【第三章】帝国にて


 ダ・プーの声が響く。彼がいるのは、石造りの演壇だった。毛織物で出来た円筒帽を被り、金糸銀糸が施された綾織絹の肩帯で正装している。壇の正面は、石畳の段々が半円状に演壇を取り囲んでいた。その段の上に、同じく着飾った貴族たちとその従者がいた。

「――結果的に第二軍団は、ガルバニアの守りに就く事ができた。これは、我ら帝国が非常な僥倖に恵まれていることの証である。以上をもって、諸君らへの報せとする」

 咳払いをし、報告を終えた。彼は第二軍団の軍団司として、貴族院にあるこの議廷で戦役についての説明を求められていた。

 彼の率いる軍勢が、帝都デロイへ帰還して三日が経っている。そして、カシアスの東で第二軍団がメディトリア軍と対峙する数日前に、本州ガルバニアとメディトリアを隔てる属州オシアで民衆の反乱が起きていた。オシアの属治領で起きたその乱に続き、さらに自治領の諸侯らが兵を興すと蜂起は州の全土に拡がった。現在もオシア州は混乱の渦中にあり、この大乱はオシア大蜂起とよばれた。

「ダ・プー殿! 肝心な事のご説明が足りない様ですが……」

 石段の中ほどから、声がかかる。輝くような朱子織の上衣をまとったその男は、コニオ・ネラスといった。

「ふむ……。ネラス殿、それは一体何の事かな?」

 解らない、といった風で首を傾げ、ダ・プーが答えた。

「……とぼけるお積もりか。貴方は、あろう事か陛下の名を騙ったのですよ!」

 ネラスが叫んだ。彼は、伝統派の貴族だった。デロイには数多くの貴族がいるが、彼ら伝統派は最も古い歴史を持ってる。帝国の成立以前、後に皇帝となった僭主ルグドネクシスに仕え、都市デロイを起源とする者たちだった。

 ダ・プーは、石段の右をちらりと見た。そこにいるのは、議廷の左翼を占める枢軸貴族たちの集団だった。彼はその無表情な顔に、微かな笑みが見え隠れするのを感じる。そして、正面のネラスに視線を戻すと、不意に怒りがこみあげた。

(この、下衆が。穏健と良識を気取ってはいるが、肝心な所で強きになびく。それが、貴様らのやり方か。伝統派などと、よくぞ名のれたものだ――)

 彼ら伝統派の貴族は、ごく少数であり政治力も弱い。主だった官職に就く事もなかった。だが、その発言は威厳を伴い、それゆえ彼らは生き残ってきた。

 貴族の中で最も力が強かったのは、枢軸貴族であった。ガルバニアの諸都市を出自とし、僭主ルグドネクシスに帰順した彼らは、帝国が成立する過程で貴族として政治に組み込まれた。それ以後デロイの権勢は彼らに集約され、現在も帝国の中枢に君臨している。

「……言っている事の意味が解らんな、ネラス殿」

 あくまでとぼける。ネラスが叫んだ。

「黙らっしゃい! 皇帝陛下の認可を待たず、かの国と講和した事は明白なのですよ!」

 議廷に沈黙がもたらされ、右翼の貴族たちに緊張が走った。緊急時の対応として、今回のように軍団司が外交的判断を独決することは、公に認められている。だが、国書を捏造する行為は許されておらず、ダ・プーがその手順をどう処理したかは想像に難くない。彼にその発行を待つ余裕が無かったとしても、糾弾されるには充分な理由であった。

「――ネラス殿に申し上げる! ダ・プー殿は、英断をもって兵をデロイに戻したのだ。今はその第二軍団が、帝都を守っている。貴殿は、それを忘れたか!」

 石段の右翼から声が上がる。ネラスが笑った。

「はは! だからといって、見逃して良い訳ではありません。この帝国に仕える忠臣ならば、追求して然るべきではないですかな?」

「――違う! 真の忠臣なら、あの大蜂起への対応を優先すべきだ! この様な事に時間を費やすべきではない、そうではないか?」

 別の貴族が同じく右翼から問いかける。辺りを見回す彼に、賛同する声が集まった。右翼を占める彼らは、貴族の中でも平民派とよばれる新興の貴族たちだった。次第に力を増す平民や富民たちと結託する彼らは、劣勢ながらも枢軸貴族と対立していた。第二軍団を率い、兵士たちの支持を受けて軍職の中に確固たる地位を築いたダ・プーは、平民派貴族の実質的な総帥であった。

「……ダ・プー殿! あの者たちがいくら騒ごうと、白は切り通せませんぞ?」

 ネラスの声が朗々と響いた時、演壇の奥で垂幕が不意に開いた。羅紗を捲る二人の近習の奥に、細身の人影があった。議廷がざわめき、空気がうねる。そして、貴族たちが一斉に跪いた。振り向いたダ・プーも膝をつき、にじる様に演壇から降りようとする。

「――ダ・プー、其処におれ」

 声が響き、その男が幕から出た。年は若く、白い簡素な執務衣を着ていた。

「皇帝陛下……! 何故、このような所に……」

 演台の上で、恐縮するダ・プーが言った。ルグドネクシス三世、あるいはネドゥホナ神の転生者。それが彼の呼び名だった。

「お前たちが、余の寵臣を虐めていると聞いたのでな……」

 そう言って議廷を見回す。ざわめきが、完全に消えた。

「……お言葉ですが皇帝陛下、この男はデロイ貴族の名誉を汚す者でございます!」

 演壇の正面から、ネラスの声が上がる。

「余の名を騙った、その証拠はあるのか?」

 無表情な視線を向けた。ネラスは一呼吸だけ返答に窮したが、顔を上げて答えた。

「この者は、講和の国書を持ち帰っているはずです。……皇帝陛下、ご確認ください!」

 上ずった声で言う。皇帝が、静かに口を開いた。

「ダ・プーには、ガルバニアを出立する時点で国書を持たせた。ハニアスと同じ様にな」

 その言葉に、ネラスが絶句する。それは、これまで第一軍団の事実上の特権であった外交の白紙委任状が、ダ・プーにも託されていた、という事だった。第一軍団の軍職は枢軸貴族たちが独占し、軍団は彼らの私物も同様であった。

 居並ぶ貴族たちは押し黙ったまま顔を見合わせ、当惑していた。右翼の平民派ですら動揺の気配が強い。だが、静まり返った議廷で声を上げるものがいた。

「――皇帝陛下。そのような事を、我らに何の相談も無くなされたと仰るのですか?」

 左翼の中央で、若い貴族がゆっくりと右手を差し上げた。フォスタル・マクニサス。落ち着いた視線を静かに皇帝へ向ける彼は、枢軸貴族の名門マクニサス家の後継者であった。

「フォスタルか……。答えてやろう。お前を含め、此処の皆が余の寵臣だ。故に余は第一軍団に与えていたものを、第二軍団にも与えた。何か、間違っていたか?」

 間違っているとは、言えなかった。皇帝は貴族たちの決定を承認する事が役割であり、実権は無いに等しい。だが、国書の発行は彼の権限で行われていた。もしそれが前例に反しているとしても、結果として第二軍団はオシア大蜂起に巻き込まれる事なく、速やかにガルバニアへ帰還できたのだ。メディトリアへの侵攻を主導した彼らが、その事を指摘できるはずが無かった。とはいえ、実際にそれが交付されていたかは、推して知るべしといわざるを得ない。

