終章

終章

製鉄所

萩の間。寮生たちがそのドアの前を通りかかるが、シーンとしている。

寮生「舞さんは、どうしてしまったのかあな、、、。大丈夫だろうか。」

寮生「まあ、ご飯は食べてるから、生きていることは確かなんだろうけど、、、。」

寮生「汚い話だけど、トイレとかはどうしているんだろう。」

寮生「馬鹿、部屋にあるじゃないか。それくらいわかってるだろ。俺たちも同じ形をしている部屋に住んでいるんだから。」

寮生「そうなんだけど、狭い部屋に閉じこもって、息苦しくならないかな。俺からしてみれば、保護室にいるようなもんだ。」

寮生「あんまり言わないほうがいいよ。俺たちまで何か被害がでるかもよ。」

寮生「でも、心配だな。」

村下「おい、早く製鉄作業に戻れ。でないと、鉄がきちんとできなくなってしまう。」

寮生「は、はいはい、わかりました、すぐ行きます。」

と、急いで製鉄の現場に戻っていく。


一方。製鉄所の周りを走っている雪子。毎日毎日休むことなく走っているが、だんだんに走るのは、息苦しくなってくる。

雪子「あっ!」

と言わないうちに道路に体が転がってしまう。と同時に右足の膝に激痛が走る。急いで立ち上がろうとすると、強烈に咳が出る。

雪子「いよいよか、、、。」

思わず涙が出てしまったが、ここで負けるわけにはいかないと、何とか立ち上がって、再び走り出す。


製鉄所の応接室。

水穂「まだ、走っているみたいですね。」

懍「そうですね。」

水穂「止めに行ったほうがいいんじゃありませんか?」

懍「いや、ここまで来たら、彼女を止めることはできないでしょう。彼女は、マラソンランナーでいたいんでしょうからね。たとえそれが本人にとって不利であっても、一生それに気が付かないで不利なものにしがみつく人間は、意外に多いんです。」

水穂「ああ、昔の僕もそうでしたね。だからこそ、止めにいこうと僕は思うのですが。」

懍「いや、無理でしょう。歴史的にもそういう人物は数多くいます。それを人間が裁くことはできません。」

水穂「確かにいますよね。音楽で言ったら、久野久とか。似たような感じなんでしょうね。彼女も、、、。」

懍「ええ、そういうことだと思いますよ。」


製鉄所に戻った雪子は、入り口にあったカレンダーをみて、その赤丸で囲った日付を確認し、萩の間へ行き、ドアをたたく。

雪子「舞さん。」

返事はない。

雪子「舞さん。」

やはり返事はない。

雪子「あのね、私、明日田子の浦港マラソンに出るの。きっと、いい順位は出ないと思うけど、あなたとの約束を果たすためにね。応援に来てなんてかっこいいセリフは言えないけれど、どうしても伝えておきたいから、要点だけ伝えておくわ。それだけ。」

と、静かに立ち去る。

萩の間の中では、座り込んで泣いている舞がいる。部屋は、暴れたせいで壁のところどころに穴が開き、机も頻繁にたたかれてへこんでしまっているほどだった。そして舞の顔は、過食と運動不足で獣のように膨れ上がっていた。

舞「どうして私だけ、、、。」

いつものことだが、答えなぞ帰ってくるはずはない。それでも、怒りがわいてきて、自分でも制御できないのが舞であるが、雪子の声を聞いてなぜかその気持ちにはならなかった。もう、散々暴れたのだろうか。わいてくるのは言いようのない悲しみだった。


一方、池本クリニックでは、診察室の前で、杉三と蘭がいつも通り診察を待っていた。

杉三「雪子さんいないね。」

蘭「もう、終わったんじゃないの、診察。」

杉三「そうかな。」

蘭「そうかなってほかに何があるんだよ。」

杉三「だって、僕らは、何番目に診察されるんだっけ?」

蘭は、受付でもらった診察番号を見る。

蘭「三番目だ。」

杉三「じゃあ、今何番目の人が診察受けてるの?」

蘭「二番目だよ。」

杉三「二番目の人は、おじさんでしょ。で、一番目の人は、あのお姉さんだった。僕は覚えてる。だから雪子さんは、この病院には来ていない。」

と、診察室から声がする。

声「ほう、港マラソン大会ですか。まあ、確かにマラソンはいい運動にはなりますが、あんまり無理をすると、体に負担がかかりますから、それは、気を付けてくださいよ。」

声「はい、わかっております。去年も走らせていただきましたが、無事に完走できましたから、大丈夫でしょう。それに、この年になるとどうしても太りやすくなりますからな。それではいけませんから、今年も走りますよ。なんて言っても、今年は、羽生雪子が登場するらしいから、」

