XI「Little Lightning Burning」

 朧な月光に微かな影が落ちる。

 抜き身の長脇差『小雷公しょうらいこう』を手に汐音しおねが荒れた校庭を疾駆する。

 きらめく白刃には緋色の火花が散り電弧が走る。

 これが汐音の異能。

 刃にまとう雷は妖を灼く破魔の炎。鳴神──雷の名を持つ血統に宿る力。

 この世は人のみのものならず。

 人の知るものだけがこの世のすべてではなく。

 人の見るものだけがこの世のすべてではなく。

 人の知らぬ所にこそ。

 人には見えぬ所にこそ。

 恐れなくてはならぬものがいる。

 草葉の陰に、山川木石の狭間に、宵闇の深淵に、それは棲む。

 魑魅魍魎。妖怪変化。鬼。精霊。人知の及ばぬ異界の民。──陰に潜む者達。それは、時に慈悲深くも残酷な土着の神であり、時に恐怖と暴力の権化として人を食い殺す化生にもなる。

 ──妖は人を狩る。人を襲う。人を喰らう。人をもてあそぶ。人をかどわかす。

 すべての妖が人に害をなす訳ではない。しかし、害をなす輩がいる事もまた事実。

 人は妖に敵わない。人にとって妖は天敵の狩猟者、そして、人は妖の獲物。

 その強靱な肉体、圧倒的な膂力、運動能力、人の理解の枠外の超常の異能、絶望的なまでの力の差をもって、あまりにも容易に人を蹂躙する。

 しかし、人も狩られるばかりではない。

 窮鼠も猫を噛む。追い詰められれば兎でさえ猟犬を蹴り殺す。ならば、人が妖を返り討たない道理があろうか。

 知恵と力を振り絞り、知識と技術を受け継いで、表舞台にその名を示さぬまま、人に仇なす妖を狩り続ける一族は数多くいる。

 其は人にして人を外れ、血に依りて魔を滅す。妖狩りの一族。人の身で人外の力をその血に宿す、人ならざる人たる規格外品。人という種が天敵に抗い生き残るために生み出した破魔の血統。

 鳴神なるかみもまたその血統に連なる家系。妖狩りの名家にして、妖の側から天敵と恐れられる一族の筆頭・御雷みかずちを本流とする分家筋に当たる。

 しかし、多数の分家の中でも、鳴神は零落した一族だった。

 その血の力は著しく衰え、実戦に耐え得るような能力は失って久しく、残滓のようなわずかばかりの力があるばかりだった。──汐音が生まれるまでは。

 数世代に渡って衰える一方だった異能は汐音の代で回生した。

 更にはその強力な異能のみならず、天賦の剣才までも備えた汐音は、本家や妖狩りの家系を束ねる斎樹家からも逸材として注目されている。その期待の大きさゆえに、本家から伝家の宝刀である『小雷公』を貸与され、斎樹いつき家から直々に目付役として水破すいはが派遣されているのだ。

 斎樹家もまた前線向きの異能を失った家系だが、積み重ねた知識と築き上げた人脈をもって、妖狩り達を統括・支援する立場としての役目を担っている。

 水破の役目も妖と真っ向から斬り合いをする事ではない。

 汐音に追走する水破の手にある武器は自動拳銃SIGザウエルP229のみ。コンパクトでありながら装弾数が多く、堅牢にして高精度、破壊力の高い強装弾にも対応、米軍沿岸警備隊の制式採用を勝ち得た優秀な拳銃だが、それでも常識外の力を持つ妖に立ち向かう武器としては、これ一挺だけでは心許ない。

 銃弾を避けるほどの反射神経や、多少の傷などものともしない強靱な肉体や再生能力を持つ妖も珍しくはないのだ。幽霊のようにふれる事のできる体すら持たない相手であれば、火薬で撃ち出す鉛玉など何の役にも立たない。これから向かい合う土萌がどれだけの力を持つかは不明だが、それもすぐに思い知らされるだろう。

 暗い夜空の下。二人の視線の先には地に届く黒髪を垂らした土萌ともえが杖を突いて待ち受けていた。霞む月光が静かに照らすその姿は、妖しくも美しく、──そして、何よりもひどく悲しげだった。

 地に届く土萌の黒髪がざわめくように揺れる。

「汐音っ!」

 背筋をぞくりとなぞる悪寒。

 水破の一喝が汐音の足を止めた。咄嗟に飛び退いた地面を突き破って飛び出したのは幾条もの漆黒の糸──、土萌の足下から地中に潜り、五メートル以上も離れた先の地面から飛び出した黒髪だ。

 反射的に水破は土萌に向けて引金を引いたが、その射線を黒い網がふさぐ。自在に動く土萌の髪が瞬時に防壁を織り上げ、甲高い金属音を響かせた。

 さすがに秒速三〇〇メートル近い速度で射出される弾丸を真っ向から受け止める事はせず、網状に形成した髪の面を斜めにぶつけて軌道を逸らす事で回避したのだが、その反応速度と自在な動きは脅威であり、そして、響いた金属的な音からして相当な強度を備えると思われる土萌の髪は鋼線のような代物なのだろう。

「すー兄ちゃん!」

 咎めるような汐音の叫び声。

「汐音、土萌先生はやる気だ」

「ええ。残念だけど、そうよ」

 水破の言葉の後を土萌が引き取ってつないだ。その黒髪は縮んで土萌の足下まで引き寄せられ、機を窺うようにゆらゆらと揺れる。

 先の不意打ちは本気だった。気付いて身を引かなければ、汐音と水破を引き裂いていたに違いない。

「鳴神さん、私は覚悟を決めたわ。あなた達が行く手をふさぐなら、力ずくで押し通って自分の道を貫くわ。あなたはどうする?」

 問いかける言葉とともに、土萌の黒髪がうねりながら伸び、鞭のようにしなる髪の束が汐音を目掛けて振り払われる。

「んっ!」

 試すような一撃を、汐音は手にした一刀を大きく振って迎え撃つ。

 緋と銀に輝く大振りが髪を弾くように薙ぎ払った瞬間、その異変に土萌の目が大きく見開いた。

 鋼線のごとき土萌の髪は汐音の刀と衝突した瞬間、予測された金属音を響かせる事もなく、ただの髪の毛になって斬り散らされたのだ。

「……何?」

 土萌は予想外の出来事に思わずたじろいだ。

「汐音の雷は妖の力を灼きます」

 鋼の刃に宿る緋色の雷──『緋雷火ひらいか』。

 本家・御雷の異能とは似て非なる力だ。本家の血筋が操る『紫電しでん』『蒼雷そうらい』といった異能は圧倒的な破壊力を誇る。問答無用で妖を滅ぼしつくし、妖からさえ天敵と恐れられる暴虐の力。それに比べれば、汐音の力はあまりにも貧弱。直撃してもわずかな痺れかちゃちな火傷を負わせる程度がせいぜいの威力しかない。

