TOWA ~永遠~

御手紙 葉

TOWA ~永遠~

 僕は学校帰り、そのアーケード通りを歩きながら、早くそこへ行きたくて自然と早足になっていた。季節は秋を迎えてどこか肌寒かったが、体はぽかぽかと暖かかった。それは、どこか興奮した気持ちから来ているのかもしれなかった。

 叔父さんの店、どんなところなんだろう。たぶん、かなり洒落たところだろうな。あの性格だし、いつまでも気分は若者だから、インテリアとか凝ってそうだし。

 そんなことを思いながら、僕は自然とにっこりと微笑み、その路地裏に入った。手に持っていた地図を確認しながら、注意深く入り組んだ道を進んでいく。そうしてようやくその看板が見つかった。

 ――喫茶店『永遠 TOWA』

 僕はそのドアの上に取り付けられた小さな看板を見て、思わず噴き出してしまった。叔父さんらしいネーミングだな、これは。

 ドアの取っ手を握って、おそるおそる開いた。するとその瞬間、ふわりと暖かな風が僕の前髪を浮き上がらせた。その心地よいコーヒーの香りに、僕は思わず立ち尽くしてしまう。

 店内はなかなか広く、入り口から向かって右にカウンター席があり、そして反対側にたくさんのテーブル席が設けられていた。

 そこで老若男女、実に様々な年齢の人々が談笑しており、店内にはどこか活気があった。一つ一つのテーブル席にも、広いスペースが確保されていて、寛ぎ易い空間が出来上がっていた。

 インテリアも、どこか淡いオレンジ色のランタンが薄暗い店内を照らし出し、壁にはあちこちに額縁に入った絵が飾られていた。

 店内にはクラシックが流れていた。子供達や動物が音楽に合わせて踊る光景が浮かんでくるような、体中の緊張を解く軽やかな旋律だった。なだらかな丘を描くように上下するメロディ、時に跳ねるように途切れるその音色。

 たぶん、その曲はペールギュントの『朝』なんじゃないかと思う。僕もグリーグのコレクションを持っていて、それで聴いたことがあったのだ。

 なかなかいい店じゃないか。僕は思わず心がうきうきと浮き立つのを感じながら、そっと店内に足を踏み入れた。すると、そこで「いらっしゃいませ!」と威勢の良い声が聞こえて、そしてカウンターの奥から一人の背の高い男性が現れた。

 その人はワイシャツの上からでも、盛り上がるようについた筋肉に覆われており、肌がこんがりと焼けていた。そして、その顔はとても精悍で、鼻の下に髭をたくわえていた。

 その瞳は活き活きとしていて、見ているこっちが笑ってしまえるような、明るい笑顔を浮かべていた。彼が僕の叔父さんだった。

「叔父さん。来たよ」

 僕がそう言ってうなずいてみせると、叔父さんが歯を見せて笑い、そしてカウンターを回って近づいてきた。そうして思い切り背中を叩いてきた。

「よく来たな、達也! どうだ、俺の店は?」

 叔父さんはそう言って僕の肩に手を置き、子供のようにきらきらした瞳で見下ろしてくる。僕はにっこりと微笑み、親指を立ててみせた。

「最高だよ。かなり感じのいい店じゃないか。さすが、叔父さんだ」

「はっはっは! いつかお前に見せることを考えて、恥ずかしくないような店に仕上げたんだよ。さ、座れ。カウンター席でいいな?」

 僕は叔父さんに促され、その座高のある椅子に腰を下ろした。カウンターテーブルはぴかぴかと光り輝いていて、その向こうには、叔父さんが厨房で作業しているのが見えた。

 ここからだと、コーヒーの香りを遠くからでも味わうことができた。これは、かなりすごいかもしれない。叔父さんは想像以上に、すごい人だったんだと思い知らされる。

 そうして叔父さんが目を細めながら、「飲んでみろ」とブレンドコーヒーを差し出してきた。

 僕はうなずき、そっとカップをつかんで口に近づけた。

 そして口に含んだ瞬間、ぱっと何か背筋を大きな電流が走ったのがわかった。僕は思わずカップの中を覗いて口を押さえた。

「すごくまろやかじゃないか。程よい苦味で、酸味が少ないし、ケーキとかに合いそう。なかなかいい味出してるね」

「さすが達也だな。コーヒーの味がよくわかってる」

 僕は無言で少しずつコーヒーを飲み、そっとソーサの上に置いた。うなずき、僕は叔父さんをじっと見つめて言った。

「叔父さんも夢を追って、ここまで来たんだね。一人でこの店を切り盛りして、成し遂げたことは本当にすごいことだと思うよ。尊敬する」

 すると、叔父さんは鼻の下に指を乗せて、へっと恥ずかしそうに視線を逸らせた。そして、本当に嬉しそうな顔をして、その余韻に浸っているようだった。

 僕はそんな叔父さんを見て、もう一度、自分の想いを確かめた。僕も、叔父さんみたいに夢を叶えるんだ。どんなに駄目でも惨めでも、きっと追い続ければ、その糸口は見つかるはずだから。

 そうして叔父さんはゆっくりしていけよ、と僕の肩を叩いて、そして仕事に戻っていった。僕はそんな叔父さんの背中を見つめながら、思わず口元を緩めてしまう。

 やっぱりここに来て良かったな。今日は塾の予定を入れておかなくて正解だった。

 そしてそっと小さなメモ帳とシャーペンを取り出して、僕は今浮かんできたそのイメージを言葉に乗せて記していった。今なら、どこかいい作品が書けそうな気がした。

 一度、僕のこの喫茶店に対する感慨はそこで途切れ、小説の執筆へとスイッチは切り替わる。だが、彼女がそんな僕のぼんやりした意識に、突然矛を投げ入れたのだ。


 誰がそんなものを投げ入れたのかと、最初僕は呆然としたのだ。彼女はドアベルを大きく鳴らせて喫茶店に入ってくると、店内を軽く見渡した。

 僕は何気なく執筆を中断して、その一人の来訪者を見守っていたが、そこで彼女がこちらへと振り向いた。

 一瞬目が合って、そして僕は何か尖ったものを心に投げ入れられたのかと思うくらい、不思議な感覚を抱いた。彼女の瞳の中に、どこか強い決意のようなものが漲っていたからだ。

 彼女は僕へと視線を逸らせずじっと見つめてきて、そしてどういう訳かこちらへとまっすぐ歩み寄ってきた。僕はどうしたらいいのかわからず、じっと彼女の視線を受け止めていた。

 なんなんだろう。突然平手打ちでもされるんじゃないだろうか。

 そんなことを思っていると、本当に彼女は僕の目の前まで近づいてきて、そしてじっと僕の表情を窺うように見つめてきた。そうしてぽつりと言った。

「隣の席、座ってもいい?」

 僕は首を傾げてしまった。何の用? ひょっとして、彼女は僕の知り合いで、こちらが忘れているだけなんだろうか。

 彼女は僕の返答を待たずに僕の隣に腰を下ろし、そこで初めて笑顔を見せた。彼女はテーブルに両腕をつき、こちらへと身を乗り出してきて言った。

「突然ごめんね。この店に高校生が来ることなんて少ないから興味があって。君、どこの高校?」

 彼女のそのお月様のようにまんまるの瞳を見返して、僕はおずおずと「野阪度高校だよ」とつぶやいた。彼女は自分の頬に人差し指を突き、「野阪度高校?」と首を傾げた。

「結構ここから遠くにある高校なんだけど。君、この喫茶店の常連なの?」

 僕がそう言って彼女の薄く化粧が施された綺麗な細面の顔を見つめると、彼女はそこで顔中を赤くしてそっぽを向いた。

 あれ? 何か僕、変なこと言ったかな?

