、わたくしがいかに力を尽くせど、たった一人の力に過ぎません。王の権威をもってすれば、我ら兵の家だけでなくメディトリアの力を結集する事も可能となりましょう。まずは、王家としての決定を下すためエスーサに戻り、院の主だった方々にご相談されるべきと存じます。領家へも、その決定によって速やかに兵を呼集できましょう――」

 彼にとって、精一杯の回答だった。この当然の道理を無視する王の真意は、イド・ルグスの思考の外にある。だが、迷いは無かった。跪く彼を、ダナはじっと見て言う。

「メディトリアの防衛のためには、この地で敵を食い止めるのが最善だ」

「我々がここで倒れるなら、間違いなく国土は蹂躙されます。避けるべきは、それです」

「だが、仮に戻ったとして、お前の言うとおりに事が進むだろうか……?」

 イド・ルグスの声が止んだ。思いもよらぬ王の発言に、その表情へ戸惑いの色が加わる。暫しの後、彼は答えた。

「……どうか、ご安心ください。玉座の威光と聖約の尊さは、わたくしも存じております。その事に、疑いは何もありません」

「私も、そう思いたい。しかし、本当に疑いは無いのか――」

 その言葉が胸の中を通り過ぎ、イド・ルグスの心をざわつかせる。

「確かに、王家への理解と信頼は、正義を愛するこの国の者たちに広まっておる。信仰が、メディトリアを支えているのだ。だが、その向きは一方に思えて、実はそうではない。川面の流行を見る者は、それが天巡して帰するを見ない。日輪の運行を見る者は、それが地巡して逆するを見ない。見ることに篤き者ほど、それは甚だしい。お前のような者の眼差しは揺るぎないが、盲点もまたあるのだ」

 落ち着いた声でそう言い、ダナは彼を見つめた。意味深な言葉であったが、イド・ルグスの思考はどこまでも空回りする。

「私は、善意からでも悪意からでもなく、それを直視せねばならん。いずれ、お前の力を借りる事になるだろう。時が来るまで、ゆっくりと休め――」

 命ぜられ、イド・ルグスは退出した。イコフに案内され、小さな天幕に入る。寝床の上で毛布に包まると、彼の脳裏にようやく疑問が浮かんできた。

(いったい、どういう意味なのだ。何者かが、王を裏切るとでもいうのか?)

 だが、それ以上の思考を行う力が、残ってはいなかった。今の彼には、デロイでの出来事が、まるで夢のように感じられる。だが、イド・ルグスがそれを思い出す前に、その疲れきった身体は、本物の夢の中へと沈んでいった。


      †      †


 オシアの乾いた大地に、砂塵が降り注いでいた。雨が降れば洪水、晴れが続けば砂嵐、耕せる場所は限られ、その土地をめぐって領民たちは争う。あぶれた者は採鉄場か精錬施設で寿命を縮めながら働くが、それすら無理なら街に行くしかない。だが、そこでも生活できなくなった者に残された道は、奴隷として身を売る事だけだった。

 生きのいい男は闘奴、そうでない男は農奴、若い女は器量しだい、そうでない女にはほとんど価値が無い。商業の盛んな北方の諸都市において、女性は手工業の担い手だった。だが、内外流通に乏しいデロイでは、手工業などというものは産業として成立し得ないのである。そうして手に入れた金で、残された家族はいくらか生き延びる事ができる。だが、残された者もひとり、またひとりと消えてゆく。領民らが逃げ出せぬよう、州境は帝国によって閉じられていた。これが、血の一滴まで搾り取られるといわれるオシアの、厳しい現実だった。

 北にパレビア、北東にガルバニア、南西にメディトリア、南にディネリア。オシアは、これら全ての州を結ぶ交通の要所であり、コロヒス河とアクアイアス河という二つの大河の水源を擁する、豊かな森林地帯だった。

 ガルバニアにはコノス人、メディトリアにはエキル人、といった具合に、州には多数派の民族が存在するのが普通である。だが、オシアという地域は周辺の州からの混交によって成り立つ地域であった。その文化も流入してきた部族ごとに異なり、主流というものが存在しない。

 それ故に、この地域は常に内紛を繰り返し、やがて帝国の成立と共に彼らの好餌となった。デロイ初の属州として支配され、その統治は次第に過酷さを増してゆく。オシアの人々は、ようやく団結する事の重要性を悟るが、すでに遅かった。帝国による分割と懐柔により、彼らの故郷は巨大な製鉄場へと改造された。