蘭「えっ、羽生雪子!?」

杉三「ああ、やっぱり出るんだ。」

蘭「本当に出るんだ。僕は、あきらめるだろうと思っていた。まさか、本当にマラソン大会に出てしまうとは、、、。」

杉三「なんだ、蘭は冗談とでも思っていたの?」

蘭「いや、さすがに、悪性の腫瘍があるわけだから、マラソンに出るなんて無理すぎるとおもったんだよ。それくらい彼女もわかるんじゃないかと思っていたのに、、、。」

杉三「僕はきっと出ると思ったよ。」

蘭「杉ちゃんまで、、、。」

杉三「きっと、何かわけが必ずあるよ。なあ蘭、明日、どこでやるの、港マラソンは。」

蘭「ああ、田子の浦港の近くにある、田子浦港公園からスタートだけど、、、。」

杉三「よし、応援に行こうよ!」

蘭「杉ちゃん、よしてくれ。あそこへ応援に行くのは、自殺行為みたいなものだ。車いすの僕らが行っても何にも意味はないし、それに、大勢のお客さんで、将棋倒しみたいになったらどうするの?その原因にもなりかねない。だから、マラソン大会なんて、行くべきじゃないんだよ。」

杉三「僕は行ってみたい。将棋倒しなんて関係ない。それよりも、雪子さんが走っているのを見たい。」

蘭「もう、そうじゃなくて、考えてもみろよ、歩けない僕たちがスポーツなんか見てどうするの。スポーツなんて、歩けない人にはできるはずがないんだから、かかわるべきじゃないんだよ。それもわからないのか。」

杉三「歩けるとか、あるけないではなく、僕は雪子さんが走ってるのを見たいんだ。それじゃ、いけないのかな。」

蘭「それじゃいけないって、、、。それよりも危険すぎるんだよ。」

杉三「危険すぎるなら、工夫すればいい。僕は、なんとしてでも雪子さんが走っているのを見届けたい。きっとね、あの人は、誰にも応援されはしないから。だから僕が見てあげたいんだ。」

