Epilogue

 徐々に涼しさへと向かいかけていた九月にあって、その日は真夏に戻ったように陽射しが強く、夕方になっても昼間と変わらない熱れが立ち込めていた。病院の個室の窓からレースのカーテン越しに射し込む光は暖かさを通り越して肌を焼くようだが、それでも、窓から入る風は涼しく心地好い。

 骨折した右腕と右足をギプスで固められてベッドに横たわる水破は時計に目を向けた。

 そろそろ時間だろうか。

 そう思うが早いか、響くノックと返事も聞かずに開かれるドア。

「すー兄ちゃん」

 ひょいと中を覗き込んで水破すいはの姿を確かめると、そのまま病室へ足を踏み入れて後ろ手にドアを閉める汐音しおね。制服に通学鞄の学校帰りのままの姿で、右手にぶら下げた洋菓子店の紙箱を持ち上げて見せた。

「お見舞いはプリンだよ。冷蔵庫に入れとくから後で食べよ」

 汐音は紙箱を病室に備え付けの冷蔵庫に仕舞うと、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。飴でも舐めているらしく、口元をもごもご動かしている。

「ありがとう、汐音。外は暑かったんじゃない?」

「そう! もう、ホントに暑くてやんなっちゃう! ちょっと汗かいちゃったけど、臭わないよね? 大丈夫かな? さっき、スプレーしといたんだけど……」

 汐音は自分の襟元に顔を近付けてくんくん鼻を鳴らした。

 病院に担ぎ込まれた夜が明けた翌日は、バタバタしていて汐音とゆっくり話す機会を逸していた。

 また、次の日に学校が終わってから来る、と言っていた汐音を待つのは、嬉しく思う気持ちもあり、気まずく思う気持ちもあり、しかし、こうして顔を合わせてみれば、何だか少しほっとした。

「何? すー兄ちゃん、そんなにあたしに会いたかったの?」

「えっ?」

「だって、嬉しそうな顔してるんだもん」

 汐音はくすくす笑いながらベッドに突っ伏し、水破の体に覆い被さるようにして、掛け布団に顔を埋めた。

「そうかな?」

「そうだよ」

 くぐもったくすくす笑いが小さく響き、やがて止んだ。そして、少しの沈黙。言葉が途切れると周りの静寂が際立ち、風にゆれるカーテンがこすれる音まではっきりと耳に届いた。

「……ねえ、すー兄ちゃん」

 すん、と汐音が小さく洟を啜る音がした。

「学校でね、トモ先生は行方不明だ、って」

 妖狩りだけでなく、事情に通じた警察関係各所による情報操作もあり、公にはそういう事になっている。まさか真相をそのまま公表する訳にもいかない。

「トモ先生も、理子ちゃんも──」

 平坂ひらさか土萌ともえの遺体は収容され、今はどこかの研究施設だろう。狭山理子に至っては遺体すら残っていない。土萌がさらったもう二人の子供も同じく。この先、行方不明になった四人が発見される事は決してないのだ。

「──二度と帰ってこない……」

 そうして、人々の記憶から土萌や理子りこの名前は歳月の波に洗われて、いつしか忘れ去られていくのだろう。

「トモ先生も、理子ちゃんも、助けられなかった……。もしも、あたしがもっと強かったら、助けられたのかな?」

 汐音の声が鼻声に変わっていく。

「あたし、どうすればよかったのかな? もっと上手くやれたのかな? わかんない……。あたし、何か間違ったのかな……、何を間違ったのかな……。わかんない、わかんないよ、すー兄ちゃん……」

「汐音……」

 水破は無事な左手をそっと汐音の髪に添えた。その手が土萌を撃ち殺した手である事を思い出して逡巡したが、それでも、伸ばした手を止めずに、少しだけ汗で根元が湿った汐音の髪を撫でた。