 だが、川底を浚って砂鉄を掘り出し、森の木々を燃料にして精錬し、文字通り身を削って帝国の必要とする鉄資源を生み出してきたこの州は、すでに息切れを起こしていた。森林の荒廃によって大地は丸裸となり、かつて彼らが独立部族として暮らしていた頃の遺跡が、まるで墓標のような姿を晒している。

 しかし、これについて鉄の代替生産地を見つけなくてはならない、という懸念以外に帝国が困る事など無かった。荒れた土地でも、ガルバニア式の灌漑を施せば農場にする事ができる。開発の限界を迎えているガルバニア州では、多くの農民たちが新たな開拓地を必要としており、供給過剰であった農奴たちのはけ口にもなるだろう。この問題は、要するに意図的に放置されていたのである。

 もちろん、この現状にオシアの人々も満足していた訳ではない。彼らは帝国の支配する属治領で幾度も蜂起していたが、その度に自治領に封じられたオシア諸侯に討伐の任が与えられ、州民相食む地獄絵図が繰り広げられたのである。だが、先のメディトリア戦役における第一軍団の惨敗が、絶望する彼らの目を覚ました。

 そして、あの大蜂起から約半年。オシアでは、反乱軍と第一軍団が激闘を続けていた。メディトリア軍は枢軸貴族たちによる事変の後、それらの戦闘には加わらず、荒れ果てた丘の上から事態を傍観していた。

 増強に増強を重ねた第一軍団の数は、八万をはるかに超えている。彼らは軍を分けて反乱勢力の拠点をそれぞれ包囲するが、峻険な丘の上に築かれた砦は簡単には陥落しない。だが、このまま時が過ぎれば、いずれ耐え切れなくなる事は容易に予想できた。

 この頃、北方ではルムドとカーレの軍がキリアに到着していた。双子の巨都とよばれる彼らは、同盟都市ラニスに圧力をかける第二軍団に対し、傭兵を中心とする大軍勢を対峙させた。高まる両者の緊張により、前年に成立した帝国とラニスの停戦は風前の灯であった。主力をオシアに置く帝国軍は劣勢だったが、戦端はまだ開かれてはいない。

 そして、いまだ平穏を保つ帝国の属州、パレビア、アドリア、ディネリアの各地に、アルダネス朝からの使者が訪れていた。軍団兵の不足により属州の治安は徐々に悪化し、使者たちの行脚を遮るものは何もなかった。彼らが持つメディトリア王の親書には『吾、ダナ・ブリグンド・アルダネスは友愛の志と共に、この地の誇り高き勇者へ告ぐ。貴君らは速やかに兵を挙げ、メディトリア、オシア、ルムド、カーレ、ラニスの次へ名を連ねよ。帝国の命運、既に潰えたり。今こそ、その驕慢を共に討つべし。云々……』といった文言が書かれており、この檄文は彼らを驚かせた。だが、長年の支配に慣れきった人々の反応は鈍く、使者たちの努力も空しく呼応する者は誰もいなかった。しかし、この親書は彼らへ情勢の変化に対する警戒心を植えつけ、大いに動揺させるものでもあった。


      †      †


 イド・ルグスの救出から約十日。兵の家の野営地にある王の天幕で、軍議が開かれていた。彼女の滞在により軍勢は待機を強いられ、出席する士隊長たちの表情も険しい。ダナはこの地でデロイ軍と戦うことを説くが、賛同する者はいなかった。さらに、デロイ全土に発した親書の件が王の口から告げられると、彼らは明らかな動揺をみせる。諸々の理由を挙げて反対する四人と王の意見は折り合わず、結論を先送りとして軍議は終了した。

 その後、ダナは派兵を求める使者を三領家へ送るが、彼らも応じる気配はなかった。あくまで数は問わぬという要請に対し、彼らは聖約の文言『邦を侵さず』を根拠に難色を示す。だが、その問題については既に先王が判断を下し、解決されていた。聖約は、正義の軛ならず。それが、王の出した答であった。領外の戦闘が禁忌でない事は、彼らもそのとき了承していた。三領家のこういった態度に対し、ダナは要請を命令に替え、使いを往復させる。だが、従う者はおらず、時間は無情にも過ぎてゆくばかりであった。