蘭「誰にも?そんなことないよ。だって、さっきの人が言ったように、彼女は、有名人に一応なったんだから。」

杉三「だって、マラソン大会は順位が付くじゃないか。途中で止まっちゃうこともあると思うよ。」

蘭「杉ちゃんは、目のつけどころが違うんだね。なんでそういう発想になるのか、僕は信じられないよ。」

杉三「だって、そうなるんだもん、そして、一番は誰が一番にしてくれているのかに気が付かない。」

蘭「杉ちゃん、」

看護師「二人とも、診察なんですから早くきてほしいんだけどな!」

蘭「あ、すみません。今行きます。申し訳ないです!」

と、看護師に頭を下げる。

杉三「とにかく、僕は、明日田子の浦港マラソンに行く!」

蘭「わかったよ。」

と、大きなため息をつく。


翌日。港公園。大勢の観客に交じって杉三と蘭がいる。

蘭「ほら、見てみろよ。全然見えないじゃないか。こんなところにいてもしょうがないとよくわかるでしょ。さ、あきらめてかえろうよ。」

しかし、杉三は黙っている。

蘭「杉ちゃん?」

杉三「雪子さん、、、。」

そのころ、雪子は必死になって道路を走っていた。最後尾を確認していた係員は、彼女をいらだった雰囲気で見ていた。

係員「はい、こちら最後尾、ああ、そうですか、もうそんな時間ですか。わかりました。」

と電話を切る。

係員「もう、制限時間は過ぎてしまいましたので、、、。」

雪子「待ってください!」

その剣幕に驚く係員。何も言えなくなった係員を見て、雪子は再び走り出す。

港公園。

白いテープが張られ、一位のランナーがゴールする。

主催者「おめでとうございます!」

ランナー「すごく楽しいフルマラソンでした!ありがとうございます!」

続いて第二位、第三位がゴールしていき、表彰されないランナーたちも次々にゴールする。

主催者「最後尾は、、、。」

係員「ええ、羽生雪子です。」

観客から失笑が上がる。

観客「おい、羽生雪子だとよ!」

観客「あれほどすごかった人がびり番だとよ!」

観客「もう、終わったのよ。彼女は。彼女はあの時だけだったの!」

観客「遅くなるからさっさと帰りましょ。」

と、次々に席を立ちあがり、帰ってしまう。

主催者「最後尾から連絡は?」

係員「来ないんですよ、、、。」


道路を懸命に走っている雪子。白い靴は、出血で真っ赤になっている。痛い右足を引きずり引きずり、そのスピードは、競歩よりも遅かった。最後尾はいらだって、声をかけようとするが、雪子の口から血が吹きだしているのを見て、声掛けをやめる。

最後尾「はいはい、ああ、もう全員ゴールしましたか。雪子さん、もう少しでゴールしそうなんですよ。しばらく待ってあげてくれませんか。」

と、電源を切ってしまう。


港公園。続々と引き上げていく観客たち。

主催者「私どもも、もうすぐ帰らなければ。明日この公園でイベントがあるらしく、今夜準備をしたいと言っていた。」

係員「それが、最後尾に回してもつながらないんですよ。どういうことですかねえ。」

係員「全く、困ったものだ。途中で、何かトラブルでもあったのかな。」

係員「もうしばらくしたら、夕方になってしまいますよ。」

係員「皆さんも忙しいでしょうし、ここで切り上げましょうか。羽生雪子は、そのくらいわかっているでしょう。だって、本物のマラソン大会に出てるんだから。」

係員「そうですな。じゃあ、そうしましょうか。」

と、設置されていたカラーコーンを片付け始める。

杉三「来た!」

と、公園の入り口を指さす。

係員「来た?誰が?」

杉三「雪子さんだよ!」

係員「えっ?」

全員、公園の入り口を見る。小さな女性の人影。そして、最後尾の係員も一緒にやってくる。

杉三「雪子さん!雪子さん!雪子さんがんばれ!」

と、手をたたいて応援し続ける。口裂け女のような形相になってしまったが、雪子は確実にゴールまで近づいてくる。その手は痛む右足をかばって、左手をかろうじて動かし、口は天を向いている。なんとも恐ろしい光景であるが、確実にゴールに近づいて来るのだった。