「……フォスタル、今は犠牲を弔うのが先だ。亡くなった将兵に、国葬を施すのだ。大乱への対処は、その後でも遅くはあるまい」

 さらにネラスを見遣ると、穏やかに告げた。

「ネラス。お前の祖先は、我が開祖を見出した慧眼の持ち主だ。その目を曇らせるな」

 踵を返し、奥に消えてゆく。近習たちが幕を閉じても、議廷は静まり返っていた。

 ダ・プーが不意に立ち上がった。何事も無かったかの様に演壇を降り、涼しげな顔で立ち去る。そして彼は、背後からの視線を断ち切るように議廷から退出した。


      †      †


「間抜け共め、あの男一人を追い落とす事も出来んのか……!」

 言葉を吐き出した老人の咽喉が、生き物の様に上下する。

「父上、如何致しましょう……?」

 フォスタル・マクニサスが、寝台の横で囁いた。老人が、半身を起こす。

「皇帝陛下へ意見したのは、お前か?」

「確かに、わたくしが――」

 握拳だった。膝をつくフォスタルの頬が、みるみる赤くなる。

「愚か者が……! 二度と、迂闊な事はするな」

「……申し訳ございません、父上」

 老人が、寝台の上で病んだ体を震わせた。彼の名は、ゼノフォス・マクニサス。マクニサス家の現当主で、フォスタルはその養子である。部屋に香の煙がくねっていた。病に蝕まれた身体は、独特の臭いを放つ様になっていた。

「あの若造のやった事は、国令に記された皇帝の権限を逸脱してはおらぬ。この知恵足らずが……」

「……浅はかでした」フォスタルが、床に伏す様に頭を下げる。

「もはや、仲間内で手柄を争っている場合ではない。奴が皇帝と手を組むなら、無視はできぬ。メフメザルとラセルクスの両家へ赴くのだ」

「は、仰せの通りに……」

「――儂の生きている内に、奴を必ず潰せ。どんな死より過酷な、恥辱と苦痛を与えろ。解ったな……?」

 言葉を受けたフォスタルは下を向いたまま、口を固く結んでいた。やがて、答えた。

「…………承知、致しました」

 ゼノフォスが、頭を下げる息子を無表情に見る。その言葉に含まれる、微かな反発を見逃しはしなかった。拳の鉄槌が振り下ろされた。身体を強張らせる彼に、拳が幾度も打ち込まれる。だが彼は目を閉じ、耐えていた。やがて打ち疲れたゼノフォスが、腕を下ろす。息を荒げる彼の瞼は、吊り上ったままだった。

 気が済んだのか、老人が寝台に横たわる。その気配を感じ、フォスタルは両膝を床につけた。そして何も言わず、三脚台の上の濡れ布巾に手を伸ばす。彼は可能な限り、義父の清拭を自らの手で行っていた。

「……下がれ!」

 寝台の上で背を向け、老人が言い放った。フォスタルは再び頭を深く下げ、後ずさる。義父が、なぜ自分を殴打するのか、彼にはよく解っていた。また、彼はなぜ自分が養子なのかもよく解っていた。

(あの時、私が代わりに死んでいれば――)

 これまで幾度も繰り返された思いを胸に、フォスタルは香煙の漂う部屋を後にした。


      †      †


 ダ・プーは仰向けに長椅子へ倒れこんだまま、足をぶらつかせていた。家具から剥ぎ取った真っ白な覆布を腰に巻きつけ、裸体を露わにしている。既に五十二であったが、脇腹は若々しく締まっていた。壮年になって、ますます鍛えるようになった身体だった。

 目の前の脚机に、衣に包まれた若い肢体が横たわっていた。白い尻が淫らにはだけている。ダ・プーが笑みを浮かべた。激しい交合だった。戦役の間に溜まった劣情の泥を吐き出し、全てが軽かった。彼はのそりと起き、その尻をすべて剥くと右手で張った。

 ダ・プーが、飛び上がったその姿を見て笑い声を上げる。恥ずかしそうに部屋から出てゆくさまを見て、さらに笑う。余韻に浸りつつ、彼は床に散らばる肌着を身に付けた。

 そのまま机に腰を落ち着け、思いにふける。

(……いい。最高だ。誰が何と言おうと、確かだ。世の中には分かってない奴が多すぎる。本当にいいのは、間違いない。男だ――)

 青空の描かれた天井を見上げた。

(世間の連中は俺を変人扱いするが、そんな事はどうでもいい。所詮、人間は他人を理解できぬ。己に及ぶ事を、ただ記憶しているだけだ。だからこそ、何かを成す意味がある)

 右手に柔らかい肌の感覚がまだ残っている。だがその手には染みが浮き、皺が刻まれている。溜息をついた。

(もう、若くはないな……。俺に、あとどれほど事が成せるのか……)

 ここには彼以外、誰もいない。独りで居ると、自分が老け込むのを感じる。何かに衝き動かされる様に、ダ・プーは足早に部屋を出た。


      †      †


 大きな窓の外から、街の喧騒が聞こえていた。帝都デロイの下流、港町クテラの一角にある商館の二階。質素な客間に、男が二人通されていた。戸口から、でっぷりとした男が部屋に入ってくる。後ろを向いて手招きをした。

「――さあさ、閣下とラボア殿にご挨拶をなさい」

 三人の若い女が、部屋の入り口で恥ずかしそうにこちらを見ていた。彼女たちは絹の衣で着飾っていたが、その織りはあまりにも薄かった。不安そうに前で組んだ手の隙間から、隠し切れない体毛が見え隠れしている。

「これは……! ポマス殿、目立たぬようにと言っておいたはずだが……」

 慌てて席から立ち上がり、ラボアが言った。

「いえいえ、この者たちは私の娘でございます。口の堅さは保証いたします」

 男がでっぷりとした腹を抱えながら、得意げに答える。だがその笑顔は、明らかに別の事を言わんとしてた。階下から、肉の焼ける匂いが漂ってくる。豪勢な食事も用意されている様だった。窓から港を眺めていたダ・プーが、振り向いて言った。