 さらに、王都からの支援はなく、家宰ら重臣たちの意向も伝わってこない。周囲の諌止を振り切ってこの地に赴き、さらに帰る気配もなく行動する王に、彼らも混乱しているものと思われた。当然、ダナもそういった状況に気づいてる筈ではあるが、それを気にする様子もなく、この地に留まり続けていた。


「よう。どうだ、調子は」

 ウル・メイノスがそう言いながら、幕屋の中に入ってきた。イド・ルグスは折り畳んだ底布の上にあぐらをかき、難しい顔をして掃き棒の尻で地面を削っていた。

「……なんだこりゃ?」入り口でたたずむメイノスの足元に、うねうねとした線と細かい図形が見える。見回すと、狭い幕屋の底布が全て引き剥がされ、露出した地面がそれで埋め尽くされていた。

「――お前の立っている所がディネリアだ。俺のいる場所が帝都デロイ。オシアはここだ」そう言い、棒で正面の地面をさす。「ここで今、第一軍団と反乱軍が戦っている」

 底布の上で、彼があぐらをかいたままくるりと回った。

「そして、ここがキリアだ」そこには、河の両岸で対峙する軍勢が描かれていた。「両軍は、ノルデア河で膠着している。第二軍団は約三万、敵の都市連合軍の数は不明だ。……軍議は、どうなった?」

「……しばらくは、ここに釘付けだな」

「そうか……」地面に視線を落としたまま、イド・ルグスは小さく答える。

「はん、地図かい」メイノスがそう言って、ぽつんと置かれた腰掛に落ち着く。

 帝都からの帰還後イド・ルグスは営地の片隅に軟禁され、王から命じられた謹慎に服していた。処分の軽さのためか、彼はしばらく塞ぎ込んでいたようであったが、こうして足繁く通うメイノスから情勢を聞かされ、今ではその事ばかり考えている。メイノスの座った腰掛をちらりと見て、イド・ルグスが言う。

「そこが、俺たちの今いる場所だ。数は、およそ千五百――」

 メイノスは自分の足元を見る。確かに、デロイ軍の動きを観察するには良い場所だが、乱を鎮圧した第一軍団の行き先が明白である以上、そうする意味は薄い。腰掛に身体を預け、ため息をついたメイノスが訊く。

「帝都の守りは、どの程度なんだ?」

「俺がデロイにいた頃、第三、第四、第五の下位軍団がガルバニアにいた。だが、もし強制動員を行うなら、ほぼ無尽蔵に兵力を召集できる」

 デロイにおける軍団とは、元々は遠征を行う場合の編制単位である。彼らは全て職業兵士であり、その数も兵站を考慮して絞られていた。軍団兵の総数は、現在でもデロイ本州から徴集可能な男子の三割程度でしかない。その残りを召集する場合、帝国の機能を大きく損なうため、国家存亡の危機でも迫らぬかぎり強制動員は禁忌とされていた。

「……そりゃ、結構なこった」

 メイノスもまた、スタインらと同じく王の方針に賛同できないでいた。だが、かといって王を輿に押し込めて帰ることも出来ない。やり場の無い感情を滲ませ、彼が言った。

「俺たちがここで頑張って、それで勝てるんならいいんだがな……」

「……陛下は、我々とは違った視点から見ておられるのだ。すでに二方面の敵を抱える帝国は、さらなる反乱の発生を恐れている」

 イド・ルグスはそう言うと、パレビア、アドリア、ディネリアのある場所を見た。その場所とオシア、キリアを結べば、ガルバニアは完全に封鎖される。

「だがよ、方々に檄を送ってもそんな事は起きなかったんだぜ?」

「今のところは、だ。厳しい状況にありながら、デロイは属州の自治領から軍を召集しようとしていない。つまり、彼らがどちらにつくか怪しいと疑っている」

「……まあ、そうかもな」メイノスが、腕を組んだ。

「さらにキリアでの膠着は、第二軍団が劣勢であるという事を示している。勝てるなら、どんな口実を使っても叩くはずだ。好機を、みすみす見逃すような彼らではない」

 首を傾げ、メイノスは考え込む。その顔には、多少なりとも納得する様子があった。

「もし、第二軍団がキリアで負ければ帝国は窮地に陥る。周辺の属州も、その情勢になれば態度を変化させるだろう。第一軍団がオシアから撤退すれば、その動きはさらに加速する。だが、我々がここで退くなら、間違いなくそれに水を差す事になるだろう」