 しかし、緋色の電弧は妖気を灼く。

 花紙一枚燃やす事もできず、虫一匹殺せるかどうかの小さな雷だが、異界の妖力にふれればそれを呑み込み灼きつくし消し去って、いかなる怪力乱神をも打ち破る。それこそが汐音の『緋雷火』の真骨頂。地を穿ち、自在に動き、銃弾すら食い止める土萌の髪も、汐音の雷にふれれば妖力をかき消されて散らされる。

 零落した分家の裔に生まれた娘に宿った変質した異能は、妖との戦いのみに特化した極めて強力な武器。

「汐音の力に敵う妖はいません。土萌先生、あなたでは汐音に勝てない」

 きっぱりと断言する水破。──しかし、はったりだ。

「そうかしら? びっくりはしたけれど……」

 土萌が小首を傾げる。

「多分、私の方が有利じゃないかしら?」

 あっさり見抜かれた。

 再び土萌の髪が伸びる。地を走り、宙を走る幾条もの髪がバラバラの軌跡を描いて汐音に向かう。

「くっ!」

 汐音は呻き声を洩らしながら刀を振るい、襲い来る髪を払う。

 同時に迫る多数の攻撃を薙ぎ払い、飛び退き、また薙ぎ払い、小さな体で大きく跳ね回るようにして、瀑布のような土萌の髪を必死にしのいでいく。

 確かに汐音の異能は強力な武器だ。しかし、それ以前の問題として、圧倒的なリーチと手数の差がある。

 何メートルも離れた間合いからいくつもの方向から同時に襲いかかる髪を、汐音は一尺九寸五分の一刀のみで捌かなくてはならない。卓越したセンスと瞬発力を頼りに何とかしのいでいるが、圧倒的に分が悪い勝負だ。汐音としては刀の届く間合いまで踏み込まなくては話にならないのだが、防戦に追い込まれる一方で、切り返す機もつかめない。

 緊張と焦燥が汐音を苛む。

 汐音もこれが妖狩りの初陣という訳ではない。今までにも何度か妖相手の戦いを繰り広げているが、それらはすべて未熟な汐音の実力を考慮して割り当てられた雑魚相手の危なげない戦いでしかなかった。

 しかし、土萌はそんな小物とは比べ物にならない。汐音の力で渡り合えるかどうか──。

 響く銃声。閃く発射炎。汐音を援護するために水破のSIGから放たれた鉛の弾丸が土萌に向かうが、先と同じように黒髪が射線をさえぎって軌道を逸らす。

 水破の牽制に土萌の注意が向けられたその一瞬。汐音が走った。

「いっやあああっ!」

 駆ける勢いは飛ぶがごとく。土萌との距離を一気に詰める。地に這いつくばるかというほど極端に低い姿勢から、思い切り体を乗り出しながら地面すれすれに放つ一撃。

 緋雷火を宿した汐音の斬撃は土萌の髪では止められない。この勝負は極端なまでに間合い次第なのだ。──つまり、近付かせなければ土萌の勝ちで、近付ければ汐音の勝ち。

 たじろぐ土萌の脛に迫る一刀。咄嗟に髪で地を叩いて体を刃の軌道から押し退けようとするが、汐音の方が速い。

 それは狙ったものではなく、恐らくは体勢を崩した瞬間の偶然の産物だろう。汐音の刀と土萌の脛の間に、アルミの杖が割って入った。

 甲高い金属音が鳴り響く。今は自在に動く髪にその役目を譲って飾りのように手の中に収まっていた杖は、半ば断ち割られながらも切っ先を逸らし、土萌の身を守った。

 その機を逃さず、土萌は再び間合いを広げて汐音の射程から遠ざかる。その間にも、水破の射線に対して防御用の髪を向けておく事も忘れない。

「嘘、今のが駄目!? かー兄ちゃん師匠直伝の『脛刈り』なのに!」

 汐音の体は小さい。それは戦いにおいて大きな不利でしかない。しかし、その不利な点を逆に活かす手もある。小さな体ゆえの打点の低さ。それを更に極端に突き詰めた、普通ではあり得ないほどの低い位置を狙う常識はずれで想定外の、ゆえに、対処ができない不意打ち。汐音に剣の手ほどきをした本家の跡取りが、その体の小ささを武器にできるようにと教えたトリックプレイ。汐音の得意技だ。

「まぐれよ。運がよかったわ」

 土萌は両手で杖をしっかり握り締める。強力な武器である黒髪よりも、妖気の通わないこのアルミの棒こそが、汐音の刀から身を守る道具となる。その事を今の出来事で悟った。

「あんなの何度も受けられそうにないわ。隙を作っては駄目ね」

 土萌の目がすうっと冷たく細められる。

 次の瞬間、土萌の髪が一斉に走った。ただし、汐音ではなく、水破に向かって。

「駄目っ!」

 汐音が悲鳴を上げて走る。

 ──しかし、遠い。水破を襲う土萌の髪を斬り払おうにも間に合わない。

 水破も迎え撃つように引金を引くが、銃弾は土萌の髪を食い止める事もできず弾かれる。功を奏さないであろうという事は予測できていたので、水破は撃つと同時にその場から横へ跳んでいたが、土萌の髪は更にその先へ広がる。土萌の攻撃範囲はあまりに広すぎて、水破の瞬発力では一足で逃れる事はできない。汐音が土萌の猛攻を捌く事ができたのは、小さな体ゆえの的の小ささと、群を抜く機敏さと剣技があればこそだ。