「……ポマス、悪いがあまり時間が無いのだ」

「え、ええ、それは重々承知しております。ですがこの末の娘などは、ようやく月のものを迎えたりしまして……その、ご挨拶も兼ねて閣下とご同席できれば、と……」

「ふむ……。では、後で祝いを届けさせよう。気を遣わせてすまなかったな」

 そう言って手を振った。女たちに一瞥をくれる事もなく、港の船に視線を戻す。

「……あ、いえいえ、とんでもございません。では、ご挨拶につきましては後の機会に」

 ポマスが笑顔で娘たちを見た。その瞳に父の勘気を感じた彼女たちが、そそくさと消える。後ろ姿は、全くの裸といってよかった。それを見たラボアが、呆気に取られる。

「あ、食事をせっかく用意致しましたので、下の方たちに召し上がって頂ければ……」

「……それは有り難いな。だが、兵たちは満腹だ。この家の者に食わせてやってくれ」

 静かにそう言うと、ダ・プーが首筋を撫でた。苛立ちの仕草だった。

「は、はい。申し訳ございません……」

 恐縮しつつ、ポマスが外に控えていた隷民を下がらせると部屋の戸を閉めた。視線を泳がせ、笑顔を作りながらダ・プーの前までくると、大きな身体を縮こまらせて揉み手をしだく。ラボアは平静を装いながら、胃がきりきりとするのを感じた。

(こやつ、何も学んでおらんな……。下手なへつらいは機嫌を損ねるだけだ)

 このポマスは、デロイ商人の典型といえる男だった。恐れられるより慕われる人格で、彼らが組織する商業組合の代表者でもあった。

 帝国の土地は貴族と富民に支配され、兵役は平民たちがその大部分を担っていた。それに比べ、彼ら商人の地位はあまり高いものではない。帝国の営みに商業の関わる余地は少なく、彼らは治領官が属州から持ち帰る収奪品や、国外からの輸入品をガルバニア州で流通させるのが主な役割だった。また、重要な商路である海は、北方の敵対勢力であるラニスやルムドといった商業都市に支配され、現在は封鎖されている。

 その立場の弱さゆえに、枢軸貴族から事あるごとに負担を強いられていた彼らは、現在では平民派の貴族に庇護を求める動きを強めていた。つい数年前にも、軍団が商人に求める糧秣の利ざやを規制する動きがあり、平民派の協力によって阻止されていた。ダ・プーとポマスの関係は、その時からである。

「……商売の具合はどうだ、ポマス?」

 ようやくダ・プーから話しかけられ、所在無く手を揉んでいたポマスが笑みを見せた。

「はい、ぼちぼちといった所で。ただ、海路が途絶えておりますので、市場の活気は今ひとつではありますが……」

 窓から見える丸底船の帆は固く括られ、出航の気配はなかった。ダ・プーが言う。

「麦の値段はどうなっている?」

「北との取引が無くなり品がだぶついてましたが、最近の兵役の需要で低値ながらも安定しております。とはいえ、このまま不作が恒常化するなら相場は上がってゆくでしょう」

「良くない兆候だな……。値が上がり続けるなら、北と取引する意味が無い。他の産地に対し、価格の優位を保っておく必要がある」

「しかし安値を維持しても、利ざやは北の商人に持ってゆかれてしまいます。取引価格を決めているのは彼らで、底値で買い叩かれるだけです。生産の余剰分を大量に処分する事はできますが……」

「だが、値段が上がるよりはいい。食料が不足して高値になれば、奴らは法外な値段をふっかけてくる。デロイ全体が干上がってしまえば、俺たちはまた地獄を見るだろう」

「……確かに、過去にそのような事が何度かありました。ですが、彼らは対価を求めているだけです。我々はその取引で、生きてゆくことが出来たのです」

「ふん、何が対価だ。海を通じて、この国から富が奪われてゆく。お前たちもその片棒を担いでいる。ポマス、ここらではっきりさせておこう。貴様らは、誰の味方だ?」

 その表情とは逆に、彼の目は笑っていない。ポマスは一瞬だけ真顔に戻るが、すぐに白い歯を見せた。

「もちろん、私は閣下のお味方です。我らも北方の商人には、散々痛めつけられてきました。これ以上、帝国の富を彼らに明け渡すような取引をしたくはありません。ですが、商いは私たちの生き方です。今後もそれを続けて行けるなら、どんな協力も惜しみませぬ」

 深々と、頭を下げる。頷いたダ・プーを見て、ラボアが窓の覆いを下げた。彼が戸口に立つ薄暗い部屋で、二人の話はいつまでも続いていた。


「まさかお前、あの男に対する認識を改めようなどと、思ってはいないよな?」

 供の兵士を引き連れ、馬で帝都に帰る途上だった。会話の中から出てきた唐突な問いに、ラボアが少し慌てた様子で答える。

「……あ、いえ、そのような事はございません」

「は、お前も解りやすい男だな。あのポマスも用件を聞いて難儀な顔をしつつ、見返りへの期待が透けていた。まったく、ぶくぶく太りやがって虫唾の走る野郎だ」

 首筋をがりがりと掻いて、ダ・プーが言い捨てる。

「しかし閣下、彼の言う事が全て建前ではないと思います」

「……ふん、馬鹿らしい。目的の為なら、自分の娘でも裸で差し出すような奴だ。いいか、はっきりと言っておこう。絶対に、あの男を信用するなよ」

「彼が商人だから、ですか……?」

「違う。ああいう男だから商人なのだ。商人にも色々いるが、大抵があの手合いだ」

「……ですが、彼らには彼らの役割があります」

「ああ、確かにある。商人たちは、それを高尚なものだと自負している。だがな、奴らのやる事こそ、最も残酷な暴力なのだ。そして全てを偽り、欺き、のうのうとしてやがる」

 ラボアは、黙っていた。確かにそうではあるが、と思う。

「俺たち軍職には誇りがある。敗れた敵に対し、共に生きるに相応しいと認めてやる。それが美徳だ。だが、商人にはそれが無い。欠片も無い。それどころか、敗者からどれほど奪ったかを才覚だという。商いの裏でどれほどの血が流されたか、そ知らぬ顔でだ」

 この事になると、ダ・プーの弁は熱を帯びる。ガルバニア州にとって唯一の大規模商路は、ノルデア湾を抜けて北の大海へ向かう航路しかなかった。帝国の西は荒れ野と砂漠に、東は海と断崖、南は山脈と渓谷に阻まれていた。だが、湾から北への沿岸にはラニス、ルムド、カーレといった海洋都市が居並んでいる。帝国と自らを呼ぶものの、陸の軍を主体とするデロイに海を制する力は無く、この商路は常に彼らの船団の支配を受けていた。

「ルムドやカーレの連中を見てみろ。領土などには興味は無い、自由に商いがしたいだけだと奴らは言う。だがその圧力に負け、港を開放した国はどうなった? 流通は独占され、協定を組んだ連中の餌食にされた。あのポマスも、結局はその同類なのだ」

 ラボアは、静かに聞いている。言い過ぎている事はダ・プーにも分かっていたが、それがすぐ口に伝わるほど丸い男でもなかった。

「……だから、せいぜい利用する事だ。手を組んだとしても、信用してはならん」

 自分に言い聞かせるように、呟く。だがその瞳には、負い目のような色が微かに滲んでいた。この方も、たまには解りやすい事がある。ラボアはそう思った。


      †      †


「プルーは、今日も会堂におるのじゃろうな……」

 厨場の机に、食事が用意されていた。昨日の晩餐で出た蟹と川魚の羹の余り汁に、麦の挽き粉を溶かす。平鍋で薄く焼き、同じ鍋で半熟に炒めた鳥卵をそれで包む。焼けた麦粉の香ばしさと濃厚な魚介の味が交じり、舌の上で卵がとろけた。

