【第四章】デロイの夜


 棒が、生き物のように動いていた。

 馬上のイド・ルグスがそれを振りかぶった次の瞬間、弧が縦に走って兜を叩く。耳を覆いたくなるような音が響き、火花が跳んだ。手元を滑らせ、棒を捌く。再び持ち上がった棒が、今度は横薙ぎに兜を打つ。

「……恐ろしいほど、正確だな」

 顎をしごいて、ダ・プーが呟いた。

「確かに。ですが、兜に当てても兵は死にませぬ」

 傍にいた大兵長の一人が、耳元で答える。

「馬鹿野郎、あんな風に打たれたら頸が折れるぞ……」

 そう囁いたダ・プーが、棒の動きに目を凝らす。長さは約三メートル。先端に鉄が嵌め込まれ、メディトリアで使われる馬上戦鉾と同じ釣合いに調整されていた。

 木杭に固く据え付けられた兜を、馬の側面にとらえて横手に打つ。さらに馬を廻し、背後の兜を叩く。さらに四半転して逆手で、次に正面にとらえて縦に打った。

 棒の先端が、生きている様に兜に吸い込まれる。第二軍団の将兵たちがイド・ルグスを遠巻きに取り囲み、声もなく見ていた。彼は両手で棒を捌き、手綱は鞍の上で遊んでいる。それでも、馬は自在に動いた。どういう呼吸か、彼が棒を横へ薙ぐときには馬が首を下げ、危なげ無くそれを避ける。

 ひと際強烈な打撃が兜に見舞われた。火花を撒き散らし、一気に潰れる。もはや何の役にも立たなくなったそれを、最後の一撃が吹き飛ばす。下から上への弧が、兜の残骸をはるか彼方に散らした。一回転した棒がイド・ルグスの両手に収まり、ぴたりと静止した。

 彼が棒を抱えて礼をすると、ダ・プーが真っ先に手を叩き始めた。デロイにおいては馬に乗って戦うだけでも充分に特殊な技能であり、この武術と馬術が自然に融合した芸当を見て、取り囲んでいた兵士たちも剣の柄を打ち鳴らして賞賛する。口々に叫び、兵たちがざわめくと興奮がさらに高まった。

 ひとしきり騒いだ後、兵長たちがようやく彼らを静めるとダ・プーが声を響かせた。

「素晴らしい武芸だ。メディトリアで馬上戦鉾術と呼ぶこの技は、この男が編み出した。そして、我々は思う存分それを学べるのだ。まずは馬術から、我が軍より最高の乗り手を選び、その任を与える。この男の存在により、第二軍団の威光はより高まるであろう!」

 ダ・プーの指図でイド・ルグスの前に道が作られた。再び兵士たちがざわめき、騒ぎ始める。彼はその様子に戸惑っていた様だったが、囲みを抜けると馬を駆けさせ、すぐに見えなくなった。



 幅はさほどでもないが、長さのある厩舎だった。彼は馬を中へ入れると、馬体の汗を払った。鬣に付いた泥を櫛で削りつつ、馬房を見回す。隅々まで清潔に保たれ、悪くない。房に入れて面先を撫で、頭絡を外してやる。

 故郷から連れてきたこの馬は、久々の騎乗で昂っているようだった。特に神経の太い馬を選んだつもりだったが、長い間ここに預けたままであったのだ。無理もない、そうイド・ルグスは思った。

 馬が静まるのを待つ間、彼の脳裏にこれまでの事が浮かんでは消える。ダ・プーの改革が成し遂げられた後、軍団の再生は早かった。メディトリア戦役の敗北に対する平民たちの怒りと悲しみは、改革が貴族たちの禊となって和らいでいる。軍役についての不安も解消され、彼らがこの需要過多の売り手市場を見逃すはずは無かった。さらに、壮年となって半ば引退していた古参兵も、最後の一稼ぎを狙って軍役に応じる。これまで都市で生活していた者や、農民も新兵として加わった。

 そして第一軍団への補充兵は増え続け、ついにその定員を回復するに至った。だが、金で釣られた兵士たちの質は当然低く、増え続ける志願者をさらに受け入れ、軍団を数で強化することによって問題の解決が図られた。その人数はすでに八万人を超え、オシア大蜂起については彼らに掃討の任が与えられる事となった。兵士たちは編制され次第オシア州に送られ、各地の反乱勢力とすでに対峙している。

 帝国の熱気を感じながら事態を見守るイド・ルグスは、複雑な感情を抱いていた。すでに彼は、ダ・プーらに協力する事を心に決めている。もしメディトリアがこれまで外交というものに目を向けていれば、あの戦役はなかったのかもしれない。このガルバニアにやって来て、そんな風に思うこともあった。悪党どもに天誅を下すという薄っぺらい願望が、自分たちになかったとは言いきれないのである。デロイにおける時の流れは想像以上に速く、いま応じなければ機会を逸するだろう。そうなれば、彼らは二十年後には全てを忘れ、またぞろ故郷へ食指を動かしかねない。だが、この国の事を知るほどに、今の状況が不吉な兆候のように思えた。

 彼には、デロイの人々に対し今も馴染めない点があった。帝都は秩序の保たれた場所であり、それは彼の故郷に似ていなくもない。イド・ルグスの違和感は、変化に対する彼らの考え方にあった。帝国では、物事が変わってゆく事を是とする。その可能性が、即ち希望でもあった。いま良い事が最も良い、という思考であり、将来への影響は過小評価される。確かに前向きな姿勢であるが、イド・ルグスの故郷での考え方は逆であった。メディトリアにおける善行の一つに『古井戸を守る』というものがある。枯れかけた井戸も、埋めなければいずれ水が湧くだろう。さらに『愚か者は、卵を産む鳥を殺す。その次に愚かな者は、卵をまだ産まぬ鳥を殺す。だが、その卵を食べる者こそが最も愚かである』という冗談めいた警句もある。彼らには、過去を捨て、未来から奪う事への警戒感が常にあった。イド・ルグスの不安には、こういった思考が根にある。

 そもそも、この国の軍制はどこかがおかしいのだ。彼はそう思った。貴族と富民は、所有地の収穫で兵士を賄う事が基本であったが、大抵の場合はそれにより可能な人数を超えて軍役を負担していた。この事を可能にしているのが、属州の治領から毎年得られる税収である。治領は、属州の獲得で生じた属治領を、軍役の負担分に応じて分配したものである。これは、他国の征服に対する報酬であった。

 この治領の収入、あるいは借財で可能な限りの軍役を負担すれば、彼らは次の征服でより大きな治領を手に入れるだろう。こうして軍役契約をめぐる市場が成立し、相場は徐々に上昇する。平民はその市場で自らを売ることによって、帝国の富の流れの末端に浴する事ができた。実に良く出来た仕組みだが、これを成立させるために彼らはあることを前提とせざるを得ない。それは、常に新たな征服が供給される事だった。軍団の規模は絶えず人的資源と物的資源の限界に挑み、その増大は次の獲物に対する貪欲な投機を意味する。それは、メディトリアのいかなる正義からも、遠くかけ離れた思想であった。

(……この帝国によって蚕食される大地が、我々の住む世界の正体だというのか)