 土萌の髪が逃れようとした水破の右足首を捕らえる。巻きついた髪は瞬時に猛烈な力で水破の足を締め上げ、容赦なく砕いた。

「ぎゃああ!」

 抑えられない悲鳴が上がった。

「ぐ……、がぁ、く……」

 足の骨を折られた激痛と猛烈な吐き気に嫌な脂汗があふれ出すが、それだけでは済まず、土萌の髪は更に水破の全身に絡みつく。

「すー兄ちゃんをっ! 放せえええーっ!」

 突風のように駆け込んできた汐音の振り下ろす一刀が水破を縛める髪を断ち切った。髪を焼き切られた土萌が退く間に、汐音は水破の元へ飛び込むように駆け寄った。

「すー兄ちゃん! すー兄ちゃん! 大丈夫?」

「何とかね……」

 泣き出しそうな汐音を前に強がって見せるが、水破の顔面は蒼白で、今の一瞬で銃を持つ右手も折られていた。まともに動く事も射撃で援護する事もできず、もはや戦力としては役に立たない。

 妖としての力に覚醒した土萌は、鋭敏な感覚と反応速度、肉体のハンデを補ってありあまる異能を備えるが、武術の心得がある訳でも実戦の経験がある訳でもない。汐音と渡り合えるのは技術ではなく単純な素地の力によるものでしかない。

 その素地の妖力を無効化してしまう汐音に隙を見せるのは致命的だ。ゆえに、援護役として土萌の隙を誘発する水破を潰す事で、前衛の汐音に集中して対処できる。戦いについては素人の土萌なりに考えた結果だ。

「いくらトモ先生でもっ! すー兄ちゃんに怪我させたら許さないんだからっ!」

 頭に血を上らせた汐音は地を蹴って土萌に突進した。迎え撃つ幾条もの妖髪を打ち払い、飛び越え、すり抜けながら、視線は真っ直ぐに土萌を見据えたまま。

 旋風が荒れ狂うがごとく、妨げるすべてを弾き飛ばす獅子奮迅の気迫をほとばしらせて。

「下だっ!」

 水破が警告の叫びを上げると同時に、汐音の体は宙を舞っていた。熱くなりすぎて突進する汐音の注意力が偏った隙を逃さず、土萌の髪が汐音の足を絡め取って放り投げた。

 汐音には積み重ねた鍛錬に裏付けられた技術がある。受身を取ってダメージを最小限に食い止めるのは基礎の基礎だ。しかし、体に絡みついた髪は姿勢を制御する事を許さず、汐音は受身も取れずに固い地面に叩きつけられた。

「汐音っ!」

 汐音の小さな体が地面にぶつかって弾み、そのままの勢いでごろごろと転がった。

 咄嗟の判断で長脇差は落ちる前に自ら手放していたので、離れた場所に転がった。手に持ったまままでは叩きつけられた時に自分の身を傷つけかねない。汐音自身は泥まみれで倒れたままガクガクと震えている。土萌の髪は解けて汐音から離れているが、傷だらけの体は起き上がる事もできない。

「汐音! 汐音! 汐音っ!」

 水破は激痛を強引に無視して、片足だけで必死に体を押し出し、転けつまろびつ、走っているのか這っているのか、どちらとも取れないような有様で汐音に駆け寄った。

「汐音……っ!」

 助け起こそうとして、その前に汐音の状態を確かめる。負傷の度合いによっては下手に動かせない。ひどい打撲の痣と擦り傷だらけの震える体が痛々しい。骨折はしていないようだが、捻挫くらいはしているかも知れない。

「……ひ……、は……、すー……兄ちゃん……」

 汐音が途切れ途切れに弱々しい声を洩らす。激しく叩きつけられた衝撃で呼吸がままならないのだ。

「汐音、しゃべらなくていい。落ち着いて、ゆっくり息を整えて」

 右手を折られている水破は左腕だけで汐音を抱き寄せて、震えながら伸ばされた指をそっと握った。

 震える汐音は体を動かすどころか、まともに口を開く事もままならない。

 華奢で小さな体は大きなダメージに耐えられるようにはできていない。そして、受けたダメージだけでなく、疲労の激しさも汐音の体を痛めつけている。

 ただでさえ小柄な体に蓄えられるスタミナなどたかが知れているというのに、その小柄さを補うため、汐音は余計に大きく動かなくてはならない。短いリーチをカバーするには、より遠く、より速く踏み込まなくてはならず、そのためには運動量も多くなり、スタミナの消耗も激しくなる悪循環。

 汐音には素質がある。優れた異能。天性の剣才。高い瞬発力。──しかし、体が追いつかない。

 脆弱な体躯。足りない筋力。短すぎるリーチ。唯一の長所であるスピードで欠点を補おうにも、乏しすぎるスタミナはすぐに尽きてしまう。到底、備えたポテンシャルを活かし切る事などできはしない。それどころか、あまりのバランスの悪さに負担が大きくなるばかり。

「ごめんなさい。ひどい目に遭わせてしまって」

 土萌の声が悲しげに響いた。汐音も水破も戦える状態ではない。容易に仕留められるはずだが、土萌はそれ以上の事はせず、離れてじっと佇んでいた。

「もう、いいでしょう? 私の勝ちで。その体ではこれ以上は無理だわ。ここから出る方法を教えて。このまま見逃して行かせてくれたら、私もこれ以上はあなた達に何もしないから。お願い。そうしましょう、ね?」

 懇願するように、土萌は静かなトーンで語りかける。そうせざるを得ないと割り切ったつもりでも、できる事なら汐音達を傷つけたくはない。既に十分すぎるほどの手傷を負わせてしまった。自分でもやりすぎたと思う。

 しかし、そうでもしなければ今の状況に逆の立場で陥っていたかも知れない。考え得るどんな汚い手を使ってでも全力を尽くさなくては、素人の土萌では仮にも専門家である水破と汐音には敵いようもないのだ。その事は土萌の胸に陰を落とす。だが、そう思う事で自分の行為を正当化しようとする卑劣さを自覚している事こそが、土萌自身を苛んだ。