「じゃが、直に行くのがいいだろうて。お主なら入れてもらえるはずじゃ」

 皿を片付けるこの老婆は、エフロ婆という。ダ・プー家の乳母で、れっきとした貴族の一員だった。そうであるにも関わらず、今はこの邸宅に住み居人の世話をしている。

「エフロ様、装いは何がよいでしょうか?」

 朝食を終えたイド・ルグスが聞く。ゆったりとした長袖の上衣と、足首まである細身の腰履きを身に付け、すっかりデロイ風の平服が馴染んでいた。その風貌に、初々しさはもうない。

 だが彼は、心までこの国に沿わせている訳ではなかった。彼が帝国に抱く反感は、控え目にも小さくはない。とはいえ、人質としてデロイに赴く以上、それを捨てる覚悟は出来ていた。老婆が、じっと彼を見る。

「外套を羽織ってゆけ。大丈夫じゃ、堅苦しい所では無いのでな……」

 イド・ルグスの誤算は、彼らの態度だった。帝都で彼の身柄を引き受けたのは、第二軍団である。メディトリア軍と直接交戦していないせいか、彼の予想に反してその扱いは、あくまで穏やかなものだった。それどころか、メディトリアの事をさして知りもせず、逆に興味津々という様子すらある。これはイド・ルグスにとって都合の良い事と思えたが、逆の効果もあった。周囲に悪意がない以上、彼もそれを持ち得ないのである。その結果、イド・ルグスは身の周りの者に対し、無意識に気を許し始めていた。それが良いか悪いかは別として、彼の抱く正義は律儀なほど公平であった。

 表の戸口に出ると、丁度ダンテが帰ってきた所だった。

「ふう――。閣下は、やっぱり大会堂っすね。許しも貰ったんで、早速行きましょうか」

 喋りながら編靴の緩みを直し、若々しく笑った。彼は、平民派の富民の子であった。富民たちが貴族との関係を深めるため、その子息を教育や奉公の名目で預けるというのはよくある事で、エラニオ家の長子である彼もダ・プーの近習として軍団に属していた。

「そうだな。もたもたしてると、また無駄足になってしまう……」

「結構気まぐれですからね、閣下は。今日の大会堂は、賑やかだと思いますよ」

 ダンテが門に詰める兵士を一人呼ぶ。三人になった彼らは、丘を下っていった。


 この都市の歴史は、帝国成立の以前に遡る。ガルバニア地方に横たわるコロヒス河の流れが三つの丘にぶつかり、大きく迂回する場所でそれは始まった。これらの丘のうち、流れを直接退ける川上の丘に造られた街が、都市デロイの起源とされる。壁に囲まれた城市は徐々に大きくなり、他の二つの丘を取り込みつつ拡がった。また、この丘の周辺がコロヒス河の氾濫を避けられる場所であったため、街の成長はさらに加速した。そして、丘を全て吸収したデロイは防衛力を増すため、城市の北側へ迂回するコロヒス河に放水路を設けた。河が丘にぶつかる箇所から東側へ造られた水路は、再び河に接続する。この二つの川筋を利用して街は守られ、さらに放水路の水門を使って流量と水位を制御することもできた。これは川下からの荷舟が、安全に航行するための仕組みでもある。

 デロイ帝国はこの都市の僭主、ルグドネクシス一世によって開かれた。彼はガルバニア地方を統一し、自らを皇帝と称してオシア地方へと侵攻した。帝国の体制は、この事業を通じて完成したといってよい。彼の死後も、デロイの国土は拡大する一方であった。征服した地域を属州とし、自国への併合を進めると共に、開発を行い資源を収奪する。だが、その過程で皇帝の役割は形骸化し、現在のような社会が帝国に定着する事となった。

 そして、このデロイの在り様は、メディトリアの民が嫌悪するものでもあった。名を帝国と美称し、皇帝の座を新たに設け、国是を覇権主義へと変針する。それは『本質を変える事』であった。支配した地域を併合し、その国の消滅を企む。これは『敵を滅ぼす事』であった。欲に任せて開発を行い、資源の枯渇を恐れない。これは『無に帰す事』であった。この三つは、メディトリアにおける悪の概念に他ならない。だが、この帝国が持つ温度と熱量の前では、そんな義憤は儚く蒸発してしまうかに思える。


 デロイにやってきたイド・ルグスの起居する邸宅は、軍団の丘にあった。帝都デロイにある丘陵は、それぞれ皇帝の丘、貴族の丘、軍団の丘と呼ばれ、その名の通りの使われ方をしている。この三つの丘を結ぶ地区は帝国の谷と呼ばれ、デロイの中枢となる施設が立ち並んでいた。

 邸宅は丘の端にあり、下るとすぐに市街へ出た。デロイの街の住人は、東にゆくほど貧しくなる。丘の近くにあるこの区画は旧市街であり、由緒ある富民たちが住んでいた。街を進むと列柱回廊があり、そこを抜けて帝国の谷に入るとすぐに大会堂があった。

 この建物はいわば、この国の政を担う貴族と富民たちの集会所である。ここでは常に、さまざまな議論、演説、陳情、接待が繰り広げられ、買収すら公然と行われている。この帝国の熱気と欲望が渦巻く、実質的な政治の中心だった。

 大会堂の中は巨大な広間となっており、天井を支える柱がいたる所にある。それらの柱の巧みな配置が、自然とこの広間をいくつかの空間に隔てていた。それぞれの場所には貴族たちの縄張りがあり、その当主が不在の時も一族の誰かがいるのが普通である。彼らへの面会を求める場合は、まずここを訪ねるのが慣習だった。

「あらら、いないっすね……。どこか、他所に移っちまったか?」

 ダンテに案内されたダ・プーの定位置には、誰もいなかった。辺りを眺めると、柱の向こうに人だかりが出来ているのが僅かに見えた。何事かと近づき、その端に辿り着く。

 群集の先に見える壇上に、ダ・プーがいた。彼が声を張り上げた。


『――諸君! 我々は、国の宝といえる多くの人命を失った。弔いは終わったが、残された者の悲しみはこれからだ。我らは帝国の誇りにかけて、挫ける訳にはいかぬ。犠牲を乗り越え、克服してこそ彼らの死は報われるのだ。

 そして今、さらにオシアが失われようとしている。この地を得る為に、如何ほどの苦難と血が必要であったか、我々は思い出さねばならぬ。しかし、どれほど心を燃やそうとも、ひとりの人間の肉体は弱く脆いものだ。だからこそ、我々は団結せねばならん。兵を集めねばならんのだ。今の数では到底足りぬ。兵を集めろ! ありったけだ!