「ま、まあね。常連って言われれば、常連だけど。それより、少し話さない? 同じ年代の子がいるの、嬉しくてさ」

 そう言って彼女は僕をじっと見つめて、無邪気な笑顔を見せた。僕はその笑顔がとても子供っぽく、けれど思わず目を吸い寄せられるような可愛いものだったので、少しドキッとした。

 なんか、かなり明るい感じの子だな。うちの妹に少し似ているかもしれない。

 僕が「いいよ」とうなずいてみせると、彼女はパン、と掌を叩き合わせて、「やった!」と唇を微笑ませる。栗色のショートヘアーが肩の上でふわりと浮き上がった。

「ありがとう、いい人だね、君」

 制服から見て、彼女はどこかの公立高校に通っているようだった。確か、西南阪度辺りの制服だった気がする。

 そうして彼女は自分が公立高校二年の「有坂あさひ」と言う名前だと言った。確かにあさひのようにきらきらした笑顔を見せることがあって、少し納得した。

「それより達也君、さっきからそのメモ帳気になってるんだけど……何書いていたの?」

 高校の話題で盛り上がった後、彼女が突然僕の手元のメモ帳を指して首を傾げた。僕は苦笑して、どうしたものかと逡巡してしまった。

 あまり人には見せたくないものなんだけどな。まあいいか。

「実は小説を書いていて」

「へえー、達也君は文学少年な訳だね」

 あさひさんはどこか興味津々といった様子で僕のメモ帳を手に取り、それを読み出した。

 そして、はっと彼女は目を見開いたかと思うと、メモ帳を顔に近づけて、無言で視線を走らせていく。自分の鼻先を紙に押し付けてページを捲るんじゃないかと思うくらいに、夢中になって読んでいるようだった。

 僕は彼女のそんな反応に、少し緊張した面持ちでその横顔を見守った。大丈夫かな……走り書きした文章だけど、意味が通ってなかったりしないかな。

 そうしてじっと彼女の言葉を待っていると、やがて彼女がそっとメモを閉じて、すっと目を細めた。僕は身を乗り出してじっとその言葉を待った。

「すごく綺麗な情景が浮かんできたよ」

 彼女は目を開き、満面の笑顔でうなずいてみせた。僕は思わず彼女のその優しげな表情へと目を吸い寄せられ、そして「本当に?」とつぶやいた。

「この小説、とても心が篭ったいい作品だと思う。丹念に言葉を選んで、真心を篭めて書き綴ったのがよくわかるから」

 それは、僕が生まれて初めて聞いた、最高の褒め言葉だった。僕は何度もうなずき、「ありがとう」とはにかんだように笑った。

「こんな作品が書けるなんて、若者も捨てたものじゃないぞ。物は相談なんだけどさ」

 あさひさんはぽりぽりと頬を掻きながら、どこか恥ずかしそうに笑って言った。

「私にも、小説の書き方を教えて欲しいな」

 僕は口を半開きにして、固まってしまった。え? なんでそんなこと……と頭の上に疑問符が浮かんでくる。

「あのさ、これからもここに来て、たまに話さない? そのついででいいんだけど、小説の書き方を教えて欲しいな」

 僕は思わず彼女の手を握って、何度もうなずいてしまう。それって、小説仲間にならないってことだよね? それは願ってもないことかもしれない。

 そうして僕らはすっかり打ち解けて、色々なことを話すようになった。お互いの身の上話や、趣味や好きな音楽、最近見た映画など、本当に話は尽きなかった。

 彼女はじっとカウンターの奥で、せっせと準備をしている叔父さんの背中を眺めながら、本当に楽しそうな顔で自分のことを語った。

 そうした時間は本当にどんな娯楽よりも僕の心を揺さぶり、どんなヒーリング音楽よりもリラックスした心地でゆったりとした一時を過ごすことができた。

 その日は、僕にとって本当に気持ちの良い一日だった。


 数日後、再びTOWAを訪れると、彼女が既にカウンター席に座って待っていた。彼女はどこか頬を火照ったように朱に染めて、熱心にメモ帳に文章を綴っていた。時々カウンターの先へと視線を向けて考え込む仕草をし、すぐに俯いて文章を綴り続ける。

 彼女が本当に小説を書いていることに気付き、僕は嬉しくなって彼女へと早足で近づき、「あさひさん」と声をかけた。すると、彼女がぼんやりとした顔を瞬時にはっとした表情へと変えて、こちらに振り向いた。

「あ、あの……その、」

「こんにちは。小説書いていたんだね」

 僕がそう言って微笑むと、あさひさんは苦笑してぽりぽりと頬を掻き、小さくうなずいてみせた。本当に書いてくるとは思わなかったので、かなり嬉しかった。

「なんか書き始めたら、はまっちゃって」

「だよね。書いていることがそのまま染み付いていくような感じで、僕も当たり前のようになってるよ」

 そう言って僕は彼女の隣に腰を下ろし、叔父さんを呼んでマンデリンとかぼちゃのタルトを頼んだ。すると、叔父さんは何やら僕とあさひさんを見てにやにやした顔をし、「どうぞ、ごゆっくり」などとつぶやき、その場を去っていった。

 そういうことを言われると、僕も緊張してしまうのだけれど、叔父さんは僕の性格をわかっているので、わざと言ってくるんだろう。

 そうして視線を彷徨わせながらお冷を飲んでいると、あさひさんがこちらへと振り向き、「ねえ、書いてみたの、読んでみてよ」と言った。僕はうなずき、彼女が差し出したノートをそっと受け取って開いた。

 その瞬間、目を見開いた。

「ちょっとあさひさん……これ、最後まで書いたの?」

「うん。なんか言いたいこと全部書こうとしたら、いつの間にかノート一冊書いてしまって」

 初心者にしては、すごい集中力だな、これは。僕だって数日でノート一冊書くのはできるかどうかわからないのに。

「じゃあ、ちょっと読ませてもらうね」

「うん。なんか恥ずかしいな、人に自分の書いたもの読まれるのって。ちぐはぐでも、笑わないでね」

 そう言ってあさひさんは手元のグラスに入ったアイスコーヒーを少しずつ飲み出した。僕はノートに書かれた文字を読み出して、そしてすぐにかじりついてその物語に浸ってしまった。

 これが、本当に初心者なの? ストーリーが半端ないな、これ。

 文章は初稿だけあって、かなり勢いで書いてあるけど、それでも文体がどこか迫力を感じさせてかなり味を出してるかもしれない。それに、ただの恋愛小説じゃなくて、ちゃんと背景がしっかりしてるな。