係員「ああ、あれが羽生雪子なのだろうか。」

係員「あの時とはずいぶん違いますな、、、。」

それでも雪子は、一歩一歩近づいてくる。

係員「恐ろしいくらいですな、、、。」

主催者「いや、ゴールさせましょう。」

係員「へ?」

主催者「きっと何か、必死な思いがあるんだ。」

天を仰いで絶叫するような面持ちで雪子はゴールに近づいてくる。

杉三「一歩!一歩!一歩!がんばれ、あと少し!」

この光景には、蘭も涙を隠せない。周りにいたごく少数の観客たちも、だんだんに彼女のほうを見て、手をたたくようになる。

観客「一歩!一歩!一歩!」

決して馬鹿にしているとか、皮肉を言っているような雰囲気はなかった。みな、雪子が走っているのを見て、感動しているのだ。

杉三「雪子さんがんばれ、雪子さんがんばれ!もう少し、もう少し!」

遂に雪子が、ゴール前に近づいてきた。主宰者が、白いテープを彼女の前に張った。

観客「一歩、一歩、一歩!」

杉三「やった!」

雪子は、テープの前に倒れこんだ。

杉三「ついにゴールだーっ!」

杉三が感涙にむせんで拍手をすると、主催者も、観客も、係員も、蘭でさえも、大拍手を送った。

しかし雪子は倒れこんだまま、何も返答することはなかった。

杉三「雪子さん!」

すぐに、係員が彼女を担架に乗せて、港公園を後にした。

杉三「雪子さん!嫌だ!」

叫び続ける杉三を、蘭が抱き留めた。

杉三「いやだ!嫌だよ!」

蘭「静かにしろよ杉ちゃん!」

と、戒めても効果なく、杉三は泣くばかりだった。彼が何を訴えたいのか、観客たちもよくわかったらしく、すすり泣きが始まった。

蘭「杉ちゃんのせいだよ!」

観客「すごいねえ、あんな風になっても走りたいんだね。」

観客「一番になることもすごいかもしれないけど、ああして命を縮めてまで走りたいという人もいるんだね。」

観客「美しい死に方よ。なんか、本当にマラソンを見たみたい。ほら、ギリシャの伝令が走ったというのとまさに同じ。」

主催者「とりあえず、最終ランナーがゴールしましたので、田子の浦港マラソン大会はこれにてお開きにしましょう。」

観客たちは、一部にはまだ泣いている者もいたが、係員たちに促されて帰っていった。

蘭「すごいマラソン大会だったな。」

杉三「雪子さん、本当に天女になってしまうのかな。」

蘭「わからないよ、まだ。とりあえず、僕らも帰ろう。お母様も心配していると思うよ、杉ちゃん。」

その通りに、蘭のスマートフォンが鳴った。

蘭「もしもし、あ、お母さん、ああ、今マラソン大会が終わりました。わかりました。じゃあ今から帰ります。」

と、電話を切り、泣いている杉三と一緒に、港公園を後にする。


翌日、朝刊を開いた蘭。

蘭「羽生雪子さん死去、か、、、。これでよかったのかなあ。」

と、インターフォンが五回なる。

蘭「この鳴らし方は杉ちゃんだ。」

と玄関のほうへ移動する。

杉三「雪子さんは、」

蘭「ああ、杉ちゃんが予想したとおりだよ。」

杉三「そうか、、、。」

蘭「だからと言って落ち込まないでくれよ。」

杉三「うん、落ち込んではいられない、すぐ製鉄所に行こう。」

蘭「杉ちゃん、馬鹿に平気だな。どうしたんだ?」

杉三「うん、伝えたい人がいるんだ。」

蘭「伝えたい人?」

杉三「うん、雪子さんがね。」

蘭「よくわからないけど、杉ちゃんは何かあるといけないから、ついていくよ、僕も。」

杉三「うん、お願いします。」

蘭「じゃあ、よんでくる。」


タクシーの中

運転手「お二人はどちらまで行くんですか?」

杉三「ええ、青柳教授の製鉄所まで。」

運転手「ああ、あそこですか。いつも大変な子たちがきているらしいけど、今回は特に大変らしいですよ。まあ、確かに、危ないといえば危ないけど、それ以前になんで若い女の子が、こんなみじめな人生なんだろうって、よく感じるんですよね。」

杉三「危ないって誰のこと?」

運転手「ああ、名前は知らないのですが、製鉄所の周りをマラソンしてましたよ。すごく楽しそうにね。でも、ある時期からプツンと切れちまった。また引きこもりになってしまったのかなあ。」

杉三「そのあと暴れるようになったとか?」

運転手「そうそう。もう、ガタンガタンガタンドスーン!って感じ。これではほかの寮生さんも黙っていられないよ。」

杉三「じゃあ、雪子さんが救いたいのはその人なのかなあ。」

運転手「よくわからないけど、とにかく気を付けていきなね。怪我でもしたら大変なんだからね、杉ちゃん。」

杉三「わかったよ。」

運転手「もう到着するよ。」

と、製鉄所の前でタクシーを止める。


製鉄所。

事務作業をしている水穂と懍。突然インターフォンが五回なる。

水穂「杉ちゃんだ。この鳴らし方は。」

勝手にドアを開けてしまう杉三。蘭が申し訳なさそうに一緒に入ってくる。

杉三「教授、来たよ。雪子さんがとうしても救いたがってる人はどの人?」

二人、一瞬面食らってしまう。

水穂「ああ、萩の間にいますよ。しかし杉ちゃん、君はなぜここにその人がいるのかわかったの?」

杉三「マラソン大会で聞いたの。」

蘭「いつ聞いたの?スタッフの人に話しかけたわけでもないのに。」

杉三「ああ、お客さんに聞いたんだ。お客さんたちが話しているのを聞いたんだ。」

蘭「よく聞き取れたなあ、あんなうるさいマラソン大会の会場で。」

懍「杉三さんでなければ真似はできませんね。僕たちも彼女のことについては困っていたところです。杉三さんに説得してもらいましょう。杉三さん、萩の間に行ってください。」