 だが、諸君たちも実感しておるだろうが、今どれほど兵を募ろうと平民たちはそれに応じようとせぬ。軍役契約の相場は天井知らずに高騰しておるのに、だ。募兵義務として軍役を請け負った我々には、これ以上兵士となる者がいない。我が一族においても戦えるものは皆、戦場に赴いた。そして多くが死んだ。だが、我々は悲しみを乗り越え、再びこの帝国に属することを誇れるよう立ち上がったのだ。

 しかし、彼らは応じようとせぬ! 何故だ? 我々は、常に先頭に立って戦ってきた。彼らはそれが自らをも滅ぼすと判っているのに、何故立ち上がらぬ? 我々と彼らはこれまで共に戦ってきた。そして、それぞれの果たした責任に応じて公平に富を分かち合ってきたのだ。

 私は、これが道義に見合うやり方であったと信じて疑わない。彼らの中からも、賞賛に値する努力を果たした者がこの会堂の仲間入りをした。この場にいる者の多くが、そうして此処にいる。相応しい能力があり、帝国のために働くことを厭わず、充分な責任を全うする者に、我々の門戸は常に開かれているのだ。

 だが彼らは応じぬ! 何故だ? 我らの暮らしぶりを知らぬのか? 蔵にたんまりある財宝をすべて奴らに見せてやれ! どんな頑固者も気を変えるに違いない!』

 言葉が終わると共に、さざ波の様な笑いが立ちのぼる。だが、会堂を見回すダ・プーの目は全く笑っていなかった。彼の瞳から放たれる視線が、静けさをもたらした。

 しばしの沈黙の後、眼光を細く絞ったダ・プーが澄んだ声で語り始めた。

『――残念ながら私の蔵に財宝はないが、最近、彼らをあてにせず傭兵を雇おうという意見をよく聞く。たしかに、それにも一理ある。このまま募兵できぬ状態が続けば、国が滅びるかもしれぬ。手っ取り早く兵を集めるなら、それが最も良い手段だろう。

 だが、私に言わせて貰うなら、それこそ国を滅ぼす手段だ。道理をわきまえぬ者の浅慮であり、その様な者はここにいる資格が疑われよう。我々と平民たちは、これまで共に戦ってきた戦友である。そして過去の我々であり、未来の我々でもあるのだ。彼らよりも、ただ金で動く傭兵たちを恃む者は、道義より財を尊ぶ者である。その様な考えを蔓延らせれば、この国の全てが富に支配されるだろう。誰も逃れることは出来ぬ。諸君らは、北のルムドとカーレを知っているはずだ。あの享楽と退廃。奴らの全てが嗜癖し、覆い隠しているものを。……そうだ、誰も逃れることなど出来ぬ!』

 ダ・プーが呼吸を整える。静寂が支配する空間に、次の言葉が放たれた。

『――改めて言っておこう。君たちが所有し、蓄えた財は全く正当なものだ。我々は果たした責任に応じて与えられた治領を拝し、それは将来においても収入をもたらす。また、果たすべき責任に応じて税すらも免除され、私領からの収穫も多い。これらの富が諸君らを養い、さらに平民たちを通じてこの国の兵士を養う。そうして創出された軍が我々を護っているのだ。だからこそ、君らの財は正当である。

 だが、問題がひとつある。我々はこの軍の先頭に立って戦う。その時、たとえ最後の一人になろうとも、我々は死を恐れない。それが一族で国に仕えることを誓い、血脈の絶えぬ限り身分と財産を保証された我々の果たすべき責任だからだ。

 しかし、平民たちは違う。彼らは、自分が死ねば妻子や親兄弟が路頭に迷うことを知っている。事実、この度の戦役で一家の柱を喪った多くの家族が、隷民となって生きることを余儀なくされた。

 つまり、我らが死を恐れず、彼らがそれを恐れるとしても、何を誇ることも恥じることもない。それは、互いの責任を全うするために必要なことなのだ。だが、この当然の違いが今、大きな問題となっているのである。では、この難事を解き明かし対処する、その任を果たすべきは誰か? 疑う余地は無い。それは我々だ。

 はっきりと言おう! 我々には、これから行われる戦において、彼らの命を保障することは出来ない。ならば、もし彼らがその戦場を危険すぎると確信するなら、私はその場合において彼らの意を汲んでやりたい! そして、もし我々がそれを約束するのなら、彼らが再び兵士として軍団に所属することを、ためらう事はないと信じる!』

 会堂がざわつく。彼の演説を聞いている人々の様子が変わった。こそこそと隣と話す者、辺りの表情を窺う者、腕を組み眉をひそめる者、そして何の変化も来たさぬ者。

『――ここで私は提案したい。今、我々が担う軍役は、帝国の最終的な決定である民会の投票において、歩兵一人が一票、騎兵一騎が五票として扱われる。だが、この帝国が戦うべき敵を定める決定においてのみ、募兵義務として軍役を担う者でなく、最終的に戦場に赴くものが票を投じることにしてはどうか?

 もし、彼らの判断に不安を覚えるというなら、あの戦役を決定する以前、彼らがそれに賛成してはいなかった事実を思い出して欲しい。そして、あのとき票を投じた者の一体誰が、彼らの判断に異論を差し挟むことが出来るというのか、それをよく考えて頂きたいのだ。諸君らの静聴に感謝する――』

 唐突にダ・プーが壇上から降りた。だが、この演説の終わりを拍手で迎える者は半数にも満たない。手を叩くのは、平民派の貴族や富民たちだけだった。それ以外の者は、冷ややかな表情で自分の縄張りに戻ってゆく。人々に交じった彼は、先ほどまでの聴衆たちとさっそく意見を交換し始める。

 イド・ルグスが隣のダンテを見た。兵士としては頼りなさげな彼だったが、政治の事はよく心得ていた。彼の肩が、心なしか震えていた。

「……おれが、こんな事を言うべきじゃないと思いますが……。正直、いずれこんな政案が出てくるのは予想してましたが、まさか今だとは。もし成立すれば、歴史的な改革になります……」

 だがイド・ルグスには、この場の反応がそこまでのものに感じられなかった。

「そうなのか……。しかし、皆はさほどの様子ではないようだが?」

 この場に残る者、去る者、それを見るイド・ルグスに、ダンテが答える。

「おれたちも、突然すぎて考えが追いつかないんすよ。枢軸貴族の連中が静かなのは、まずは黙殺する構えだからでしょう。貴族院の票の大半は、奴らが握ってますからね……」

「やはり、彼らには賛成できない案なのか?」

「ええ。軍事に限定されますが、平民の参政権を認めるって事ですから。そして彼らが支持するのは、俺たち平民派です。というか、それ以外の貴族が嫌われてるというか……」

「……なるほど。兵士の募集については、そんなに深刻な状況なのだろうか?」

「う~ん……どうですかね。おれたち第二軍団は、損害が無かったんで。最大の犠牲者は、下っ端兵士の平民たちですよ。これまでは勝ってましたが、今は金で釣っても軍役契約する奴は減るでしょう。負けた時に貧乏くじを引くのが誰か、はっきりした訳で……」