「……駄目」

 振り絞る弱々しい声は汐音のもの。

「駄目だよ……」

 よろめきながら立ち上がるが、膝が笑って今にも倒れそうな有様だ。それでも必死に両足を踏みしめる。

「トモ先生、駄目だよ……」

 ふらふらと何歩か歩いた汐音は落とした長脇差の所までどうにかたどり着くと、拾い上げようと屈んだ拍子に倒れ込んだ。柄をつかみ、切っ先を地面に突き立てて、杖代わりにして体を支えて上半身を起こすが、膝を突いたその姿勢のまま、どうしてもそれ以上自分の体を持ち上げられない。

「汐音……、その体じゃ無理だ」

 体を引きずって傍まで近寄り、同じく地面から起き上がれない水破の言葉に、汐音は首を横に振った。

「駄目だよ……、絶対に、駄目……。トモ先生を止めるんだから……」

 傷ついた体で立ち上がろうとしては膝から崩れ落ちる。それを何度も何度も繰り返す。

「トモ先生をっ、助けるんだからっ!」

 必死に振り絞る汐音の叫び。

「トモ先生を助ける! 理子ちゃんを助ける! 助けて連れて帰んなきゃ!」

「……どうやって?」

 冷たく響く土萌の声が割り込む。

「鳴神さん、あなたの言う『助ける』って何?」

 ざわりと背筋が怖気立つような静かな迫力が土萌からにじみ出ていた。

「何をしてくれるって言うの? 起きてしまった事はなかった事にはならないのよ。私の過去も、狭山さんが苦しんだ事も、取り返しなんてつかない。だから、私は終わらせて新しく始める事にしたの。あなたはどうしてくれるの?」

「………………」

 汐音に返す言葉はない。大きな事をうそぶきながら、その方法もわからない。ただ、小さな子供のように駄々をこねているだけだ。

「無理して背伸びする事はないわ。帰りなさい」

 諭すようにささやく土萌。

「……やだ!」

 汐音には反論する言葉などない。土萌を納得させるような言葉も持たず、どうすればいいのかもまったく思いつかない。

 だから、幼稚な拒絶を吐き出し、開き直って駄々をこねた。

「理子ちゃんを……、連れて帰らなきゃいけないんだから!」

「どこへ連れて帰るって言うの? もう、あの子には帰る場所も待っている人もいないのに……」

「そんな事ないよ!」

 ボロボロの体から必死に声を振り絞る。

「めりあが待ってる!」

 汐音は精一杯叫んだ。

「理子ちゃんの事、めりあが待ってる! 心配して、悲しんで、帰ってきて欲しいって思ってる! トモ先生だって見てたじゃない! めりあが理子ちゃんの事で泣いてるのを!」

 膝を突いて立ち上がれないまま、ぽろぽろ涙があふれる。

「あたしだって! あたしだって、こんなのやだもん! 理子ちゃんを連れて帰る! 連れて帰って、あたしと、めりあと、友達になって、仲良しになって、……そうするんだから! 上手く言えないけど! わかんないけど! とにかく、そうするの! そうするんだから!」

 泥だらけの顔を更に涙でぐしゃぐしゃにする汐音の叫びが土萌の胸を締め上げる。しかし、土萌は少女のこんなにも必死な思いを踏みにじるのだ。土萌の決めた道を行くには、汐音の思いは妨げとなってしまうから。

 そう覚悟は決めた。だが、傷だらけで泣き崩れる汐音の姿が胸を締めつける。

 

 どくん。

 

 不意に土萌の中で大きく響く鼓動。全身を揺さぶるような衝撃。

「……え?」

 思わず声を洩らした次の瞬間、土萌の体を内側から突き破るような苦痛が襲った。

「いいいぃぃいっ、ひぃぁぁああああがぁぁあはぁああぁぁっ!」

 喉も裂けんばかりの絶叫がほとばしる。

「ひっ!」

 突然の出来事に驚いて尻餅をついた汐音を、水破は黙って庇うように無事な左腕で引き寄せた。

 激痛に双眸を見開き、開いた口から涎を垂れ流しながら、よろめく土萌は背筋を丸めて両腕で我が身を抱き締めた。

「駄目よ! まだいけないわ!」

 土萌本人だけが、自分の体で何が起こっているのか理解していた。しかし、必死に体を締めつける両腕もそれ押し止める事はできなかった。

「まだ駄目よ! 出て来てはいけないの! まだ早すぎる!」

 悲鳴じみた慟哭も虚しく、土萌の腹は内側から引き裂かれた。

 

 ブラウスのボタンが弾け飛び、ほとばしる鮮血に白い布地が真っ赤に染まる。土萌は地に倒れ、自らの腹を中心に広がっていく血溜まりの中、焦点を失った目を見開いて痙攣しながら口からも大量の血の泡を吐いた。

 土萌の腹を内側から突き破って、血に染まった白い指が、続いて手首が、腕が這い出してくる。細くて華奢な少女の腕だ。

「……理子ちゃん!」

 腕に続いて土萌の腹から現れたのは狭山理子の頭。しかし、その後から零れ落ちるようにあふれ出した部分は、もはや原形を留めていなかった。

 どろどろに溶けた肉色のゲル状の物質がかろうじて流れ出さない程度の固さを保って塊になっているもの。そこから理子の片腕から肩の辺りまでと頭が生えている。

 土萌の腹のどこにこれだけ大量のものが収まっていたのかと思うほどの肉色のゲルが地面に広がっていく。その中には理子のものよりも短い手足らしき形状の塊が見え隠れするのは、以前に土萌が取り込んだ子供達のものであろうか。

「……っ!」

 目の前に広がるあまりにもグロテスクな光景。汐音は弱った体に押し寄せる吐き気を抑えられず、その場に嘔吐した。

 水破に背をさすられながら胃の中を空にすると、汐音は汚れた口元を袖で拭いながら顔を上げ、涙で歪む視界の真ん中にしっかりと理子を据えた。

 生気のない理子の青白い顔。ただ、瞳にはわずかな命のきらめき。燃え尽きかけた炎のように儚く悲しげな光。

「……なるかみさん……」

 弱々しい理子の声。消え入るような、それでも懸命に絞り出す必死の叫び。

「……ありがとう……。つたえて……、くがさんにも……ありがとう……って、うれしかった……」

 遠目にもわかるほどはっきりと理子の命が枯れていく。言葉を一つ紡ぐごとに、急速に命の色が色褪せて弱まっていく。

「理子ちゃん……、理子ちゃん……っ!」

 汐音はうわごとのように理子の名を繰り返す。真っ直ぐに目を向けて耳を澄ます。理子の表情や仕種を一つも見逃さないように。理子の言葉を一言も聞き逃さないように。

 理子の顔に浮かぶ死の影が濃さを増していく。

 これは──理子の遺言だ。

「……きこえたから……、なるかみさんのこえ……。うれしかった……。せんせい、やさしくって、あったかかったけど……、なるかみさんと……、くがさん……、わたしを……、しんぱいだって……、まってるって……、うれしかったから……、ありがとう、っていいたくって……」