蘭「すみません教授。なんの役に立つかわかりませんが、、、。」

懍「いや、彼でなければわからないこともあるでしょうからね。」

蘭「はい、、、。」

水穂「萩の間への行き方はわかる?」

杉三は、返事もせずに萩の間へ行ってしまう。


萩の間

ドアをノックする杉三。

杉三「今日は、僕は影山杉三。雪子さんの友達だよ。あのね、今日は大事なことがあって伝えに来た。雪子さん、亡くなったよ。」

ドアの向こうからは何一つ音がしてこない。

杉三「先日、田子の浦港マラソンに出たんだ。雪子さんは最下位だった。でも完走したよ、見事な走りだった。足も、口回りも真っ赤になって、きっと何回も転んだりしたんだろうね。

それでも走ったよ。ゴールして倒れこんで、もう二度と戻ってこなかった。なんだかギリシャの兵隊の話とそっくりだよね。でも、彼女は素敵だった。すごく美しい死に顔だった。」

萩の間からは返事はなかった。

杉三「雪子さん、きっと誰かのために走ったんだと思うんだ。だって、骨肉腫で走ろうなんて考える人はまずいないって池本院長は言ってた。もう、肺にも転移して、もっても後数年だったらしい。本当はね、君に見に来てもらいたかったんじゃないのかな。だから僕は、代理で来たよ。きっと、雪子さんは、君を裏切りたくないから走ったんだと思うんだよ。それをわかってあげてくれないかな。ここにくるってことは、きっと、何かしらのことで傷ついていることがあるんだと思うけど、、、。こうして、君を心から思ってくれたひとがいたってことを、忘れないでくれないかな。人間誰でも自分の視点でしか見れないから、他人の僕がこういう願望を言っても、あまり通じないのは確かなんだけどさ。」

萩の間から、すすり泣きが聞こえてくる。

杉三「泣いてもいいよ。一生に一度や二度は思いっきり泣いたっていいだろうよ。泣いてはいけないなんて法律はどこにもない。だから、それでいいじゃない?」

声「私、、、人殺しになってしまったのでしょうか?」

杉三「そんなことないよ。」

声「私は、やっぱり、人殺しだ!どうしてそんな人生しか与えられないんだ!」

杉三「待って!」

と、無理やりドアを開けて車いすごと体当たりする。ドアは鍵がかかっているので、杉三は開けることができない。

応接室。

水穂「様子が変ですよ。なんか、ドアを無理やり開けようとしているのか、、、。」

蘭「でも、杉ちゃん車いすだし、普通の人みたいにドアをけやぶりはできないはず。」

懍「何かあったかもしれないですね。」

水穂「僕、様子を見てきましょうか?」

蘭「よせ、君もあんまり早く走れないんだから。」

声「待って!お願い!」

懍「やっぱり、何かありましたね。」

水穂「僕行ってきます!」

と、萩の間に向かっていく。何とか小走りに萩の間に近づく。そこには一生懸命体当たりでドアを開けようとしている杉三がいた。

水穂「杉ちゃんどうしたの!」

杉三「早くしないと、彼女が雪子さんのところに行ってしまうんだ!」

水穂も中の音をよく聞いてみると、包丁を研いでいる音が聞こえてくる。

水穂「これは大変。」

杉三「もう、こうなったらこれだ!えい!」

と、思いっきり車いすごとドアに体当たりする。ドアは、大砲よりも大きな音を立てて倒れる。杉三も車いすごとひっくり返る。しかし、杉三は手だけではって、萩の間に入ってしまう。

杉三「馬鹿な真似はやめて!いくらなんでも、死ぬことだけは絶対ダメ!」

舞「うるさい!みんなそうやって私のことを邪魔するのであれば、この人だって道連れよ!」

と、杉三の着物の襟首をつかむ。

水穂「舞さん!」

と、同時にまた咽喉に生臭いものが、、、。

舞「みんなで私が楽になるのを邪魔するんだったら、あんたたちもやってやるわ。それでいいでしょう?私はどうしてもここで生きていたくなんかないの。それなら、生きている必要もないと思うし、それならさっさと逝っていいと思うの。だから邪魔しないで楽にさせてちょうだいよ!これ以上年寄りたちに邪魔されて、たまるもんですか!あれ、、痛いじゃないのよ!」