「……ダ・プー殿は、自分の一族にも犠牲が出たと言っていたが」

「ああ、でも今回の戦役で死んだとは言ってませんでしたよね? この演説で、自家の犠牲が無かったと思われたくはないですから。貴族はそうでなくても、膨大な死人が出たわけですからね……」

「そうか……。で、ダンテ殿。この政案は、成立の見込みがあるのか?」

「……現状で、奴らが折れるとは思えません。たぶん無理っすね。ですが、閣下は勝ち目の無い勝負はしませんから、何か算段はあるんでしょうがね……。気になりますか?」

 イド・ルグスは考え込んだまま、何も言わなかった。

「あ~、これってルグス先生にも関係ありますよね? 平民たちが、先生が率いるメディトリア軍とまた戦うのに、票を投じるとは思えませんから!」

「先生は止めてくれないか……」ダンテの頭の回転は、見かけより速い。政治以外の事も、よく知っている。軍団よりふさわしい活躍の場があるだろうに、とイド・ルグスは思う。

「……それに、もし戦うなら、私が戻って軍を率いる筈も無い」

「ん~、先生は人質じゃないんですよね。これ、まだ信じてもらえませんか?」

「ダンテ殿の言葉は、真意だと思っている。だが、それと私の立場については別の話だ」

「少なくとも、おれは先生の味方ですよ。閣下も悪い様には考えてないと思います」

 気づくと、周りには随分と人が増えていた。ダンテがぐるりと見回す。

「……なんか、すげえ人だかりになってますね。もう、今日は帰りましょうか」

 二人はダ・プーに近づく事を諦め、徐々に密度を増す人の群れから遠ざかった。彼らに課せられていた二十日に一度の報告は、軍団本営で行う事にする。会堂の入り口で待っていた兵士を先に向かわせ、二人は軍団の丘にある第二軍団の営地へ徒歩で向かった。


「――ダンテ殿。ルムドとカーレとは、何処の事だ?」

 ようやく丘の坂を上り始めた所で、不意にイド・ルグスが聞いた。重い剣を天秤棒のように肩で担ぎ、手をぶらぶらさせながらダンテは答えた。

「ああ、ご存じないですよね。……あのコロヒス河はノルデア湾に流れ込んでるんですが、その北にラニスって都市があります」東の地平へ流れる河を、彼は指差した。

「で、さらにその北にルムドとカーレがありましてね。三つとも独立した商業都市なんですが、湾とその周辺、さらにその北の大海までは奴らが牛耳ってるんですよ」

「それは、国ではないのか……?」

「ええ、国みたいなもんですよ。周辺地域も支配下に収めてます。ですが、彼らの故郷は港と海って事だそうで……。要するに、海洋都市国家って言えばいいですかね」

「……海を見た事が無いから想像するしかないが、とにかくデロイの敵だな?」

「はい、ちょっと前までラニスを包囲してたんですが、あと一歩って所でルムドとカーレが援軍を送ってきやがって。半年ぐらい戦ってたんですが、結局は停戦になりました」

「そして、第一軍団はメディトリアへ向かった……。つまり、あの戦役はうっぷん晴らしのようなものか……」

 イド・ルグスの表情が重くなる。過去の事とはいえ、憤りは隠せなかった。

「……あの、気を悪くしないで下さい。第二軍団は停戦にも戦役にも反対だったんですが、民会の決定には逆らえませんから」ダンテが、伏し目がちに言う。

「戦役については、枢軸貴族たちが主導しているのか……?」

「そうです……。得られた属州は、まず自治領と属治領で分割統治します。その土地の王侯や諸侯は自治領に封じ、兵役を課します。属治領については、負担している軍役に比例して貴族と富民に分配されます。つまり、治領の大半は枢軸貴族のものになるんです」

「ああ、そうだったな……」この程度の事なら、彼もメディトリアで既に知っている。

「……これ、前にも説明しましたっけ? とにかく彼らは、機会があれば領土を奪う事しか考えてません。こうして戦争をしている間に、国内の問題は増える一方で……」

「……ガルバニアの不作や、オシアの荒廃などの事は、私も聞いている」

「ええ、それ以外にも北との物流が途絶えて物価が高騰したり、逆に安値になったりとか……。でも、本州のガルバニアは属州から物が集まりますし、平民たちも兵役に応じたり、農業をすれば一財産稼ぐ事ができます。だから、政治はそれなりに安定していました」

「今までは、か……」

「……これからどうなるか、ちょっとおれには判んないですね」

「ダ・プー殿の改革の可否が、この国の将来を占う事になるな。……そういえば、あの方は妻も子もおられんようだが」

「閣下は、変人って呼ばれてますからね。親族から養子を取ると皆は思ってますが、本人は何とも言いませんし……。それに、第二軍団の要職に一族の者はいないんです」

「まさか、一族以外から後継者を選ぶお積もりなのか。……だが、私がそのような事を詮索するべきではないな」

「……実は、おれの親父とかもそう考えてるみたいで。おれを閣下に預けたのも、そういう計算のようです」

「ふむ……。なるほど」そう答えるイド・ルグスの表情は、少しばかり神妙だった。

「ほんと、馬鹿でしょ? おれの親父は、偶然に相続した土地で富民になった成り上がり者で……。それで、『お前、頭も回るしダ・プー様に尻でも見せて、気に入られて来い!』って事ですよ、信じられます……?」うんざりした顔で言う。

「尻を? どういう事だ……?」

「あ~、これは内緒ですよ。遊びの範囲ですけど、閣下は男色の気をお持ちで……」

「遊び……? そういう事は、よく解らんな……」

「メディトリアに、こういった趣味は無いみたいですね。まあ、閣下の事を理解したり期待通りに動かそうなんて事は、無理っすよ。だから、ルグス先生も単純に人質に取られたって、考えない方がいいです」

「……確かに、そうかもしれんな。その辺りをダンテ殿はどう見ている?」

「え~……って、そんな事、おれが勝手に言っちゃあ駄目でしょ。先生って、たまに際どいことをさらっと聞きますよね、危ないなあ」

 そうこうするうちに、二人は坂の中腹にさしかかっていた。丘の上から聞こえてくる兵士たちの鋭い声が街の喧騒と交じり合い、イド・ルグスは一瞬だけ王都エスーサの『兵の家』に帰ったかのように錯覚する。ゆっくりと振り向いて、そこにある都市を見た。坂から見下ろす街並みは、もはや見慣れぬものとは言えなかった。やがてイド・ルグスは、丘に巻き付くかのような長い坂を再び上り始めた。


      †      †


 貴族の丘にある邸宅の中庭で、ゼノフォスが怒りに震えていた。今日は体調も良く、食台を庭に出して昼食を取っていたが、帰ってきた息子の言葉が彼の表情を一変させた。

「……両家とも、賛同が得られません。何を言っても態度を保留するだけです」

 フォスタルが目を伏せて報告する。ゼノフォスがぬらりと椅子から立ち上がった。

「何故だ……? 負担軍役の格下げ期限は、もう間近なのだぞ…………」

 彼ら枢軸貴族は、ある問題を解決する必要があった。貴族も富民も、自らの申告した軍役を果たせぬ場合は、実際に用意できた兵士の数に従って負担軍役が格下げされる。その結果、彼らは持っている票を減らす事になり、さらに非課税の耕作地も狭められる。それは、私領が削られることを意味した。戦役で失った兵士の数を考えると、彼らにとってこの問題の影響は甚大である。