 下調べもしないで、ここまで具体的な内容を語るのって、日頃からかなり勉強して色々知ってるってことかもしれない。

 僕はそうして四十分ぐらいずっと読み続けていたけれど、やがてそっとノートを閉じ、あさひさんを見遣った。あさひさんは緊張した面持ちでこちらへと振り向いた。

「すごく面白いよ、これ」

 僕は何度もうなずきながら、大きな声を上げてしまうのを抑えられなかった。

「とにかく一人一人の登場人物の個性がはっきりとしていて、すぐに物語に引き込まれるから。それに、背景描写もしっかりしていて、すぐに情景が目に浮かんでくるよ。何よりもストーリーの先が読めないよ」

 僕はそう言って握り拳を作り、何度もうなずいてみせた。すると、あさひさんははにかんだように笑い、「そう。それはよかった」とつぶやいた。

「これなら、推敲すればかなりの作品に仕上がるんじゃないかな」

「推敲って、どうすればいいんだろう」

 そうして僕が具体的なやり方を説明していると、そこでカウンターの奥から叔父さんが近づいてきて、僕達の前に立った。そして、じっと僕が握っているノートを見つめ、懐かしそうな顔で笑っている。

「小説か。お前らも書いているんだな」

 叔父さんが突然そんなことを言い出したので、僕とあさひさんは顔を上げて、その彫りの深い顔をじっと見つめてしまう。

「俺も、昔小説を書いていたことがあったよ。当時はとにかく誰かに読んでもらいたくて、同人誌とかに載せて飛び回ったものさ。全然売れなかったけど、それでも楽しかった」

 叔父さんはそう言って腕を組み、どこか遠くへと視線を向け、その頃のことを思い出しているようだった。僕は叔父さんへと体を向けて、言葉を絞り出す。

「叔父さんも書いていたんだね。どんなジャンル書いていたの?」

「お、俺か? 俺はだな……」

 ふとあさひさんを見遣ると、彼女はじっと叔父さんを見つめ、どこか慈しむような優しい笑顔を浮かべていた。そんな表情を初めて見て、僕は少しドキッとしてしまう。

 あさひさんってたまに大人っぽい顔するんだな……。

 そうして鼓動が高鳴るのを感じながら叔父さんに視線を戻すと、彼は言いにくそうに「俺が書いていたのは、恋愛小説だ」と語った。

「恋愛小説? 叔父さんも書いているんだね」

「まあ、当時好きな女の子がいて、自分の想いを作品にぶつけて書いたものさ。その子に読んでもらったら、『なんからしくない』なんて言われてがっかりしたのを覚えてる」

 叔父さんはあさひさんへと目を向け、ノートをとんとんと叩いた。

「あさひちゃんも、達也と小説書いているのか。今度是非、あさひちゃんの作品も読んでみたいものだな」

 そう言って叔父さんはその大きな口を開けて、はっはっはと笑い始めた。あさひさんは目を見開いて彼を見つめ、そして何故か視線を彷徨わせた。

 そして、「まあ、頑張ります」とはにかんだように笑った。僕は彼女のその表情が気になったが、すぐにうなずき、彼女の肩を叩いた。

「一緒に頑張ろうね」

「うん。ありがとう、色々と」

 そうして僕らはこの喫茶店で、小説のことを語り合う同志として、数日に一度、会う約束をしたのだった。


 僕らはたまに会っては小説の話題で盛り上がり、そして徐々にお互いのことを知って、距離を縮めていった。僕も毎日が楽しくなって、早く彼女と会う日が来ないかと、どうしても待ち遠しくなってしまうのだった。

「お前、最近なんだか楽しそうな顔をしているな」

 佐々木信吾がじっと僕の顔を覗き込むようにして見つめてきて、口元を緩めた。信吾は僕の一番の親友とも言うべき気の置けない仲で、毎日昼休みになると一緒に図書室に来て、小声でおしゃべりをするという習慣があった。

「なんか、たまに何かを思い出してにやにやしてるかと思いきや、腕を組んで真剣に考え始めるし。一体何なんだ? 女の子の口説き方でも、もしかして考えているのか?」

 僕はそんなことを言われたので、顔を真っ赤にして手を振った。なんで、そんな話になるんだよ。

「なんかその調子だと、図星みたいだな。そうか、女の子か。お前にねえ」

 信吾は眼鏡に指を添えて上げる仕草をして、その端正な顔に意地の悪い笑みを浮かべて、くすくすと肩を揺らせている。背が高く、すらりと細い体つきをしていて、髪が長めであることを含めると、女子にしょっちゅうキャアキャア言われる外見をしていた。けれど、実際はかなりのひょうきんなキャラで、よく僕をいじっては楽しんでいる。

「あのな、ただ小説仲間ができて、毎日が楽しくなっただけだからな」

「小説か……小説の書き方を教えるって言って、それで口説いたのか。すごく新しい落とし方だな、それって」

 信吾は目を丸くして顎に指を添え、うんうんとうなずいている。僕はいい加減腹が立ってきて、「だ、か、ら!」と声を押し殺して叫んだ。

「彼女とはそんなんじゃないって。仲の良い友達ってだけで」

「でも、彼女と会うのが楽しくて楽しくて仕方がないんだろ? それってたぶん、恋だろうよ」

 僕は首が千切れるんじゃないかと思うくらいに、ぶんぶんと振った。

「それはない。ただ気になってるってだけで」

「なるほど。本当に惚れる前段階ってところか」

 信吾は妙に納得したような顔をして、そして椅子に深く身をもたせかけ、ふう、と息を吐いた。図書室には僕らの他にはほとんど人がおらず、ひっそりと静まり返っていたが、窓の外から聞こえるブラスバンドの演奏でほとんど僕らの会話は掻き消されていた。

 僕は本棚が立ち並ぶ広いその一室を見渡しながら、声をひそめて言った。

「それにね、なんか彼女が脈なしってわかるんだよ」

「悲しいな、達也。だけど、まだあきらめるな。たくさんチャンスはあるぞ」

 信吾はそう言って腕を組み、僕の顔を見透かしたようにじっと見つめた。

「お前は想像以上に、できる奴だ。女の子の引っ掛け方も、潜在能力を引き出せば、簡単にできるはずに違いない」

「僕はドラゴン○ールに出てくるキャラでも何でもないんだよ。潜在能力があったら、とっくに使ってるから。ただ、今は楽しいから、それでいいかなって。そう思っているんだ」