 イド・ルグスが、物思いに沈んだ――。


「――ルグス殿、閣下と大兵長の方々がお待ちです」

 馬の背においていた彼の手が、ぴくりと動く。振り向くとラボアがいた。房を閉じ、二人は厩舎を出る。

「あの棒の具合は、いかがでしたか?」

 イド・ルグスが、まだ手に残っている感触を思い出す。

「実物のように、私の手に馴染みました。ラボア殿、無理を言って申し訳ない……」

 木質、長さ、重さ、形、釣合い、全てが事細かく注文されたあの棒を、苦労して用意したのはラボアであった。軍団では扱わぬ滑り止めの薬煉を、市場で求めたのも彼である。

「いえいえ、我々が申し出た事ですので……」ラボアが笑顔を見せた。「ですが、小官が思うに、あの棒は先端が少し軽いのではないですか……?」

 彼の指摘は、鋭かった。ラボアは第二軍団で騎兵の中兵長を務め、ダ・プーがその技術を認めて抜擢した男であった。同じく笑みで彼の言葉を受け、イド・ルグスが言う。

「……ええ、確かに軽く作って頂きました。実物は、もう少し重くなります」

 すでにイド・ルグスは、諸々の事柄について明かす事をためらわなかった。一度協力すると決めたからには、彼なりに可能な範囲でそれを貫き通しているのだ。

「ふむ……」ラボアが難しい顔で訊いた。「しかし、何故軽く作ったのですか?」

「軽い方が早く振れます。ただ、それだけの事です」

 見せる為の演武だった。返事を聞き、合点したラボアが笑みを取り戻す。だが、その表情はイド・ルグスの次の一言で消え去った。

「……それに、一撃で砕いては演武になりませんから」

 さも、当然の事のように言う。共に歩きながら、ラボアは背筋に冷たいものを感じる。イド・ルグスが口をつぐんだ彼の様子に気づき、溶けた鉛のように輝く瞳を向ける。ラボアはこれまでに、灰色という獣じみた色の瞳を見たことは無かった。その煌めきは、荒れ野に棲む狼の眼そのものであった。また、彼の肌の色はデロイの人々より一段薄く、その事も人の血が通わぬような印象を強めていた。

 根の真面目なラボアは、心の奥底で彼を畏れる自分を不甲斐なく感じていた。だが、人間離れしたイド・ルグスにも無いと思えるものが、ただ一つあった。欲である。ガルバニア人が様々な徳目で覆い隠しながら、その本性において露わにしているぎらぎらとした欲望。彼には、それが無かった。メディトリアの民とは、皆こうなのか。歩きながら、ラボアはあの国で見た景色を思い起こしていた。

 二人が丘を登りきると、視界が開ける。林の向こうに天幕がいくつも見えた。

「――あそこで、閣下たちがお待ちです。少し遅いですが、昼食を用意しました」

 ラボアがその先を指で示すと、イド・ルグスが少し緊張した表情で頷いた。



 食台の上は、綺麗に片付いていた。用意された料理は大方が食い尽くされ、ダ・プーと大兵長の六人が談笑していた。立食の後に飲み物と椅子で寛ぐのがデロイ風の食事だった。すでに椅子が出され、イド・ルグスとラボアもその輪に加わっていた。

「――つまる所、メディトリアの戦鉾騎兵に対しては、軽騎兵で戦うのがよいだろう」

 大兵長の一人が賛同を求める。他の者たちが額に皺を寄せた。第二軍団に属する彼らはダ・プーの盟友であり、平民派の重鎮とよべる名家の貴族でもあった。

「確かにそうだ。重騎兵でも軽騎兵でも彼らを倒せぬ、となれば、追われれば逃げ、逃げれば追うといった具合に引き回すしかない」

「だが、戦鉾騎兵は我らの軽騎兵より素早いのではないか? ならば、やられるぞ」

「ふむ……。その場合は、騎兵の装備を外す。槍だけで戦えば、決して劣りはしまい」

 彼らの議論は、食事の最中から続いていた。イド・ルグスは静かに聞き、彼らの質問に受け答えしていたが、あまり快い話題ではなかった。その内容は、仮にも自国を敵視するものだと彼には思えた。

 だが、幾多の勢力を味方に引き入れてきた彼らにとって、手強いという事実は喜ばしい事であった。また、この様に脅威を認識することは軍団を強化する口実にもなり、少なくとも彼らの議論には悪意が無い。その意味でイド・ルグスの考えは、誤解といえた。

「では、あの戦鉾騎兵が歩兵と戦うならどうだ?」

 彼らの議論は、騎兵同士の戦闘から歩兵に対するものへと飛び火した。イド・ルグスの心配に気づいたラボアは、出来るものなら別の話題へ誘導しようと口を挟むが、ことごとく失敗していた。口数は少ないが、ダ・プーも加わって議論は白熱していた。

「長槍冑兵を出すしかないな。冑兵の槍の長さは八マテロ、戦鉾騎兵は六マテロ。槍ぶすまを作れば、近づけまい」

 だが、その意見にダ・プーが割り込んだ。

「待てまて。先ほどの演武で戦鉾は、石突から先端まで六マテロを使いきっておった。だが、冑兵は槍の三分の二を突き出す形だ。つまり、戦鉾の方が長いのではないか?」

 意外な指摘に、大兵長たちが沈考する。一人が口を開いた。

「槍を長くするしかないな。あるいは、冑兵も槍の端ぎりぎりを持つか……」

「はは、それでは腕が持つまい。やはり、槍はあと一、二マテロは長い方がよい」

 延々とこの調子で議論が続くかと思われたが、不意にイド・ルグスが質問を受ける。

「ルグス殿! 馬上で遣う戦鉾は、どの程度の長さが限界ですかな?」

「……あまり長いと、棒がしなりすぎて振れません。今の六マテロが限度です」

 彼も、重要な秘密についてはあくまで隠すつもりであったが、喧々と長引く議論にその気持ちを萎えさせていた。それに、鉾の届く範囲は、馬や自分の姿勢しだいでさらに伸びる。だが、この議論の熱っぽさは、イド・ルグスの見せた芸当がどれほど彼らに衝撃を与えたか、という事を示してもいた。ガルバニアでは、騎兵の持つ槍は歩兵のものより短い。それが常識であり、彼らが重装歩兵を軍の主体とする根拠の一つでもあった。

「やはり、手強いですな……。いや、頼もしいと言うべきですかな?」

 大兵長たちの笑いと共に、議論の温度が少し下がる。ふと、場が静かになった。

「……そういえば、手強いといえばあの幻術の事も、そうですな」

「おお、一度ルグス殿に聞きたかった。もしよければ、あれについてもお話し頂きたい。今なら、差し障りは御座るまい?」

 だが、イド・ルグスは不思議そうな表情で、しばらく考える。

「幻術とは、何の事でしょう……?」

「カシアスの戦いで、不可解な術を使ったであろう」

「あの、黒い首だ。生贄を屠り、首を用意したのではないか? 我ら第二軍団と対峙した時にも、用意しておっただろう。兵たちが、そう言っておった」

「儂らには見えなんだが、あの時積まれていたのは黒く塗られた首だとか。ガルバニアの南には、そのような風習、文化が多いからな。ディネリアでは全身を黒く塗って戦い、戦の後は刈り取った首を高く積んだりしておる。それらは、すべて呪(まじな)いだ」