「彼らは、私が提案した格下げ期限を延長する政案によって、支持富民たちが離反するのを恐れています。皇帝が平民派に加担する動きを見せた事も、関係しているようです」

 帝国の中心である枢軸貴族は、マクニサス、メフメザル、ラセルクスの各家を頂点とする三つの貴族たちの派閥で構成されていた。だが、貴族は自らを支持する富民を抱き込む事によって権勢を補強するのが常であり、枢軸貴族もその存在を無視できなかった。

 しかし、戦役で損害を被ったのは枢軸貴族の兵士が所属する第一軍団であり、彼らの支持富民が兵士を供給していた第三、第四、第五軍団、そして平民派の根城である第二軍団に損害は無い。現状で困っているのは枢軸貴族だけであり、この利己的な政案は支持富民の反感につながる可能性があった。つまり、枢軸貴族が常勝軍である第一軍団を独占し、支持富民を下位の軍団に追いやった事が裏目に出たのである。もし彼らが雪崩をうって平民派へと転向するなら、枢軸貴族の権勢も危ういと言えた。

「間抜けどもめ、怖気づいたか! 儂の言う通りダ・プーを潰しておれば良かったものを……!」ゼノフォスの息が乱れた。歪んだ形相で胸を押さえ、椅子に体を預ける。

「父上……!」座面から落ちる前に、義父の腕を掴んだ。脈を診た後、杯を口へと傾ける。水をひと口飲み、息を吐き出す。ようやく呼吸が整うと、静かに目を開いて言った。

「フォスタル……何としても妥協を引き出せ。急げ、時間が無い」

 息子が深く頷く。だが、ゼノフォスの瞳に宿っていた冷静さが、見る見る失せてゆく。

「――ダ・プーには、討手を放て。殺すのだ……奴を殺せ……」

 懇願するようなその眼を見た。ようやく家人たちが駆けつけてくる。義父を彼らに預けると、彼は憂いを断ち切るように中庭を去った。歩みを進めながら、思う。

(老いている……。確実に、日一日ごとに……)

 目を閉じ、頬に手をやる。そこにあった痛みは、すでに消えていた。


      †      †


「貴方たちはご存知か? あの政案を民草に流布したのは、彼なのですぞ!」

 大会堂で、ネラスが叫んだ。

「何を言うか! 枢軸貴族なども、悪辣な根回しをしているではないか?」

 富民たちの一人が、反論する。

「はは! それは彼らに言うことですな! 私はダ・プー殿のように政を冒涜した事はなく、これが正当な告発であるのは明白です!」

 ダ・プーは、自分の縄張りにある寝椅子でうたた寝をしていた。遠くでもよく響くネラスの声に起こされ、あくびをする。横たわったまま、ラボアを見た。

「まだ、騒いでいるのか……。しつこい奴だ」

「……しばらく向こうへ行ってましたが、また戻ってきたようですな」

 ラボアが衝立の向こうの様子を窺う。平民派の一団が、ネラスと議論していた。

「いいですか! ダ・プー殿こそが、平民たちにご自分の案の事を喧伝し、軍団の募兵を妨げているのです。これは、私には到底看過できません!」

 ネラスが、大げさな仕草で声を荒げる。だが、富民たちの視線は冷やかだった。彼は証拠を示すわけでもなく、誰彼なしにそれを語るだけであった。

「……あ奴、堕ちたな。悲しい事だ。思慮深い伝統派貴族が、また一人減った」

 口に入れた葡萄の皮を吐き出して、ダ・プーが呟いた。

「よっぽどの弱みを握られたか、何らかの取引があったのか……」

 様子を確認しながら、ラボアが小さな声で言った。

「ポマスが良い仕事をしてくれたな。もう、募兵に応じようという平民はおらん」

「何処に行って誰と戦うのか判らない現状では、無理もありませんな。政案が成立するまではこの状況が続くでしょうが、枢軸貴族ではマクニサス家が色々と動いている様です」

「刺客まで使うとは、ゼノフォスも焼きが回ったな。息子が戦死したのを、まだ俺のせいだと思っているらしい。ふん、奴は手柄を焦って勝手に死んだのだ。俺たちが、命を賭けて助けるなどと思う方が馬鹿だ」

「今のところ、彼らは利害関係の調整に失敗し、分裂しているようです」

「は、下らん。もう勝った様なものだ」

「皇帝陛下が我々に味方された事も、幸いしたようですな」

「味方……か。やはり、陛下は聡明であらせられる。戦役の結果を見るなり、決断なされた。しかし、その軸足をこちらに移すかどうかは、まだ判らんがな」

 低い声で、独り言のようにダ・プーが呟く。ラボアが、神妙な顔で答えた。

「少なくとも、政案については時間の問題かと……」

「……そうだな。だが、念の為に神頼みでもしておくか。イド・ルグスを呼べ。三人で、水門の神殿に参るぞ」

 ダ・プーの言葉を聞いて、ラボアが戸惑う。そもそも彼は、イド・ルグスが何故あのように自由な待遇を受けているのか理解できなかった。大した監視もおらず、帝都の大抵の所には出向いてゆける。それより、何故あの男が連れてこられたのだろうか。

 だが、ダ・プーという人物を良く知る彼が、それ以上の疑問を抱くことはなかった。護衛の一人に言伝を命じる。彼が振り返ったとき、寝椅子の上のダ・プーは再びうたた寝を始めていた。



「おい、ルグス。お前は、何を願ったんだ?」

 不意に、ダ・プーが訊いた。イド・ルグスは、焼かれた供物が河原に運ばれるのを見ていた。余りにも胸襟を開け拡げた彼の言葉に対し、イド・ルグスは少々面食った様だった。振り向いて、少し考える。

「申し訳ございません。エキル人に、神々への願いを明らかにする習慣はないのです」

「何だ、吝嗇臭いな。……まあいい。ラボア、お前は何だ?」

 楽しげなダ・プーの眼には、まるで仲間とつるむ子供のような輝きがあった。

「私は犠牲となった兵たちの為に、あのカシアスの戦いで死なぬよう願っておきました」

「ふむ……。なるほどな、お前らしい」

 感心した様に、ダ・プーが言う。だが、それを聞いたイド・ルグスは難しい表情を作り、やがて遠慮がちに聞いた。

「……あの、ラボア殿。その願いにはどの様な意味があるのでしょうか?」

 朴訥な質問に、ダ・プーとラボアが顔を見合わせる。ラボアが、眉を寄せて答えた。

「ルグス殿、貴殿はあの戦いの結果をご存知のはず……ですな?」

 不思議そうに見つめ合う二人を見て、ダ・プーが笑い出した。

「はは! そうだな、確かに変だ。戦いは、過去の事なのだからな!」

 だが、ダ・プーの言葉を聞いてもラボアは何の事か、掴めていない様子だった。

「ラボア、これは考え方の違いだな。要するに、神の力についての認識だ。俺たちは神が過去すら変えうると考えているが、メディトリアではそうではない、という事だろう。つまり、神より因果の法則の方が上なのだ。そうだろ?」