 僕がそう言って窓の外の、めたせこいやの木をじっと見つめていると、信吾はふっと微笑み、どこか優しい眼差しで僕を見つめた。

「お前のいいところは、たぶん誰にでもすぐに心を開いて打ち解けるところだと思うぞ。その子も、お前を見て、直感でそう思ったから近づいたんだ」

「そんなものかな」

 僕は腕を組んで、その上に顎を乗せて遠くを見つめた。信吾は同じように視線を横へと向けながら、ぽつりと思案げな顔で言った。

「お前が出会ったのは、前に言っていた叔父さんが経営する喫茶店か?」

「うん、そうだよ」

「そこの常連だった訳だな?」

 僕は目をぱちくりさせて、首を傾げた。なんでわかるんだよ。

「まあ、いい。俺も少し変な想像をしてしまったみたいだ。お前の恋愛は応援しているが、いつかその女の子と会ってみたいな」

「お前に会ったら、余計に危ないってば!」

「だったら、彼女の愛人志望にしとくよ。伴侶の権利はお前に譲る」

「そういう問題じゃないよ!」

 そうして僕らはどうでもいいことを語りながら、その日も昼休みをゆったりと満喫するのだった。


 次の日、久しぶりに彼女とTOWAで落ち合うと、彼女は改善した作品をワープロで打って、用紙にまとめて持ってきていた。僕は縦書きにされたその原稿を読み、大きくうなずく。

「文章がすらすら読めるね。ちゃんとリズムが取れてるし、かなり良くなってるよ」

「うん。何度も何度も推敲して、納得いくまで改稿したから。特に描写とかは何度も読み直した」

 僕は興奮しながら彼女の作品を読み進めていき、そしてふとその部分に行き当たり、首を傾げた。

「あのさ、誤字脱字は特にないんだけど、文章を少し詰め込みすぎていないかな?」

「え、そう?」

 あさひさんは苦笑して、僕が指差した部分を覗き込む。

「確かにそう言われればそうかも」

「改稿した時に、書き込みすぎたのかもしれない。最初の原稿の方が、流れはスムーズだった気がするよ」

「うん。わかった。とりあえず書き込むのはほどほどにして、リズムを良くする為に、そこだけを直してみるよ」

 そう言ってあさひさんは席を立ち、「少し席を外すね」と化粧室の方へと歩いていった。僕は思わず口元を緩めてしまうのを抑えながら、彼女が頑張って書き綴ったというその作品を何度も読み直した。

 ふとそこで、叔父さんが近づいてきて、「お!」と嬉しそうな顔で大きな声を上げた。僕が持っている原稿を見つめて、興味津々といった様子で身を乗り出す。

「それ、あさひちゃんの原稿か。どんな作品か、読んでみたいな」

「あ、うん」

 叔父さんへと原稿を差し出すと、彼は一ページ目だけを抜き取って、それをじっと読み出した。そして、うなずいた後に首を傾げたり、と熱心に読み耽っているようだった。

 どうだろうか。叔父さんもかなり小説書いてたみたいだし、何かアドバイスくれるかもしれない。

 そこであさひさんが戻ってきて、僕へと笑顔を向けて、「どうだった?」と言いかけた。そして、叔父さんが原稿を持って読んでいるのを見た瞬間――。

 その顔色が瞬時に変わり、目を見開いた。

 僕はその表情を見て、何か選択を間違ってしまったような、そんな悪い予感を覚えた。すぐに叔父さんへと振り向いて、声を上げようとするけれど、そこでタイミングが悪いことに、彼があさひさんへと顔を向けた。

「あさひちゃん。原稿を読ませてもらったけど、ここの部分さ、少し描写を加えて――」

 パン!

 物凄い大きな音がして、ぎょっとして振り向くと、あさひさんが顔を伏せて鞄を手に取っていた。そして、こちらへと振り向きもせず、顔を俯かせて店を出て行ってしまった。

 ドアベルがけたたましい音を立てて、最後には僕らの鼓膜を突き刺してくる。

「あ、あれ……俺、何か悪いこと言っちゃったかな?」

 叔父さんは呆然とした顔で彼女が出て行った方向を見つめ、あたふたとし始める。僕はすぐに椅子から降りて、店を駆け出た。

 ドアを開いて外へと身を滑らせると、もうその狭い路地裏の道には彼女の姿はなかった。ただ、冬の凍てつくような空気が僕の首筋を何度も突き刺してくるだけだ。

 彼女に何があったんだろう。

 僕は蔓が生い茂る建物の壁に沿って、その入り組んだ道を走り始めようとしたが、すぐにやめた。こんな迷路のような道をどう抜けたかなんて、わかるはずがなかった。

 僕は彼女が渡したその原稿の束を胸に抱きながら、唇を噛み締めた。何が彼女の心を切り裂いてしまったんだろう。僕が悪いのか? 原稿を人に見せてしまったから。

 どんなに思考を巡らせても、ただ無音が僕の聴覚を突き刺すだけだった。答えなどないのだ。彼女のいないこの喫茶店には、どんな回答も用意されてないのだから。

 僕はとぼとぼと再びTOWAの店内へと戻ってきたが、叔父さんは戸口に立って、とても居たたまれないような複雑な表情をしていた。

「行っちゃったか」

「うん。でも、叔父さんの所為じゃないよ。悪いのは、僕だ」

 そう言ってカウンターの席に再び腰を下ろすと、叔父さんが近づいてきて、ぽんと僕の肩に手を置いた。

「まあ、いい。またこの店に来たら、俺が何とか謝って弁解しとくから。彼女はなんていったって、二年間この店に通っているんだからな」

 僕はその言葉を聞いて、目を剥く。

「二年間?」

 叔父さんは少しだけ誇らしそうな顔をしてうなずき、しかしすぐに視線を伏せて、彼女が出て行ったそのドアをじっと見つめた。

 僕は自分の胸にそのもやもやした感情が渦巻き始めるのを感じた。何だろう……僕は今、かなり彼女の複雑な事情を知ってしまった気がする。

 けれど、その答えはどうやっても言葉にすることができなかった。


 僕はいつも悶々とした気持ちになると、スマートフォンで音楽をずっと聴き、内向的になるという性質があった。クラシックを大音量でかけて、それに浸ってひたすらその雨が過ぎ去るのを待った。

 だが、学校で授業を受けていても、彼女の見せたあの表情ばかりが脳裏に浮かんできて、勉強も手につかなかった。僕は現代文の先生の禿げた頭をじっと見ながら、何度も彼女が帰ってしまった理由を考えた。

 おそらくあの原稿を叔父さんに見せてしまったことが原因であることは間違いなかった。だが、どうしてそれだけで彼女はあんなにも泣きそうな顔で出て行ってしまったんだろう。

 叔父さんから自分の原稿に対する指摘を受けたくなかったのだろうか。でも、僕だって作品の悪い部分は平気で口にしていたし、そんなこと気にするような女の子じゃないと思うんだけれど。

 その原稿は、僕に見せる為だけに書いていたってことはないだろうか。そう考えて、自惚れている自分の心に軽蔑の感情が出てくる。

 とにかく、彼女と会って話がしたかった。だが、僕は彼女の名前と通っている高校を知っているだけで、どこに住んでいるのかは全く知らないのだ。

 放課後、彼女の通う高校へ行って、聞いてみるのがいいだろうかと考え、とりあえずその思考に決着をつけることにした。

 そうしてちょうど終業のチャイムが鳴った。気付けばホームルームが終わっていて、信吾がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。