「そういったものは大抵は虚仮威しだが、実際に効力のある呪いについて、我らは始めて知った。聞かせてくれまいか?」

 大兵長たちが、興味深そうにイド・ルグスの顔を見つめた。ようやく彼らが首と呼んでいるものの正体を察し、彼は憤りの色を微かに浮かべる。

(メディトリアが、彼らにそのように思われているとは……。我らは、蛮族でも呪い師でもない。今後のことを考えれば、事実を理解してもらう必要があるな……)

 出来る限り穏やかに、彼は答えた。

「……あれは、術や呪いではありません。我々は、同胞を生贄に捧げる事もありません。黒く積んであったものは首ではなく、抱鉄という兵器です」

 それを聞いて、彼らは顔を見合わせた。すぐに質問が飛ぶ。

「それは、どういう物かな? 第一軍団の生き残りは、地が裂けて雷が落ちたと言っておったが、それは真か?」

「あの兵器は、騎馬に持たせ敵に投擲するものです。閃光と衝撃を伴って破裂し、周囲のあらゆるものを破壊します。我々は、あれをディネリア騎兵に用いました」

「…………そんな兵器があるのか……俄かには信じられんが」

 場が、静まりかえった。ラボアも含め、皆が半信半疑といった様子である。

「あの時、我らは大量に用意されたそれを見た。何故、我々を滅ぼさなかったのだ?」

 真偽を試すような調子で、大兵長が訊く。簡単に信じられる話ではなかった。

「……今となっては隠す必要もありません。兵器は、カシアスの戦いで全て使い切りました。あの時用意したのは、空っぽの鉄の容れ物です。本物の兵器の中には焔硝と呼ばれる薬が詰められ、それは鉱物から作られます」

 イド・ルグスの答を聞き、しばらくしてダ・プーが爆笑した。

「ははッ! 俺たちは、まんまと騙されたわけだ!」

 腕組みのまま、破顔する。さらに頭を抱え、正気を失ったかの様にげらげらと笑う。だが、そんな彼に慣れているのか、大兵長たちは表情を全く動かさない。その一人が、真剣な眼差しでイド・ルグスに問いかけた。

「その鉱物とは、メディトリアで採れるのか? あまり量はない、という事かな?」

「……兵器の数が限られているのは、まだ我々の技術が未熟なためです。また、戦場でこの危険な兵器を扱えるのは、数十騎の訓練された騎兵だけです」

「そういう事だったか……」涙ぐんだダ・プーがそう答え、隣の大兵長が息をついた。

「……ルグス殿は、嘘を言うようなお人ではない。術の謎が、解けたようですな」

 彼らは互いに目を合わせ、小さく頷く。その顔は、真剣そのものだった。ラボアが、複雑な表情でこちらを見ている。イド・ルグスが、はっと気づく。

(しまった、言い過ぎたか……。だが、メディトリアの実情を理解して貰うことは、無駄ではないはずだ。肝心な事を隠してしまえば、彼らも信用すまい。良い機会だった、と思うしかないな……)

 その後、大兵長たちがこの件について聞くことはなかった。天幕の下で、メディトリアについての彼らの談笑が続いている。イド・ルグスも次第に、それが敵意に基づいたものではない事を理解してゆく。ダ・プーの笑い声が響き、彼もまた、その表情を緩ませた。


      †      †


 断崖の下で、ゆったりと水が流れていた。メディトリアの北部を流れるヒメル川の水は、出口の無いヒメル死湖に注ぐと、やがて湖底へ浸みる。その水脈は、カピリノ山系の東端となる峰々の随所から湧き出で、こうしてオシアへと続いていた。

 永い時を経て、その流れの一つひとつが谷を地の底まで削り、ギラメラ門の周辺は渓谷と断崖の迷宮となっていた。切り立った崖の側面に、馬と馬がようやくすれ違える程度の道がくり抜かれ、メディトリアとオシアを繋いでいる。

 門は、この崖道が小ぶりな岩山をぐるりと回る所にあった。岩山は、内部に向けて穴が掘られ、蟻の巣に似た要塞となっている。道は、砦にある石門で二箇所を封じる事ができた。たとえ、百万の軍勢に攻め立てられようとも、要塞内部にたっぷりと貯蔵された食料が尽きるまで、この関門が開く事は無いだろう。

 男が二人、砦の洞窟の中から崖道を通る従士たちの列を見ていた。普段は輜重で運ぶ荷を背負い、崖を通る彼らに言葉は無かった。兵の家の仲間たちが通り過ぎるのを待つメイノスの手には、汗が握られていた。

「……おい、そんなに緊張するな。お前の様子を見て、兵たちも焦っちまうぞ」

 スタインが、岩壁にもたれて言った。道から顔を背け、メイノスが小さく頷く。

(くそっ、何て行軍だ……。見ているこっちの神経が磨り減っちまうぜ……)

 彼ら王家の従士は、帝国の援軍としてオシアへ向かっていた。この門までは上りが続いており、門の先は緩やかな下りに転じる。このような隘路を行く場合、上りでは先頭付近で兵が詰まり、しばしば事故が起きる。下りでは逆に、遅れまいとする最後尾が危険であった。先頭にいた二人は軍勢の様子を見るため、殿と合流すべく列をやり過ごしてた。

 落ち着きの無いメイノスを見て、スタインが笑みを浮かべる。

「まあ、滅多なことは起きりゃしないさ。こうして荷をばらし、担いで運ぶのはいつもやっている。違いは、ここが絶壁で下が川ってことだけだ……」

 少し意地悪そうな表情で言う。かつてメイノスが所属していた伍番隊は、士隊長がデロイ帝国の人質になるという異例の事態の後、スタインの指揮する壱番隊に編入されていた。隊の士長であったメイノスは、今はスタインの副官格である。彼が低く呟いた。

「……デロイの連中は、何でおれらを呼んだんですかね?」

「さあな。奴らも、属州の反乱で苦しいって事だろう。確かに、原因の一端はメディトリアにもある」スタインの口元が笑う。「これで、帝国との関係は軍事同盟に格上げだな。逃す手は無いだろう。儂たちは、オシアで最大限の努力をすりゃあいい。あくまで最大限のな……」

 そう言って、目を閉じる。皮肉めいた口ぶりから、彼にそんな気が微塵もない事は明白だった。彼らが普段は通らぬこの門を経路して選択したのも、反乱軍との鉢合わせを避けるためだった。メイノスが硬い表情で、荒々しい鑿の跡を残した洞窟の天井を見上げる。

「畜生……。この大事な時に、あいつはデロイで何をしてやがるんだ……」

「……そう言うな、メイノス。儂もあの場におれば、同じ事をしただろう」

 スタインが目を開き、メイノスを見る。だが、彼は厳しい視線で答えた。

「ですが、人質ならルグス以外でも良かったはずです! 何も、軍を指揮したあいつが行く必要なんか無かった。下手したら、殺されちまうんですよ? いや、奴らはそれが目的かも知れんのです!」

 とろりとした眼をぐりぐりとこすり、眠気を飛ばしたスタインが言った。

「……儂が思うに、だ。敵の大将は、もっと前向きな理由があってルグスを選んだのだろう。入門以来つるんでるお前は心配かもしれんが、儂は正直、腹が立つな」

「いや、おれもそう思ってます。まったく、勝手な事をしやがって……」

「メイノス……。腹が立つというのは、選ばれたのが奴だからだ」

 スタインの顔に、静かな苛立ちが見て取れる。メイノスが、それに気づいて口をつぐんだ。イド・ルグスが王に重用される以前から、王家の軍を掌握していたのはスタインだった。彼は、士隊長の中では唯一となるイド・ルグスの理解者であったが、それ故に抱える葛藤もあった。