「ルグス殿、そうなのですか……?」二人が、イド・ルグスを見た。

 彼は、黙ってダ・プーの言葉の意味を噛み砕いていた。やがて、答える。

「過去を変えるという発想そのものが、我々にはありません。聖神は万物を司っておられますが、稀に人界へ手を加えられることもあります。ですが、全ては将来に向けての事となります」

「……ほら、な。詳しい事は知らんが、要するに神でも過去は変えられんらしい」

「ふむ、興味深いですな。ルグス殿、帝都におわすネドゥホナ神にとって、信仰の力さえあれば出来ぬことなど無いのです」

 イド・ルグスは深く頷いたが、それ以上何も言わなかった。彼らエキル人は、異邦の神などは輪神のいずれかの異名に過ぎない、と考えるのが普通である。だが、彼は二人を不愉快にさせぬよう、あくまで理解したように装う。ダ・プーはその下手な芝居を見て取ると、いつもの様に遠慮のない毒を吐いた。

「は、皆で祈ったからといって何が起きる訳でもない。気休め程度だ。そもそも、過去が変わっちまったら俺たちはどうなるんだ?」

「……閣下、余り大きな声で言わないで下さい。飢人たちが居りますので」

「ふん、誰が聞いている。どいつもこいつも、喰うのに必死だぞ」

 彼がそう言って笑うと、場に漂うぎこちなさは消えていた。供物が置かれた石台には人々が行列を作り、神官が切り分けた肉片を受け取っていた。飢人たちは、それを口にする前に神殿に祈りを捧げる。こうする事によって、神の力が強まると彼らは考えていた。その様子を見ながら、ダ・プーが言った。

「メディトリアの自然は、きっと優しいのだな。だが、ガルバニアは違う。昔は平原と河しかなかった。洪水が起きれば河から逃げ、嵐が来れば雷に打たれ、干上がれば飢える。俺たちは集まり、ひとつになって地を耕し、街を造った。だから、神もひとつだ……」

 河原に冷たい風がびゅう、と吹いた。濁った空に、冬の入り口が見えていた。額に手をかざし、ダ・プーが河の先を指差す。

「ルグス、見えるか? 対岸に見えるのが、デロイの水門だ」

 視線の先で、巨大な鉄門が半ばまで開いていた。渦巻く河水がその奥へと吸い込まれてゆく。イド・ルグスが、こうして帝都を上流側から見るのは二度目であった。最初の一度は初めてこの街にやって来た時であり、兵士に厳重に取り囲まれた彼がこの門を見ることはなかった。

「あれが……。想像以上に大きい。では、門の向こう側が放水路ですか?」

「そうだ、二百年前に造られた。この河と放水路が、デロイを守っているのだ……」

 風に吹かれながら、二人が佇む。

「……ルグス。いずれ、メディトリアの事を詳しく教えてくれないか。あの政案が成り立てば、互いの関係は大きく変化する。俺たちは、協力し合えるはずだ」

 ダ・プーが目を細めた。さらに言葉を続ける。

「第二軍団は、お前の力を必要としている。我ら平民派貴族と平民たちが、メディトリアの味方になるだろう。時間はある、ゆっくり考えていい……」

 水門に目を向けたダ・プーと、彼を見るイド・ルグス。そして、ラボアの抱いていた疑問がひとつ解けた。だが、それを思う彼の心に、別の疑問が湧いてくる。今回の政案について、いつから思い付いていたのか。まさか、ノクニィ峠であの早馬を止めた時から――。軽い興奮が、彼の背首を抜けた。

 身に沁み始めた風が、次第に強さを増す。上衣が翻り、ダ・プーは踵を返した。髪を乱しながらラボアが後に続き、最後まで河を見ていたイド・ルグスも二人を追う。街道に戻ると、ラボアが上機嫌で言った。

「閣下、今日は良い日になりましたな……」

「……そう願おう。時間が、俺たちの味方だ。明日はもっと良い日になる」

 街へ帰る彼の歩みは、力に満ちていた。


 その後も、軍団の募兵は遅々として進まなかった。ようやく、事態の深刻さが貴族と富民たちに認識され、彼らは焦り始めた。だが、分裂した枢軸貴族に具体的な対抗案は出せず、選択肢は機先を制して出されたダ・プーの案しかなかった。この政案を是認する意見が徐々に大会堂で拡がり、やがて態度を表明していなかった者たちも加わった。そして枢軸貴族の一部が折れると彼らは地滑り的に崩壊し、この議論はあっけなく決着する。

 政案は貴族院で国令としての文言を定められ、貴族の投票によって承認を得た。さらに民会で、貴族と富民の投票により最終的に認可されると、皇帝自らの手で国令が改められるに至った。デロイの人々は、この改革をダ・プーの改革と呼んだ。


      †      †


 息子の報告に、病床のゼノフォスが小さく頷いた。

「そうか、ついに国令が布告されたか……」

 最近は部屋から一歩も出ないが、あの後から状態は少し良くなっていた。黙って息子がもたらす情報を聞き、彼がダ・プーの暗殺に失敗したと報告しても責めはしない。だが、冷静さを取り戻した老人の眼には、常に暗い光が灯っていた。

「……ダ・プーの身辺に、イド・ルグスという男がいたな」

 ゼノフォスがそう言い、息子を傍に寄らせると耳元でさらに囁く。それを聞く彼の表情が次第に変化し、緊張で身体を強張らせる。その彼を、義父の眼が見下ろしていた。

「フォスタル、その通りに準備を進めろ……」

 部屋から出て静かに回廊を進むフォスタルが、血色を取り戻した義父の顔を思い浮かべる。彼には、一時は危篤になりかけた義父の快復が素直に嬉しかった。だが、与えられた命令の事を思うと、心がずきりと痛む。権勢を握っていれば、何をしても良いのか。なおさら気分は暗くなる。

 彼は、ダ・プーがどれほど自分たちを毛嫌いしているか、知っていた。だが、彼を殺しても何の解決にならない。だから、未熟な刺客を選んで差し向けたのだ。かつては、彼のことを帝国の腐敗に棹差す者だと思っていたが、義父の養子になってから認識は逆転した。

 そして、唯一の息子を喪う以前の義父は、良識を持ち合わせている数少ない枢軸貴族だった。義父は、それを境に変わってしまった様に思える。もし、お救いできたのなら。あの時、死んだのが私だったなら――。罪悪感が、湧き上がってくる。

 フォスタルが顔を上げた。感傷を振り切り、いつも身に付けている能面のような表情を取り戻す。その瞳に映っていたのは、義父が宿していたのと同じ光であった。



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