 それを聞き、メイノスが低く唸る。イド・ルグスは、言葉を続けた。

「陛下が求めておられるのは、彼らの心理に訴える事なのかもしれぬ。ならば、兵の多寡は関係ないだろう。たとえ小勢であっても、我々の奮戦は無意味ではない――」

 メイノスがなるほど、という顔をする。だが、その表情は賛成ではなかった。

「……でもよ、気にいらねえな。昨日の今日で、そんなこと決めちまうのはよ。聖約にも『心、義を正し人に和す』ってあるぜ。他人の尻馬に付くようなやり方も、何か違わねえか。確かに賢いかもしれんが、今はボルボアン様のやり方を見習うべきだぜ……」

 その問いに、イド・ルグスが沈黙する。彼も、心の底ではそう感じていた。そして、スタインたち、領家の当主たちも、同じ事を考えていたのだろう。――王の言っていた事は、これか。イド・ルグスが、気づく。

 それは、当然の理屈だった。この国の人々の期待は、将来だけに向かってはいない。それと同じものが、過去へも流れているのである。つまり、今の王に対する意識は、先王ボルボアンへも向けられていた。過ぎし日を重んじる彼らの必然的な思考であり、ダナの行動は先王との比較を免れ得ない。そして今、ボルボアン王そのものが過去となり、彼女の行く手を阻んでいるのだ。

 聖神に近い存在とはいえ、王自身は生身の人間である。本人の言葉であるなら、その判断はあくまで人並みに過ぎない。信心深いイド・ルグスも、その事は理解している。だからこそ、先王ボルボアンの改革は二十年にもわたる長い歳月を必要としたのだ。それは周到に関係者の意見を調整し、取り残される者がいないよう粘り強く働きかける時間だった。王とはいえ、過去に縛られたその力は決して強権ではない。もし、これがデロイ帝国で起きた事であれば、数年で解決されただろう。それが、メディトリアという国だった。

 ならば、エスーサに戻ることはその解決になるだろうか。イド・ルグスが、悶々と思う。状況は、前回の戦役から大きく変化していた。その事に対し、王はもちろん、臣民それぞれの考え方もすでに違っている。ボルボアン王の轍を踏むというなら、果たしてそれは間に合うのか。万全の態勢で挑んだカシアスの戦いですら、聖神の加護を借りてなお薄氷を踏むような勝利であったのだ。イド・ルグスが、苦い唾を呑む。

 黙りこんだままの彼に、メイノスは言いそびれていた近況を報告した。彼らは敵地に滞在しており、伝えることは多かった。イド・ルグスの意識がようやく彼の言葉に戻ってくる頃、幕屋の外が騒がしい事に二人は気づいた。何事かと走り出たメイノスが見たのは、慌ただしく馬から降りる伝令たちであった。


      †      †


 ルムドとカーレの傭兵軍団は、すでに六万を超えていた。彼らはダ・プー率いる第二軍団と、ノルデア河に隔てられた陣地で対峙していた。傭兵軍団には毎日のように増援が加わり、第二軍団との兵力差は二倍を超えて拡大しつつあった。第二軍団は河岸での防衛に徹し友軍の到着を待つ構えであったが、ガルバニア本州からの救援は無情にも見送られた。帝都でなされたこの決定は、枢軸貴族たちの明らかな恣意を感じさせるものであった。

 完全な孤立無援となった第二軍団は、ある朝忽然と野営地から消え失せる。この事に気づいた傭兵軍団は、即座に全軍での渡河と追撃を開始した。数の上では優勢の彼らも、デロイ軍団の手強さは理解している。彼らにガルバニアまでの帰還を許せば、友軍と合流して反撃してくるに違いない。陣地を捨てて逃げる第二軍団を、今ここで徹底的に叩いておく必要があった。

 だが、彼ら傭兵軍団はあることに気づいていなかった。この第二軍団が、戦わずして受け持ちのキリアを捨てガルバニアへ退却する事など、デロイの軍律からも、彼らの自尊心からも考えられない事であった。傭兵たちがそれに気づいたのは翌日、朝もやの中、崖が左右から迫る隘路を全軍で通過しようとした時であった。

 隘路の出口では、第二軍団が戦列を引いて待ち構えていた。ようやく獲物を発見した傭兵軍団は、戦奴たちに突撃を命じると、追撃の成功を確信した。しかし、傭兵たちの第二波がデロイ軍の戦列を襲う頃、彼らは自分たちが包囲されている事に気づいた。