「我らがカシアスの戦いで勝てたのは、皆があっさりと奴に命を預ける事ができたからだ。誰の手柄でもない、ルグスはそう思っていただろう。だから奴は、ああした。儂にはもう、どうしてやる事もできん……」

 過ぎゆく列へ彼の視線が向けられていた。その眼は、ただ険しいだけではなかった。メイノスの心にも、複雑な感情が鬱積していた。もしかすると、奴はもう帰ってこないのかもしれない。そんな焦燥感の後に、あるいは帝国の熱烈な歓待を受け、鼻の下を伸ばして暮らしているのかもしれない、とも想像してみる。だが、そんな事がありえる筈はない。軍を率い、あれほどのデロイ兵を殺したのだ。いま、彼がどの様な境遇であるのかはもちろん、生きているのか死んでいるのか、それすら皆目見当がつかなかった。

 メイノスが溜息をついた。押し黙った二人は、列が過ぎるのをただ待つ。渓谷に、従士たちの息づかいと水の音だけが聞こえていた。



「解った。下がれ」

 静まりかえった正殿の一室で、炎がゆらゆらと揺れていた。道中の塵に塗れた密使が、王の言葉を受けて退出する。それを見届けると、侍従長ジジ・スタコックが口を開いた。

「陛下、何やら不穏ですな。先日の援軍要請と、なにか符号しているのかもしれませぬ」

「……イド・ルグスからの報せは、まだ無いのか?」

「何の音沙汰もありません。デロイ側も、無事の報せを届ける事ぐらいは承知するものと思いますが、彼らの誤解を避けて連絡を絶っているのかもしれませぬ」

「文書のやりとりが、好戦的なデロイ貴族たちの疑いを招かぬようにか……。馬鹿め、無駄な心配をしおって」

「それより陛下、先ほどの報告にはどう返しましょう?」

「あの二人は現状通りだ。情報を集めさせろ。どう動くにせよ、確たる証拠が必要だ」

「しかし、なにぶん出所が出所ゆえに……」

「無理なら、我々だけで動くしかないな」

「陛下……。その様な事は、私が断固としてお止め致します」

「……ジジ。厳しい事を言うようだが、お前の反対でどうにかなる問題ではない」

「しかしながら――」

「言うな、ジジ。無理は承知している。だが、王家が何の為にあるのか、問われているのだ。我々は、ただ祭祀を執り行うだけの存在ではない」

「ですが……。陛下、どうか王の輩の結束を損なうのはお止めください。そうなれば、出来ることも出来なくなってしまいます……」

 深々と頭を下げる。そうするしかなかった。侍従長の言葉に、これまでの気概はない。即位の後、彼はこの危機に対応する王を見て少なからず疑問を抱いていた。その行動の端々に、秘められた王の意思を感じたからである。だが、それが何なのか、そして何故なのか、腑に落ちることは無かった。幼少の頃から彼女に侍従して教え導き、その心に近づけるものと思っていた彼である。だが、解らない。それが迷いとなっていた。

「そうだな……」

 呟いたダナは、床机に手を置いて目を閉じる。思案にふける彼女の前で、小さな灯火だけが揺れていた。


      †      †


 フォスタルが、義父の居間にいた。これまでの首尾と、集めた情報を報告する。それを聞くゼノフォスの顔は、概ね穏やかであった。

「――父上、気になる事を聞きました」

 フォスタルが、第二軍団の大兵長たちの周辺から手に入れた情報を説明する。それは、メディトリアが用いた兵器の詳細と、焔硝の存在についてであった。ゼノフォスはそれを聞くと、老人とは思えぬ艶かしい笑みを浮かべる。

「よいぞ、よいぞ。これで、心配事がひとつ消えた。馬鹿めが」

 目尻の下がった卑猥な顔で、息子に言う。

「この事を、それぞれの家に伝えよ。誇張する必要は無い。ごく自然に漏らすのだ」

 さらに、込み入った指示を二、三ほど息子に伝えると、彼は満足した様で床についた。それを見て、フォスタルは何か得体の知れない恐怖を感じる。義父は毎日、昼には起きてわずかに食べ、息子の報告があれば指図をして、また寝台に臥せる。敬うべき家長であり、彼はいま自分が行っている事を、真実の孝であると信じて疑わない。だがこれは、あくまでマクニサス家の閉じた世界の正義だった。

 改めて義父を見た。骨と皮だけになり、肌は枯れ果て、醜い老斑が全身を覆っている。漂う空気は死臭を孕み始め、典医もすでに快復を見込んではいない。おそらく、彼を支えているのは妄執だけだろう。かつての志は微塵も無いが、その手管だけは老練さに磨きをかけている。この老人が、いま帝国を動かそうとしているのだ。

 何かに耐えられなくなり、居間を出た。足早に廊下を進みながら、彼は胃の腑が踊るのを感じた。廊下の片隅へ倒れるように這いつくばる。身体を強張らせて何とか耐え、背を丸めて身体を震わせた。その瞬間、先ほどの義父の笑みが脳裏に閃めく。彼の胃の内容物が全て、眼前の床にぶちまけられた。


      †      †


「そういえばルグス殿。最近、妙な事を聞きました――」

 馬場での教練の帰り、ラボアが言う。馬術の伝授は、もちろん彼もその対象となっていた。だが、教わる側も玄人である。イド・ルグスが一通りの技を見せ、その中でも彼らの興味を引いた競馬術が、現在の教題となっていた。

「――以前にお伺いしたあの兵器の事が、方々の貴族や富民に広まっている様なのです。我々に緘口令が出されている訳ではないのですが、何か不審なものを感じませんか?」

 いくらかやり取りし、イド・ルグスが答えた。

「しかし、私の国の事が誤解なく伝わるなら、それで良いと思います」

 彼は、帝国の貴族が二派に分かれて争っている事も、この国がその様な抗争によって形作られた事も知っている。だが、彼はこの対立が、今すぐどうにかなるとは思っていなかった。彼の生まれ育ったメディトリアでは全てに均衡が成り立ち、常に保たれていた。名も無き民草として兵の家に入門した彼は、いずれ師士の任を解かれ退役し、民草に戻って死ぬのである。それ故に、こういった事にはどうしても反応が薄い。

「ラボア殿、ところであの噂についてですが……」

 いま、イド・ルグスが心配しているのは別の事であった。彼はこの国の人々に、敵と思われぬよう常々心がけていた。だが最近、年々収穫量を減らす農場で働く隷民や平民たちに『ガルバニアの昨今の不作は、メディトリアが水に毒を仕込んだ為である』という噂が広まりつつあったのである。

 デロイの人々は、南の僻地にあるメディトリアを漠然と蛮夷の国と思っていたが、実際にどのような国か知る者はいなかった。山脈に囲まれ、鉄資源の豊富なオシア州の上流に位置するため、鉱物資源が豊富にあるだろうと推測する程度である。