 理子の目からも涙が零れる。

「……もっと、なかよく、なりたかったな……」

「なれるよ! これからだって! それで、あたしと、理子ちゃんと、めりあで、一緒に色んな事しようよ! 遊びに行こうよ! 買い物とか一緒にしようよ! 美味しいケーキ見つけたから、めりあと一緒に行こうって約束してたんだ! 理子ちゃんも一緒に行こう! それからね、めりあが面白い本とかいっぱい知ってて教えてくれるの! 理子ちゃんも訊いてみるといいよ! それから、それからね! お料理とか! あたし、これでも結構得意なんだ! お菓子とか作ったり、意外と簡単にできちゃうのもあるんだよ! 理子ちゃんも、めりあも一緒に、三人でやってみようよ! それから、それからね……」

 言いたい事を上手く言葉にできず、もどかしげに息を吐く汐音に向けて理子が微笑みかける。穏やかな、最期の笑顔。

「……ありがとう」

 次の瞬間、理子の顔が崩れた。顔も腕もどろどろの肉色の中に混ざって跡形もなく溶けていく。

 理子自身にもわかっていた。安全で心地好い土萌の腹から無理に這い出す事がどういう結果をもたらすのか。

 しかし、どうしても伝えたかった。

 誰からも見捨てられたと思っていた自分を、汐音とめりあが本気で案じてくれていたと知ったから。どうしても、直接「ありがとう」と伝えたかった。土萌の気持ちを無駄にしてしまった事を済まなく思う。巻き添えにしてしまった他の二人の子供にはどんな気持ちを示せばいいのかもわからない。

 ただ、それでも、最後の瞬間、理子の気持ちは穏やかだった。土萌と、汐音と、めりあと、三人も自分の事を心から気遣って泣いてくれる人がいた事がとても嬉しかった。

 自分はこの世のすべてから見捨てられた訳ではなかった。少なくとも、三人は見捨てないでいてくれた人がいたのだ。

「理子ちゃん! 理子ちゃん! 理子ちゃん!」

 肉色の水溜まりが赤黒く色を変え、ぼこぼこと泡立ち猛烈な腐臭を立ち上らせる。そこにはもう命の残滓さえ残っていない。

 

 こうして、狭山理子は永遠にこの世から消え去ってしまった。

 

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 絶叫。

 天地を揺るがし耳をつんざく叫びを上げたのは土萌。

 血溜まりの中に這いつくばり、悪臭を放つどろどろの腐汁を必死にかき集めては、腹の裂け目に押し込もうとするが、赤黒い粘液は両手の隙間から零れ落ちては地面に染み込んでいくばかり。

「いや、あああ、いやあああ! 駄目よ! 戻ってきて! 私の子供! 私の子供なの! どうして! どうして! いやあああああああああ!」

 狂気に染まった双眸から血涙を流し、はみ出した腸を汚泥まみれにして泣きわめく土萌から巨大な妖気が沸き上がる。

「どうして! どうして! どうしてなの! どうして私には何もないの! どうして私を愛してくれた人はいなくなってしまうの! どうして私が愛した人はいなくなってしまうの! どうして! どうして! どうして! 愛されたいのに! 愛してあげたいのに! いや! いや! いやああああああああああああ!」

 強すぎる思いは人を妖に変える。

 ならば、この悲しみ、この怒り、この絶望、この狂気、この思いが土萌を更なる化物にしてしまったとしても何の不思議があろうか。

 土萌の腹に開いた裂け目がふさがる。額の皮膚を破って突き出た突起は角に他なるまい。裂けた口からは鋭く大きな犬歯が伸びる。骨格が歪み、筋肉が膨張する。土萌の姿は見る間に異形に変じていく。狂気に爛々と輝く瞳には理性の色は残っていない。

 恐らく、今の土萌はもはや正気を失った凶暴な鬼と成り果ててしまったのだろう。

 汐音も水破も殺される。

 ボロボロに傷ついて身動きもままならない汐音と水破にどうこうできるような相手ではない。二人まとめて引き裂かれる未来が目に浮かぶようだ。

「汐音」

 水破は眼前の光景に言葉を失う汐音を抱き寄せると、いきなりキスをした。

「──っ!」

 吐瀉物まみれの汐音の口に躊躇なく吸いつき、唇を開かせて舌を差し入れる。水破の口に汐音の舌と唾液が吸い込まれ、汐音の口の中にも水破の唾液が流れ込む。

「ん……」

 微かな喘ぎが洩れる。力を抜き、目を閉じて、水破に身を任せた。

 汐音は水破に恋をしている。

 水破に愛されたいと願っている。

 手を握って欲しい。抱き締めて欲しい。キスして欲しい。いつもそう願って、小さな胸をときめかせている。

 だから今、こんなにもひどい状況なのに、高鳴る胸に幸せな気持ちが広がっていく。

 ──すー兄ちゃんが一緒なら、……いいかも知れないな。

 甘えと弱音が汐音の胸に芽生えかける。

 ──ママ、めりあ、ごめん。あたし、帰れそうにないかも。

 諦めに呑み込まれながら、このまま水破に寄り掛かって倒れてしまおう、そう思った時、先に倒れたのは水破の方だった。

「……え?」

 力を失った水破の体が地面に崩れ落ちる。

「……何?」

 その姿には明らかに異変があった。水破の全身を覆う無数の痣と傷の数々は今まではなかったはずのものだ。

「これ……、あたしの傷……!」

 それは汐音の体に刻まれていた傷とまったく同じものであり、当の汐音の方はと言えば、泥まみれなのは相変わらずだが、その痣も傷も綺麗になくなっていた。

 それだけではない。全身に重くまとわりつく疲労感が消え、体が嘘のように軽い。

「……これが、僕の切り札だよ」

 弱々しく掠れる声が水破の口から零れた。

「……汐音の傷、全部僕が引き受けた」

 斎樹家の血筋には、直接の戦いに向くような異能を備えた者は絶えて久しい。

 しかし、そうでない異能を持つ者ならば生まれる事もある。

 水破の異能は他者の傷を我が身に引き受け、自らの生命力を他者に分け与える能力。肉体の一次的接触──体液の交換によって自分と他者との間に気脈の経路を繋ぎ、その経路を通じて生命力を行き来させる、一種の共感呪術だ。