 傭兵軍団の後方から、もやの中を粛々と進む長槍冑兵の列が迫ってくる。しかし、傭兵たちも後列の隊を反転させ命懸けで死戦し、しぶとく頑張った。だが、背後だけでなく前面のデロイ軍からも圧迫され、完全な挟み撃ちにされてしまうと、傭兵たちは次々に降伏し始め、一気に崩れ去った。

 この戦闘で、ルムドとカーレの両都市が差し向けた傭兵軍団は三分の一が戦死し、三分の一が逃げ去り、残りの三分の一が捕虜となった。戦死者の多くは戦奴であった。捕虜のうち、負傷者は手当てをされる事もなく見捨てられ、その生き残りの五千人が第二軍団に戦奴として加えられた。

 そしてダ・プーはこの大勝利を、帝都で彼の留守を預かるラボアに報告させた。

『敵は、全滅した』

 貴族院での彼の報告は、以上であった。この言葉もまた、キリアへの援軍を送る事を拒んだ者たちへの、明らかな当てつけである事を感じさせた。


      †      †


 キリア州での帝国の勝利が兵の家の営地に知らされると、再度の軍議が催された。この地に留まる理由を失った王は、周囲からの意見を受け入れ、すでに撤退を決定していた。だが、シュマロ、オフィル、リュコスの三人は立ち尽くし、スタインも眉間に固い皺を寄せ、沈黙している。

「……では、改めて聞く」ダナが、言葉を繰り返す。「帰還した後、もし王と王家、つまり私と家宰たちの意見が異なるなら、どちらに従う気だ?」

 彼女が、その視線を鋭く絞った。それを見て、スタインが思う。

(なるほど、そういう事か……)

 今のメディトリアは、抜き差しならぬ危機的状況にある。その事は、すでに誰もが理解するようになっていた。半年前に締結された帝国との不可侵条約により、この国には平穏がもたらされた筈だった。だが、デロイ貴族の謀略はそれを破綻させ、前回をはるかに上回る規模の戦役が催されようとしている。現在における両者の戦力を比べると、劣勢という言葉すら前向きな表現であった。

 この理不尽な状況に対し、デロイの暴挙を感情的に非難することは簡単である。だが、それは責任のある人物に求められる態度ではなく、シュマロ以下の士隊長と領家の当主たちも同様だった。とはいえ、冷静さを保つ彼らも現実的な対応を見出せておらず、王の積極案に対し否定的な姿勢を示すだけであった。

 メディトリアにおける玉座の権威とは、結局のところ自発的な信仰や聖約といった曖昧なものに依存している。それが、現状における混乱の元といえた。極論において王は、関係者の同意を促す事しか出来ないのである。これは、王家の外部に対してだけでなく、内部に対しても基本的には同じだった。

(もう、尻に火が付いちまってる。可能な限り早急に、対応を進めねばならん。しかし、それが難しいであろう事は、これまでの経緯から推察できる。その上で陛下は、まず王家内の足場を固めるお積もりなのだ。確かに、これまでの様にエスーサで協議を重ねる余裕など無いかもしれぬ……)

 スタインの記憶するメディトリアの歴史には、王朝内部の対立という事態は無かった。また、王家の慣習的な掟に照らし合わせても、兵の家が王と王家のどちらに帰属するか、その判断は難しい。王が何者かと対立する事は、そもそも想定されていないのである。

(……陛下に聖神の加護があるとしても、それは結局のところ後押しでしかない。伝統を改め前に進むために、先王もあくまでご自身の力を頼りとされたのだ。だが、それに加担するとして、我らの武威が王家へと向けられてよいものか。ここで我らが協力を約束すれば、家宰を始めとする重臣たちに、相当の衝撃を与えるに違いない)

 動揺していた他の三人も、思考の経路は違えどスタインと同じ結論に達していた。玉座の神秘を深く崇敬する彼らであったが、その認識において王という存在は、聖密院の一部でもあった。全体をひとつの機関とみなすなら、王とは聖神の意思を伝達する部品に過ぎないのである。ムー・ボルボアンという人物の偉大さは、その構造に何ら逆らわず、己一人を全体の動力源たらしめた事であった。この四人にそこまでの理解がないとしても、長年にわたって先王に仕えた彼らは、それを皮膚感覚として記憶している。これは、イド・ルグスと彼らとの、大きな違いでもあった。