 上手くなんて立ち回れなかった。

 不器用で、無様で、悔やまれる事ばかり。

「どうすればよかったのか、どうする事ができたのか、僕にもわからないよ。僕らは間違いばかりだったのかも知れないね」

 汐音も水破も大人なんかではない。分別も見識も足りない未熟な子供だ。それを免罪符にするつもりはないが、きっと、二人はこれからも大きな失敗や小さな失敗を何度も繰り返していくのだろう。

「でもね、僕はずっと汐音の味方でいたいと思ってる。間違ってしまったものは取り戻せないかも知れないけれど、そんな時は一緒に考えていけたらと思うんだ。どうしたらいいのか、つまり、間違った後にどうしていったらいいのか、そういう事を」

 起こってしまった事はなかった事にはならない。土萌はそう言った。重い言葉だ。半人前の背中には重すぎる。

「最後にね、土萌先生は汐音に謝っていたよ。汐音に辛い思いをさせて、ごめんなさい、って。そう伝えて欲しい、って。だから、土萌先生を思う汐音の気持ちはわかってもらえたんじゃないかな。僕らは上手くはできなかったかも知れないけれど、きっと、何もかもが無駄だった訳じゃないと思うよ。土萌先生、あんなに綺麗な顔で笑っていたんだから」

 汐音と水破が目にした土萌の死に顔は驚くほど穏やかで、汐音が知る限りの生きていた時に見たどんな笑顔よりも幸せそうに笑っていた。

「……うん、そうかも」

 くすん、と汐音がしゃくり上げた。

 幼い泣き顔が痛々しく水破の胸を刺す。

「汐音、辛かったら無理しなくていいよ。こんな重荷を汐音が背負う事はないんだから」

 十三才の女の子が怪物相手に命懸けで斬ったはったなどという真似をして、人の生き死にを見せつけられて、傷つけて、傷ついて、小さな体を震わせて泣いている。そんな目に遭わせなくてはならない道理があるものか。水破の胸の内には静かに怒りの炎が燃える。

「すー兄ちゃん」

 汐音が顔を上げた。

「大丈夫。あたしね、そんな簡単に挫けたりしないよ」

 赤くなった目を指でこすって、にこりと笑って見せる。

「あたし、最初はね、お気楽に考えてた。人とは違う力があって、化け物相手に戦って、ヒーローなんだって思ってた。ちょっといい気になってたとこもあったと思う。でも、そんなんじゃないんだよね。泥だらけになって、ボコボコにされて、ゲロまで吐いて、誰かを守ったり助けたりとかなんてできなくて、ちっともカッコよくないし」