 才能にあふれるホープでありながらも、未熟で脆弱な汐音に水破がつけられた理由の一部はこの異能ゆえでもある。水破ならば、我が身を犠牲にしさえすれば、汐音を生き延びさせる事ができるからだ。

「汐音、行けるね?」

「……うん」

 汐音はしっかりと頷いた。──今ならば、汐音は戦える。

「一発勝負だ。それで駄目なら、僕を置いて一目散に逃げるんだ。校庭の百葉箱を探して、中にある符を破れば結界が解けて外へ出られる。もしもの時のために、瑞玉さんはまだ近くに待機しているはずだから、結界が解ければ気付いて駆けつけてきてくれる。そうしたら、あとは瑞玉さんに任せて汐音はここを離れるんだ。いいね」

 水破は一気にまくし立てた。そうでもしなければ、言い終えるまで意識を保っていられる自身がなかったからだ。そして、汐音の返事を聞くまで目を開けていられなかった。

「……わかった」

 汐音は地に突き立てた長脇差を抜いて立ち上がる。

 紙のような色の顔で目を閉じた水破の唇からは微かな吐息が洩れる。意識は失っているが、とりあえず、命の心配はないだろう。──汐音が水破を残して敗走しない限りは。

「でも、すー兄ちゃんを置いて逃げたりしない。そのために、あたし、絶対に勝つ!」

 両脚は地を踏みしめ、双眸は正面を射る。殺気と妖気を暴風のように荒れ狂わせる土萌の成れの果てと真っ向から向かい合い、切っ先を地面から引き抜いた。

 汐音の胸は燃えるように熱く、その焼けるような熱さが血管を通って手足の指先にまで駆けめぐる。しかし、その熱は優しく心地好く、頬が上気して赤く染まる。

 それは水破がくれた力。

 少し頼りなさそうに見えても、本当は誰よりも頼もしい。優しくて、温かくて、いつでも汐音を見守ってくれる水破の命そのものが、汐音の体に満ちている。

 汐音の小さな体は水破でいっぱいだ。

 水破の腕に抱き締められているように心強く、あふれ出しそうな力と自信が体中にみなぎっている。

「これは二人分。あたしと、すー兄ちゃんと、二人一緒の力だもん」

 汐音は水破を信じている。水破が支えてくれていたら、二人で一緒なら、どんなに苦しくても乗り越えられる、と。

 そして、汐音は今、確かに水破に支えられている。だから、

「絶対に負けない!」

 裂帛の気合いを込めて、汐音は高らかに叫んだ。

「トモ先生、とっておきでやるよ。手加減とかできないから、もしもの時は、ごめん」

 汐音の手の中で小雷公に火花が散り、冷たい刀身が緋雷火をまとって再び激しく燃え上がる。

 ゆっくりと振り上げた刀は真っ直ぐではなく、右肩の側へずらして斜めに構える。右上から左下へ、袈裟斬りに振り下ろす以外の動作ができない偏った構えだ。

 しかし、その構えで汐音は全身を弓弦のように極限まで引き絞る。たった一つの攻撃手段にしか移れないが、その代わり最速で繰り出せるように。他の選択肢をすべて捨てて、ただ一手に特化する。

 土萌までの距離は五メートル以上ある。汐音の短い歩幅で精一杯踏み込んで刀身を伸ばしたとしても遠すぎる間合いだ。

 汐音にはパワーがない。力押しで相手の守りを打ち砕く事は不可能。

 瞬発力は高いので、スピードで翻弄するのは有効だ。しかし、長時間スピードを維持するスタミナには欠けているので、じっくりと時間を費やして相手を切り崩すような悠長な戦い方はできない。

 ゆえに、汐音が使う手段は不意打ちによる一撃必殺。

 正攻法に逆らって、予測のつかない奇手を用いる事でしか身体的な弱点を補えない。そして、奇手は奇手であるがゆえに初撃で決めなくてはならない。種のわれた手品など二度と通用しないのだから。

 水破の言う通り、一発勝負だ。

 長脇差を担いだ汐音がゆっくりと重心を落とし──、そして、土萌は汐音の姿を見失った。

 刹那、汐音の姿が消えた。そうとしか思えなかった。次の瞬間、汐音は土萌の目の前に迫っていた。

 まるで二人の間にある地面の方が縮んでしまったかと錯覚させるほどに。

 移動前の予備動作を完全に消して、地を蹴って飛び込むのではなく、すっと地を滑るようにして前へ。『縮地法』と呼ばれる特殊な歩法に近いが、汐音のレベルではまだまだその糸口程度の代物。しかし、それでも十分に功を奏する不意打ちの急襲。

 袈裟切りの一刀が振り下ろされる。

 土萌が身を引いてかわしたのは、驚嘆すべき人外の反応速度があればこそ。

 刀を振り切って前のめりになった姿勢は完全に無防備で、勢いと重量に逆らって二撃目を斬り返す事は汐音の貧弱な腕力では叶わない。できたとしても、無理な動作から生まれる隙は致命的なもの。

 だから、汐音は更に前へ出る。

 振り下ろしながら踏み込んだ右足とは逆の、左足でもう一歩踏み込んで前へ。前へ踏み出す事で、無理なく自然に姿勢が上がる。その勢いに乗って、渾身の力で突く。

 地も砕けよ、足の骨も砕けよ、とばかりに踏み込む圧力に屈して、汐音の足下で靴の布地が破れる音がした。足の指に鋭い痛みが走ったのは、力を込めすぎて爪が割れたのだろう。履き込んで傷んでいたとはいえ、頑丈なバスケットシューズが破れるほどの衝撃だ。爪が割れるくらいで済んでいれば僥倖な方だろう。水破が意識を失っている今、汐音の傷と痛みは肩代わりしてもらえない。しかし、興奮で大量に分泌されるアドレナリンが痛みを無視させ、勢いはわずかたりともゆるまない。