 互いの様子を窺い、四人が玉座を見上げる。彼女の求めに従うなら、王家の機序は自壊しかねない。彼らを最後まで縛っていたのは、過去だった。シュマロが、口を開く。

「陛下、そのような場合はこれまで通り、家宰以下重臣の方々にお諮り頂くのが最善と存じます。また、我ら兵の家だけが陛下にお従いしても、無意味であり……」

 この調子でシュマロは長々と語ったが、結局はこれまでに述べた事を繰り返しただけであった。さらにオフィルとリュコスも加わり、同様の見解を付け加える。静かに聴いていた王が、彼らの話を遮って言った。

「――もうよい、口を閉じろ」

 スタインを含め、四人が気まずい沈黙に沈んでいた。だが、ダナが見ていたのは、彼らではない。その視線の先、天幕の入口でイコフが顔を覗かせ、頷く。

「意見を聞くべき者が、他にもいるな。中に入れろ」

 王の仕草を合図に、イコフともう一人の男が蓋布を潜る。軍議の末席に連れて来られたのは、イド・ルグスだった。それ見て、スタインの表情が変わる。他の三人も彼がこの場に呼ばれるとは思っておらず、互いに顔を見合わせた。これまでの功績を差し引いても、彼の過失は明らかであり、その謹慎が今日や明日に解かれるという道理はなかった。

「最後に、この者の意見を聞いておこう。イド・ルグス、お前はどうであるか?」

 王の問いかけに対し、彼は静かに答えた。無論、この男にも葛藤はある。だが今は、やむを得ぬ選択であると己を納得させるしかなかった。

「……如何なる時も、陛下にお従い申し上げます」

 そういう事、だったか――。スタインは、内心で舌打ちした。王とは神性を持つ特別な存在であったが、それと人間的成熟度はあくまで別の尺度である。これまでの振る舞いから、そういった面で王はまだ幼くておられる、と思い込んでいた彼の動揺が、不遜にもその表情へ表れていた。

「ふむ……。いつデロイとの戦となるか分からぬ現状において、新たな師士を選ぶ必要があるのは明白である。だが、お前たちの態度をみるに、イド・ルグスを赦免した上で、改めて師士に任命するしかないようだな。また、こうなった以上、今後この者の意見を軽んずる事の無いよう、肝に銘じておけ。何か、異存はあるか?」

 四人の士隊長は、無言だった。スタインは黙り込み、シュマロたち三人が何とかこの決定を覆そうとするものの、王にその口実を与えたのは彼ら自身である。反論の糸口はなく、改めて何を言おうと己の首を絞めるばかりであった。

 彼らの意見はやがて途絶え、王の口から軍議の終了が告げられる。声の消えた天幕に、オシアの砂嵐がさざ波のような音を響かせていた。


      †      †


 スタインとイド・ルグスは、オシアを見下ろす崖の上にいた。二人の背後では、重荷を担いだ従士の列がゆるゆると坂を上っている。だが、分解された幕帳の支柱や、折り畳んだ面布、使い古された野営用具などをたっぷりと背に負う彼らの足取りは、決して重くはなかった。意気込みと共に乗り込んだオシアで半年を空費し、何の成果も得ぬまま帰還する事も、彼らにとっては苦にならない。目の前の山々を越えれば、故郷である。

 イド・ルグスは、眼下の丘陵が尽きる先を見ていた。その瞳に色は無く、表情だけが物憂げだった。地平に浮かぶ稜線の彼方に、帝都デロイがある。そして、二人の背後にはノクニィ峠へ向かう山道が見えていた。この崖を最後に、道々の景観は完全に閉ざされる。どちらが言ったわけでもないが、二人は自然とこの場所で足を止めていた。

 スタインが、彼方の空を見て言う。

「――名残惜しいか?」

「いえ……。既に、終わった事です」イド・ルグスが、答える。

 だが、言葉とは逆にあの都の記憶は色濃く、今となっても昨日の事のようだった。

「すべて、忘れろ。……命取りになるぞ」

 諭すように、スタインが言う。オシアでは、反乱軍の砦の一つが飢餓に耐えられず、降伏していた。なだれ込んだ帝国軍の兵士により、武器を持つ者は殺され、持たぬ者もその半数が城壁から突き落とされて死んだ。ひとたび叛旗を翻した者に、容赦はしない。帝国にとって当然の処置であるが、それを聞く彼らは、王への認識を少なからず改めていた。