 しかし、彼らがメディトリアといえば頭に浮かべる事がひとつあった。薬である。外界との接触が少ないメディトリアであったが、ほぼ唯一の交易品としてそれは取引されていた。その製法も材料も一切が不明だが、効果は確かであり種類も多かった。王の認可を受けた商人だけが入国を許され、この国が必要とする物品と交換できた。その薬は、似せ物が出回るほど珍重されたが、これについても噂が付いて回っていた。

 例えば、『毒として用いれば、何の不審も無く自然死に見せかける事ができる』などといった事がまことしやかに語られ、貴人が夭折した場合はこの薬の存在が陰謀論の火種となる事もあった。だが、そのような用法を知る者が誰もいないのも、事実だった。

 街中で話を聞くことは、イド・ルグスにもできる。だが、常に護衛を伴う彼が、正確な情報を得るのは無理だった。状況を聞く彼に対し、ラボアが表情を曇らせながら答えた。

「……確かに、コロヒス河とアクアイアス河の水源地はメディトリアです。ですが、その様な馬鹿げた噂を信じている者は、わが軍団にはおりません。この事でも気になるのは、やはり情報の出所が不明な点と、時期が最近に限られている点です」

「ふむ……。しかし、これついてはさほど怪しいものではないと思います。貴軍におかれましても、抱鉄については似たような事がありましたので……」

 この言葉を聞いたラボアは、内心で舌打ちをした。少なくとも彼とダ・プーは、あの兵器の正体について、ある程度の事までは正しく推測していたのである。だが、自分たちも少なからずメディトリアに偏見を持つことは確かであり、彼の勢いも自然と弱まる。

「……あの件につきましては、お恥ずかしい限りです。確かに、ルグス殿の仰る通りなのかもしれませんが、老婆心ながら申し上げました」

 あのダ・プーの改革以前、ダ・プー本人が商人と結託して平民に情報を流し、第一軍団の募兵を頓挫させていた。それを知るラボアは、枢軸貴族を中心とする敵対者たちの対抗策を心配していたのである。しかし、それをイド・ルグスに明かす事もできず、控えめにそう言うのが精一杯であった。彼自身、誰が何を企んでいるのか知るわけではない。

「この国の人々に対しては、これから正しい事を知って頂ければと思います。すでに、貴族や富民の方々はメディトリアに対し興味をお持ちの様ですので、安心しました」

 そういう解釈も確かにあるな、とラボアが思う。あの改革に対する枢軸貴族たちの反動が必ずあるものと彼は思っていたが、存外そんな事は起きないのかもしれない。

「ルグス殿、我が国に協力する貴方の名は、今後さらに知られると思います。メディトリアへの誤解や偏見を一掃する、良い機会となればいいのですが……」

 ラボアの言葉に、イド・ルグスが頷いた。そうであって欲しいと思う気持ちは、二人とも同じであった。その真摯な表情を見て、ラボアが思う。

(だが、簡単なことではあるまい。それはルグス殿も承知のはずだが、達成すれば恩賞を得られる訳でもないようだ。この方を支えているのは、一体何なのであろうか……?)

 ガルバニアの人々は、常に欲望と恐怖に曝されていた。現在は帝国を号するが、かつては周辺を強敵に囲まれ、自らが耕した沃土を守る事を目的として結束した。今は、才覚さえあれば三代で富民になり、百年あれば貴族にのし上がれる。力を得た者はさらに富を求め、限りは無い。それは、すでに彼らの考え方であり、生き方であった。

 少し、似ているな……。ラボアはそう思った。自らの仕える主人、プルー・ダ・プーとイド・ルグス。一見、対称的な二人である。しかし、ダ・プーに嫡子はおらず、それを儲けようともしない。築き上げた彼の名声を、誰が継ぐというのか。イド・ルグスもまた、王の許しを得ぬままこの地へ赴いた。その活躍に、誰が報いるというのか。二人はその能力を振り絞り、そして砂に撒くような事をしている、とラボアには思えた。

 彼は、しばらく考え込んでいたが、ふと気づいて口を開いた。

「ルグス殿、メディトリアへ報せを送る許可はすでに得ております。文を認めて頂ければ、いつでもお届けいたしましょう」

「……それは有り難い事です。ですが、今はその必要はありません」

 帝国全体では、まだメディトリアに対する偏見や無知に何の変化も無い。この状況で、さらなる憶測を生むような行動は避けるべきだと、彼は考えていた。

 用心深く振る舞いながらも、この国に馴染むよう努力するイド・ルグスであったが、最近になって夢の中でユノを思い出す事がよくあった。何故、あの家を去ったのか。これまで避けていた問いが鎌首をもたげ、答を欲して望郷の念を煽る。だが、彼がここに来たのは故郷を守るためであり、師士としての使命感はその想いをすぐに忘れさせた。

 そうこうしている内に、二人は邸宅の前に着く。ラボアは別れを告げ、本営に引き返した。その姿を見ながら、イド・ルグスはいつものように邸宅の門をくぐった。



 その後、帝都で編制された第一軍団最後の大隊がオシアに赴き、大蜂起の討伐が始まった。北のキリアでは、ラニスから奪った領土を第三軍団が守っていたが、停戦中の彼らとの軍事的緊張は高まりつつある。その結果、帝都を守っていた第二軍団と第三軍団の交代が命じられ、キリア戦役はダ・プーが引き継ぐ事になった。

 第二軍団の帝都での最後の夜に、壮行会が催された。イド・ルグスも呼ばれ、明け方まで続いていた。これまで、彼らがこの丘に滞在して帝都を守る事は、懐かしい故郷での休息でもあったのだ。しかし、明日はキリアへ向かわねばならない。その任務がどれほど過酷なものになるかは、底が抜けたような彼らの浮かれ騒ぎが、雄弁に物語っていた。

 次の日、見送る人々の列は円柱回廊から凱旋門まで続き、彼らそのものが道となっていた。兵士の家族たち、年老いた退役兵たち、デロイの市民たち、ここに居残る仲間たち。丘を下り、帝国の華々しい勝利を記念する柱が並んだ回廊を過ぎる。見送る人々に別れを告げながら凱旋門を出た第二軍団は、長い列となってそのまま北へ向かった。


 イド・ルグスはこの後、帝都で第二軍団の居残り組となったラボアと数十人の騎兵に騎馬術の伝授を行いつつ、大会堂や市場などへ積極的に足を運んだ。メディトリアについての偏見を覆すことは簡単ではなかったが、イド・ルグスという男がこのような人と為りである事だけは、デロイの人々に理解されるようになった。


      †      †


「じゃあ、こうしたらどうっすか?」

 邸宅での昼食の後、イド・ルグスはいつもの様にダンテの議論の相手をしていた。椅子の上で茶をすするエフロ婆は、彼の話を全く聞いていないようだった。今日のダンテの題目は、小で大に打ち勝つ方策である。彼は、イド・ルグスの事を勝手に師匠と見込み、こうしてよく議論を挑んでいた。

「この条件だったら、劣勢でも勝てるって事ですよね?」

 ダンテの見解を聞き終え、イド・ルグスは息を吐いた。メディトリアに兵法という概念は無いが、少なくとも彼の経験論とダンテの耳学問は、完全に別の次元にある。イド・ルグスの反駁によってダンテはなす術も無く論破されるが、それでも彼は食い下がった。そういった態度をイド・ルグスは嫌ってないとはいえ、しつこさに辟易する事もある。