 踏み込む歩幅に突き出す腕と刀身の長さを加え、汐音に可能な限りの最長の刺突。そのリーチからは、土萌が更に下がろうとも逃れきれない。

 しかし、なおもしのぐ。

 下がりながら汐音の突き出す刀身に無数の髪が絡みつく。緋雷火に覆われた刀身にふれた瞬間、髪は妖気を灼かれて四散するが、それでも膨大な物量をもって破魔の刃に抗い、わずかながらも切っ先の勢いを鈍らせる。

 伸びきった汐音の腕の延長上にある切っ先は土萌のブラウスの布地を刺し、肌にふれるほんのわずか前で止まった。

 ほんの数ミリ。それだけの長さが土萌に届くに足りなかった。汐音の背がせめて人並みに高ければ、あとほんの少しだけ腕が長ければ十分に届いたはずの距離。それが届かなかった。

 汐音の万策は尽きた。狂乱した意識の中でも、土萌はそれを確信した。

 ──否、誤りだった。

 汐音の瞳には力強い炎がいまだ消えずにきらめいたまま。

「いっけえええぇーっ!」

 響き渡る絶叫とともに、小雷公に宿る緋雷火の輝きが刀身から射出された。

 ほんの数ミリの至近距離。そこから放たれた緋色の雷光が土萌の胸を直撃した。

 

§

 

 静寂の帷が静かに下りる。

 座り込んだ水破の骨が折れた右腕と右足には、真っ二つにされた土萌の杖を添え木にして、裂いた上着で縛り付けられている。

「服、ボロボロ。靴も駄目になっちゃった。好きだったんだけどなぁ、このピンクのコンバース」

 水破の腕を縛り終えた汐音は自分の格好を見て溜め息を洩らした。

 Tシャツやスカートだけでなく、バスケットシューズまでもが激戦を物語るようにひどく破れてしまっていたが、ボロボロなのは服装だけではなかった。水破のおかげで外傷こそほとんどないが、汐音の体内には異能を操る気力は欠片も残っていない。ありったけの力を込めて緋雷火を撃ち出す奥の手のために、一滴残らず絞り出してしまったのだ。力を取り戻すには自然に回復するのを待たねばならず、今の汐音はすばしっこいが疲れ果てた、ただの華奢な女の子だ。

「靴は何か買ってあげるよ。頑張ったご褒美に」

「ホント? あたしね、ガーリィラウンジのバンビが欲しい! ベージュピンクで中敷きはロシアリネンの方がいいな」

 自分には何の事だかよくわからない話を嬉々として語る汐音の様子に、水破は苦笑しながら頷いて、後に安請け合いした事を嘆く羽目になるが、それはまた別の話。

「汐音、結界を破ってきて、今のままだと携帯の電波も外に届かないからね」

 水破と汐音の携帯電話は、瑞玉の言の通り校門をくぐった時から圏外を表示したままになっている。

「うん」

「そうしたら、迎えを寄越すように兵破に連絡してくれるかい?」

「……ええ~?」

 兵破の名前を聞いた途端、汐音は心底嫌そうな顔をした。

「ごめんね。でも、頼むよ」

 穏やかに言う水破は表情や口調にこそ出さないが、蒼白な顔色とじっとりとにじむ脂汗は隠しようもない苦痛を示している。重傷の水破を放ったまま四の五の言っている場合ではない。

「うん、わかった。でも……」

 言葉を濁した汐音はちらりと心配そうに視線を動かした。その先には地に伏したもう一人の姿がある。

「大丈夫。土萌先生の事は僕が見ているから」

「……うん」

 弾みをつけるように頷いた汐音は、後ろ髪を引かれる思いを振り切って駆け出した。

「すぐに戻ってくるからね! あたし、トモ先生と話したい事もいっぱいあるから!」

 立ち止まって振り返りそうになりながら、ここで足を止めたらずるずると踏み留まってしまいそうで、汐音は背を向けたまま走って行った。

 

 そして、この先、汐音が土萌と話す機会は二度と訪れなかった。

 

§

 

 地面に敷布のように広がった自らの黒髪の上に仰向けに横たわり、土萌はじっと夜空を仰ぐ。

 その身を打ち据えた破魔の雷は、土萌の体から妖力のほとんどを灼き尽くしてしまった。狂乱によって生じた異形への変化も解け、力なくその身を投げ出すばかり。

 渾身の力を振り絞って、ようやく片手を持ち上げて天にかざす。

 雲の切れ間から覗く月の輝き、星のきらめき、手の届かない美しい光。

 ──ああ、やはり上なんか見るものじゃない。そこには手の届かないものしかない。血と泥で汚れた手ばかりがはっきり見える。

 涙は零れなかった。

 ただ、清々しいほどの諦念があるばかり。

「──私、どうなるのかしら?」

 ぽつりと呟く土萌。

「研究機関に引き渡される事になるでしょう。……人道的な扱いは受けられないと思います」

 会話ができる程度の距離まで這い寄った水破の口から出る言葉は言いづらそうに濁る。

 その言葉だけで、皆まで言われずとも想像はつく。土萌に待ち受けている未来は罪人として裁かれる事でも、報復のために殺される事ですらない。実験動物としての境遇だ。人から人外の妖へ変じた存在の生きた貴重なサンプルとして死ぬまで切り刻まれ、死んでからも切り刻まれるのだろう。

「それは、さすがに嫌かな」

 光を失った土萌の瞳に星明かりが落ちる。そこにあるのは借り物の輝きだけ。土萌の瞳はもう自ら輝く事はない。

「私にそんな事を言う資格はないのだろうけれど。死んでからならどうなったって構わない。でも、生きているうちは嫌。

 ──もう、誰にも私を好きなようになんかさせたくない」

 虐げられ、苛まれ、いいように弄ばれた絶望の日々。あの頃の悪夢には二度と戻りたくない。

 かざした手を拳に握る。

 その姿勢のまま、土萌の体が持ち上がっていく。地に広がっていた髪がざわざわと蠢き、体を押し上げ始めていた。

(回復が早すぎる!)