杉三が彼女の左腕にかみついたのである。

舞「ちょっと、邪魔しないでよ!」

しかし、さらに食い込んでくる。振り落とそうとするが、離れない。

舞「ねえ、ちょっと、本当にあんたって人は、いつまで私を邪魔する気?」

と、ぬめっとしたものが右腕に触れる。右腕は真っ赤に染まっている。

舞「あっ!」

と、持っていた包丁がポトリと落ちる。と、同時に猛烈な咳の音。さらに、指から流れてくる、新鮮で真っ赤な液体、、、。

懍「軍配は杉三さんと水穂さんですよ。舞さん。」

舞「え、、、。」

入り口に、懍と蘭がいる。

蘭「僕らも追いかけてきたんだよ杉ちゃん。あまりにも獣のような、恐ろしい声だったんだから。」

懍「舞さん、ここは終の住処ではありません!それをよくわきまえておくように!」

蘭「大丈夫か水穂、おい、水穂!」

見ると、右手に凶器をしっかり握ったまま、水穂は左手で口を押えている。まだ赤い血が口から吹きだしている。そして、舞の右手に、杉三はまだかみついたまま。

蘭「杉ちゃん、もういいんじゃないか?」

杉三はなおもかみついたままである。

舞「私は、私は、、、。」

懍「泣いている暇があったら、早く彼を介抱するべきですよ!」

舞「わ、わ、わかりました!」

舞「杉三さん、もう取って。わたし、水穂さんを連れて行かなきゃ。だから、もう、終わりにして。もう、私は泣き言はいわないから。きっと、生きていくから。」

蘭「君の気持ちがわからないわけでもないが、もうやりすぎだよ。杉ちゃん。」

杉三は、そっと口を離す。

舞「じゃあ、水穂さん行きましょう。立てますか?」

聞いてみるとそれどころではないらしい。

舞「じゃあ、私の背中に乗ってください。」

と、水穂を背中に背負う。

水穂は咳をしながら舞の背中に乗る。驚くほど軽かった。舞は彼を背負って立ち上がり、水穂の居住する部屋に行った。杉三は、車いすが滅茶苦茶になってしまっていたので、手ではって移動した。それはまるで、海に行く子亀のように必死だった。蘭と懍もそれを追いかけた。

水穂の部屋に行くと、布団が敷いてあった。

舞「水穂さん、横になれます?」

懍「いや、この場合は出るだけ出したほうがいいでしょう。ここで無理やり止めてしまうと、窒息する恐れもありますからね。背中でもたたいたほうがいいでしょうね。」

舞「わかりました。じゃあ、水穂さん、布団に座ってください。」

と、舞は彼を下し、自分も座って彼の上半身を支え、ちょう座の姿勢で彼を座らせ、枕元にあった膿盆を、彼の口元にもっていき、背中を撫でてやった。しばらくはまだ、血が出ていたが、数分後、喀血は落ち着いたらしく、せき込んでも血は出なくなった。舞は彼の咳が完全に止まるまで、背をさすっていた。

水穂「迷惑をかけました。なんでいつも、いざというときにこうなるのだろう。本当にごめんなさい。」

懍「いいからおやすみなさい。謝って済む問題ではありませんよ、これは。」

水穂「ごめんなさい。」

懍「薬は飲まなかったんですか?」

水穂「いや、飲んだんですけどね。お昼食べた後に。」

懍「その割には、長くなりましたね。」

水穂「ああ、ごめんなさい。」

懍「だから、もう一度言いますが、謝って済む問題ではないのですよ。早く横になっておやすみなさい。」

舞がそっと、彼を布団の上に寝かせてやる。

舞「後で着るものとかとりに来ます。血が付いたままでは気もちわるいでしょうし。」

杉三「本当にどうなるかと思った、水穂さんも、舞さんも、、、。」

蘭「杉ちゃん、すごい顔になってるぞ。」

杉三「関係ないの。僕はこわかったんだ。でも、二人とも助かってくれてよかった。案外簡単に逝っちゃうものだからさ。」

懍「舞さん、介護というのは、杉三さんのような気持になるのを、先延ばしかもしれないけれど、遅くすることはできるのですよ。あなたは、水穂さんをこうして運んだのですから、少なくても、水穂さんに生きてもらいたい気持ちがあったからだ。あなたのお母さんが、おじいさまを介護するのもそういう気持ちがあるからではないですか。現にあなたはそうやって、水穂さんを助けてあげられることができたのです。それは、誰かに教えてもらったわけではなく、あなたの才能ですよ。それができるということは非常にすごいことなんです。それをわきまえて、進路を考えてください。」