「どうした? 自分がやったポカをまだそんなに悔いているのか?」

「余計なお世話だ、女ったらし。お前みたいに、しょっちゅう女の子とデートしては別れるような奴には言われたくない」

「あらら、俺だって思うところがあってそんな選択をしているだけなんだけどな。まあ、プリプリしないで放課後気晴らしに遊びに行こうぜ」

 そう言って信吾は眼鏡の奥の瞳を細めて、ぽんぽんと優しく肩を叩いてくる。すると少しだけ肩の重みが取れたような気がして、僕は顔をしかめながらも内心ではほっとしていた。

 下校する生徒でごった返している廊下を糸を縫うようにして進みながら、信吾が「今日は俺、タワレコ行きたいと思っているんだけど」とその溌剌とした声で聞いてくる。

「いや、ちょっと行きたいところがあるんだ。西南阪度高校まで付き合ってくれないか?」

 すると、信吾は突然腹を抱えて笑い出し、何度もうなずきながら僕の背中を叩いてくる。僕はげほげほと咳き込んで、彼を半眼で睨みながら、「何笑ってるんだよ」とつぶやく。

「いや、お前のそんなマジな顔を見たの、久しぶりだからさ。そんなに大事な彼女の為に、俺も協力しようじゃないか」

 そう言って信吾は突然僕の腕を握って、早足で歩き出した。そして振り向き、急ぐぞ、と零す。

「彼女が既に下校していたら、どうするんだ。とりあえず俺の女子高生データベースの中から西南阪度の子を見つけ出して聞き出すよ」

 僕は目を丸くしたが、今回ばかりは信吾のおちゃらけた性格が役に立ったな、と素直に思った。

「ありがとう。とりあえず高校までどのくらいかな」

 そうして二人下駄箱で靴に履き替え、駆け出すと、信吾は何故か笑いを堪え切れないようで、走りながらがはははとずっと笑っていた。

 そうして僕も門の先を見つめて笑みを零そうとしたが、その瞬間、全身の血流が燃え滾るように駆け巡るのがわかった。

 思わず足を止めてしまう。門に寄り掛かるようにして、一人の女子高生がこちらを見つめていたからだ。僕は呆然と、あさひさん、と声を零した。

 あさひさんは門に深く背を寄り掛からせて、俯きながらこちらへ上目遣いの視線を向けていた。学校からそのまま来たのか制服で、どこか目元が腫れぼったかった。

 その沈んだ表情を見て、僕はすぐに背筋が冷えていくのがわかった。彼女がここまで思いつめた顔をするのは、何かとても深刻な問題があるとわかったからだ。

 何が君の心を苛んでいるんだ?

 僕は拳を握りながら、そっと彼女へと体を向け、歩み寄っていく。すると、隣でこちらの様子を察したらしい信吾が目配せしてきて、うなずいているのが視界の端に見えた。

 そっと彼女の前へと近づくと、微笑んで「あさひさん」と声をかけた。すると、あさひさんは今にも泣き出しそうな顔をして僕を見返し、ただ腕を握ってきた。

「一緒に来て。お願い」

 彼女に何かを言いかけた僕は、その空が崩れ落ちて世界が終わりを告げたような悲しげな瞳を見て、息を呑んでしまう。本当に、どうしたんだよ。こんなにまで思いつめて、僕は何を見過ごしていたんだろう。

「お願い、達也君……」

 僕は彼女の手を取って、大きくうなずいた。すると、信吾が離れた場所から「行け」と顎をしゃくって促した。心の中で信吾に感謝しながら、僕は彼女の手をぎゅっと握った。

 あさひさんは栗色の髪をふわりと浮き上がらせ、その瞬間、まっすぐ門を抜けて、駅とは反対方向へと歩き出した。僕は彼女に問いを投げかけることを抑え、ただその乱れのない強い意思の篭った足取りに従って歩き出した。

 彼女が何かを決めたのだとしても、僕はただそれを信じて見届けてあげることしかできない。それが僕にできるすべてで、唯一できる彼女への手助けなのだろう。

 自分が情けないけれど、ただの内気なガキにはそれが精一杯だったのだ。


 そうして僕らは商店街の側の大通りをまっすぐに抜けていき、市役所前の人通りの多い道を曲がって裏道に入った。

 あさひさんがまっすぐ向かった場所は、その裏道を抜けたところにあった喫茶店が多い狭い通りだった。僕は郵便局や市民会館が並ぶ区画へと入ったところから、なんとなく目的地が想像できていて、何故そこへ彼女が行きたいのかと思うと、不安が掻き立てられた。

 僕が以前来たことがあったその喫茶店は、雑居ビルの裏側に建てられたこじんまりとした小さな店だった。通りに面した壁に窓ガラスが大きく張られていて、中の様子を覗くことができた。

 外観は真っ黒に塗られたコンクリ造りで、お洒落というよりは、ビジネスマンが利用するような利便性だけを考えたお店であるような気がした。

 僕は彼女がドアを開き、中へと入るのを見届けて、一つ深呼吸した。当然この店に入って出会うことになるであろうその人に対して、どう説明しようかと考えてすぐにやめた。

 もうここまで来たら、彼女のことだけを考えて行動すればいい。僕が彼女から受け取ったものを考えれば、こんなこと本当に小さな救いでしかないのだ。

 僕はそっと店内へと足を踏み入れ、すぐにその懐かしい匂いに口元が緩んでいくのを感じた。TOWAが全体的に薄暗く照明が設定されていたのに対し、このKANATAというお店は、照明が隅々まで行き当たり、明るい室内が保たれていた。

 カウンターはちょうど長方形を描くようにテーブルが折れ曲がっていて、椅子も床へと繋がった回転式のものだった。テーブル席が規則的に左右へと並べられ、ガラス張りの壁を境に喫煙席と分かれていた。

 僕はそのスムーズジャズの音色に心が次第に落ち着いていくのを感じながら、あさひさんの後に続いて、そっと端の席に腰を下ろした。

 彼女は少しだけ微笑んで、そしてどこか震える唇を開いて僕に語りかけてきた。

「あのね、達也君。ここの店、TOWAの姉妹店なんだ。TOWAのオーナーと、このKANATAのオーナーって従兄妹同士で、ずっと前から仲良く一緒に協力し合って経営してきたんだって。私、オーナーからその話を聞いて、すぐに来てみたんだけど、彼の言っていたことが何もかもその通りで驚いたんだ」

 あさひさんはそう言いながら、僕の手をそっと握って目を閉じ、自嘲げに笑って言った。

「私ってね、すぐに何かにのめりこんじゃう性格してて、何か一つ気に入ったものが見つかると、ずっとそればかりに夢中になっちゃうの。KANATAに来た時も、オーナーの言っていた特徴が店に表れてて、内装とかBGMとかコーヒーとか、すごく感動したんだ」

 僕はそっとうなずき、彼女の手を握り返して、彼女がどこか強張った顔で何かつらい事実を僕に話したがっているんだとわかった。僕はただ「そうなんだ」と優しく彼女の言葉に相槌を打った。