 水破に焦りと緊張が走る。

 土萌の回復の早さは予想外だった。もう起き上がる力すら残っていないと油断したのは、あまりにも迂闊だったとしか言い様がない。

 水破は回収しておいたSIGを持つ左手に思わず力を込めた。万全でない土萌が相手なら、これでも十分な殺傷力を持つ武器となる。まだ、銃弾を食い止められるほどの力は回復していないだろう。しかし、引金に指を掛けるか逡巡する間に、土萌の髪が拳銃ごと左手に絡みついていた。

「水破くん、逃がして、って頼んだら、見逃してくれる?」

「それは……」

「私はもう生き方を変えられない。ここで逃げれば、またどこかで他の子供を私のやり方で助けるわ」

 そう言って、土萌は悲しげに微笑んだ。上半身を起こした土萌と水破の視線が正面から重なる。

「水破くん、撃ちなさい」

 土萌の言葉に水破は絶句した。

「撃たなければ、私は逃げるわ。鳴神さんが結界を解きに行ったのでしょう? そうしたら、私もここから出られるのだし」

 間もなく汐音が結界を解く。それとわかる兆しがあるか、汐音の戻りを待たなくてはならないか、どちらにしても、土萌が力を取り戻しつつあるのなら、汐音と水破の二人がかりでも止められる確率は低いだろう。

「だから、私を止めるには、ここで殺さないといけないの。生きている限り、私は抵抗するわ。動けない今しかチャンスはないわよ」

 土萌を逃がしても、外で瑞玉ルイユーが待ち受けていれば彼女が捕らえるだろう。瑞玉の実力なら土萌を逃す事はあるまい。

 土萌が逃げ延びる望みはない。

 ここで目をつぶって手を汚す事を他人任せにしてしまう事もできる。しかし、それでは駄目だ。

「土萌先生」

 土萌の髪が水破の腕を引き上げて、銃口を胸に向けさせる。

「ごめんなさい。鳴神さんには、本当に辛い思いをさせてしまったわ。何の言い訳もできないけれど、謝っていたと伝えて。

 ──いえ、やっぱりいいわ。そんな事をしたら、余計に鳴神さんを苦しめるわね。どうしようもない化け物として憎まれたまま消えた方がいいわね」

「そんな事はありませんよ」

 水破は土萌の自嘲を否んだ。

「汐音は土萌先生を憎んだりしません。先生がそんな風に思っていると知ったら、その方が悲しむと思います。汐音はそういう子です」

「そう。そうだったわね。鳴神さんは、そういう子だものね」

 土萌の表情から自嘲の曇りが消え、穏やかに和らぐ。

「本当に、優しくていい子だものね。大事にしてあげないと駄目よ。鳴神さんは、とても真っ直ぐで傷つきやすい子だから、しっかり守ってあげてね」

 土萌が見てきた世界は苦痛に満ちていた。

 優しいばかりではない世の中で、誰もが傷つきながら生きていく。痛みを覚えて、乗り越えながら生きていく。だけど、一人では耐えられない痛みにさらされる事があれば、他の誰かの手が守ってあげて欲しい。

 どうか、どうか、この辛く苦しい世界にも、ほんの少しでも、そんな優しさがありますように。

「水破くん、お願い」

「──はい」

 土萌の優しくて悲しい願いに応えるように、水破の指が引金に掛かる。

 決めたのだ、汐音を守り支えていく、と。

 そのためなら、手を汚し、泥をかぶろう。強くありたい。強くなりたい。汐音には汚れない強さを持って欲しい。だから、水破は代わりに汚れる強さを手に入れたい。

 柔らかくて傷つきやすい汐音の心を守るためなら、自分の心を冷たく鎧い、痛みと汚れを引き受ける盾となろう。

 だから──。

 

 銃声が響いた。

 

 硝煙を上げる銃を持つ手をだらりと下ろし、水破は頭を垂れる。腕にはまだ土萌の髪が絡みついたまま。

 息絶えた土萌の胸には水破が与えた銃創。心臓を撃ち抜き、土萌の命を奪った傷。

 すぐに銃声を聞きつけた汐音が駆けつけてくるだろう。

 その時、汐音にどんな顔をして見せたらいいのだろう?

 

§

 

 心臓に穿たれた穴から命が零れ落ちていく。

 こうして死んでいくのだ、と土萌は溜め息も洩らす力もなく、微かに唇を震わせた。

 愛せずに、愛されずに、ここで消えていくのだ。

 意識が消えるまで、許されたほんのわずかな時間、せめて思いだそう。ひとときは手にあった愛を。

 

 ──土萌さん、私に頼って甘えなさい。あなたはそうしていいのよ。

 思い出す恩師の言葉。優しく包んで絶望の淵から引き上げてくれた人。

 

 ──土萌ちゃん、どうか、あなたのためになる事をさせて欲しいの。

 思い出す祖母の言葉。傷ついた土萌を静かに支えてくれた人。

 

 ──土萌、僕は君と支え合って生きていきたい。他の誰でもない、君とがいいんだ。

 思い出す夫の言葉。土萌のすべてを受け入れてくれた人。

 

 ──トモ先生、私もトモ先生みたいになりたいな。

 思い出す教え子の言葉。土萌を慕って頼ってくれた子供達。

 

 ──まま、だいすき。

 思い出す娘の言葉。土萌にすべてを委ねてくれた土萌の分身。

 

 愛されていた!

 自分はこんなにも人から愛されていた。

 愛した人がいなくなっても、その想いは土萌の胸に残っていたはずなのに、悲しみに塗り潰された瞳には見えなくなっていた。

 辛く苦しい思いも嫌というほど味わった。絶望に押し潰されて自ら命を絶とうともした。

 それでも、愛してくれた人がいた。

 それでも、愛した人がいた。

 こんなにも愛されていた。

 こんなにも愛していた。

 今になって、ようやく気が付いた。

 自分は幸せだったのだ、と。

 

 土萌の頬に小さな笑みが浮かぶ。

 命が尽きるまで、あと砂時計の粒がほんの一つ二つ落ちるほど。

 もう、声に出して言うだけの力は残っていないから、そっと胸の中で呟いた。

 

 ──愛してる。愛してくれて、ありがとう。

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