「――いいか、戦とは単なる知恵でひっくり返るような高尚なものではない。癇癪を起こし、腕力を振るって暴れるのと同じだ。もしそんな方法があれば、困るのは君たちだろう」

 諭すように言う。軍事に関する彼の認識は、全てが素朴である。だが、それらの内容に誤解は存在しない。その安定した基礎から生み出される応変の思考が、彼の兵法といえた。また、本人にそのつもりは無いものの、イド・ルグスの言葉には帝国への皮肉が含まれ、さすがのダンテも勢いを殺がれる。ひと呼吸ほど置き、彼が思い切って口を開く。

「でも、カシアスの戦いで先生は、小で大に勝ってますよね? ダ・プー閣下も、小で大に挑んでるんです! それがどういう事なのか、教えてください! 俺だって、役に立ちたいんです!」

 ダンテが、精一杯意気込んだ顔つきでイド・ルグスを見た。だが、まるで締まらない表情だった。口元を緩め、イド・ルグスは成る程そういう事か、と思う。彼が、答えた。

「ふむ……。だが、ダンテ殿なら他にもできる事はあるだろう。軍職にこだわる理由は特にないと思うが、どうかな?」

 彼らしい、率直な意見だった。それを聞き、ダンテがしゅんとなって言った。

「……やっぱり、俺は士官に向いてないですかね?」

「それは、私には判らん。だが、軍略や策戦といった小賢しい理屈より重んじるべきものが、きっとあるはずだ。私は、そう信じている……」

「……それって、答になってないっすよ。エフロ様からも、先生がちゃんと教えて下さるように頼んでくださいよ? これは、第二軍団の為でもあるんですから!」

 ダンテには、彼の言葉が単なるはぐらかしにしか聞こえない。だが、イド・ルグスの言葉に嘘はなかった。エフロ婆は、すでに竈の片づけに取り掛かっていた。食台の方をちらと見て、答える。

「ダンテよ。小が大を制したとて、それはたまたまじゃ。その程度、この婆でも解るぞ。そんなものを教わるより、お前はまず神殿に詣でる事から始めるべきであろう」

 ダンテが、顔をしかめて頭を掻いた。若者らしく不信心な彼が、普段からエフロ婆にしつこく言われている事だった。昼食の礼を言い、イド・ルグスが席を立つ。厨場を立ち去る彼を、ダンテが追った。その時、扉を叩く音が邸宅に鳴り響いた。


 第二軍団本営からの使いだった。ラボアの差し向けた兵士が、手短に言葉を伝えた。

『邸宅で待機せよ。貴殿の安全のために』それだけを言い、使いの兵士は去ろうとする。イド・ルグスが、追いすがって説明を求めた。兵士は、オシア州で何かが起きた、という事を繰り返すだけだった。不穏な様子を感じ、彼が強く問い詰めると意外な答が返ってきた。オシアにメディトリア軍が駐留中らしい、と。

 情報が整理されたら必ず連絡すると約束した兵士は、呆然とする彼の前から去った。ダンテも、兵士と共に本営へ向かう。やがて、邸宅に別の兵士が続報を伝えにきた。

 彼が言うには、オシア州にメディトリア軍がいるのは間違いなく、軍勢は乱の鎮圧の折に第一軍団の要請を受け、援軍としてこの地にやってきたという事である。これについては、故郷と連絡を絶つイド・ルグスはもちろん、第二軍団にも知らされていなかった。

 さらに、兵士が告げる。オシアで反乱軍と交戦していた第一軍団から、メディトリア軍から攻撃を受けた事が報告された、と。イド・ルグスには、到底信じがたい報せだった。まだ情報を収集している段階ではあるが、メディトリア軍と交戦した大隊が、確かにそう報告していた。兵士はイド・ルグスに連絡があるまで引き続き待機するよう告げ、最後にこう言った。「何があっても、我々は味方です」


 イド・ルグスは言葉を失い、立ち尽くしていた。玄関の広間でエフロ婆と共に、ただ待つしかなかった。だが、彼には確信があった。経緯からみて、オシアにいたメディトリア軍はおそらく王家の軍だけである。彼らを率いるファー・スタインが、そのように愚かな真似をするはずがない。第一軍団からの報告が、一時的に混乱しているのであろう。彼は、そう思っていた。

 夕方になり、ダンテが邸宅に戻ってきた。青ざめた顔で、イド・ルグスを見る。

「まずいですよ……。枢軸貴族たちが、先生を審問するって言ってます」

「……ダンテ、その審問とは私も発言できるのか? オシアからの報告は、おそらく誤報だ。我々にデロイを裏切る理由がない事を、彼らに説明したい」

 だが、ダンテは目を閉じ、暗い顔つきで思案していた。そして、厳しい視線をイド・ルグスに向けると、はっきりと言った。

「要するに、これは吊るし上げなんです。枢軸貴族たちはメディトリアに再び攻め込む好機と見て、待ち構えているでしょう。自分で発言する事はできず、呼ばれた側は圧倒的に不利です。とにかく、審問には行かないで下さい」

「……だが、拒めば余計に疑わしい。私が呼ばれるのは、いつになる?」

「審問には委員の票が三分の二ほど必要で、すぐには無理のはずです。その前に、第二軍団がオシアであった事を調査するので、とにかく先生は待ってて下さい」

 そう言うと、ダンテは本営へ赴こうとする。その時、ラボア以下数名が突然邸宅にやって来た。彼らは息を弾ませ、尋常な様子ではない。ラボアが慌ただしく、審問は今夜行われる、という貴族院からの通告を報せる。その場が、しんと静まった。

「……そんな馬鹿な! じゃあ、準備してたって事じゃないっすか! これは枢軸貴族の罠ですよ! 絶対に、応じては駄目です!」ダンテが叫んだ。

「だが、すでに審問の期限は今晩に決定されたのだ。応じなければ、明日にも処断される。ルグス殿、今すぐご準備を。万一の場合は、我々がお守りします」

 ラボアたちの表情は、これまでになく硬いものだった。第二軍団の留守を預かる彼らに、審問を拒む術は無かった。平民派の貴族たちがイド・ルグスを庇護するとしても、その当主たちの多くがキリア戦役へ赴任しており、今すぐ対応する事は無理であった。もし、第二軍団が彼を匿うなら、平民派の政治的な立場も危うくなる。

 ダンテとエフロ婆は、最後まで彼が審問へ赴く事に反対していたが、イド・ルグスはラボアの求めに応じた。迷いは無かった。貴族院の建物へ向かう途中、ラボアが言った。

「嫌な予感が当たりました。完全に、我々の力不足です……」

「ラボア殿、これが罠ならオシアでの出来事は虚報だろう」

「ええ、私もそう考えております」

「……我々の事を信じて頂けるとは、有り難い」

「すでに、私の手の者がオシアへ向かっています。事実が明らかになれば、ルグス殿もメディトリアも我々も、全てがこれまで通りの関係に戻れるはずです……」

 イド・ルグスが、無言で頷く。彼らの頭上で、月が欠けていた。その姿を侵食する影と同じく、闇が帝都を深く呑みこんでいた。


      †      †


 審問が終わった。イド・ルグスは、邸宅に帰っていた。意外にも彼に対する質問は、あの兵器についてがその殆どであった。焔硝の原料、製法、産量、運用、その他さまざまな説明が求められ、そして枢軸貴族たちはこう結論づけた。メディトリアが、その様な兵器を所有する事は極めて危険である、と。