「イド。陛下は、純粋にメディトリアを守ろうとしている。今にして思えば、な」

 あの軍議の後に、スタインたちは王に協力してデロイと戦う事を、四人の総意として決定していた。各々に不満がなかったわけではないが、王に対するわだかまりは既に消えようとしていた。さらに、兵の家の従士たちもそれを支持し、士気を高めつつあった。

 確かに、帝国と戦う事には何の異議もない。イド・ルグスはそう思う。だが、結果的に他の士隊長の意見を封殺する形になったのが、心残りであった。また、王と兵の家にもたらされた強い結びつきが、今後にどう影響してゆくか全く予測できない。それらを含め、気分は晴れなかった。

「遅くとも秋までに、帝国軍はこの地にやってくるだろう」

 スタインがそう言い、振り返った。王の輩たち従者が担ぐ小ぶりな御輿が、完全武装の従士たちに囲まれながら、今まさに山道の奥へ消えようとしている。

(……王は、帝国を巡る戦況を察して属州の反乱を促し、それが適わぬと知って即座に撤退した。その過程は同時に、兵の家と領家の従順さを確認する事でもあり、結論としてイド・ルグスを師士に据えたのだろう。若さからは想像もつかぬ、鮮やかな対応だ。要するにルグスは、この事態への担保だったのだ。儂たちが服従せぬ状況では、逆にそれは口実となる。こやつが首を縦に振ると判っておれば、実に簡単なことだ)

 彼の口元が、綻ぶ。

(我ら古参の士隊長に対しても、きっかけさえあれば態度を変えると見透かしていたのかもしれん。だが、儂は悪い気がせぬ……。先王陛下のご苦労が、見事に実ったのだ)

 ダナ・ブリグンドは、先王ボルボアンの第二妃の子であった。第一妃との間に正常な子供が生まれなかった事は、スタインも知っている。選ばれた第二妃もダナを産み落として死んでおり、先王は苦心して後継者を得たのだった。メディトリアでは男系、女系といった概念に伴う慣わしは無く、男女で明確に区別されているのは、男が戦い、女が産むという事だけである。王の本質とは聖約を継承する者であり、世俗のあらゆる穢れから解放された聖密院に生まれ、そして育つ事が重視されていた。

 やがて、その御輿が姿を消し、中軍の後半の兵がその後に続く。従士の中に、イド・ルグスの旗下へ復帰した隊士の面子がちらほらと見える。イド・ルグスを師と仰ぐ、選ばれし騎兵たちであった。若い彼らを見るスタインの顔から、表情が消えた。

 孤児として生まれ、十五で兵の家に入門した彼は、それ以来この荒くれた男たちの中で鍛えられ、また部下を鍛えながら過ごした。だが、血と汗と涙の味を知り尽くした彼は、イド・ルグスとその弟子たちを理解できない事もある。それは、自分がよく知る世界から超越した存在だった。

 鉾を持ち、楯を掲げ、具足をまとい、腕力と胆力をみなぎらせて駆け巡る。それが、彼が覚えた戦いの全てだった。しかし、この十数年で何もかもが様変わりした。先王ボルボアンが全てを改革したのである。歩兵は数を頼りに密集し、騎兵が戦場の主役となり、山から下りた猟師が人を狩る。そして、最後にやってきたのがあの兵器だった。轟きが山々に響き、木々のざわめきが静かになった時、何もかもが消し飛んでいた。

 いかなる勇者も、この黒い塊には勝てない。スタインには、そのことが理解できなかった。それは、シュマロ、オフィル、リュコスの三人も同じであっただろう。その時より彼らは、王から一歩退いた場所に心を置くようになったのかもしれない。

(だが、天から地に至るまでその全ては、聖神の思し召しで生まれたのだ。この世界の均衡を保つため、あの兵器は我らにもたらされた。神託とは、例えるなら日照りの季節に降るひと時の雨のようなものだ。決して、それを無駄にしてはならぬ……)

 視線を背後に戻したスタインは、イド・ルグスの憂鬱な表情を見る。ごくありふれた、ひとりの人間がそこに居た。スタインは、静かに言う。

「イド、儂たちの事は気にするな。我々は、二人の良い王に恵まれた――」

 メディトリアから吹く風が、彼らのいる谷を吹き抜けた。だが、春だというのにそれは冷たく、崖の上に佇む二人を凍えさせた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る