「それで、オーナーがすごく格好良く見えてさ。私も喫茶店の経営者になりたいなって憧れたんだ。でも、普通ならそこで妄想も程々にするんだけど、私はね――」

 あの人のこと、本当に好きになったんだ。

 彼女はそう掠れきった声で言って、僕の呆然とした顔を見て唇を噛んで俯いた。

「何歳離れているんだって感じだけど、どうしても心が彼に惹かれていくの。それで、TOWAに行ってから、ずっと今まで通い続けてきたんだ。何年かな……二年ぐらい、だね」

 あさひさんはそう言って強く自分の目元を擦り、その溢れてきた熱い雫を荒っぽく拭い取った。そして、頬に張り付いた栗色の髪をぎゅっと握り締め、何か堪えていたものが暴れ出したような、そんな苦しげな表情で言った。

「私、馬鹿だよね。オーナーはもう六十超えてるし、奥さんいるし……どうしようもなく私の気持ちは場違いだってわかってるの。でも、それでも心がオーナーのことばかりを求めて、抑えられないんだ。でもね、最近はもう――」

 彼女は唇を引き結び、必死に俯きそうになる顔を押し上げて僕へと笑って言った。限界なの、とその心がナイフで八つ裂きにされてしまったかのように、掻き消えそうな声でつぶやいた。

「自分の気持ちと、現実の隙間で押し潰されて、もう駄目になりそうなんだ。あの原稿、オーナーに自信を持って見せられるような作品にして、自分の気持ちを伝えようと思ったんだ。だけど、オーナーが私に何か厳しいことを伝えようとしたとわかった瞬間、何か胸が引き裂かれそうになって――」

 もう、いいんだよ。

 僕は彼女の顔を直視できなかったが、気付けばそんな言葉をぽつりと漏らしていた。顔を上げて、彼女のぐちゃぐちゃになった顔をじっと見つめた。そう、何も不安に思うことはないんだよ。

「だって、私は――」

「君がおかしいなんて言う奴は、僕がぶん殴って君の書いた原稿の山に顔を突っ込ませて後悔させてやるよ。僕はいつだって君の味方だし、同志だから」

「同志?」

 彼女が真っ赤に充血した目を僕へと向けて、そしてその言葉を繰り返した。その縋るような視線を受け止めて、僕はくすりと笑ってうなずいた。

「君が僕の作品を受け入れてくれたように、僕も君の気持ちを受け入れるよ。僕らはお互いに自分の大切なものを共有してるんだよ。だから、同志だ」

 あさひさんは唇をわななかせ、そして何か言葉を絞り出そうとしたが、すぐに俯いてしまった。ぽつりと、小さな涙がテーブルに落ちて弾かれた。

「同志であるあさひさんのことを、僕は軽蔑したりしないよ。それに――」

 僕が彼女の手を強く握り、身を乗り出そうとした時――。

「あれ? たっちゃんじゃない!」

 僕の背筋を冷たい氷河のささくれだった断面が伝い落ち、無数の小さな傷跡を残していった。僕は歯を食い縛り、顔が引き攣るのを必死に抑えて、そして小さく息を吐き出して覚悟を決め、振り返った。

「たっちゃんだ! なんだ、来てたなら、先に言ってくれれば良かったのに!」

 そこに立っていたのは、一人のすらりと背が高い女性だった。中年とは思えないくらいにみずみずしいそのきめ細かな肌は照明の光を弾き返すほどで、薄化粧をしており、彼女の長い茶髪が明るい雰囲気とマッチしていた。

 彼女は冬なのに半袖のシャツを着ていて、その体型は引き締まっており、若い女性が見たら格好いいと思ってしまえるような、いかにも働く女性、といった空気を纏っていた。

 僕は彼女の顔を見て、思わず口元が緩んでしまうのを抑えられなかったが、それよりも僕とそのオーナーの女性を見て、目を見開いているあさひさんの横顔に、胸が締め付けられた。

「たっちゃん、最近この店に来ないから、どうしたのかと思ったのよ。高校が近くにあるのになかなか来ないし、私のこと忘れちゃったのかしらって夜も眠れない日々を……」

「色々と僕だって忙しいんだよ。勉強もあるし、それに僕、他にもはまってることがあったから」

 すると、オーナーの女性がちらりとあさひさんの顔を見遣り、そして途端ににやにやした顔を浮かべて僕の肩を小突いてきた。

「ははあん。わかったわよ。新しい彼女と一緒にいたくて、私のこと、疎かになっていたのね」

「なんで、そういう言い方になるんだよ。それに、彼女とは別に付き合っている訳じゃないんだから」

 すると、女性がその決定的な一言をつぶやいた。

「もう寂しいわあ、私、たっちゃんの親戚なのに、全然大切にしてくれないんだもん」

 ――たっちゃんの、親戚なのに。

 あさひさんの肩から力が抜け、僕の指を握っていた彼女の手がすぐに離れた。顔中が凍りつき、呼吸を止めて、何もかもが停滞してしまったかのような、そんな呆然とした表情がすぐに浮かんだ。

 あさひさんが僕へと視線を向け、その顔が叔父さんの表情と重なったのだろう、彼女はぽつりと彼の名前を口にした。そして、おばさんがあさひさんに向かって何か言いかけた時、あさひさんの心が今度こそ僕が投げ入れた矛で砕け散った。

「え、あ、なんで……達也君、オーナーの親戚、だったの? だってそんなの、って、」

「あさひさん」

 僕が自分自身も泣いてしまいそうになりながら歪んだ笑顔を見せて言葉を絞り出そうとすると、その途端、あさひさんは顔を真上へ伸ばして――。

 ああああん、と大声を吐き出して泣き始めた。子供がお母さんに何かをねだる時のように、ただただ泣くことだけに全身を使うような様子で、人の目など気にせず、ただ泣き喚いた。

 僕はすぐにあさひさんの腕をつかんで止めようとするが、彼女はもう何もかも堪えることなどできずに、ずっと泣き続けてその声を喫茶店に響かせた。

「そんなのってないよ。だって私、達也君にだからすべてを打ち明けようと思ったのに。すべて無駄だったってことじゃない。私がただ馬鹿な勘違いをして、達也君を困らせて……」

 おばさんは突然泣き出したあさひさんを見つめて、驚くよりもまず、僕に鋭い視線を向けて何故彼女が泣いているのかと問いかけてきた。僕は軽く手を振って、彼女の追及を遮り、あさひさんの手を握って、「落ち着いて」と囁いた。

「そんなのってないよ。もう、私立ち上がれないかもしれない。何もかもが怖くて」

 僕はただじっと言葉を呑み込んで、彼女が落ち着くまでその涙に濡れた言葉を一つとも漏らさずに聞いた。おばさんはそっと席から離れて奥へと姿を消していった。

 僕にできることは、ただあさひさんが自分の気持ちを信じて、全てを許すことができるまで待ち続けることだ。そう、僕が唯一彼女の言葉を聞いてあげることができたのだから。

 例えそれが自分の心を引き裂いて、その無慈悲な現実に焼き焦がされてしまうのだとしても。

「達也君。私……どうしたら、」

 そうしてあさひさんもずっと声を零して泣き続けた。店内で談笑していたサラリーマン達が遠巻きに心配そうな顔でこちらを見守っている。

 僕はやがてあさひさんが声を枯らして黙ってしまうと、そこでようやく沈黙を破り、彼女の手をぽんぽんと叩いて言った。

「大丈夫だよ、あさひさん。僕は君の恋をおかしいだなんて言わないよ。ただ僕は君を受け入れるって、約束したんだから。僕がいるところでは、ちゃんと君はただ恋をしている普通の女の子なんだよ」