 さらに彼らは、現在のメディトリア軍など恐れるに足らず、と気勢を上げる。審問はメディトリアの裏切りへの判断を飛び越え、新たな戦役に対する議論となっていた。イド・ルグスとラボアが、その様子に声を失う。これまでに得られた情報が、彼らの恐怖心を一掃していた。再侵攻の口実を得たからには、先の会戦の報復を行った上で、その兵器を奪う。欲望だけが、枢軸貴族たちを支配していた。

 だが、彼らがその様に団結したとしても、ダ・プーの改革がその歯止めとなるはずだった。貴族たちの名誉や欲のためにメディトリアへ赴き、命知らずの戦士と再び戦うのは平民たちである。審問の後にラボアたちは、オシアで起きた事をまず明らかにし、その後に枢軸貴族への巻き返しを行うという方針を確認すると、各地に散っていった。

 イド・ルグスは、引き続き邸宅での待機という事になった。皆が寝静まるその夜、異変に気づいたのは彼自身だった。


 物音を聞いたイド・ルグスが玄関の扉を開けると、妙な感じがした。水の撥ねる音。滴が落ちている、どこかで。玄関の先に、篝火を灯した見張り台があった。駆け寄った櫓の下の闇で、闇より濃い赤がまだらの渦を巻いている。滴は上からだった。

 覗き込んだ見張り台の中では二人の兵士が倒れ、血糊に塗れていた。すでに水分を失って赤黒く変色している。兵士の喉は頚骨までぱっくりと切り裂かれ、傷口の奥に見える白い骨がぬらぬらと輝いていた。

 櫓から跳び下り、急いで邸宅の中に向かう。先ほどの妙な感じは、滴の音とは関係ない。この邸宅から、誰の気配も感じられないという、違和感――。

 踏み込んだ厨場の裏扉は開けられ、その敷居の上にエフロ婆がうずくまっていた。建物の外に出た上半身がどす黒い血糊に沈んでいる。さらにその外には、男が倒れている。ダンテだった。見張りの兵士と同じく、二人とも喉を裂かれていた。

 イド・ルグスが、その場に立ち尽くす。瞬きをした。エフロ婆の口元で血泡がぱちんと弾け、黒い飛沫が彼女の頬にへばりついた。

 彼が目を背けたその時、邸宅の外に音が聞こえた。玄関まで歩いてゆく。開け放たれた扉に辿り着くと、馬車が見えた。すでに近い。四頭立ての馬車が小刻みに跳ねつつ、猛烈な速度でこちらへ向かっている。鼓膜を打つ轟音が彼に迫ってきた。御者台には男が二人。激しい振動に耐え、馬に鞭をくれながら、何度も車体越しに後ろを振り返っている。

 馬車が蹄と制動機によって急停止する。矢が何本も突き立った車体から、一人が跳び下りた。顔を麻布で隠しているが、口からは白い歯が見える。そして、まだ少年のあどけなさが感じられる彼の眼は、笑っていた。


      †      †


 ダ・プーが野営地の囲みの中で、朱に染まる夕日を見ていた。その方角には、ラニスがある。幕営は露天に設けられ、静けさの中で一日が終わるこの瞬間はダ・プーにとって思索の時間であった。

 彼が夕日の先に思いを馳せる。重要なのは、海だ。汲めども尽きぬ富への扉だ。それさえ開けば、帝国の全土がその恩恵に浴するだろう。デロイ帝国が豊かである限り、ガルバニアの繁栄は保障される。領土の獲得に奔走する必要もない。だが、枢軸貴族は属州を拡げて搾り取る事しか頭に無かった。ダ・プーが舌打ちする。あの馬鹿どもが。

 彼らは、この考えを認めぬだろう。そんな事をして何になる、領民や商人どもを勢いづかせるだけではないか。そう言って、鼻であざ笑うに違いない。だが、この腹立ちも今の彼には快かった。お前たちが愚かである事に、感謝しよう。ダ・プーの頬が緩む。

 デロイの行く末が、彼には見えていた。いずれ出会うであろう強敵にその進路は遮られ、膨張を止めた帝国は勢いを失う。自分の足を喰う蛸のように属州を食い潰すが、やがてそれも限界に達する。これまでのやり方だけが、唯一の解決法であるこの国には成す術が無い。すでに、そうなりつつあった。

 彼には、野心があった。この世界の歴史に、自身の名を刻む。大きく、そして深く。帝国の歴史に燦然と輝く、ルグドネクシスの名に負けぬほど。そこまで考えた時、軽い笑いが彼の鼻を抜けた。そりゃ、いくらなんでも無理だな。

 だが、ダ・プーは今が好機である事を確信していた。平民派には追い風が吹いている。前回はルムドとカーレの援軍に邪魔をされ、停戦となった。だが、奴らはもういない。結んだ条約は、どうにでもなるだろう。そう思った彼が、ラニスの議員に言われた皮肉を思い出す。民会の議決に従い、ラニスとの停戦交渉を行った場での事だった。

『盗人猛々しいとは、この事ですな。ダ・プー殿』

 デロイ側に有利な条件で、彼らが折れた後の言葉である。なにが、盗人だ。彼の頭に血がのぼる。盗人はお前たちではないか。汗水たらして得た収穫を、ひと山幾らの安値で買われる者の気持ちが貴様らに解るか。飢饉の時は容赦なく値を吊り上げ、市場原理だとほざきやがる。あらゆる手段を使って流通を独占し、協定を結んで餌食にしやがって。我々は、戦わねばならぬ。さもなくば、いくら開発に力を注ぎ、農場を拡げても奴らの食い物になるだけだ。我らが田舎の農夫以上に豊かになるために、是非とも海が必要なのだ。

 のし上がって何が悪い。敵を倒し、豊かになって何が悪い。お前たちの富も、そうやって築いたのだろう。俺が同じ事をしたとしても、盗人と呼ばれる筋合いなど断じてない。貴様らは、もう終わりだ。我らの軍門に下るか、滅びるかだけは選ばせてやる。

 ダ・プーが、つらつらと乱暴な思索にふける。それは帝国の理論そのものだった。自嘲気味にため息をついた彼の脳裏に、ある言葉が浮かぶ。

『なるほど。デロイの正義がどういうものか、よく解りました』

 あれは、誰の言い草だったか。ダ・プーが思い出す。イド・ルグス、あの男だ。彼がぞくりとする。奴は、何としてでも飼っておかねばならん――。

「――――本州よりの使者です、閣下」

 幕営に、使いがやって来ていた。農業に詳しい配下の富民を動員し、ガルバニア州全土で行わせていた調査の報告であった。ダ・プーが、彼の言葉を静かに聞く。

 現在のガルバニア州においての不作は、土壌に蓄積した塩が原因と考えられる。それが、結論だった。上流となるオシア州の水源はメディトリアにあり、水には鉱物由来の塩類が多く含まれている。その成分は今まで、オシアの森に吸収されていたはずだった。

 だが、帝国が必要とする鉄の産出のため、森は破壊されていた。それは治領官たちが領民を酷使し、過剰な生産を行った結果である。すでにオシアの鉄の産出量は下降の一途をたどり、枢軸貴族たちは代替の生産地を探していた。これは、彼らがメディトリアに目を向ける理由の一つでもあった。