 シーツをつかんだ手に力を込めてぎゅっと握る。

「でも、あたし、負けたくない。逃げたくない。自分にできる事なら、他の誰かに押しつけて放り出したりしたくない」

 真っ直ぐな瞳が水破を見つめる。ヘイゼルグリーンの大きな瞳には、どこまでも透き通る澄んだ輝きが力強く宿っていた。

「すー兄ちゃんが一緒なら、あたし、頑張れる。あたし、頑張りたい」

 汐音は身を乗り出して水破に抱きついた。首に腕を絡めてぐっと顔を近付ける。

「すー兄ちゃんの言い方って回りくどいんだから。あれこれ言わないで、『ずっと傍にいるよ』って、それだけ言ってくれたらいいの」

 息がかかるほど間近に迫る汐音の顔に、水破はどきりとさせられた。

「ずっと、一緒にいてね」

 そう言って、汐音は自分の唇を水破の唇に押しつけた。

 柔らかな唇の感触。すうっとする清々しい甘さが広がっていく。

「……ミントキャンディ?」

 キスの弾みで汐音が口に押し込んでしまった小さな塊に、水破は思わず小首を傾げた。

「……だって、ゲロ味のキスの女のままじゃ嫌だもんっ!」

 汐音は真っ赤になって恨めしそうに水破を睨んだ。

「ファーストキスがあれじゃあんまりだよぉ……」

 心の底から情けなさそうな顔をする汐音の様子が微笑ましく、水破の胸にも温かいものが湧き上がった。

「そっか。ごめんね、汐音」

「えっ?」

「ああいう事情だったけど、無理にキスしちゃったから」

 一瞬、ぽかんとした汐音は、見る間に顔色を変えて不機嫌そうに頬を膨らませた。

「もう! すー兄ちゃんの馬鹿! 何でそうズレた事を言うのよ! この、ぼくせきちょう!」

「汐音、よく『木石腸』なんて言葉知ってるね」

「うん、まあ……って、そうじゃなくて! あたしはすー兄ちゃんとキスしたかったの! だから、嬉しかったけど、あれじゃあんまりだから……、もう、ホントに、すー兄ちゃんの馬鹿ぁ!」

 興奮して真っ赤な顔でわめき散らす汐音をなだめるように、水破は片腕で小さな体を包み込んだ。

 汐音の細い肩は重荷を支えるには華奢すぎる。しかし、代わってすべてを背負うには水破もまた非力だ。

 だから、二人で背負おう。

 辛い時、苦しい時、挫けそうな時、互いを支えよう。

 間違ったり、失敗したり、回り道したり、みっともなく足掻いたりしながら、差し伸べあった手を携えて歩いていこう。

「すー兄ちゃん、デートの約束、覚えてるよね?」

「うん。どこに行きたい?」

「遊園地とかがいいな。退院したら連れてってね。そうだ、二人っきりもいいけど、めりあと久我先輩も誘ってダブルデートなんていいかも」

「めりあちゃんと、お兄さん? まあ、汐音がそうしたいんなら僕はいいけれど?」

「ふふーん、まあ、ねー」

 事情が飲み込めておらず怪訝な顔をする水破に、汐音はもったいつけるように言った。

「あと、それから、靴を買ってくれるって」

「ガーリィラウンジ……だっけ?」

「うん。ちゃんと覚えててくれたんだ」

 汐音は甘えた笑顔で水破を見上げた。

「じゃあ、許してあげる。楽しみにしてるからね」

 明るく振る舞うおどけた笑顔は、きっと、胸に刻まれたばかりの癒えない傷を誤魔化そうとする強がり。

「わかったよ」

 水破は汐音の強がりに気付かないふりをして笑みを返した。

「ねえ、プリン食べよ。すー兄ちゃんは右手が使えないから、あたしがあーんして食べさせたげるね」

 汐音はベッドを離れて冷蔵庫を開け、さっき自分で入れたばかりのプリンを取り出す。

「お見舞い用だから、奮発してちょっと高いプリン買ってきたんだからね。ここのプリン、すっごく美味しいんだよ。とろとろのふわふわなんだから」

「汐音、実は自分が食べたかっただけなんじゃないだろうね?」

「えー、ひどーい。そんな事ないよぉ」

 嬉しそうに笑って見せる汐音。

 そんな汐音を見て、水破も自然と笑みを洩らす。

 何もかも足りないものばかりの二人でも、半人前と半人前で、合わせて何とか一人前に近付けるかも知れない。

 二人は比翼の鳥だ。ただし、一人では飛べないという意味での。

 片翼しかない二羽だから、寄り添っていなければ空を飛べない。

 だけどいつかは、比翼の鳥である事が、二人の強さになるように。

 そして、一人前を二人分よりも強い、一組の二人になろう。

 未熟な今の二人では守れないものも守れるように、救えないものを救えるように。傷ついて苦しんでも、乗り越えて立ち上がれるように。今はまだ、そんなに強くはなれないけれど、いつかはそうなれるように。

「はい、あーん」

 汐音がプリンをすくったスプーンを差し出して、照れ臭そうにためらう水破が口を開くのを、目をキラキラさせて待ち受ける。

 

 ──ただ、今、この時、傷が癒えるのを待つ間くらいはこのままで。

 穏やかな時間を──。

 

 水破は照れ臭さをこらえて大きく口を開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リルライ~破魔の小雷~ 瀬戸安人 @deichtine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る