 あさひさんは「達也君」とつぶやき、そして鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をさらに歪ませ、そして必死に自分の想いを口にした。

「達也君がそう言ってくれるから……だから私、誰かに自分の想いを伝えられたんだ。達也君がいたから、すべてを話せたの」

 彼女のその強い意志のこもった瞳を見て、僕は胸が灼熱の太陽に触れてしまったような、そんな焼け付くような感情を覚えた。僕は何度もうなずく。

「ありがとう、達也君。私、頑張るよ。馬鹿でも、信じられない変わり者でも、自分のできることをするよ。そう、君と約束するから」

 僕はうなずいて、すぐに頭上へと視線を向けた。自分の目に溢れたその涙を、彼女に見せるのはあまりにも格好悪いと思ったから。

「本当にありがとう。達也君と友達になれて、幸せだね、私」

 そこで弾むような足取りで誰かが近づいてくるのがわかった。振り向くと、おばさんが片手でトレイをつかみ、それをこちらへと運んでくるのが見えた。

「取り込み中、失礼するわね。これ、差し入れだから、食べてね」

 そう言っておばさんは少しもその笑顔を崩すことなく、あさひさんの目の前にトレイを置いた。その上には、サンドイッチが盛られた皿と、暖かいコーヒーが置かれていた。

 あさひさんは目を見開いて、そして何度もおばさんとサンドイッチの皿とを交互に見て、そして口をぱくぱくと動かせた。

「たっちゃんと仲良くしてもらってるお礼だから。遠慮なく食べてね」

 そう言って叔母さんは、あさひさんが何かを言うよりも早く「ごゆっくりね」と手を上げて、颯爽とその場を去っていった。

 僕は思わず叔母さんの背中を見つめて、大声で噴き出してしまった。あさひさんも呆然と手元の皿を見詰めていたけれど、やがて同じようにくすくすと声を上げて笑った。

 そして、そっと一つのサンドイッチを手に取った。

「いただきます」

 そう言って彼女はサンドイッチを丸ごと口の中に放り込んだ。すると、サクッとレタスが口の中で弾け、彼女は目を丸くして夢中で食べ始めた。

「おいしいよ、これ……なんだか、悩んでいたのが馬鹿みたいだね。ホント、もうどうでもいいや」

 そんなことを言いながら、あさひさんは頬を涙で濡らし、笑顔でサンドイッチを食べ続けた。僕は身を乗り出して彼女のそんな様子を見つめながら、にっこりと微笑んでいた。

 君が笑顔でいられるなら、僕も同じでいられるよ。

 そうして、ようやく胸の中で、彷徨い続けたピースがその枠にはまるのがわかった。


 *


 僕はただ、あさひさんが笑顔で、あの喫茶店に戻ってきて、出会った時のように小説の話題で盛り上がって、どうでもいい話をして、くだらない恋をして、そしてほんの少しだけ僕のことを気遣ってくれればそれでいいと思っていた。

 自分でも腰抜けだと思うが、僕は彼女の想いをただ見守っていたいと考えていたのだ。なんだろう、ただの弱虫だと思われても仕方がないのだけれど、不思議とそれが嫌な気はしなかった。こういう気持ちは、果たしてどう言葉で表現すればいいんだろう。

 僕はそれからもほとんど毎日TOWAに通って叔父さんと懐かしい思い出に浸ったり、コーヒーの種類を飲み比べてみたり、とまったりとした時を過ごしていた。

 叔父さんの淹れるコーヒーはとにかくどんな雑念も綺麗さっぱりその苦味やすっきりとした味わいで拭い取って、ほのかな酸味で頭の中を洗浄してくれるのだ。

 僕はもうTOWAにいることが日常になってしまったし、後はただあさひさんがもう一度ここに戻ってくることを待ち続けるしかなかった。

 あさひさん。僕は君の同志だから、君の気持ちが今ならわかる気がするよ。

「達也の小説には、まだアダルトな部分が足りないな。もっとエロく、もっと渋く書けよ」

 叔父さんはそんなことを言いながら、僕の書いた原稿を捲って、あれがいけない、ここが駄目だ、と僕のことを何も考えずに滔々と喋り続けた。

「ねえ、叔父さん。桜さんとどうして結婚しようと思ったの?」

 僕は真面目な顔で小説論を説いている叔父さんに、ぽつりとそんな言葉を口にした。カウンターの先で、原稿を読んでいた叔父さんがぎょっとした顔で振り向き、「な、なんだよ、突然」と掠れた声を上げる。

「いや、叔父さんって本当に女の人にモテるのかな、って思ってさ」

 叔父さんは苦々しく笑い、カウンターテーブルに原稿を置くと、眉間に皺を寄せて何かを考えているようだった。やがて何度もうなずきながら僕へと振り返り、そして言った。

「俺は別にそんな話題はどうでもいいんだ。だが、一つだけ言うと、大切な人には必ず自分の想いを伝えることを忘れなかったな。相手に対してはぐらかすことなく、それこそ直球で想いを伝えることだけは貫き通した。その方が、相手にもわかりやすいだろ?」

「確かに叔父さんの堂々とした性格なら、そう振舞うだろうね。桜さんにもそうやって何度もアピールしたの?」

「アピールしたというよりは、普段の俺の行動を見てれば、俺がどんな奴なのか、わかるだろ。だから、一番近くで彼女に見てもらっていたんだよ。つまり、うちで働いてもらった」

 僕はふっと微笑み、叔父さんのその横顔が清々しいほどにいつもの通りで、着飾ることなくすべて本心で語っているのがわかった。それが嬉しくて、僕は叔父さんの淹れたコーヒーをもう一度口に含んだ。

「ま、要するに俺は別に何もしなくても、モテたってことだな。へへへ」

「モテたかどうかはわからないけど、でも、叔父さんを想う人の気持ちが少しわかった気がしたよ」

 すると、叔父さんは照れくさそうな顔で鼻の下を指で擦り、「褒めるんじゃねえ。自分に酔っちまうじゃねえか」とそんなことを漏らした。

「いや、別に褒めてないよ。もう何歳だと思ってるんだよ。今のは昔話だろ」

「お前もたまにきついことを言うな。さっきからお前の視線が突き刺さるように鋭いのは、何を妬んでいるんだ? 俺が何をしたっていうんだ?」

 僕は溜息を吐きながら、ブラックコーヒーにお砂糖を入れて、別の味わいを楽しんでいると、そこでふと背後から甲高いドアベルの音が聞こえてきた。

 僕は振り向かず、物思いに耽りながら文庫本に目を落としていたが、そこでその小さな足音が少しずつこちらに近づいてくるのがわかった。僕ははっと顔を上げて、叔父さんの顔を見た。

「いらっしゃいませ!」

 叔父さんは僕の背後へと視線を向け、その客に向かって挨拶をした。彼は僕にうなずいてみせ、白い歯を見せて満面の笑みを浮かべる。

 …………本当に?