舞「青柳教授、、、。」

急に眼がしらが熱くなってきた。

杉三「介護の才能は、きっと、お宅のお年を召した方からいただいたものじゃないですか?」

蘭「杉ちゃんすごいこと言うな。」

杉三「だってそうじゃないか。介護殺人なんていう言葉がはやってるくらいなんだから。そういう気持ちになれない人の、不祥事が何件起きていると思ってる?」

蘭「ほんとうんだねえ、、、。」

と、応接室の電話が鳴る。

懍「申し訳ありません。電話に出てきますので。」

と、応接室に戻っていく。

水穂「今日はごめんね。気持ち悪いところを見せてしまって。」

蘭「ああ。気にしないでくれ。仕方ないじゃないか。そうなってしまうんだから。僕だって同じだし。」

水穂「蘭のほうは、体のほうは変わりないのか?」

蘭「ああ、今のところね。」

水穂「それにしても杉ちゃんかわいそうだ。玄関のところに貸し出し用の車いすあるから、乗せてやってくれ。」

舞「は、はい、今取ってきます。」

と、急いで玄関に行き、車いすを取ってくる。

舞「杉三さん、これに乗れる?」

杉三「杉ちゃんでいいよ。たぶんはまると思う。」

舞は杉三を持ち上げて車いすに乗せてやる。

舞「杉三さんも軽いのね。男性なのに。」

杉三「どうもありがとう、やっぱ、この姿が一番いいや。手で移動するのは結構きついからさ。」

と、満面の笑みを浮かべる。

舞「そんなにうれしい?」

杉三「うれしいに決まってるでしょ。当り前のことができるってのは、何よりの幸せだよ。」

舞「そうかしら、そんなにうれしくなるものかしら?」

杉三「少なくとも、当たり前にできない僕は、当たり前のことが当たり前にできることほどうれしいことはないよ。さっき車いすに乗せてくれなかったら、僕、ここから移動できないわけだし。そうやって、手を出してもらわないと何もできないとね、時には、すごく冷たい目で見られることもあるよね。だから、外になんか出たくないやって思っちゃうんだ。そうなると、余計に気持ちが沈むの。それを払しょくしてくれたってのは、本当にうれしいもんだよ。」

舞「でも、年寄りはそういうこと感じないで、当然だと思うのよね、手伝ってもらうのを。」

杉三「いや、年を取るとね、いろんなところが使えなくなってきて、かえって悲しいもんだと思うよ。どんな偉い人でも必ずこのセリフは言うよ。悲しくなった時に、ご家族が、手を出してくれるほどの喜びはないよ。ただ、舞さんのおじいさんは口にしないで言わないだけだよ。そこが違うだけさ。」

水穂「僕も、体を悪くしてから本当にそう思いますよ。体がどんどん弱くなっていって、できることよりもできないことのほうが多くなってくるんです。そうなると、自分自身で自分のことをひっぱたいてやりたいくらい悲しくなるのです。それでは、人間生きていけませんよ。人間ってのは、喜びがないと生きていけないんです。雪子さんが、走ったのもそのためなんじゃないかなと思いますよ。まあ、走れない僕が言うのも難ですけど、、、。」

蘭「まあ、僕らは、民族が違う、必要ないってって言われたら、言葉はないですけどね。」

と、懍が戻ってくる。

懍「舞さん、お母様から連絡がありました。どうしても戻ってきてほしいと。おじい様、お体がすごく悪くなって、お母様だけではもう限界なんだそうです。妹さんも大学を辞めて今ご実家に戻られているそうですよ。」

舞「あ、あの子まで?」

懍「ええ、でも、妹さんは不平を漏らすばかりで、家は冷え切った状態になっているそうです。お母様のお話では、妹さんではほとんど介護の仕事にならないようですよ。」

杉三「おじいさんは、きっと寂しがってるんじゃないかな。妹さんに見捨てられて。」

舞「私しかいない、、、。」

杉三「きっと、今はおじいさまに喜んでもらうことで、生きがいが見つかると思うよ。僕はそう思ってるよ。」

舞「そうね。私も、受け入れるわ。今の私は、そのようになるのなら。だって、私を心から愛してくれた人がいたってわかったから。」

と静かに言って胸に手を置く。

杉三「本当だね。」

舞「お世話になりました、ものを壊したりしてすみません。私、帰ります。祖父と母の力になります。」

と、全員に向かって最敬礼し、ゆっくりと萩の間へ戻っていく。















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杉三中編 宝物 増田朋美 @masubuchi4996

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