 その森が無くなった今、雨がオシアの土壌に含まれていた膨大な塩類を洗い流し、ガルバニアに流入しているものと思われた。河水は、彼らがせっせと作った灌漑施設で汲み上げられ、農場に撒かれる。ダ・プーが、その頭をがりがりと掻いた。

「くそっ、全く予想していなかった展開だ……。確かに、メディトリアから毒が流れてきているとも言えるな」

 彼は、市中で囁かれる噂を皮肉った。だが、全く笑えない事態である。

「何か、対策は無いのか?」

「土地を冠水させ、塩を流し去ることは可能です。ですが、それは河の氾濫が届く低地だけです。ほとんどの農場には適用できません。天水の量が増えれば別ですが……」

 かつてのガルバニアでは、河の氾濫を利用した天然の灌漑で農業が成り立っていた。農場の開発は、それ以外の土地を農地として利用するのが目的であったのだ。従って、河の氾濫が農場まで届くはずがない。降水量についても、年々減ってきているのが現状であった。これにはオシアの砂漠化が関係していたが、彼らにその概念はまだ無かった。

「何故、今までこの事に気づかなかったのだ?」

 穏やかな声だったが、ダ・プーは苛立ちを隠し切れない。使いの者が答えた。

「私たち一族は、長年農事に携わっています。古い文献に書かれた塩による害の事も研究しておりましたが、私たち以外はそれを信じていなかったのです。ですが、今回の事でそれは証明されました。我々の努力は、ついに報われ――」

 だが、彼は言葉を止めた。ダ・プーの刺すような視線に気づいたからだった。

「……ふん。例のグルグア人(グルヴァノス)が遺したという農書か」苦々しげに言う。彼としても、その手の由来不詳な古文書に頼ることは賛成し難い。だが、それが正しいなら話は別である。

「改めて聞くが、グルグア人についてどこまで分かっているのだ?」

「それを語るには、資料が少ないのですが……」そう前置いて、彼が答える。「私は、彼らがこのガルバニアの地から興り、そして我が帝国の領土をこえる広大な地域を支配したと聞いております。高度な技術と文化を持ち、鉄器を初めて兵器に用いたのも彼らだとか。鉄の民とも征服の民ともよばれ、常に集団で暮らしており、定期的に侵略を兼ねた大移動を行っていたそうです。また、我々の住むガルバニアの語源が、彼らの名にあることは間違いありません。つまり、グルグア人こそが我らコノス人の祖先と考えられ、その偉大な血統を受け継ぐ我々こそが、この地を支配する資格を持った優越民族といえるのです」

「ほう……。興味深いな」だが、高揚の色をふくむ男の声とは対照的に、ダ・プーの眼に熱はなかった。その口元だけが、静かに嗤っている。

「……確かに、閣下もご存知の通り、彼らの事はこの国の史書に記されておりません」男はしゃちほこばった表情のまま、言葉を続けた。「ですが、我ら古学者はグルグア人について、単なる伝説ではなく実在した民族と考え、さらに我々の祖先であるとみなしています。我が家の所有する農書を含め、彼らの手によるものと思われる学術書が無数にあり、その研究は今後さらに進むでしょう。彼らと我々の歴史に断絶があるのは事実ですが、それがいつ頃の事かは定かではありません。また、そういった資料が少ないのは、同時代の記録が残っていないのが原因です。その時期を彼らの活動した年代であると考えると、それはおよそ五百年前に遡るでしょう」

「……つまり、断絶そのものが奴らの仕業という事か。派手に暴れまわって、無茶をしたのかもしれんな。だが、五百年前といえば大昔だ。なぜ、その頃だと分かる?」

「人の言葉は変化します。その進行の度合いを計れば、時間の経過も割り出せます。我々は様々な古文書の年代を測定し、空白の時期を――」

「解った、もういい」手を振ってダ・プーが言う。「講釈は、今度にして貰おう。至急、害を取り除く術を探るのだ。この件は、お前たちに任せる」

 深々と礼をした使いの者は、足早に立ち去った。額を手のひらで覆うダ・プーが、低く呻いた。今の事態は、帝国の自業自得としかいえない。楽天的な彼も、さすがに堪えたようだった。だが、先ほどの富民のように先見の明を持つ者もいる。良い兆しが、無いわけでもない。そうこう考えている内に、斥候隊を率いる兵長が幕営に姿を見せた。

 北方からの報せだった。ルムドとカーレが兵を発し、こちらに向かっている。その数、約三万五千。金で雇われた傭兵の軍団であった。さらに、一万人以上の別部隊も存在していた。この部隊は戦奴を集めた軍勢であり、傭兵軍団の露払いとして合流するものと思われた。合計で、五万近い大軍になるだろう。

 ダ・プーは冷静に聞いていたつもりであったが、その形相を見る兵長は青ざめていた。彼を下がらせ、ダ・プーは再び呻いた。

(なぜだ。なぜ奴らは、俺がいるときに限って出張ってくるのだ……。糞ったれが!)

 盾で組まれた衝立を、拳で殴りつける。その一角が、べらべらと崩れた。あまりの怒りに、手の震えが止まらない。彼はここまで自制を失った事に、自分でも驚いていた。腕組みをして、ぐるぐると思考を巡らせる。考え様によっては、手柄の立て所だともいえた。第二軍団は、メディトリアで敵から逃げて手柄を拾った、と揶揄される事もあった。そんなことを言う奴らを、見返す好機ではないか。何事も前向きに、だ。彼は自分の頬を叩き、気合を入れた。

 さらに、伝令がやって来た。帝都からの報せだった。顔を強張らせた兵士が告げる。

「――オシア州にて、第一軍団がメディトリア軍に攻撃されました。その後、帝都でエフロ様とダンテ・エラニオが何者かに殺害され、イド・ルグスは邸宅より逃亡。目下、行方不明との事です!」

 それを聞いたダ・プーは、鞭で打たれたように立ち上がって何かを言おうとする。だが、言葉を出そうとしてもその口をぱくぱくさせるだけだった。すがる様に椅子に座ると、両手で顔を覆って動かなくなった。

 してやられた。ダ・プーの表情は捻じ曲がっていた。疑う余地は無い。一連の出来事は、枢軸貴族たちの謀略に違いなかった。メディトリアやイド・ルグスが、その様な事をするはずがない。自分たちの留守を狙って、この事変を引き起こしたのだ。民衆たちがこれを知り、怒り狂うのが眼に見えるようだった。そうなれば、あの改革も全くの無意味だ。奴らは、易々とメディトリアに軍団を差し向ける事ができる。

 ガルバニアの不作の件も、そもそもは欲の皮の突っ張った奴らが引き起こした災害ではないか。ルムドとカーレの援軍も、奴らが裏で糸を引いているのかもしれぬ。まさか、前回の戦役を中断させた援軍も――。全身から力が抜ける。

「閣下……! 閣下!」

 椅子から前のめりに倒れた。駆け寄った伝令に助け起こされた彼が、心で呟いた。

(どうしちまったんだ、この国は……。そして、どうなってしまうのだ、我々は……)

 慌てふためく衛兵たちに囲まれながら、彼は呆然と空を見る。赤く燃える夕日が、彼方の山稜に消えようとしてた。



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