「ねえ、達也君」

 すぐ側から、その何度も聞かされた明るい声が僕の元に届いた。僕はそっと振り向く。すると、そこにはもう陰りなどない、本当に心からの笑顔が浮かんでいた。ふわりと栗色のショートヘアーが浮き上がり、彼女は首を傾げてみせた。

「隣、座っていいかな?」

 僕は様々な感情が一瞬で胸に溢れてくるのを感じながら、うなずいて、そしてにっこりと微笑んで言った。

「もちろんだよ、あさひさん」

 すると、あさひさんはくすっと微笑んで僕の肩に手を置き、体を支えながら隣の席に座った。カウンターテーブルにメニューが差し出されると、彼女はそれを受け取り、そしてはっきりとした声音でそれを告げた。

「今までで最高のブレンドコーヒーを下さい」

 オーナーはにんまりと口元を曲げて、そして大きくうなずき、「おうよ!」と厨房へと向かっていった。僕はあさひさんの晴れやかなその顔を見つめながら、あまりにも感情が胸を詰まらせていて、声を上げることができなかった。

 本当にあさひさんは、この店が好きなんだな。

 僕は心からそう思った。すると、あさひさんがじっと厨房で作業している叔父さんの背中を見つめながら、どこか優しい眼差しをして言った。

「私ね、この数日間、ただこの店に来るのが怖くて、決心できずにいた訳じゃないの。もうこの店に来ることは、最初から決めていたから。ただ一つの為に私は全身全霊で壁にぶち当たってきたんだ」

 そうして彼女が鞄から取り出したものを見て、僕はもうどんな言葉を零すことも、彼女に気の利いたセリフを話すこともやめ、ただ叔父さんがこちらにやって来るのを待った。

 そして、叔父さんがコーヒーカップを手にこちらに近づいてくると、あさひさんにもう一度、「本当にいいの?」と視線で訴えかけた。彼女は迷いなく、大きくうなずいた。

「言われた通り、俺の最高傑作のブレンドを持ってきたぞ」

 あさひさんの目の前に、湯気を立てたそのカップが置かれた。彼女はそれを掌で包み込むようにして持ち、そしてまず最初にそれを鼻先に近づけた。

 そして、目を閉じてその香りを楽しんでいるようだったが、叔父さんは真剣そのもので、じっと彼女の様子を見守っている。

 瞼を開き、そっとコーヒーを口に含むと、あさひさんは大きく目を見開いた。何度も何度もカップを口に近づけ、少しずつ味を堪能しているようだった。

「どうだい?」

 あさひさんはカップをソーサの上に置き、そして鈴の音のように綺麗なその声で言った。

「私が本当に飲みたいと思ったものでした」

 叔父さんは一瞬呆然とした顔をしたけれど、すぐにがははははと笑い声を上げて、何度もあさひさんの肩を叩いた。

「ありがとよ、あさひちゃん。俺もこの店を開いて以来の最高の言葉をもらったよ」

 そこで叔父さんの目があさひさんの手元にある『それ』に気付き、ぱっと表情が華やいだのがわかった。

「それってあさひちゃんが書いたのか? すごいな、だってそれ何枚あるの?」

 あさひさんはその原稿の束をそっと胸に抱え、そして俯きながらぽつりと「五百枚」とつぶやいた。僕と叔父さんは同時に顔を見合わせて、目を剥いてしまう。そこまで書き続けていたなんて、本気なんだ、あさひさん。

「すげえな。俺も一週間で二百五十枚ぐらいは書いたことがあったけど、この短期間でそれぐらい書けるなんて、初心者とは思えないな」

 叔父さんはそう言ってちらちらと原稿の方を見るが、苦笑してすぐに視線を逸らせてしまう。おそらく、こないだ自分が原稿を読んであさひさんを怒らせてしまったのだろうと、まだそのことに気を遣っているのだと思った。

 だが、今のあさひさんはもう、そんな些細なことで涙したりしないから。

「オーナー。この原稿、最初だけでもいいから、読んで感想聞かせてもらえませんか?」

 あさひさんがどこか緊張した面持ちで叔父さんを見つめて、そっと原稿をつかんで彼に差し出した。叔父さんは驚いたように彼女のそのまっすぐな瞳を見返し、そして頭を掻きながら、「わかったよ」と受け取った。

 僕はあさひさんと顔を見合わせて、微笑みを交換し合う。彼女が自分の恋をかけて、すべての心と魂を込めて書き綴ったものだ。すべての感情が凝縮されて、叔父さんを想って作られた作品なのだ。

 叔父さんがかつて桜さんに自分の恋を賭け、作品を渡したように、あさひさんも自分の全ての恥と意地をかなぐり捨てて、叔父さんにその想いをぶつけたのだろう。

「お……なんだこれ、最初からすぐに謎が出てきて、いい感じじゃねえか。文章も引き締まっているし、ちゃんと背景もしっかりしてるな。おう、こりゃ達也のよりもすごいかもな」

 叔父さんはそんなことを言いながら、数分間ずっとその作品を読み続け、やがてあさひさんへと振り向いて真顔で言った。

「間違いなく、俺が今まで読んできたアマの作品の中では、トップを争う作品だったよ。それに、なんというかな、これでもかってぐらい何か気持ちをストレートに訴えかけてくるんだよな。主人公がその年上の男に告白する時なんかは、自分が言われているような、そんなドキドキする展開だった」

 そして、叔父さんは原稿をテーブルに置くと、最初のページを開いて、そこにあるべきものを探しているようだった。

「あれ? これ、タイトルなんて言うの?」

 あさひさんは大きく息を吸い、そして決然とした表情で言った。

「『永遠(とわ)』の、あなたが好き、です」

 あさひさんがそう言った瞬間、わずかにおじさんの表情が変わったような気がしたが、すぐに彼はいつもの通りの笑顔を浮かべ、そして――。


 その喫茶店にはいつものように明るい話し声が響き渡っていた。僕は自分が今、ここにいられることにどうしようもなく心を震わせて感動していた。

 だって、この喫茶店には、ただの楽しさだけじゃなく、色々な悩みや悲しみ、問題などが一緒に詰まって、それで一つの形として補完されているのだ。

 ただ楽しいだけじゃなく、苦しんで苦しんで、掴み取った未来だからこそ、僕はそんなことを成し遂げた彼女を本当に誇らしく思う。

 結局僕は自分の本当の気持ちを伝えられずにいるけれど、それでもいつか、自分のすべてをかなぐり捨てて、その想いを筆に乗せ、彼女に伝えたいと思う。

 そして、彼女のタイトルを少しだけ変えて、伝えてみるのがいいかもしれないと思うのだ。

「永遠に、あなたが好き」、と。

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TOWA ~永遠~ 御手紙 葉 @otegamiyo

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